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2015年5月27日 (水)

信長の命で行われた法華宗VS浄土宗の安土宗論

 

天正七年(1579年)5月27日、安土城下にて法華宗と浄土宗による宗論・・・世に言う『安土宗論(あづちしゅうろん)が行われました。

・・・・・・・・・

昇り調子の織田信長(おだのぶなが)が、琵琶湖畔の安土に城の構築をしはじめたのが天正四年(1576年)の2月(2月23日参照>>)・・・

翌・天正五年(1577年)には、完成した城のある安土山周辺の事をイロイロと決めた掟書を発行たり、家臣たちを続々と安土へ引っ越させた(1月29日参照>>)、人が多く集まるであろう人気イベント=相撲大会を頻繁に安土で行ったり(2月29日参照>>)・・・と、

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安土城跡大手口より城下を望む

まさに安土という町が発展しつつあったド真ん中の天正七年(1579年)、関東から霊誉玉念(れいよぎょくねん)なる浄土宗の長老が上方(関西)にやって来ていて、ちょうど5月頃から、安土にて説法の会を開いたりなんぞしてました。

この説法会に、法華宗の宗徒であった建部紹智(たけべしょうち)大脇伝介なる者が参加し、霊誉に向かって疑問を投げかけて問答勝負を仕掛けたのです。

・・・と、さすがは長老の霊誉さん・・・
「君ら、まだまだ若いから、仏法の奥深~い所はワカランかも知れんよって、法華宗のエラ~イお坊さんを連れて来ておくなはれ。
そしたら、御返答しますよって…」

と、その場を軽く交わしますが、

当然、その話を聞いた法華宗側は
「それならば、宗論(しゅうろん=教義論争)をやろう!」
という事になり、問答は正式な討論会へと発展・・・

法華宗側は、京都は頂妙寺(ちょうみょうじ=京都市左京区)日珖(にちこう)常光院日諦(にってい)妙国寺普伝(ふでん)をはじめとするそうそうたるメンバーを揃えて、浄土宗との宗論に備えます。

そうなると
「なんや、ごっつい討論会あるらしいで!」
と、噂が噂を呼んで、京都をはじめ、近隣から多くの僧が見物に押し寄せて、だんだん騒ぎが大きくなり、やがて、それが信長の耳に・・・

そして、信長が、
「ウチの家臣にも法華宗の宗徒がようけおる事やし、僕が何とかウマイ事収めるよって、大げさな事にならんようにしてな?」
と両者に通達したところ、浄土宗側は「ほな、信長さんにお任せします」と納得したものの、すでにやテンションMAXの法華宗側は気持ちが収まらず、結局、宗論を行う事になりました。

そうなると、信長も、
「ほな、ちゃんとした審判を派遣するよって、討論の経過と勝負を、僕に報告するように」
と、京都五山のうちでも屈指の博学と評判の南禅寺の長老=景秀鉄叟(けいしゅうてつそう)をはじめとする審判者を招いて、安土の町はずれにある浄厳院(じょうごんいん)の仏殿にて宗論が行われる事になったのです。

天正七年(1579年)5月27日・・・その日、煌びやかな法衣をまとって現れた法華宗側は日諦や普伝に記録係を含めた5人・・・

一方の浄土宗側は、黒染めの質素な衣で、かの霊誉に、安土は西光寺の聖誉貞安(せいよていあん)らに記録係を加えた4人・・・

まずは霊誉長老が、
「私が言いだしっぺなんで、まずは私が発言しましょか」
と言うのをさえぎるように、貞安がウーマンラッシュアワーの村本バリの早口で、第1問をまくし立てます。
(以下、浄土宗=貞安と法華側のやり取りを…)

  • 貞安:法華経八巻の中に念仏はあるんですか?
  • 法華:念仏はあります。
  • 貞安:念仏があるのでしたら、なぜ法華宗では念仏を唱える者は無間地獄に落ちると説くんですか?
  • 法華:法華宗の阿弥陀と浄土宗の阿弥陀は同じ物か?別物か?
  • 貞安:阿弥陀は、どのお経に書かれているのも同じものです。
  • 法華:それなら、なぜ?浄土宗では法華宗の阿弥陀を「捨てろ」と言うんですか?
  • 貞安:阿弥陀を捨てろって言うてるんやなくて、念仏を唱える時は念仏以外の事は捨てなさいって言うてますねん。
  • 法華:念仏を唱える時は法華経を捨てろという経文はあるんですか?
  • 貞安:法華経を捨てろという経文はあります。浄土経には人それぞれの適切な方便(ほうべん=悟りに近づく方法)で以って法を説けば、それぞれの悟りに到達する事ができるし、阿弥陀仏を一心に念じなさいとも書かれてます。
  • 法華:法華宗の無量義経では、方便で以って40年余りも法を説いたけれども、未だに到達できないて言うてます。
  • 貞安:40年余り法を説いても到達できへんかったら以前の経は捨ててええって言うんやったら、君は方座第四の「妙」の一字を捨てるんか?捨てへんのか?
  • 法華:何て?それは40年余りの説法のどこにある妙の事ですか?
  • 貞安:法華経にある「妙」やがな、君、知らんのかいな?

と、ここで法華宗側が返答に困った様子を見て貞安が、すかさず・・・
「捨てるか?捨てへんか?て尋ねたのに、返事なしかい!」
と、まくし立てた事で、会場からドッと笑いが起き、そのドサクサで聴衆の一部が法華宗の僧がまとっている袈裟を剥ぎ取ると同時に霊誉長老が扇を持って立ちあがった姿は、まるで舞いを舞うかの如く見え、そばにあった法華側の教典は破られ、僧や宗徒は四方八方へバラバラに逃げ去った・・・

と、何か、よくわからないので、とりあえずは『信長公記』の記述通りにご紹介させていただきましたが、どうやら、この宗論のくだりは専門家や研究者の間でも様々な解釈があるようで、アホな私には、何が決め手なのかサッパリ??ですが、とりあえずは、「妙」というのがキーワードとなって浄土宗が勝ったような雰囲気は解ります。

何となく、即答できないような難問を、イケイケムードで「どーやねん」と聞かれて、「ウ~ン」とちょっと答えに詰まった所をうまく利用されて、負けた感じに持って行かれた感が拭えない気がしないでもありませんが、公衆の面前で大々的に行った宗論で負けが決まってしまった以上、その処分は免れないわけで・・・

宗論の結果を聞いた信長は、早速浄厳院へと出向いて、浄土宗の僧たちに褒美を与えました。

また、騒動の発端となった大脇伝介は斬首・・・

さらに、もともと素行が悪く、今回の宗論にも金品で雇われて法華側として参加し、他人に問答をさせておいて、勝ちそうになってからしゃしゃり出ようという姑息な手段で参加していたとして妙国寺の普伝も斬首し、そのほかの法華側の僧たちには、
●負けを認め、伝介と普伝の処分を受け入れる事
●他の宗派の非難はしない事
●自分たちは、一旦職を離れて勉強し直す事

を約束した誓約書を提出させたのだとか・・・

ちなみに、発端となったもう一人の建部紹智は、堺まで逃げた所を追手に逮捕され、やはり斬首されたとの事・・・

とは言え、政治と権力と宗教が、微妙に絡み合う時代の出来事である以上、この結果に信長の思惑が絡んでいる事も考えられるし、また、「公の場でやった」という事で、ひょっとしたら、今で言うところの「メディア戦略」の意味もあった?かも知れない・・・などなど、様々な妄想をしてしまう出来事でした。
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2015年5月19日 (火)

桶狭間で名を挙げた毛利新介と服部小平太

 

永禄三年(1560年)5月19日、大軍を率いて尾張に侵攻してきた今川義元を、織田信長が討ち取った桶狭間の戦いがありました。

・・・・・・・

果たして上洛なのか?尾張侵攻なのか?はたまた境界線が定まらない事へのけん制なのか?・・・その目的でさえ様々に語られる駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)の行軍・・・

さらに、その義元を討った織田信長(おだのぶなが)の作戦も、奇襲だった、いや正攻法だった、大きく迂回した、いや直進だった・・・と、これまた様々に語られるのは、これ、ひとえに、いかに、この桶狭間(おけはざま)の戦い歴史好きの心をくすぐるか?という事を意味しています。

数ある戦国武将の中でも、最も、その高低差で耳キーンとなりそうなジェットコースター感満載な信長が、まさに一田舎武将が天下に最も近い男の首を挙げるという快挙で一気に上昇し、これまた、自らが天下に最も近い位置にいた時に、信頼する家臣の謀反によって、あっけなく倒される・・・

戦国で最もドラマチックな信長の、2大ドラマチック事件が、今回の一気に昇る桶狭間と、一気に下る本能寺の変なわけで・・・
なので、この二つに出来事には、常に新説が絶えないわけで・・・

そんな中で、このブログでは、
【今川義元・出陣の理由は?】>>
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【桶狭間の戦い~その時、家康は…】>>
と、すでに4つの桶狭間関連のページを書かせていただいていますが・・・

本日は、とりあえずは、以前の内容とかぶり気味ながらも、『信長公記』に沿ってお話を進めさせていただきながら、この桶狭間の戦いで武功を挙げた二人の武将をご紹介したいと思います。

・‥…━━━☆

前日の夕刻、「翌朝に我が砦への攻撃があるのは確実」との佐久間盛重(さくまもりしげ)織田秀敏(おだひでよし)からの報告の通り、永禄三年(1560年)5月19日の早朝、清州城(きよすじょう=愛知県清須市)にいた信長のもとに「すでに鷲津&丸根の両砦が、今川方の攻撃を受けている」との報告がもたらされると、信長は、例の♪人間五十年~♪『敦盛』を歌い舞った後、
「ホラ貝を吹け!武具をよこせ!」
と側近たちに声をかけ、すぐに鎧兜に身を包み、立ったまま食事をとって、ソッコーで出陣しました。

この時従ったのは小姓衆のわずかな者たちだけ・・・騎馬6騎と雑兵200人ほどで熱田(あつた)までの約12kmを一気に駆け抜けて行きますが、途中、午前8時頃には、どうやら鷲津&丸根の両砦が陥落したらしく、遠く煙が上がっているのが見えました。

熱田からは距離の近い海岸沿いを避け、山手の方の道を一気に飛ばしていきますが、そうこうしているうちに徐々に将兵も集結しはじめ、少し落ち着いて戦況を見極めます。

時刻はちょうど正午頃・・・この時、4万5000余の兵を率いていた義元は桶狭間にて人馬に休息を与えていた最中で、自身は北西に陣を張り、鷲津&丸根の両砦を攻め落とした事に満足しながら謡曲を3番歌ったと言います。

しかも、信長が善照寺付近までやって来た事を聞き付けて、兵糧を手土産に織田方に参戦しようとしていた佐々政次(さっさまさつぐ=佐々成政の兄)らの武将が今川方の攻撃により討死したとの報告も入り、義元は、
「俺の向かう先には天魔も鬼神も叶うかい!」
と上機嫌だったとか・・・
(まぁ、この頃の信長に対して義元もあろう人が「天魔」や「鬼神」という者を引きあいに出してくるとは思い難いですが…)

一方の信長は、未だ2000に満たない兵数・・・「どうか、止めてください(。>0<。)」とすがりついて制止する家老を振り切って中島砦へ移動し、
「ええか?今の今川は、夜通し行軍して、朝から砦攻撃してけっこう疲れとるはず…それに比べて、こっちは数は少ないと言えど新手や。
勝負は時の運…
来たら引いて、引いたら追う…何としてでも崩す!倒す!
合戦に勝ちさえしたら、参戦した者の名は、末代まで語られるぞ!
頑張ろうや!」

と・・・
Okehazamarootcc  ←かなり以前の関連図ですが、砦の位置関係の参考に…画像をクリックしていただくと別窓で開きます

 .
その後、さらにメンバーを増やしながら、敵間近の山の際まで進んで行くと、にわかに、石か氷を投げかけるような豪雨が・・・しかも、その方向は、敵=今川の陣では顔に向かって、向かうコチラ=信長には背中からという、まさに好都合な方向でした。

その激しい雨が、峠付近にあった楠木の大木をなぎ倒すのを見た織田軍は、
「この合戦は熱田神宮の神の意志やで!」
と、大いに盛り上がった直後、雨が止んで晴れて行く空を見た信長が槍を取って、
「今や!掛かれ!掛かれ!」
と、大きな声をかけると、味方は土煙を挙げながら、一斉に敵陣へとなだれ込みます。

寸前の雨で、織田軍との距離を把握し切れていなかった今川軍は、水を撒くようにドッと後方へと崩れ、弓も鉄砲も旗指物(はたさしもの)も・・・果ては、真っ赤な義元専用ザク・・・もとい、朱塗りの義元専用の輿(こし)さえ打ち捨てて、我先に逃走するばかり・・・

「そら!義元の旗本は、あそこやゾ!行け~~」
と、信長が下知(げち)を飛ばした午後2時頃・・・東へと攻める織田軍に対して、未だ300騎余りが義元を囲んでいましたが、徐々に減り、やがて50騎ほどになった所で、信長自身も馬を下りると、織田軍の兵士たちは、我先にと敵に突進し、入り乱れて火花を散らし、今川&織田の両者ともに、多くの死傷者を出しながらも、ここで・・・

「服部小平太 義元にかゝりあひ
膝の口きられ倒れ伏す
毛利新介 
義元を伐ち臥せ 頸をとる」

(信長公記原文)

つまり・・・義元が、飛びかかって来た服部小平太の膝を斬って返り討ちにしたスキを狙って、毛利新介か斬り伏せて、その義元の首を取ったと・・・

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錦絵に描かれた桶狭間(桶狭間今川義元血戦)…中央に義元、左に毛利良勝、右に服部一忠が見えます。

総大将の首が取られた以上、万事休す・・・ただ、この桶狭間はかなりの難所だったため、逃げる方もかなり逃げにくい状態で、戦線離脱に苦戦する今川の兵士を討ち取った織田方の兵士が、その首を2個3個とぶら下げて信長の前へと参上するのを見て、信長は、
「首は全部、清州で検分する」
と言い残し、義元の首だけをその場で確認して、朝来た道を、清州へと戻って行ったのでした。

・‥…━━━☆

と、ここまでが『信長公記』の桶狭間ですが・・・

今回の桶狭間で、比類なき武功を挙げた毛利良勝(もうりよしかつ=新介・新左衛門・秀高とも)服部一忠(はっとりかずただ=小平太・春安とも)・・・ここまでの武功を挙げておきながらも、彼らについての史料はかなり少ないのですが、実は、彼ら二人には、ここで武功を挙げた故の運命とでも言いましょうか?

何となく共通する何かに導かれて、その最期を遂げる事になるのです(あくまで個人の感想です)

まずは通称:新介(新助)と呼ばれた毛利良勝・・・

彼は、当時は馬廻りだったこの戦いの後、織田軍の精鋭部隊である黒母衣衆(くろほろしゅう)に大抜擢され、伊勢の大河内城(おおかわちじょう)攻めや甲信越の攻略に出陣したりしますが、何かと吏僚(りりょう=官吏&官僚・役人)的な仕事が多く、武功を挙げるような活躍が無いまま、最後は、信長の嫡男=信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)の側近となった事で、あの本能寺の変の時に、その信忠とともに二条御所で討死します。

一方、通称:小平太と呼ばれ、やはり馬廻りだった服部一忠は、その後に、織田の家臣としての活躍話は無く、次に彼が登場するのは、本能寺で信長が倒れた後に、その後継者の位置についた豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えた状態での再登場となっています。

黄母衣(きほろしゅう)と呼ばれる、これまた秀吉の親衛隊に抜擢された一忠は、小牧長久手の戦いや小田原征伐で活躍して、豊臣政権下で伊勢松坂3万5000石を賜って松阪城主となり、さらに文禄の役にも出陣・・・そのまま大大名への道を歩むかに見えた直後、側近として仕えていた豊臣秀次(とよとみひでつぐ=秀吉の甥・三好秀次・羽柴秀次)の事件(7月15日参照>>)に連座して改易処分となり、上杉景勝(うえすぎかげかつ)に預けられた後に自害して果てました。

そう、
良勝は信長の・・・
一忠は秀吉の・・・

奇しくも二人ともが、その1番の後継者の側近となった事で、ともに悲しい最期へと向かうレールの上に乗ってしまう事になるのです。

おそらくは、桶狭間という、歴史上屈指の名勝負で名を挙げた事で、時の天下人の後継者となるべき人物の側近に抜擢されたであろう二人・・・

皮肉にも、その名誉が命取りとなってしまうとは・・・

しかし、それが戦国という世のサダメなのかも知れませんね。
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2015年5月14日 (木)

織田VS斉藤~森部の戦い…前田利家の復帰

 

永禄四年(1561年)5月14日、西美濃に侵攻して来た織田信長と、受ける斉藤龍興が戦った森部(森辺)の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

ご存じのように、永禄三年(1560年)5月19日に、あの桶狭間(おけはざま)にて天下に最も近い男=今川義元(いまがわよしもと)を討ち取った(2007年5月19日参照>>)事により、いきなり、全国ネットの舞台を踏んだ感のある織田信長(おだのぶなが)ですが、実際のところは、未だ尾張(おわり=愛知県西部)一国すら統一しておらず、国内で同族同士の争いが絶えない状況(尾張統一は1562年…11月1日参照>>)一地方武士であったわけです。

また、隣国=美濃(みの=岐阜県)に対しては、5年前の弘治二年(1556年)に、(濃姫)の父=斎藤道三(さいとうどうさん)から「美濃を譲る」の遺言状を貰った(4月19日参照>>)ものの、援軍が間に合わず道三は討死(4月20日参照>>)・・・

以来、信長は義父の弔い合戦として、再三にわたって美濃侵攻を企てますが、道三の後を継いだ斉藤義龍(よしたつ)によって阻まれていて・・・なんせ、義龍は、「美濃の蝮(マムシ)」と呼ばれた父親から国を盗った男ですからねぇ~(10月22日参照>>)

そんなこんなの永禄四年(1561年)5月11日・・・その義龍が30半ばの若さで急死します。

しかも、その後を継ぐべき義龍の息子=龍興(たつおき)は、未だ14歳の若者・・・

信長は、
「これはチャンスでんがな!(*^m^)」
とばかりに、義龍の死から、わずか2日後の5月13日、西美濃への侵攻を開始したのです…(゚ロ゚屮)屮早っ!

飛騨川長良川)に舟で橋を架けて越え、その日のうちに国境の勝村(岐阜県海津市平田町)まで進出・・・その勝村に陣を置きました。

これを知った斉藤龍興は、長井甲斐守(ながいかいのかみ)日比野清美(ひびのきよざね)を大将に任命して迎撃します。

かくして永禄四年(1561年)5月14日洲の俣(すのまた・墨俣=岐阜県大垣市)の砦から出撃した長井&日比野軍は、約6000・・・、

対する織田軍は、約1500・・・ちょうど中間あたりに位置する森部村(もりべ・森辺=岐阜県安八町)の楡俣川(これまたがわ=長良川下流)河畔にて両者は遭遇・・・この時、斉藤軍を目にした信長は、
「これは、天が与えてくれた最大のチャンスや!」
と言い放ち、早速、楡俣川を渡って戦いを挑みました。

合戦は数時間に及ぶ激戦でしたが、斉藤側は、長井&日比野はじめ、大将クラスを含む170余の首級(しゅきゅう)を挙げ、全戦死者は約320人・・・一方の織田軍には、ほとんど死傷者が出無かったという織田方の完全勝利にて戦いを終えました

ちなみに、この戦いにて、「首切り足立」と恐れられていた猛将である日比野の家臣=足立六兵衛を討ち取ったのが、現在、浪人中の前田利家(まえだとしいえ)でした。

Maedatosiieokehazama800 以前、【24歳からの再出発~若き日の前田利家】>>のページで書かせていただいたように、この頃の利家は、信長お気に入りの側近を殺してしまった事で出仕停止となっていた浪人の身・・・

何とか織田家に戻りたいと、許しを得ないまま単独で合戦に参加しては、大将クラスの首を手みやげに、信長に復帰の直談判を試みでいましたが、あの桶狭間でも、首を3つ取ったにも関わらず、未だ復活は許されていなかったわけで・・・

ところが、そんな利家が、今回のこの森部の戦いの功績にてお許しが出て、やっとこさ織田傘下に復帰するのですが・・・それには、上記の足立六兵衛を討ち取った事とともに、こんな秘話が残っています。

この戦いの後、織田軍は周辺の村を焼き、敵地だった洲の俣に堅固な砦を築いて、軍を駐留させる事になるのですが・・・

『利家夜話』によると、その時のお話として・・・

この頃の織田の家臣で最も手柄が多い武将と言えば森可成(もりよしなり)・・・と考えた利家は、何とか可成の戦法を学ぼうと、今回の美濃攻めでは、常に可成の近くにおり、彼の動きを見ておりました(勝手に参加してるので、その点はわりと自由に動けるのかも…)

そんな中、ある砦を奪取しようとしていた可成・・・馬では攻め難い険しい場所にあったその砦には、馬から降りて攻めかかる事にしますが、これが、かなりのゆっくりモード・・・

あまりのスピードの遅さに、たまりかねた利家は、可成のそばに駆け寄って、その手を引き、
「はよっ!」
と急かしました。

ところが可成・・・
「今は、誰もが人より先に行きたがるところやけど、そんなに急いだら、敵に近づいた頃には、疲れてしまうやん。
ここは、先を争わんとゆっくり行って、敵に近づいてから全力で戦うべき。
利家くん…焦ったらあかんで」

と・・・

果たしてその後、敵の近くまで行き、全員が集まっているのを確認した可成は、
「今や!全力でイケー!!」
と、声をかけて一斉に攻めさせます・・・もちろん、利家&可成の二人も、我先に攻撃を仕掛けます。

・・・で、この時に、一番槍を果たしたのが利家・・・

戦いの後、可成は信長の前で
「利家くんに先を越されてもた~」
と言って悔しがり・・・いや、実は、信長の前で利家の事を持ちあげて、織田家に戻れるよう気を配ってくれたのだとか・・・

おかげで、この森部の戦いで織田家復帰が叶った利家・・・彼の今後の活躍については、もはや皆様ご存じの通り・・・

そんな利家は、晩年になっても
「可成さんほどのスゴイ武将は、そうおれへんで!」
と、べた褒めだったとか・・・
森可成については…9月20日参照>>)

やっぱ、感謝してたんでしょうね。

この後、信長の美濃攻めは、10日後の美濃十四条の戦いへ向かう事になりますが、そのお話は【VS斉藤龍興…美濃十四条の戦い】>>でどうぞ
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2015年5月 7日 (木)

毛利勝永VS本多忠朝~大坂夏の陣・天王寺口の戦い

 

慶長二十年(1615年)5月7日、世に言う大坂夏の陣にて、大坂城・総攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・・・

なんだかんだで、大坂の陣については、いっぱい書いているこのブログですので、くわしい経緯は【大坂の陣の年表】>>で見ていただくとして・・・

とにもかくにも、関ヶ原の合戦後に、豊臣政権の五大老筆頭となった後も、豊臣家に忠誠を尽くす態度を見せながら、水面下で天下を狙っていた徳川家康(とくがわいえやす)が、いよいよ目の上のタンコブを潰しにかかった大坂の陣・・・

慶長十九年(1614年)12月に一旦は和睦するも(12月19日参照>>)、翌年再び勃発【(4月26日【大和郡山城の戦い】>>・・・

この前日の5月6日には、
道明寺誉田の戦い>>
河内若江の戦い>>
八尾の戦い>>
と、それぞれの侵入口にて野戦を展開するも、豊臣に勝る徳川方は、大軍で大坂城を大きく囲み、いよいよ慶長二十年(1615年)5月7日総攻撃とあいなります。

この日、前日の道明寺における合戦で、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)「ともに戦おう」と約束していたにも関わらず、濃霧のために進めなかった毛利勝永(もうりかつなが)(10月7日参照>>)と、寝坊して出遅れてしまった真田幸村(さなだゆきむら=信繁)は、不覚にもその又兵衛(2008年5月6日参照>>)薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)(2009年5月6日参照>>)討死させてしまいますが、そのまま城中には戻らず、勝永は天王寺に、幸村は茶臼山(ちゃうすやま)(4月14日参照>>)にて陣を置き、夜を徹して翌日の合戦に備えていたのでした。

朝早く、茶臼山にて大坂城中より出て来た大野治長(おおのはるなが)を加えた3人で軍義を開き、
「ここ茶臼山の幸村隊から岡山口の治長隊に渡る線上に軍勢を連ね、できるだけ敵を間近に惹きつけてから、敵の前衛部隊深く入り込んで撃ち回してかく乱させ、そのドサクサで家康の中堅部隊を突こう!」
という作戦を立てて、幸村隊+連合隊を第1軍として右翼に配置し、勝永隊+連合隊を第2軍としてそのまま天王寺に配置・・・以下、第7軍までを西から東へと、大坂城の南側一帯を埋めるように布陣させました。

やがて刻々と迫り来る徳川方・・・その先頭=第1戦列にいたのが本多忠朝(ほんだただとも)でした。

忠朝は、♪家康に過ぎたるものが二つある…♪とうたわれた名将・・・あの本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)(10月13日参照>>)の次男ですが、実を言うと前年の大坂冬の陣の時、今福口の寄せ手の一人として参加したものの、なかなか前へ進み出す事ができず、家康から
「オヤジとは似ても似つかんセガレやのぅ」
と言われた事が、心にグサリと刺さっていたのです。

しかも、前日のかの道明寺の戦いで兄の忠政(ただまさ)が、駆け付けた幸村隊に苦戦した事が噂になっており、今日、ここで挽回しなければ、
「お前とこって、兄貴も弟も腰抜けなんちゃうん?」
てな事を言われかねないわけで・・・

そんなこんなで気合い十分の忠朝は、最前線の中でもより最前線へと、諸隊の先頭へと張り出します。

それを見た総監の一人である安藤直次(あんどうなおつぐ)が、慌てて馬を走らせて
「君、ちょっと出過ぎやで…そないに出たらアブナイって」
と指示しましたが、忠朝は
「一回、前に出したもんを、引き下げたら味方の士気が下がりますやん。俺らが飛び出ててアブナイて言いはるんでしたら、他の隊を俺らに合わせたらよろしいねん」
と、キリッと言い切りました。

あまりのキリッとぷりに
「そない言うたら、そやな」
と思った直次は、忠朝の第1軍と連なる形で先鋒として配置されている第4軍の松平忠直(まつだいらただなお)のもとへ連絡に・・・

そこをすかさず鉄砲隊へと命令を発した忠朝・・・まさに慶長二十年(1615年)5月7日正午になろうとする時、忠朝隊の鉄砲の火蓋が切られたのです。

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大坂夏の陣図屏風に描かれた毛利勝永と本多忠朝(大阪城天守閣蔵)…隊の下に見える鳥居は四天王寺の西門

一方、作戦の打ち合わせのため、幸村の陣へと赴いていた勝永は、忠朝隊の鉄砲攻撃に対して、
「待て!まだ撃つな!」
と、自らの鉄砲隊に指示・・・できるだけ惹きつけて&惹きつけてから、ここぞ!という時に一斉に発砲した事で、一気に70余名の敵兵を倒し、忠朝の鉄砲隊は本隊の方へ雪崩のように崩れていきましたが、そこを、勝永見逃さず、自らの息子=勝家(かついえ)らの先頭集団に突撃を指示しました。

こうして、うまく忠朝隊の中堅へと迫った勝永隊は、さらに槍をそろえて突入し、本多の名だたる家臣を次々と討ち取ると、いよいよ、主君を守るべく、忠朝の身辺に集まりはじめる忠朝隊・・・中には逃げ腰になる者もいましたが、はなから命がけの一戦との覚悟を決めている忠朝は、逃げる味方を叱咤激励しながら一歩も引かず、果敢に攻める姿を見せていました。

しかし、その時、一発の銃弾が忠朝を貫き、その勢いで馬上から落下・・・

Dscf2244a700 ←一心寺にある「本多忠朝の墓」
(ちなみに、忠朝が以前酒の飲み過ぎで戦に負けた経験がある事から、お墓には「断酒」の御利益があるとされています)

それでも、まだ屈せず、しばらくは来る敵を倒す忠朝でしたが、さすがに、周囲から一斉に突かれた槍には応戦し切れず、ついに倒れ、首を取られました。

こうして忠朝隊を突破した勝永隊は、崩れた忠朝隊が左方に隣接する第4軍の松平忠直隊へ合流するように向かって行く所を追撃・・・忠直軍の右翼へと突入しつつ、傍らの真田信吉(さなだのぶよし)信政(のぶまさ)兄弟(幸村の兄=信之の息子たち)をも蹴散らし、徳川方の前線第1軍を撃破したのでした。

さらに寄せ手(徳川方)第2軍として登場した小笠原秀政(おがさわらひでまさ)忠脩(ただなが)父子を討ち破り、続く第3軍をも撃破して、徳川の総本営目がけて突進していったのです。
(ここらあたり、もう少しくわしくご紹介したいところですが、長~くなりそうなので、また後日ww)

勝永隊の先頭を切る息子=勝家は未だ16歳・・・実戦経験に乏しく、言わば初陣のような今回の夏の陣ですが、戦闘中に父=勝永のもとへ、左右にいくつもの首をぶら下げて現れた彼は、得意そうに示したと言います。

その姿を見た勝永は
「見事や!」
と褒めながらも、
「せやけど、今日の戦いは最後の合戦や、首の数なんかにこだわるな!首は捨てとけ!」
と諭したのだとか・・・

そう、この合戦は、もはや個人の功名うんぬん言ってる場合では無く、その目標は勝つ=家康の首を取る事のみ・・・だからこそ、どんどん敵を蹴散らして、家康の本陣まで一気に突撃して来たのですから・・・

しかも、グッドタイミングな事に、この勝永隊の本陣突入は、同じく、ここを目指して敵軍を突破して来た真田幸村隊とほぼ同時・・・

家康は、慌てふためいて自らの旗指し物や馬印(うまじるし=大将の居場所を示す目印)を伏せさせ、本陣には執政の本多正純(ほんだまさずみ)を置いて、自身はいち早く、後方へと逃れたのです。

これを、徳川秀忠(ひでただ=家康の息子)らが陣取っていた岡山口の方角から見ると、まるで天王寺口の徳川方が全滅しそうな勢いに見えたため、慌てて、そばにいた藤堂高虎(とうどうたかとら)が軍勢を引き連れて天王寺方面へ加勢・・・さらに、細川忠興(ほそかわただおき)などが援軍として天王寺方面へ向かって来ました。

その後も、勝永隊&幸村隊&渡辺糺(わたなべただす)(2016年5月7日参照>>)隊を含む豊臣方の軍勢は、決死の戦いを見せますが、さすがの彼らも、徳川方の数の多さには耐えきれないうえ、もはや、馬印をたたんでしまった家康が、群衆に紛れてどこへ逃走したのかもわからなくなってしまった以上、やむなく、退却する事となりました。

『武家事紀』には、この時、銀の兜に錦の陣羽織を着て、豊臣軍の殿(しんがり=退却戦の最後尾)を務めた勝永の有名な逸話があります。

徳川方として参戦していた黒田長政(くろだながまさ=黒田官兵衛の息子)が、近くにいた加藤嘉明(かとうよしあき)に、
「あのごっつい采配するヤツ、誰やろ?」
と尋ねると
「知らんのかいな…あれは豊前の毛利勝永やがな」
と・・・
「あれが!?こないだまで子供やと思てたのに…スゴイやっちゃなぁ」
と絶賛したとかしないとか・・・

それだけ、退却戦での勝永の見事な戦いぶりは、かなり目を惹く素晴らしいものだったようですが、残念ながら・・・皆さま、ご存じのように、一方の幸村は四天王寺近くの安居神社にて忠直の家臣・西尾宗次(むねつぐ・久作)討ち取られてしまいます(2007年5月7日の後半部分参照>>)

その後、幸村を討った事で士気のあがった忠直隊に加え、高虎&忠興の軍までもが勝永隊の追撃にかかりますが、勝永は慌てず騒がず落ち着いて指揮し、なんと、スキを狙って高虎隊の中堅を突きまくり、隊全体をドッと後退させ、そのドサクサで戦場を疾風のごとく駆け抜け、大坂城内へと戻ったという事です。

以上、本日は、歴史に名高い大坂夏の陣の大坂城総攻撃・天王寺口の戦いを、本多忠朝&毛利勝永の二人を中心に書かせていただきました。

他の武将の逸話も含め、まだまだ書き足りない部分がありますが、残りのお話は、次の機会に・・・という事でm(_ _)m

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冬の陣の際、本多忠朝が大坂城内の様子を探ったとされる白山神社の大銀杏「忠朝物見の銀杏」のくわしい場所は、本家HP:大阪歴史散歩【大阪城周辺散歩】>>で紹介しています。

続きとなる翌日=大坂城炎上のお話は
【淀殿の乳母=大蔵卿局】の末尾の部分>>
【夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】>>
【自害した淀殿の素顔と生存説】>>
【大坂城から脱出した秀頼の娘は?】>>
【事実は大河より奇なり~秀頼の子供たち】>>
【唯一の脱出成功者・明石全登】>>
などなどのページでどうぞ
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2015年5月 1日 (金)

三好政権を支えた「鬼十河」~十河一存

 

永禄四年(1561年)5月1日、三好長慶の弟で「鬼十河」の異名を持つ讃岐の猛将=十河一存の死亡が確認されました。

・・・・・・・・・・

と、いつもとは違う雰囲気の書き方をしてしまいましたが、実は、本日の主役=十河一存(そごうかずまさ・かずなが)さんの亡くなった日というのが複数あります。

『日本伝説叢書.・讃岐の巻』によれば、十河氏の菩提寺である称念寺にある一存のお墓には3月18日とあると・・・
一方で、大阪の堺にある南宗寺の三好一族とともにある一存のお墓では没日は4月23日とされている・・・

Dscn0957a800 堺・南宗寺にある三好長慶一族の墓

そんな中で、『伊勢貞助記』なる文献には「5月1日には死去のため出仕なし」の記録があるため、それ以前には死去していたと考えられており、阿部猛氏&西村圭子氏共著の『戦国人名事典』でも、「永禄四年五月一日(四月とも)病没(享年30歳前後)とありますので、とりあえず、本日=5月1日の日付けで書かせていただく事にしますが・・・

実は、その死因も、梅毒による病没が一般的なれど、落馬による事故死暗殺説まであり・・・なんせ、織田信長が上洛する以前に畿内を制して、言わば、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし=一存の兄)の三好一族が、坂道を転げ落ちるように衰退していくのが、この一存の死に始まるので、様々な憶測が飛び交う事になるのです。

もともと、阿波(あわ=徳島県)の戦国武将=三好元長(もとなが)の四男として生まれた一存は、父を失くした(7月17日参照>>)事で若くして三好家の家督を継ぐ事になった兄=長慶のもとで、三好家の軍事面担い、大いに活躍した武将で、その兄の命により、三好傘下となった讃岐(さぬき=香川県)十河(そごう)を継いだ事から十河一存となります。

それからも、河内・山城南部の守護代だった木沢長政(きざわながまさ)をはじめ(3月17日参照>>)、名だたる摂津の武将を次々と撃ち破って、摂津西半国の守護代となって徐々に力をつけていく兄=長慶のサポートしながら、天文十八年(1549年)の江口の戦い(6月24日参照>>)では兄弟による連携プレーで、父の仇である細川晴元(はるもと)に見事勝利し、前将軍=足利義晴(よしはる)と現13代将軍=足利義輝(よしてる)父子(11月27日参照>>)を都から追放するという・・・まさに「天下を取った」わけですが・・・

と、その一方で、結局は、彼ら=三好家に敵対する将軍を、しかも何度も許して京に迎えるあたりなど・・・なんとなく、その「やさしさ」が仇となる感があります。

とは言え、当然ですが、三好一族は弱々しい武将たちではありませんよ。

特に、今回の一存さん・・・そのイカつい顔つきから、その果敢な戦いぶりから「鬼十河(おにそごう)なる通り名で呼ばれていたうえ、月代(さかやき)を広く四角に剃り込んだ彼独特の「十河額」というヘアスタイルがカッコイイと、家臣の間で大流行していたのだとか・・・もちろん、ニックネームも、髪型の流行も、そもそもは、その強さへの憧れからきているのですから、いかに強かったかが想像できます。

また、ある合戦では、左腕に深い傷を負って本陣に戻って来たので、そこで休憩するのかと思いきや、傷口に塩をすり込んで、そばにあった藤のツルをクルクルと巻いて包帯代わりにし、再び、戦場へと撃って出たのだとか・・・

一方で、兄の長慶同様に、心やさしい逸話も残っています。

東讃岐に勢力を持つ寒川氏(さんがわし)と戦っていた時、ある家臣が「自分の兄が敵側にいるので、兄とな戦いたく無いので、お暇を頂戴したい」と、退職を願い出て来ました。

本来なら、それだけで「な~に~( ゚皿゚)!!」とキレても仕方無いところですが、一存は、一切、その家臣を責める事なく、むしろ「戦場で、俺に会うた時は、遠慮せんとかかってコイヤ~щ(゚Д゚щ)」との言葉をかけて、快く送り出したのだそうです。

果たして、その後のとある戦場で、その兄弟と遭遇した一存は、見事、二人を1度に討ち取ったのだとか・・・もちろん、これは男と男の約束として手を抜く事なく、戦場では鬼と化して戦ったが故の堂々たる逸話です。

最盛期には畿内一帯はもちろん、阿波&讃岐にまで勢力を延ばしていた三好一族ですが、先ほども書かせていただいたように、室町幕府を滅ぼして自らの政権によって新時代を築こうという野心が無かったのか?・・・長慶は、和睦を申し入れて来た将軍を許し、もともとからあった秩序のもとで、その政権を維持して行こうとしました。

しかし、そこが、野心丸出しの武将の付け入るスキだったのかも知れません。

その男は松永久秀(まつながひさひで)・・・

彼は、「やられたらやりかえす」「やられる前にやってやる」という、まさに、取ったり取られたりの戦国乱世にふさわしい男で、とにかくウマく立ち回って、付け入るスキを見逃さず・・・人呼んで『乱世の梟雄(きょうゆう)、鬼でも虎でも龍でもなく、梟(フクロウ)というのが、まさにピッタシの男だったわけで・・・(←悪口ではなく、褒めてるんですヨ…戦国乱世に生き残るにはこれくらいでないといけませんから)

もちろん、そんな久秀を一存は早くから警戒していて、兄の長慶に何度も「松永をあまり重用しないように…」と進言していたようですが、当の長慶は、久秀への信頼が篤く、最も重要な京都の政治を任せるほどでした。

そんなこんなの永禄四年(1561年)4月、病にかかった一存は、有馬温泉へ湯治に出かけますが、なぜか、その時一緒に有馬温泉に行ったのが久秀・・・

出発前、一存がお気に入りの葦毛(あしげ)の馬に乗った姿を見た久秀が
「有馬権現は、葦毛の馬を嫌うので、葦毛に乗って行ったら天罰が下りまっせ。その馬はやめときなはれ」
と声をかけますが、上記の通り、久秀の事を少し警戒している一存は、その言葉を無視して、その葦毛の馬に乗って出かけますが、途中で落馬して命を落とした・・・と、一部の文献にありますが、日付けが合わない部分もある事から、冒頭にも書かせていただいたように、一般的には湯治中の病没とされています。

しかし、上記の通り、亡くなった時に、そばにいたのが久秀・・・という事で、久秀による毒殺説も、早くから囁かれています。

なんせ、この一存さんの死後の長慶は、
翌年に弟(長慶の弟で一存の兄)三好義賢(よしかた:実休・之虎・之康とも=長慶の弟で一存の兄)(3月5日参照>>)・・・
また、その翌年には息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を失い・・・
さらにその翌年には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>を、自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念から、わずか2ヶ月後に廃人のようになって、本人=長慶もこの世を去る(5月9日参照>>)わけで・・・

そんな三好家に取って代わるがのごとく、頭角を現して来るのが久秀なわけで・・・(12月26日参照>>)

もちろん、これらの事のすべてを、久秀が意図的に画策する事は不可能ですが、三好家の軍事面を担い、心強い盾となっていたのが一存で、彼を失った事によって、三好家が内から外から崩れていく感は拭えません。

やはり、一存が三好家の「要」だったという事でしょう。

この後、彼らを受け継ぐ三好三人衆が、かの久秀とつるんだり敵対しながら、やがてやって来る織田信長を迎える事になりますが、そのお話は【スーパーヒーロー信長の登場で崩壊する三好三人衆】でどうぞ>>
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