戦国の終わりとともに…福島正則の転落人生
元和五年(1619年)6月9日、江戸幕府が広島城無断修築の罪で福島正則を信濃川中島へ減封しました。
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豊臣秀吉(とよとみひでよし)の叔母の子として生まれたとされる福島正則(ふくしままさのり)は、その秀吉とは24歳も離れているとは言え、上記の通り従兄弟(いとこ)・・・18歳で小姓の一人として初参戦した播磨(はりま=兵庫県南西部)三木城の籠城戦(3月29日参照>>)以来、常に秀吉のそばにあり、その戦いぶりを見つめながら成長して来た武将でした。
秀吉の天下分け目の一つである山崎の合戦(6月13日参照>>)でも武功を挙げ、もう一つの天下分け目である賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(2011年4月21日参照>>)でも、「賤ヶ岳の七本槍」のうちの一人(2009年4月21日参照>>)に数えられるほどの大活躍をみせます。
すぐにカッとなる激情型で行動力のある性格は、水を得た魚のように、戦国という世を泳ぎやすかったのかも知れません。
しかし、そんなこんなの慶長三年(1598年)、これまで、彼の道しるべとなっていたであろう秀吉が亡くなり(8月9日参照>>)、真っ二つに分かれた豊臣家臣団の間で、あの関ヶ原の戦いが勃発します。
この時、東軍の大将である徳川家康(とくがわいえやす)が最も警戒したのが、この正則だったと言います。
なんせ、その豊臣恩顧度はハンパないですから・・・
しかし、一方で、そのカッとなりやすい性格は、うまく扱えは強い味方ともなる・・・そう、正則は、この関ヶ原で家康に敵対していた石田三成(いしだみつなり)とメチャメチャ仲が悪かったんですね。
戦場にて自らの手で武功を勝ち取って出世する武闘派の正則は、政権内で事務的な事が得意な文治派=三成を、どーも好きになれない・・・なんせ、秀吉が死んだ翌年には、三成襲撃事件(3月4日参照>>)も起こしてますから・・・
・・・で、この家臣同士の亀裂を利用して豊臣家内の反対派を一掃しようとする家康は、会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いあり(4月1日参照>>)と称して、軍勢を率いて東へと向かい、自分が留守の間に、三成が伏見城を攻撃した(8月1日参照>>)との報告が入るなり、会津征伐を取りやめて三成と一戦交えるためにUターンして戻るのですが・・・(7月24日参照>>)
その事を、率いていた軍勢に発表したのが「小山評定(おやまひょうじょう)」と呼ばれる会議・・・なんせ、この時、家康が率いている軍団は、あくまで豊臣政権下の会津征伐軍であって、参加している武将のほとんどが自分の妻子たちを大坂に残して来ている状態ですから、「(大坂にいる三成と戦うんやけど)このまま僕に着いて来てね」と家康が言っても、「ハイ、そうですか」と従ってくれるかどうかは微妙なわけです。
・・・で、家康は、この時、1番に警戒していた正則を、黒田長政(くろだながまさ)を通じて、その激情型の性格をくすぐるがごとく説得し、真っ先に味方につけたのです。
こうして、会議の席にて、「君ら、どーする?」と聞く家康に対し、いち早く手を挙げ、
「家康さんについて行きます!」
と宣言した正則・・・(7月25日参照>>)
最も豊臣恩顧の正則が手を挙げれば、当然、その場にいた豊臣恩顧の武将たちも、我も我もとこぞって手を挙げ、この小山評定の場にいた会津征伐軍は、ほぼそのまま、関ヶ原の東軍となります(当然ですが、全員ではなく、ここで袂を分かった武将もいます)。
こうして、関ヶ原へ向かう一連の戦いを駆け抜け(そのあたりは【関ヶ原の年表】で>>)、本番の関ヶ原でも率先して大活躍した正則は、関ヶ原戦前の清州24万石から、戦後は、安芸・備後2ヶ国49万石の大出世を果たし、西軍総大将だった毛利輝元(もうりてるもと)(9月28日参照>>)の抑えとして、あの広島城に入ったのです。
この前年には、後継ぎである養子=福島正之(ふくしままさゆき=正則の甥)に、家康の養女=満天姫(まてひめ=家康の姪)を娶っていて、まさに、徳川政権内でノリノリ状態に・・・(正之が亡くなった後も徳川との縁が切れるのを嫌がって、満天姫をそのまま、実子の福島忠勝(ふくしまただかつ)の嫁とした説あり)
とは言え、一方では、やはり豊臣に対しての忠誠心も強く、家康が、秀吉の遺児=豊臣秀頼(とよとみひでより)と面会した二条城での会見の時には、かの加藤清正(かとうきよまさ)らとともに、イザという時には豊臣とともに命を捨てる覚悟のカッコイイ逸話(3月28日参照>>)も残してくれています。
まぁ、かなりの酒豪で、お酒による失敗の逸話も残してくれていますが・・・(6月6日の後半部分参照>>)
しかし、それも・・・やがて、清正をはじめとする豊臣恩顧の武将が次々と世を去る(6月24日参照>>)のにともなって、正則の価値が大暴落していくのです。
もはや遠慮なく、正則への警戒を露わにし始めた家康は、大坂の陣の時には正則を江戸留守居役とし、息子の忠勝だけが参戦・・・そして慶長二十年(1615年)5月、豊臣は滅亡し(5月8日参照>>)、天下は徳川の物となりますが、そんなこんなで元号が変わった元和三年(1617年)、広島城が大水害に見舞われるのです。
太田川のデルタ地帯に建つ広島城は、三の丸まで浸水し、石垣や櫓まで崩れてしまうという膨大な被害となりました。
早速、正則は、城修復の許可願いを提出します。
なんせ、未だ天下を平定したばかりの徳川幕府は、慶長二十年(1615年)7月に発布した「武家諸法度(ぶけしょはっと)」(7月7日参照>>)で、諸大名の行動を厳しく制限していて、幕府の許可なくしては、城に釘1本打ってはいけない状況だったですから・・・
ところが、待てど暮らせど、その許可が下りず・・・このままでは、城そのものが倒れかねない状況となり、やむなく正則は、城下町の堤防1m高くし、壊れた石垣をチョコッと修復しちゃいます。
・・・が、お察しの通り、そこを
「待ってました~」
とばかりに追及したのが、亡き家康の後を継いだ第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠(ひでただ)。
慌てて修理した部分を破却して弁明する正則でしたが、破却が不十分だとして、元和五年(1619年)6月9日、安芸・備後の領地を没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5千石に減封・転封されてしまったのです。
引越し後、正則が忠勝に家督を譲って隠居して出家した事で、何とか福島家は生き残る事となりましたが、もはや、以前の姿は見る影もありません。
『名将言行録(めいしょうげんこうろく)』には、この時の正則の心境が語られています。
「弓ってな…合戦の時にはメッチャ役立つ武器やん。
けど、合戦の無い時は袋に収まって蔵に保管される。
俺って弓やな。。。
不要になったら、川中島の蔵に入れられるんや」
この5年後の寛永元年(1624年)、正則は64歳の生涯を閉じます。
戦国に生まれた比類無き猛将は、平和な世の訪れとともに、暗い土蔵の中に身を投じる事となったのです。
おそらく、彼こそが、家康&秀忠の父子2代が最後の最後まで警戒した豊臣の武将だったのかも知れません。
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コメント
江戸に留め置かれた正則は、領国から酒を取り寄せては飲み、気を紛らわせていました。ある日、その酒を載せた船が八丈島に寄港すると、1人の男が声をかけてきます。「福島家の船とお見受けする。それがしは宇喜多秀家。船の家紋を見て、故郷の備前がなつかしい。」船員が「殿様の命で、備前から酒を取り寄せて江戸へ運ぶ途中やねん。」秀家「故郷を偲ぶせめてものよすがに、その酒を分けては貰えぬか?」船員「堪忍して。もし酒が足らんのが分かったら、殿様のご勘気に触れてわしら全員首が飛ぶ。」秀家「頼む。」船員「堪忍して。」その必死な様子に、船員たちは酒を分け与えました。秀家「ならば一筆したためよう。」と文を書き船員に渡します。そして、船は一路江戸へと向かいます。届いた酒の量が足りないのを知った正則は、案の定、激怒。そこで例の秀家の文を見せると、機嫌を直し「相分かった。これからは八丈島にも寄り、酒を分けてやれ。」と言ったそう。例え敵味方に別れた間柄とはいえ、慣れ親しんだ土地を離れて、いつ帰れるか分からない日々を送る気持ちが痛い程分かるからこそ出た、正則の本音なのでしょう。
投稿: クオ・ヴァディス | 2015年6月10日 (水) 17時07分
茶々様、こんばんは。
正則には俺のおかげで徳川が天下を取れたと言う自負と言うか
旗本、伊奈昭綱の切腹事件等おごりがあったんではないでしょうか
家康や秀忠もそんな正則を苦々しく思っていたんでしょうね
広島城修築も幕府から内々の許可を得ていて
正則がはめられたて説もありますしね
直情的な正則に意見出来る様な優秀な家臣がいたらあるいは大名として生き残れていたんでしょうかね。
投稿: 新発田重家 | 2015年6月10日 (水) 22時00分
クオ・ヴァディスさん、こんばんは~
正則さんはお酒にまつわる逸話が多いですね。
投稿: 茶々 | 2015年6月11日 (木) 02時32分
新発田重家さん、こんばんは~
やはり、徳川家にとっては目の上のタンコブだったと思いますよ。
なんだかんだで、結局、加藤さんちもヤラレちゃいますしね。
投稿: 茶々 | 2015年6月11日 (木) 02時34分
加藤清正と福島正則は秀吉股肱の部下。
豊臣家の行く末を心配した二人でしたが・・る(p´□`q)゜o。。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年6月12日 (金) 19時16分
直情型の人間だったのでしょうね。ついでに言うと世渡りの下手な人間。
三成憎しの一心から関ヶ原では家康に加担したものの、家康の真意が読めなかった。
関ヶ原の後に気付いた時に、賢い人なら騙され続けたでしょうに。
なまじ豊家に義理立てしたばかりについには改易の憂き目。
武士は「義」よりも「利」によって動く、後世まで家名を残したのはそんな人ばかり。
泉下の秀吉が聞いたら何と言ったでしょうねww。
投稿: masa | 2015年6月12日 (金) 21時50分
根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~
正則さんの代でなくとも、いずれは潰されてたかも知れませんね(ρ_;)
投稿: 茶々 | 2015年6月13日 (土) 01時39分
masaさん、こんばんは~
戦国も幕末も、要領のイイ方が生き残ります。。。
ま、乱世は命あってのものだねですから、それも重要だと思います。
投稿: 茶々 | 2015年6月13日 (土) 01時42分
茶々さん、こんばんは。
福島正則、加藤清正は石田三成を嫌っていましたが、当初は秀吉の長浜時代からの家臣たちです。最初は市松、寅、佐吉と呼び合っていた聞きましたし、賤ヶ岳でも三成は正則、清正と同じく活躍しました。ところが天下統一後は完全に武断派は三成などを嫌っています。別に三成が不正をしたわけでも無く、普通の事を言っていますのに嫌われます。それと三成の癖ですが伯父も私も鼻炎なので妙な音が出ます。意識しなくてもです。そう言う事は清正だと理解できるはずなのにそうでも無いです。
私ははっきり言いまして豊臣家、加藤家、福島家の滅亡は正則の責任だと思います。三成の言うとおりにしていたら最低でも関白の位を継ぐ摂関家みたいに形になったと思います。
ところで今の皇室は豊臣も三成の血も残っています。不思議な話ですが・・・
投稿: non | 2015年6月22日 (月) 18時12分
nonさん、こんばんは~
加藤家&福島家はともかく、豊臣家の存続は、家康が許さないでしょうね。
何が何でも潰したかったと思いますよ。
現在の皇室には、かなりの著名歴史人物の血脈が流れていると思います。
最も多くの有名ご先祖様をお持ちなんじゃ無いでしょうか?
投稿: 茶々 | 2015年6月23日 (火) 01時35分
最近分かってきたのですが、三成は京極家の家臣の子孫なので、浅井家の淀殿はそんなに仲が良くなく、寧ろ北政所のねねの方に親しいと書いていましたが、考えてみますとねねに子供の様に可愛がられたのは虎、市松などの武断派だけでなく佐吉もそうです。実際に三成は長浜時代以来の秀吉の部下なので蜂須賀などを除くと最古参です。どう考えても武断派とは親しいはずです。
そこでその人によりますと北政所は三成に味方したそうで、逆らったのは清正、正則だそうです。
実際に淀殿は助命願いをしていません。おまけに大阪などでのさらし者にしているのも容認していますので、どうも北政所の気持ちを武断派も大野等の側近も理解していなかったと思います。
ただ豊臣家の生き残りは貴族になることだけでしょう。それ以外に方法が無いです。
ところで面白い小説がありますが、何と秀頼は薩摩に落ち延びた後に子供を作り、その子孫が吉宗になったと言う奇想天外な小説です。何でも幸村と真田十勇士が秀頼を助けたそうです。嘘か本当かよく分かりませんが、そう言う小説がありました。
馬鹿馬鹿しかったですが、もしそうならば豊臣はまた天下を取ったことになります。
投稿: non | 2015年6月23日 (火) 12時36分
nonさん、こんにちは~
そうですね。
ブログにも何度か書いてますが、「秀頼九州逃亡説」は、大坂落城の直後からまことしやかに囁かれ、♪花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて…♪っていうわらべ歌にもなってますし、宣教師の日記にも書いてありますね。
後日談として有名なところでは、天草四郎が孫っていうのもあります。
投稿: 茶々 | 2015年6月23日 (火) 16時00分
おはようございます、茶々さん。
そう言えば豊後の木下氏に国松が保護されたと言う話を聞きます。国松の子孫の血が木下氏にも受け継がれていて、そう言うのは大分では有名だそうです。
天草四郎については秀頼の孫と言うのは聞いたことがありますが、あまり知らないです。
ただカリスマを考えますとあり得ない話でも無いし、何故両親とされる人が敬意を払ったのかも納得がいく説明です。
キリスタンだけだとそんなに皆殺しにしなかったでしょう。悪いのは松倉です。おまけに一揆軍の戦法にしては上手いです。豊臣関係者でないとあり得無いと思います。
投稿: non | 2015年6月24日 (水) 06時19分
すみません、天草四郎は秀吉の孫と言う説ですね。間違いました。
ところで秀吉に従うと言いますかまだ豊臣寄りと言いますと浪人が有名ですが、広島の浅野も秀吉関係者ですね。ねねの妹のややの子孫ですが、忠臣蔵を見て遅れたと言うと許されたぐらいに徳川に反感を抱いていたようですが、秀吉、淀殿の脱出に浅野も噛んでいたのではないかと思います。浅野は何だかんだ言っても秀吉の親族だし、当時は紀州の藩主です。高野山の幸村が出ていった時も食い止めた感じがしません。何だかんだある感じがします。
蜂須賀家政も大坂方になろうとして止められました。それを考えますと脱出劇はあり得ると思いますし、四郎が孫なのも納得します。
投稿: non | 2015年6月24日 (水) 07時05分
秀吉でなく秀頼でした。すみません。再々間違えまして・・・
でも木下よりも浅野の方が助けに行った感じがします。
浅野はねねの実家で、妹のややの子供が大名なので助けに行くだろうと思います。分かりませんが、淀殿にものを言えたのも浅野だし、浅野以外で助けに行けるのは無理だと思います。
投稿: non | 2015年6月24日 (水) 16時58分
nonさん、こんにちは~
歴史は、あーだこーだとイロイロと考えるのがおもしろいです。
話は尽きませんね。
ねねさんと、ねねさんの実家が、彼女の持っていた豊臣家に関する史料を、徳川から守って大事に保管してくれたおかげで今に伝わる事も沢山あるように思います。
投稿: 茶々 | 2015年6月24日 (水) 17時19分
茶々さん、こんばんは。
本当にそう思います。そう言う点は高台寺、浅野家には感謝感激です。
実は私は子供の頃のあこがれは秀吉です。だからもう決まっているのに秀頼が助かって欲しいと思う事が多いです。
実は私は2mぐらいの背なので秀頼と一緒の背ですので親しみをわきます。
ノア約束の船でノアと敵対した王が乗り込んでいましたが、九州あたりだと豊臣の残党は島原の乱ごろにはうようよいたと思います。
でも分からないのも歴史の魅力だと思います。
津軽家は三成の遺児を匿ったそうです。そう言うのもあるのかなと思いました。
豊臣の滅亡は茶々以外の初、江にはショックでしょうね。特に江は秀吉の養女で豊臣家の娘を残していますから。
千姫もあんなに天秀尼をかばったのはそうでしょう。
投稿: non | 2015年6月24日 (水) 21時20分
nonさん、こんばんは~
徳川の豊臣潰しは徹底的だったと思います。
それだけ、家康&秀忠は豊臣家が怖かったんだと思いますが、中には(特に女性は)「そこまでしなくても…」と思った人もいたかも知れませんね。
そのために埋もれてしまった物も沢山あると思いますが、歴史は勝者が作る物だし、徳川に限った事ではありませんし、だからこそ、歴史がオモシロイのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2015年6月25日 (木) 00時56分