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2015年6月21日 (日)

愛溢れる敗軍の将~平宗盛の汚名を晴らしたい!

 

元暦二年(1185年) 6月21日、 源氏との戦いに敗れた平宗盛が近江の国にて斬首されました。

・・・・・・・・・・・

平宗盛(たいらのむねもり)は、あの平清盛(たいらのきよもり)三男・・・長男の重盛(しげもり)&次男の基盛(もともり)は先妻さんとの子供なので、その後に清盛の正室となってドラマ等で活躍する平時子(たいらのときこ=二位の尼)にとっては、清盛との間にもうけた初めての男の子だったわけです。

Tairanomunemori400a ご存じのように、後白河法皇(ごしらかわほうおう)とタッグを組んで、平治元年(1159年)の平治の乱に勝利(12月25日参照>>)して以降、まさに全盛期(2月10日参照>>)を迎えていた父=清盛のもとで、順調に重職をこなし、着々を階段を上っていく宗盛でしたが、法皇の寵愛を受けていた建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ=時子の妹)亡くなった(7月8日参照>>)安元二年(1176年)頃から法皇と清盛の間に亀裂が起きはじめ、その後の鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)治承三年の政変(11月17日参照>>)とで法皇が清盛に抑え込まれた事から、翌・治承四年(1180年)4月、法皇の第3皇子である以仁王(もちひとおう)平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発し(4月9日参照>>)、それに応える形で、伊豆源頼朝(みなもとのよりとも)(8月17日参照>>)木曽源義仲(みなもとのよしなか)(9月7日参照>>)相次いで挙兵し、一連の源平合戦へとなだれ込んでいくわけですが・・・
(それぞれの事柄については【平清盛と平家物語の年表】からどうぞ>>)

そんなこんなの養和元年(1181年)2月、大黒柱だった清盛が死去(2月4日参照>>)・・・この時、すでに長男の重盛も次男の基盛もこの世にはなく、必然的に宗盛が平家一門の統率を取る立場となります。

ところが、皆様ご存じのように、この頃からの平家一門は、頼朝との墨俣川の戦い(3月16日参照>>)こそ勝ったものの、北陸から攻めて来る木曽義仲との対戦では、翌・寿永二年(1183年)5月9日の般若野の合戦(5月9日参照>>)を皮切りに、
5月11日の倶利伽羅峠の戦い(5月11日参照>>)
6月1日の篠原の戦い(6月1日参照>>)
と続いて敗退し、とうとう
7月25日には一門揃って「都落ち」
【維盛の都落ち】参照>>
【忠度の都落ち】参照>>
となってしまうわけで・・・

しかも、この都落ちでは、ともに西国へ連れてくはずだった後白河法皇を比叡山へと逃してしまうという大失態・・・もちろん、都落ちの最終決断をしたのも宗盛なわけで・・・

おかげで『平家物語』での宗盛さんは、ことごとく腰抜けの愚鈍な大将として描かれ、これまでの小説やドラマ等でも、宗盛さんがカッコ良かったためしがありませんww

もちろん、『平家物語』は軍記物・・・この中で、長兄の重盛を聖人のように描き、すぐ下の弟=知盛(とももり=清盛の4男)智将と描いているため、それらの話を面白くするためには、彼らに対比するかのようなダメダメ宗盛にしないといけないわけですが・・・

とは言え、『平家物語』以外の『源平盛衰記』でも、公家の日記である『玉葉(ぎょくよう)や僧侶の史論書である『愚管抄(ぐかんしょう)、そして鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』でも、同じようにボロカスに書かれてますので、ある程度、そんな感じの人だったのかも知れませんが、それこそ「勝てば官軍、負けれ賊軍」で、負け組がカッコ悪く記録されるのは歴史の常って事で・・・最近では、少し見方を変えた再評価の動きもあるとの事・・・

というのも、実は宗盛さんという人は、かなりの平和主義で家族思いの愛溢れる人だったのです。

たとえば、父=清盛が亡くなった後すぐに、後を継いだ宗盛が後白河法皇政権を返上して院政を復活させているのですが、これも、平家が屈したというよりは、
「お父ちゃんとちごて、僕は、事を荒立てたくないねん」
という、宗盛さんの意思から来た物・・・もちろん、周辺の人々に言わせりゃ、そこが腰抜けなとこなんでしょうが、結局は、「より高みを勝ち取るタイプ」ではなく「現在の平和を維持していくタイプ」の人だったというだけなのかも知れません。

・・・で、都落ちした平家一門は、その後、水島の戦い(10月1日参照>>)で義仲に勝利した事や、その義仲と頼朝とで源氏トップ争い(1月21日参照>>)をしてくれた事で、ちょっと盛り返しますが、結局は
寿永三年(1184年)2月の一の谷>>
翌・文治元年(1185年)2月の屋島>>と来て
続く3月には、とうとう壇ノ浦(山口県)まで追い詰められますが、この間にも、宗盛は、義仲と和睦交渉してみたり、一の谷の戦いの直前まで、後白河法皇からの
「僕が和平の仲介したるから、今は合戦をするな」
という忠告を真に受けておとなしくしていたりと、やっぱりここでも、かなりの平和主義が垣間見えます。

しかし、ご存じのように壇ノ浦・・・初めは平家優勢だったのが、源氏軍の大将=源義経(みなもとのよしつね=頼朝の弟)による掟破りの船頭狙いで形勢逆転され(2008年3月24日参照>>)、やがて配色が濃くなった平家軍の皆々が、次々と海に身を投げる中、あの二位尼が、大事な宝剣(三種の神器)と幼い安徳天皇を抱えて入水・・・海の藻屑と消え、ここに平家は滅亡しました(2007年3月24日参照>>)

と、ここで宗盛さん・・・彼も潔く海に飛び込んで欲しいところですが、残念ながら、どうして良いかわからず右往左往してるところを見かねた家臣が、彼を船から突き落とすようにしてドッボ~~ン

その光景を見た宗盛の息子=清宗(きよむね)も慌てて飛び込みますが、実はこの父子、メチャメチャ泳ぎがうまい・・・ス~~ッと海の奥深く~っと本人は思う物の、ついつい体が反応しちゃって何度もプカプカ浮いてしまって沈まない・・・

そうこうしているうちに、源氏の船が近づいて来て、息子の清宗を救いあげると、その光景を見ていた宗盛は自らその船に近付いて来て救助・・・つまり、源氏軍に生け捕りにされたのです。

それこそ『平家物語』をはじめ、皆がこぞって意気地なし宗盛談をアピールするこの場面ですが、後に宗盛が語ったところによると
「日頃から、合戦に負けて死ぬ時は息子と一緒に…と心に決めてたんやけど、ふと見たら清宗が助けられたよって…」
と・・・一緒に死のうと決めていた息子と最期まで一緒にいたいと思っての投降・・・という事のようです。

そう、宗盛さんは家族思いのマイホームパパなのです。

以前、出産のために奥さんが亡くなった時は冠位を返上して仕事を休んで泣きあかし、その後、男手一つで子供たちを立派に育て上げたイクメンなんです。
(後妻をもらったという説もありますが、あくまで不明ですので)

もちろん、自分の家族だけを特別に・・・という勝手な愛ではなく、裏切った者や反抗した者も、その命助けるほどの慈愛に満ちた人だったのです。

やがて、義経とともに東国へ下った宗盛父子は、腰越で止められた義経(5月24日参照>>)と別れて鎌倉へ・・・ここで、敗軍の将として頼朝と対面する事になりますが、予想通り『吾妻鏡』などでは、「命乞いするばかり」と、その態度の醜さを語っていますが・・・

その後、京都へと戻される事になった宗盛父子は、その旅の途中の元暦二年(1185年) 6月21日近江国(滋賀県)の篠原(野洲または勢多の説あり)にて斬首されるのです。

その日、昨日まで一緒にいた清宗と別々の場所に連れて来られた宗盛は、二人が引き離された理由を察したとみえ、
「清宗はどこですか?
ホンマやったら、先の合戦で死んだらええもんを、京都でも鎌倉でも恥をさらしたんは、清宗がおったからこそですねん。
たとえ首を斬られる場所が別々でも、遺体は一緒のところにお願いします」

と、清宗の事を気にする中、聖の説法で少し落ち着いたところを、橘公長(たちばなのきみなが)なる武将に首を跳ねられますが、その直前
「清宗は、すでに斬られたんですか?」
と尋ねた言葉を最後に、39歳の生涯を閉じたのです。

一方、彼が最後の最後まで心配した清宗は、宗盛斬首の知らせを聞くと・・・
「父の最期はどうでしたか?」
と尋ね
「立派でしたよ。安心してください」
と言われると、
「そうですか…ほな、もう思い残す事もありません、どうぞ斬って下さい」
と言って潔く首を差し出し、16歳の命を散らしました。

そりゃ、あーた、仕事バリバリで出世街道まっしぐらな一方で、家に帰れば子煩悩なイクメンで家事もバッチリ!なんて、絵に書いたキムタクのような人がいたなら、それに越した事はござんせんが、悲しいかな、人間、持ってる身体は一つ、少なくとも、仕事バリバリやってる間は育児はできないわけで・・・

しかも、いちいちすべての事にベストを尽くしてたら、その身ももたないわけで・・・

確かに、この時代・・・しかも武士という身分で、争いを好まず現状維持をヨシとし、家族を1番に思う事は腰抜けの愚将だったかも知れませんが、見方を変えれば、天皇家とうまくやりながら政権のトップクラスに居続けて国家の平和を保つ事も大切な事で、実際には、それにだって、しっかりとした政治手腕が必要だったんじゃないか?と思います。

そういう意味では、宗盛さんは良きパパ、良き人物としては、なかなかに評価できる人ですが、結局は時代が彼に微笑まなかったという事なのでしょう。

・・・と、今回は、ちょっと持ち上げ過ぎかも知れませんが、ご命日という事で汚名返上の回にしてみました(*´v゚*)ゞ
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

乱世にあっては「普通」の人ってどうしても評価が芳しくありませんね。
どうしよもないバカの方がそれなりに名を残したりして(笑)。
コテコテの大阪人の私ですが、今は屋島の合戦があった正にその土地に暮らしています。
八百数十年前にここで件の宗盛さんも義経さんも共に戦ったのかと思うと、感慨深い物があります。

投稿: masa | 2015年6月21日 (日) 18時18分

平宗盛というと、能の「熊野」に出てきますね。愛妾の熊野にふられてしまうけど。
評価が低く描かれていますね。

木曽義仲は、よく描かれていたり、悪く描かれたりしますね。

投稿: やぶひび | 2015年6月21日 (日) 21時02分

茶々さん、こんばんは。
宗盛は馬鹿でないと思いますよ。後白河法皇との和解や父にやはり京の方が良いですと忠告しているのも無能でない証拠だと思います。
多分生きた時代が悪いのと兄が亡くなったので棚から牡丹餅みたいに後継者になったのが大きいでしょう。
多分優しい人だと思いますよ。知盛、重衡みたいな武骨でないが平家の棟梁に相応しかったでしょう。
内大臣になるのは政治力もあったと思います。
残念ながら武家の時代には適応できなったと思います。
ところで宗盛は義経、頼朝と平治の乱の頃に会ったことは無いでしょうか?
特に義経の母常盤御前は清盛の愛人だったのでたまに会った感じもします。推測ですが・・・

投稿: non | 2015年6月21日 (日) 23時57分

masaさん、こんばんは~

歴史の舞台となった場所には感慨深い物がありますね。
樹齢何百年という木があったりなんかすると、「この木が話せたらなぁ~」って思いますね。

投稿: 茶々 | 2015年6月22日 (月) 01時13分

やぶひびさん、こんばんは~

やっぱ、物語系の宗盛さんは、あまり良く描かれませんね。
どうしても、そういう印象なのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2015年6月22日 (月) 01時15分

nonさん、こんばんは~

重盛が亡くなってからは、清盛自身が「宗盛を後継者に…」と思ってたみたいですものね。
…て事は、清盛から見ても、その資質があったって事ですからね。

>宗盛は義経、頼朝と平治の乱の頃に会ったことは無いでしょうか?

どうでしょうね?
堀川邸と西八条邸は、意外と近いので、ひょっとして会った事あるかも…会ってたとしたらオモシロイですね。

投稿: 茶々 | 2015年6月22日 (月) 01時29分

「平和主義は戦争を招く。」byチャーチル

治世の人なんでしょうね。
時代が悪かったとしか...

投稿: ことかね | 2015年6月23日 (火) 11時13分

ことかねさん、こんにちは~

平和な時代では政治手腕を発揮できたかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2015年6月23日 (火) 15時55分

茶々様、こんばんは。

宗盛と清宗は宗盛の願い通り斬首の後一緒に葬られたんでしょうか?

清盛が仏心なんか出さないで頼朝を斬っていれば

こんな事にはならずに済んだんでしはょうかね?


投稿: 新発田重家 | 2015年6月25日 (木) 01時57分

本文の話の他にも捕虜の間(多分多少の外出の自由も有ったんでしょうね)に地元の子供と遊んでたって話も有ります…乱世にトップにいちゃいけない人かもしれませんが、頼朝や義経よりは親戚や友達になりたい人だったと思うんです。
で私、源平ではどうしても平氏の肩を持っちゃうんですよ。何だかんだ言っても仲良いじゃないですか?出世も没落もみんな一緒で。ホントはリスクを別けておくべきだったかもしれませんが、それって見方を変えれば腹黒さの有無って事にもなりますしね。

投稿: 高槻晋作 | 2015年7月12日 (日) 17時35分

新発田重家さん、お返事が遅れて申し訳ありません…コメントをいただいていた事に、今、気づきました(;´Д`A ```すみません。

確か、首は都に送られて晒され、胴体だけが、一緒に葬られ、供養塔が建っていたと思います。
くわしい場所は忘れましたが、滋賀県の斬首された場所の近くです。

投稿: 茶々 | 2015年7月13日 (月) 02時18分

高槻晋作さん、こんばんは~

源平の戦いと言っても、頼朝の配下は、ほとんど平氏ですから、結局は、伊勢平氏(平家)VS坂東平氏の戦いだったわけですが、最後に、頼盛さんが都に留まったのが、平家の血脈を守る方法という事だったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2015年7月13日 (月) 02時35分

都落ちですがこれば守ることが難しい京都から余力があるうちに、
新たなる本拠地である福原に移った、戦略的な撤退だと思いますよ。

源義仲は入京したものの食糧不足になやまされた。

投稿: パトリオット | 2015年7月21日 (火) 15時10分

パトリオットさん、こんにちは~

このブログでも、いくつかの源平関連ページで書かせていただいてますが、この都落ちのあたりの何年間は東北以西のほとんどが大変な飢饉に見舞われていて、「平家の敗因は飢饉にある」とも言われてますから、率いる方も大変だったと思います。

投稿: 茶々 | 2015年7月21日 (火) 17時21分

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