秀吉の中国攻め~神吉城攻防戦
天正六年(1578年)6月27日、織田信長の命を受けた織田信忠・羽柴秀吉らが毛利方の神吉頼定らの播磨神吉城を攻撃しました。
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天正三年(1575年)5月の長篠の戦いに勝利(5月21日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)は、翌・天正四年(1576年)には近江(滋賀県)の琵琶湖東部に安土城を構築(2月23日参照>>)しながら、畿内では石山本願寺と戦いつつ(5月3日参照>>)、他方では、自らの領地を拡大していくわけですが、その領地拡大の西国=中国(山陽・山陰)地方を担当したのが、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)です。
これまでも、何度か書かせていただいてますが、この時の信長&その配下の秀吉としては、この中国攻めの最終目標は、西国の雄=毛利なわけですが、現在ほぼ平定した畿内から、その毛利が本拠とする安芸(あき=広島県)までの間には、大小様々な武将が、その土地々々に根を張っているわけで・・・
もちろん、その中間地点にいる彼らは彼らで、毛利に付くのか?織田に付くのか?が、彼ら自身の今後に左右するわけですが、そんな中でいち早く織田方を表明した黒田官兵衛孝高(よしたか=如水)(11月29日参照>>)や荒木村重(あらきむらしげ)(2月20日最後部分参照>>)もいる一方で、当然、毛利に味方する者も少なく無いわけで・・・
そんなこんなの天正六年(1578年)3月、加古川城(兵庫県加古川市)で行われた交渉が決裂して毛利側に付く事になった別所長治(べっしょながはる)の三木城(兵庫県三木市)を、秀吉率いる織田軍が包囲し、籠城戦が開始されます(3月29日参照>>)。
・・・で、今、籠城戦と書かせていただいた事でお察しの通り、この三木城攻防戦は、後に「三木の干殺(ひごろ)し」と呼ばれる約2年に渡る長期戦となる事で、その間に秀吉は、最前線の上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)の支援に向かったり(5月4日参照>>)、支城の野口城を攻撃したり(4月3日参照>>)と忙しい・・・
そんな中の6月16日、播磨(はりま=兵庫県南西部)から京都に戻った秀吉は、信長から「三木城が長期戦になるようなら、一旦、神吉(かんき)&志方(しかた)(兵庫県加古川市)を攻めてから三木に攻めにかかるように…」との指示を受けます。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
こうして始まった神吉城(かんきじょう=兵庫県加古川市)攻め・・・
この時の神吉城の城主を務めていたのは神吉頼定(かんきよりさだ)・・・頼定の神吉氏は、鎌倉討幕に尽力したあの赤松則村(あかまつのりむら・円心)(3月12日参照>>)の子孫ですが、宗家=赤松の衰退とともに播磨の土豪(地侍)として生き延び、この頃は、近隣の別所氏に味方していたのです。
前日、敵側の動きに対応するため、滝川一益(たきがわかずます)・明智光秀(あけちみつひで)・丹羽長秀(にわながひで)の軍勢を三日月山(兵庫県佐用市佐用町)に登らせた織田軍は、一方の秀吉と村重の軍を三木攻めの陣から引き払い、書写山(しょしゃざん=兵庫県姫路市)まで撤退させ、明けた天正六年(1578年)6月27日、いよいよ神吉城への攻撃が開始されます。
まずは、北から東の山にかけて、信長の嫡男の織田信忠(おだのぶただ)(11月13日参照>>)、三男の神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)、林秀貞(はやしひでさだ=筆頭家老)、細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斉)、佐久間信盛(さくまのぶもり)らが、何段にも分かれて陣取りました。
ちなみに、この時、次男の織田信雄(おだのぶお・のぶかつ)は、先に志方の抑えに向かっています。
そこを、滝川一益、明智光秀・・・他に、稲葉一鉄(いなばいってつ)、筒井順慶(つついじゅんけい)、荒木村重らが一気に神吉城へと攻め掛かり、またたく間に外構えを破って、神吉城を裸城にした後、次々と本城への堀に飛び込んで堀を崩し、数時間に渡って攻撃をくり返しますが、敵もさるもの・・・少々の苦戦を強いられ、さすがに一日で陥落させる事はできず、戦いは翌日へ・・・
翌・28日は、再び本城の堀の際まで攻め寄せ、大量の草で以って堀を埋め、築山を築いて攻め立てました。
この間に秀吉は、但馬(たじま=兵庫県北部)周辺の武将のもとへと出向いて彼らに織田家への忠誠を誓わせ、味方となった竹田城(兵庫県朝来市)(12月21日参照>>)に弟の羽柴秀長(はしばひでなが)を留め置いて、自らは再び書写山へと戻っています。
やがて、南側の攻めが手薄と判断した織田軍は、その南側に織田信包(のぶかね=信長の弟)を投入・・・さらに、信雄とともに志方に睨みを効かせていた丹羽長秀が若狭衆とともに城攻めに加わり、コチラは東から攻めたてました。
二つの櫓(やぐら)を構築し、大砲を撃ち、堀を埋め・・・さらに、東の攻めには滝川一益も加わり、隧道(ずいどう)を掘らせて敵方近くへ進み、そこからの攻撃で、敵の櫓や堀を壊していきます。
この攻め立てが昼夜を問わず行われた事で、さすがに精魂尽き果てた神吉城側から和睦の申し出がありましたが、この時は、信長から「YOUたち、徹底的にやっちゃいなヨ」の指示が出ていたので、ここで和睦に応じる事はなく、攻撃が続けられました。
やがて半月ほどが経った7月15日、夜になって滝川&丹羽の両軍が神吉城の東の丸へと突入し、翌・16日には中の丸まで攻め込んで頼定を討ち取り、天守に火を放ちました。
一方、西の丸を攻撃中の佐久間&荒木軍に対して、ここを防御していた神吉藤大夫(かんきとうだゆう=頼定の叔父)が投降・・・一命を助けられた藤大夫は志方城へと退去し、ここに神吉城は落城しました。
落城した神吉城を受け取った秀吉は、その勢いのまま志方城へ・・・包囲された志方城は、間もなく降伏し、人質を差し出して明け渡されます。
この一連の流れから、謀略によって織田方へと降った藤大夫が頼定を裏切って暗殺した(=なので助命された)との話もあるようですが、現在では、その話は後世の創作との見方が強く、藤大夫の助命は、その次の志方城明け渡しの説得を、彼にさせるための助命であったと考えられているようです。
とにもかくにも、先日の野口城に続いて、今回の神吉城&志方城を攻略して、ようやく秀吉は三木城に本腰を入れ、三木城陥落の後は宇野氏の諸城を攻める(4月24日参照>>)事になりますが・・・
その間に、あの上月城は落城するわ(7月3日参照>>)、
村重は反旗をひるがえすわ(12月26日参照>>)
と、まだまだ話は尽きませんが、このへんの出来事の流れは【織田信長の年表】>>でどうぞ
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