伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原
慶長五年(1600年)7月25日、天下分け目の関ヶ原で、東軍参戦の伊達政宗の攻撃を受けていた上杉方の白石城が開城しました。
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慶長三年(1598年)8月、諸大名には秀頼への忠誠を誓う誓詞を要求し(7月15日参照>>)、皆の前で、しっかりとした遺言(8月9日参照>>)残して、伏見城にて62歳の生涯を閉じた豊臣秀吉(とよとみひでよし)・・・しかし、秀吉の後を継ぐべく息子=秀頼(ひでより)は未だ6歳の幼子でした。
その遺言通り、秀頼は母=淀殿とともに大坂城へと入り、五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)は政務を補佐すべく伏見城に留まりましたが、案の定、すぐに始まる家康の約束破り・・・
ご存じのように戦国時代の結婚は、両者の同盟の証でもありますから、秀吉は、大名同士の結婚を許可なくする事を禁じていたのですが・・・にも関わらず、まもなく、家康の六男・松平忠輝(まつだいらただてる)と伊達政宗(だてまさむね)の長女・五郎八(いろは)姫が勝手に婚約・・・
この約束破りに同じく五大老の一人の前田利家(まえだとしいえ)が激怒すると、当然の事ながら、豊臣政権内は徳川派と前田派に分かれ、一触即発のムードになりますが、そんな利家が翌・慶長四年(1599年)に秀吉の後を追うように亡くなると、家臣団の亀裂が表面化(3月4日参照>>)・・・この時は、何とか、石田三成(いしだみつなり)の蟄居(ちっきょ=謹慎処分)を以って事を収めましたが・・・
そんな中、家康は、再三の上洛要請に応じない会津(あいづ)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に「謀反の疑いあり」として、慶長五年(1600年)6月6日、諸大名を大坂城西の丸に集めて、会津征伐を決行する事を発表したのです。
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この先の歴史を知ってる私たちから見れば、かの家臣団の亀裂をうまく利用して、三成側に挙兵させるべく時を待っていたとおぼしき家康ですが、上記の通り、この段階では、あくまで豊臣家臣団の筆頭として、会津の上杉征伐を行う家康・・・
この日の軍義では
家康が息子=秀忠(ひでただ)とともに白河口から…
佐竹義宣(よしのぶ)が仙道口から…
最上義光(もがみよしあき)が米沢口から…
前田利長(としなが)と掘秀治(ほりひではる)が津川口から…
そして、
本日の主役=伊達政宗は信夫口から…
と、この五つのルートからの侵入が決定され、東北勢(佐竹・最上・伊達)らは6月14日に大坂城を出立し、国許で出兵準備に取り掛かります。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
翌・6月15日には、家康のいる西の丸に秀頼が訪れ、軍資金と兵糧を与えていますので、やはり、あくまでも、この出兵は豊臣家のための出兵だったわけですから、多くの者が家康に従軍する事となります。
その後、6月18日に家臣の鳥居元忠(もとただ)に伏見城の留守を任せた(8月1日参照>>)家康は、一旦江戸城へと入って準備を整えた後、7月21日に会津へ向けて出陣したのです。
一方、娘の婚約発表の時点でバリバリの家康派の匂いプンプンの伊達政宗は、一足先に帰国した後、居城の岩出山城(いわでやまじょう=宮城県大崎市)には戻らず、上杉の領地に1番近い北目城(きためじょう=宮城県仙台市)に入り、準備を整えました。
もちろん、それは上記の通り、家康から
「信夫口を頼むでよ」
と任されていたからではありますが、実は、今回の政宗・・・その意気込みがハンパ無い!
なんせ、現在上杉が治めている会津は、もともと政宗の領地だったのが、小田原参陣に出遅れ(6月5日参照>>)、葛西大崎一揆への関与を疑われ(2月4日参照>>)たために大幅減封となってしまい、その時に蒲生氏郷(うじさと)の物となった会津は、その氏郷亡き後も上杉の物となっていたわけで・・・
もちろん、それは会津だけではなく刈田(かった=宮城県刈田郡)や信夫(しのぶ=福島県福島市)なども・・・そう、政宗としては、この機会にちょっとでも多くの所領を回復したいわけですね。
そんな中、上杉の執政である愛の兜の直江兼続(かねつぐ)が、混乱を招くべく越後一揆を扇動(7月22日参照>>)した7月22日、北目城を出陣した政宗は、まずは24日に、家臣の桜田元親(さくらだもとちか)に上杉方の河股城(かわまたじょう=福島県伊達郡 )を攻撃させます。
・・・が、実は、これは、上杉の注意を河股城に向けさせるための囮(おとり)作戦で、本当の狙いは、その北に位置する白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)・・・
河股城への攻撃の真っ最中の24日に、政宗自らが率いる本隊が白石城を囲み、その日のうちに石川昭光(いしかわあきみつ)や片倉景綱(かたくらかげつな)が、白石城下を焼き払い、三の丸の攻撃を仕掛けて白石城を裸城にしたのです。
この時の白石城は、上杉景勝から白河口の守りを任されていた甘糟景継(あまかすかげつぐ)が、甥っ子の登坂勝乃(とさかかつのり)に1000ほどの城兵をつけて防備させていただけで、未だ大軍を迎え撃つ準備などは、まったくしていなかったのです。
そのため、伊達勢の猛攻撃に、またたく間に本丸のみとなってしまった白石城は、翌・慶長五年(1600年)7月25日、降伏のうえ開城となったのでした。
こうして白石城を攻略した政宗は、今後は、ここ白石城を拠点に、上杉領内深くへと攻め込むつもりでしました。
ところがドッコイ!
この白石城が陥落したまさにその日、かの家康が大いなる作戦変更・・・そう、あの「小山評定(おやまひょうじょう)」(2012年7月25日参照>>)です。
前日の夕刻、留守を任せた鳥居元忠が放った早馬によって伏見城への攻撃を知った家康(7月24日参照>>)が、急きょ、会津征伐を中止し、Uターンして畿内に戻る事を、従軍している諸将に発表したのです。
当然ですが、中止になった以上、去る6月6日の軍義で決まった作戦も白紙・・・むしろ、戻る家康としては、東北で勝手な軍事行動を起こされた方が困るわけで・・・
家康から、攻撃を制御するよう要請された政宗は、やむなく、奪い取った白石城を石川昭光に任せ、自らは北目城に戻りますが、
家康が戻っちゃって強い後ろ盾を失うわ、その家康から「ちょっと大人しくしといてね」と言われちゃうわで、思う存分暴れられなくなった政宗は、結局、奪ったばかりの白石城を返還して、上杉とは一時休戦・・・
ただ、戻る家康も、自身の背後を上杉側から突かれては大変・・・なので、政宗クンには、今後も上杉をけん制しといてもらわんと・・・
てな事で、8月12日には秀忠による協力要請を、8月22日には家康による「勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束するよん」の覚書=世に言う「百万石のお墨付き」を政宗に与える事になるのですが、そのお話は2009年8月12日の後半部分で>>(←今回と内容がかなりかぶってますが(*_ _)人ゴメンナサイ )
一方、家康のUターンで強気になった上杉は、家康の背後を突くのではなく、隣国の最上義光(もがみよしあき)の領地へ侵攻・・・(9月9日参照>>)
そして、あの関ヶ原で天下分け目の大合戦が行われた、まさにその日の慶長五年(1600年)9月15日、ここ東北でも長谷堂の戦い(9月16日参照>>)が勃発する事となります。
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コメント
なおこの婚礼&侵攻のせいで人質に取られた嫡男秀宗からは恨みを買い、見捨てられたと思われて政宗は長いあいだ自覚なし状態で恨まれることに・・・
投稿: 貧乏武士 | 2015年7月25日 (土) 23時29分
貧乏武士さん、こんばんは~
秀宗さんは、豊臣の子として育った人ですからね~
でも、最後に親子の和解ができて良かったです。
投稿: 茶々 | 2015年7月26日 (日) 04時04分