琵琶湖の水運と織田信長の大船建造
元亀四年(天正元年・1573年)7月3日、織田信長が琵琶湖畔にて建造させていた百挺櫓の大船が完成しました。
・・・・・・・・・
織田信長(おだのぶなが)は、未だ幼き頃に、父=織田信秀(おだのぶひで)から那古野城(なごやじょう=名古屋市中区)を譲られた(1月17日の冒頭部分参照>>)のをはじまりに、守護代の織田信友(のぶとも)を倒した弘治元年(1555年)には、その信友のいた清州城(きよすじょう=愛知県清須市)に入り(4月20日参照>>)、翌・弘治二年(1556年)に、舅の斎藤道三(どうさん)が息子=義龍(よしたつ)との戦いで討死して(4月20日参照>>)美濃(みの=岐阜県)が敵対勢力になると、美濃との国境に近い小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に城を構えて拠点を移し(この間に桶狭間>>がありますが…)、永禄十年(1567年)にその斉藤氏を倒したら(8月15日参照>>)、斉藤氏の居城だった稲葉山城(いなばやまじょう)を岐阜城(岐阜県岐阜市)と改名して、次の拠点としました。
そう・・・信長は、何か行動を起こすその都度、最も便利かつ重要な場所に拠点を移す人なのです。
そんな信長が天正四年(1576年)、満を持して建設を開始したのが、結果的に人生最後の城となる安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市安土町)(2月23日参照>>)。
もはや、説明するまでも無いでしょうが、まさに、天下を見据える信長の城です。
なので、その煌びやかな設備にばかり目が行きがちですが、実は、この安土という場所そのものが、本当は、とても重要な場所だったわけで・・・
なんせ安土は琵琶湖の東岸・・・背には近江(滋賀県)の穀倉地帯が広がり、東海道、中山道、北国街道のいずれにもすぐに向かえるので、生誕地である尾張(おわり=愛知県西部)にも、勝ち取った美濃にも、この先、目を光らせねばならない都=京都にも通じる・・・
『信長公記』の記述を見ても、発掘された現地の大手道の構造を見ても、建築の最初の段階から、この安土城に天皇を迎えようとの構想があったとの推理もありますし、この先、連絡を密に取るためにも、自身の居城は、京都に近くなければなりませんからね。
もちろん、同時に琵琶湖の水運にも目をつけての安土でした。
以前、琵琶湖疏水を完成させた田辺朔郎(たなべさくろう)さんのページ(9月5日参照>>)で、それが、平清盛が構想し、豊臣秀吉も夢見た一大プロジェクトだったと書かせていただきましたが、それは、すでに、琵琶湖と京都が船で結ばれる以前から、若狭湾の豊富な海の幸や米どころ北陸の農産物などを琵琶湖の北岸から船で運び、大津で荷揚げするという事実があったから・・・なんたって、大型トラックという物が無い時代、大量の物資をいち早く、少ない労力で運べるのは船ですからね。
そして、その大量の物資をいち早く、少ない労力で早く運べるという利点は、当然、物流だけではありません。
そう、軍事です。
それは、安土に本拠を構える以前の永禄十二年(1569年)頃から、すでに琵琶湖の水運を支配しはじめた信長は、湖上での廻船(かいせん)の運行許可を出したりしながらも、一方で、何か事あらば、自ら大軍を率いてすぐに京都へ向かえる導線も確保しておこうとしていたのです。
そう、ご存じのように、永禄十一年(1568年)に「ともに天下を統べろうぞ!」と約束して(10月4日後半部分参照>>)、ともに意気揚々と上洛(9月7日参照>>)した第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)(10月18日参照>>)と信長の仲は、アッと言う間にグダングダン・・・
元亀四年(天正元年・1573年)の正月には義昭が挙兵するという事態にまで発展(2月20日参照>>)しました。
さすがに、この時は、その後の上京焼き討ち(4月4日参照>>)に驚いた正親町(おおぎまち)天皇が仲介に入って、何とか和睦となりましたが・・・
しかし、これで義昭の不満が収まったわけではありませんから、いずれは、また、敵対して来るであろうし、「その時は、おそらく、琵琶湖を防衛線にして京都を掌握するに違いない」と考えた信長・・・で、今こそ、先ほどの「自らが大軍を率いて」「すぐに」「いつでも」京都に入れる準備を・・・って事になったわけです。
そこで元亀四年(天正元年・1573年)5月22日、琵琶湖東岸の佐和山(滋賀県彦根市)に陣を構えた信長は、多賀や山田(滋賀県犬上郡多賀町)の山中から木材を伐採して、佐和山の麓の松原(彦根付近)に引き下ろし、国中の鍛冶屋や大工、製材業などの職人を集めて、大きな船の建造を命じたのです。
大工の岡部又右衛門(おかべまたえもん)を棟梁に・・・その仕様は、
長さ=三間(約54m)、
横幅=七間(約13m)、
櫓(ろ)は百挺、
艫(とも=船尾)と舳(へさき=船首)に櫓(やぐら)
を設置した強固な物・・・
建造期間中、信長はずっと佐和山の陣に滞在して、状況を見て回ったり、作業員にゲキを飛ばしたりしていたおかげか、元亀四年(天正元年・1573年)7月3日、ついに、その大船が完成・・・その大きさには見る者すべてが驚いたと言います。
・・・と、そのわずか2日後の7月5日、案の定、義昭が再び挙兵するのです。
二条御所(義昭御所=京都市上京区)に日野輝資(ひのてるすけ)や三淵藤英(みつぶちふじひで=細川藤孝の異母兄)らを置き、自らは槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)に陣を置いた義昭・・・
この報告を聞いた信長・・・翌・7月6日に、早速、建造したばかりの大船に乗って、佐和山から坂本(滋賀県大津市)に向けて琵琶湖を渡ります。
おりからの風にのってスピード全開で到着した信長・・・その日は坂本に一泊して翌・7月7日に入京した後、すぐさま二条の妙覚寺(みょうかくじ=京都市上京区)に陣を構えて、圧倒的兵力で二条御所を包囲すると、公家衆中心だった二条御所側は、驚き桃の木で、すぐさま人質を差し出して投降し、市街地での戦いは、まもなく終了しました。
『信長公記』によれば、その後7月16日に槇島を目指した信長は、五ヵ庄の柳山に陣を取り、
「宇治川を押し渡って槇島を攻略せよ!」
(ちなみに信長軍が到着したのは東岸で、宇治川を挟んだ向かい側が槇島です)
との命令を諸将に言い渡しますが、
ご存じのように、宇治川は水量豊富な暴れ川・・・水面は常に波立ち、流れも速い・・・これを「どうしたものか?」と思案する諸将の姿を見た信長は、
「君らがゴチャゴチャやっとって長引くんやったら、俺が先陣を切るわ!」
と・・・
さすがに後に退けなくなる武将たちは、あの源平合戦の名場面=梶原景季(かげすえ)と、佐々木高綱(ささきたかつな)による宇治川の先陣争い(1月17日参照>>)にならって、元亀四年(天正元年=1573年)7月18日に宇治川を渡る・・・と、こうして槇島城の戦いとなるのですが、その結末については、2012年7月18日の【槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重】>>の後半部分で見ていただくとして・・・
実は、今回建造された大船・・・このたった1度きりの航行で、その役目を終えて解体されてしまいます。
以前、あの石山本願寺との大阪湾決戦の際に造った華麗なる鉄甲船が、たった1度きりの戦いで使うためだけに建造したであろう事を書かせていただきましたが(9月30日参照>>)、今回の大船も、まさに、そう・・・
反旗をひるがえした将軍に、自分はたった1日で大軍を率いて京に入れる事を見せるためだけに作った大船だったのです。
建造から3年後、まさに安土城を築いた天正四年(1576年)の秋、信長は猪飼野正勝(いかいのまさかつ=猪飼昇貞)に命じて大船を解体させ、その材料を用いて、10艘の早舟(はやぶね)を造らせたのだとか・・・
たった1度きりで役目を終えた大船は、今度は小回りのきく早舟に生まれ変わって次なる役目をこなす・・・
配下の武将を適材適所に配置する信長さんらしいエピソードのように思いますが、とりあえずは、有り余る金を持ってないとできませんわな(*≧m≦*)
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コメント
茶々さん、こんにちは!
チョット、気になる点がありましたので…
>ちなみに槇島は宇治川に西岸で信長軍が到着した位置は宇治川の東岸です
この頃の宇治川は現在のような流路のように、伏見・六地蔵の方には流れていませんでした。むしろ、宇治橋を過ぎて宇治墓〔菟道稚郎子の墓〕辺りで西に曲がり、巨椋池に流れ込んでいたんですよね。槇島(まきのしま)はその宇治川の本流の北方に位置していて、五ヶ庄(ごかのしょう)から岡屋(おかのや)辺り〔隠元橋付近〕と陸続きだったんですよ。その後、豊臣秀吉によって現在の宇治川の流路となり、槇島堤が築堤されるに至って、分断されてしまうんですね。つまり、秀吉以前は宇治郡槇島で、秀吉以降は久世郡槇島となります。
>宇治川は水量豊富な暴れ川・・・水面は常に波立ち、流れも速い
宇治川先陣争いは、源平争乱の時が一番有名ですが、実はもう一つあるんですよ。それは承久の乱の時にあったのです。地元の歴史好きは前者を第一次先陣争い、後者を第二次先陣争いと区別してます。さて、この承久の乱時にあった第二次先陣争いですが、現在の五ヶ庄の対岸辺り、すなわち上記に書いた槇島辺りから渡河しています。なぜなら、この辺りが一番流れが穏やかになるんですね。幕府方の武将で北条泰時の長男・時氏は渡河に際し、周辺の民家の板塀をはがして筏をつくり、対岸へ上陸しています。宇治川の流れが一番穏やかな場所というのは、他にも証明ができて、秀吉以前はこの一帯で螢見(ホタル狩り)がよく催されていたようです。貴族の日記にも平等院の宿坊で宿泊し、そこから舟を使って螢見に出かけたと書かれています。ホタルが生息するような場所ですから、急流な場所でないことは確かですよね。
投稿: 御堂 | 2015年7月 3日 (金) 16時50分
御堂さん、ありがとうございます。
当時の槇島は、文字通り水辺に浮かぶ島だったと聞いてたんですが、ちょっと書き方がおかしかったですかね?
と思って「到着したのは東岸で、宇治川を挟んだ向かい側が槇島」という風に表現を変えてみましたが、どうでしょうか?
あと、宇治川の先陣争いについては、『信長公記』に「先例に任せ、川上平等院の丑寅より、昔、梶原と佐々木四郎先陣を争ひて渡らせられ候所を…」とあるので、その通りの源平時代の事を例にあげさせていただきました。
あと、川の流れについても、「誠に名も高き宇治川漲り下って、逆巻き流るゝ大河の表、渺々として冷じく…」とあるので、この時は急な流れだったのかな?と思って書かせていただきました。
ややこしいので、「『信長公記』によれば」ってのを入れときますo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2015年7月 3日 (金) 17時13分
こんばんは、茶々さん。
信長の計画は壮大です。天才ですね。多分信長と秀吉は日本史上の最高の天才の一人です。後は義満か義教ぐらいでしょう。
ところで琵琶湖は残っているので水の心配はないですが、アラル海みたいに無くなると気象条件は悪化します。
最近の悪天候はアラル海の消滅も影響していると私はそう思います。
茶々さんは最近お体は如何ですか?私はMRIを受けようかなと思うくらいに体調は絶不調です。
投稿: non | 2015年7月 3日 (金) 21時10分
茶々さんへ
よくよく読み返してみたら、茶々さんの仰る通りですね。ゴメンナサイ
いちゃもん付けた訳ではありませんので、お許し下さいm(_ _)m
出しゃばらないように気をつけねば…
投稿: 御堂 | 2015年7月 3日 (金) 21時34分
nonさん、こんばんは~
滋賀県民の友人には、大阪人や京都人に対して
「ゴチャゴチャ言うねやったら、琵琶湖の栓抜くゾ」というギャグがあります。
私たちは、琵琶湖のおかげで今日も生きていけますデス!
私はアホなんで、いつも絶好調です。
投稿: 茶々 | 2015年7月 4日 (土) 01時16分
御堂さん、こんばんは~
「いちゃもん」だとはぜんぜん思ってませんよ。
ホント、文才が無いので、自分の言いたい事が、ちゃんと伝わるかどうか、いつもドキドキしてます。
もともと、勘違いしてる事も多々ありますし、気になるところがあれば、言っていただけるとありがたいです。
いまだに、古いページを、たまたま読みなおして「なんで、こんな書き方してんねん!」と自分でおかしな表現に気づいて書きなおしたりする事も少なくないです。
なので、今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2015年7月 4日 (土) 01時24分
こんにちわ、茶々様
>有り余る金を持ってないとできませんわな(*≧m≦*)
いつも疑問に思っていたことが・・・
なぜ信長は『有り余る金』を持っていたのでしょうか?
斎藤道三との面会の時も信長は当時 貴重で高価な鉄砲をたくさん持参して道三がビックリしたとの事....
鉄甲船、安土城、鉄砲、茶器、香木 等々
それとなんといっても戦に次ぐ戦....
戦費もバカにならないと思いますし....
かといって信長が農地改革をして石高が大幅に倍増なんてのも聞きませんし...
南蛮との貿易?
大物 商人のパトロン?
実は名古屋に金山があったとか?
謎です
どうなのでしょう?
投稿: DAI | 2015年7月 5日 (日) 14時04分
DAIさん、こんにちは~
信長の経済力は、やはり物流だと思います。
愛知県西部にある津島市は、鎌倉時代の昔から、木曽三川を渡って尾張と伊勢を結ぶ要所=津島湊として栄えていましたが、戦国時代にここを掌握したのが、信長のお爺ちゃんである織田信定です。
なので、信長が家督を継いだ時点で、すでに地元での経済基盤はあったんじゃないか?と…
もちろん、その後、拠点を次々と移転していく度に、そこでの経済もさらに発展させていったでしょうが…
投稿: 茶々 | 2015年7月 5日 (日) 16時19分