小笠原諸島を守った「屏風」水野忠徳…幕府終焉とともに死す
慶応四年(1868年)7月9日、幕末期、外国奉行などを歴任して活躍した幕臣=水野忠徳が59歳で死去しました。
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わずか500石の旗本だった水野忠徳(みずのただのり)が、時の老中=阿部正弘(あべまさひろ)(6月17日参照>>)に、その才能を認められて西丸目付に抜擢されたのは天保十五年(1844年)4月の事でした。
以来、様々な役職をこなしつつ、、嘉永五年(1852年)には浦賀奉行を、翌・嘉永六年(1853年)4月には長崎奉行に任ぜられますが、お察しの通り、これは、近年騒がしく日本の近海を行き来する外国船に対する交渉役として、彼が幕府からの信頼を得ていたという事・・・
・・・にしても、メッチャ惜しいですやん(^-^;
そう、あのペリーが黒船に乗ってやって来るのは嘉永六年(1853年)6月3日・・・忠徳が赴任した長崎ではなく浦賀へ来ちゃった(6月3日参照>>)ために、ペリーとの交渉の場での彼の出番は無かったのです。
その代わりと言っちゃぁ何ですが、続く7月18日に長崎にやって来たプチャーチン率いるロシア船=ディアナ号他4隻(10月14日参照>>)との交渉を、川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)の補佐という形で行い、日露の国境などを定めた日露和親条約の締結にこぎつけています。
さらに、その後に長崎を訪れたイギリスの東インド艦隊とも交渉を重ねて、日英和親条約に調印した事から、安政五年(1858年)には外国奉行となって、日英修好通商条約や日仏修好通商条約も締結させました。
そんな中で、外国との格差が生まれていた金銀貨の交換問題や、外国に開港する港の選定などにも尽力した忠徳は、人呼んで「屏風水野」・・・これは、外国との交渉に挑むおエライさんを、その屏風の後ろからコッソリ指導すると事でついた異名で、まさに、優秀な官僚でないとできない役どころでした。
とは言え、途中に安政の大獄があったり、ロシア士官殺害事件の責任を取ったりで、いち時、左遷されたりもしましたが、外国奉行に返り咲いた文久元年(1861年)、歴史に残るある事をやってのけます。
それは、世界遺産になった事も記憶に新しい、あの小笠原諸島・・・
『近世日本国防論』によれば、
この遥か南海の島々は、それまでの幕府の認識としては、伊豆七島の流れから、日本の物としての多少の防衛意識はあったものの、ほぼ眼中になく、打ち棄てられたような状態で、結局は、江戸時代を通じて「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれているのが現状でした。
しかし、ここに来て、外国の捕鯨船が周辺を行き交い、イギリスやロシアが、ここを海軍の基地とすべく領有権を主張・・・幸いな事に、この時は、そこにアメリカが参入して潰し合いをしてくれたおかげで、辛うじて日本領となっていたのでした。
そこを忠徳は見逃さなかった・・・
早速、その年の暮れ、幕府の了解を得て小笠原諸島に乗りこんだ忠徳チームは、現地を探検して測量・・・すでに住んでいた島民たちには、ここが日本領である事、また、彼らを日本国が保護する事などの約束を取り付けて、
「ここは、古くは文禄二年に小笠原貞頼(おがさわらさだより)なる人物が島に渡って島内を統治し、「小笠原島」という名前を賜ったものの、波荒く、行き来が難しい事から、いつしか通う人もいなくなっていたところを、享保十三年にその貞頼の子孫を名乗る宮内貞任(さだとう=小笠原貞任)が渡航と領有を江戸幕府に願い出るものの、やはり風波荒き中、往来ができずにいたけれど、今回は心機一転、忠徳チームによってしっかりと統治する事を、永久に記録すべく、ここに碑を建立します」
てな内容(だいぶはしょってます)の石碑を建立したのです。
そう、実効支配・・・その後、時の老中=安藤信正(あんどうのぶまさ)(1月15日参照>>)の名のもと、諸外国に書簡で以って、事を報告し、それを認めさせた事で、小笠原諸島は日本の領土という事が確定したのです。
そんな忠徳さん・・・幕府官僚の中でもいち早く、鎖国継続の不可能&攘夷の不可能を悟った人物だと言われていますが、それ故か、当時、進められていた公武合体(朝廷と幕府が協力)(8月26日参照>>)に強く反対したため、文久二年(1862年)に箱館奉行に左遷されてしまい、しかもわずか2ヶ月でそれも辞任・・・さらに、翌文久三年(1863年)の小笠原長行(おがさわらながみち)のクーデター(1月25日参照>>)に同調し、結果的に失敗に終わった事で謹慎処分となってしまいました。
それでも屈しない忠徳・・・慶応四年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦いの敗北(1月9日参照>>)の後、江戸城内での会議(1月23日参照>>)にて、新政府軍との徹底交戦を主張するも、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が恭順姿勢を取る事を決意した(1月17日参照>>)事から、失意のうちに隠居して、武蔵布田宿(ふだしゅく)に移住ます。
しかし、それから間もなく、忠徳は病に倒れてしまうのです。
『偉人豪傑言行録』によれば、
もはや、手の施しようも無いほどになった夜・・・それまで横たえていた身体が、にわかにムクッと起きあがり
「今すぐ、礼服の準備をせい!
俺が君命をたずさえて、諸国に伝えに行かなアカンのや!」
と叫んだ後、亡くなったと・・・
それは慶応四年(1868年)7月9日、まさに、戊辰戦争が北へ北へとと延びていた頃・・・元号が明治と変わる2ヶ月前の事でした。
屏風の後ろから幕府を支え続け、最後まで徹底交戦を訴えた忠徳には、「生きるも死ぬも幕府とともに…」という思いがあった事でしょう。
そういう意味では、まさに幕府とともに・・・幕府の終焉とともに幕を下ろした彼の人生ではありましたが、おそらく、その気持ちは、未だ決戦の真っただ中だったに違いありません。
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コメント
茶々さん、こんばんは。
小笠原に関してですが、ペリーも日本領と思っていたそうです。今日のBSプレミアでCWニコルさんが出演した番組で歴史家やニコルさんが言っていました。
それに小笠原の欧米系住民も日本の土地と思っていました。
だから幕府の役人が来た時にすぐに受け入れたそうです。
でも考えてみますと小笠原は離れ島です。なかなかどこの国かはよく分からないでしょう。
でも今更アメリカと言う事は無理です。日本が守っていかないと駄目です。
でも捕鯨で有名だった日本近海を荒らしていた欧米が今は日本の捕鯨を文句を言うとは時代が変化したとはいえ厚かましいと思います。
投稿: non | 2015年7月 9日 (木) 17時05分
nonさん、こんにちは~
もちろん、諸外国も日本領という認識はあったと思いますよ。
ただ、一方で「スキあらば…」と思っていた事も確かだと思います。
でないと、名前をつけて母国に紹介したり、自国民を移住させたりしませんから…
ペリーも、琉球を狙ってたみたいですし…
ただ、そこをキッパリと、日本側が宣言したので、あえて波風立てないように…という事のような気がします。
確か欧米は鯨の油だけを捕って、あとは捨ててたんですよね。
日本人は、神代の昔から、すべてを無駄なく、ありがたく、いただいていたように思います…海の恵みに感謝しつつ…
文化の違いを理解するのは、なかなかに難しいです。
投稿: 茶々 | 2015年7月 9日 (木) 18時39分
こんばんは、茶々さん。
ペリーは琉球制服を考えていました。実際に幕末まで沖縄、小笠原は地位が不安定でした。
どちらかと言いますと樺太、千島の方が日本領と言うのはアイヌの人たちの働きや幕府、松前藩の頑張りが大きいのでそうなっていたと思います。
実際に川路聖あきらはロシアに譲らずに樺太を日本領として保持しました。
それを考えますと明治維新よりも幕府側の方が諸外国から見ましたら手ごわい相手だと思います。
小笠原も水野のお蔭で保持しました。それを考えますともっと幕府を持ち上げてよいと思います。
本当に捕鯨と言いますが、日本人はきちんと古事記に書かれてあるように神に感謝していました。それを残酷だと何とか言います。最近の風潮は小笠原に住んでいた欧米系の人よりも遥かに劣る行為だと思います。欧米系の人は日本への郷土愛は強い方が多いです。外国籍でも小笠原を愛しています。それは日本が故郷だと分かっています。それにしても捕鯨が大事なのを理解していない人間が多いのが残念です。70年代の朝ドラの風見鶏でも捕鯨に関することが出ていました。
投稿: non | 2015年7月10日 (金) 01時52分
nonさん、こんばんは~
生きて行く以上、食べねばならないわけで…「命をいただくのだ」という事を心に、感謝しながら、おいしく完食するのが1番良いのではないか?と思います。
投稿: 茶々 | 2015年7月11日 (土) 01時10分
おはようございます、茶々さん。
命を大切にしていないと捕鯨はしませんし、鯨や海豚の供養塔があるのも日本ぐらいです。
菜食主義だって植物を食っていますし、卵は生き物ですが、それを食べても平気なのはおかしいです。
江戸時代の方が本当に生き物を大事にしました。
樺太、千島を守った幕府は凄いと思いますし、小笠原も守ったのは幕府の統治能力の高さを感じます。
投稿: non | 2015年7月11日 (土) 10時03分
nonさん、こんにちは~
ペリーをはじめ、幕末に日本を訪れた外国人は一様に、一般庶民の識字率の高さ、民度の高さ、笑顔の多さに驚いていますね。
そりゃぁ、封建的で今よりは自由は無かったでしょうが、想像しているほど不幸では無かったような気がします。
投稿: 茶々 | 2015年7月11日 (土) 15時52分
茶々さんですか、水野忠徳公の詳しくわかりやすいお話読ませていただきました。
実は、この7月8日に、公の領主をしていた鉾田市阿玉の大儀寺で、150年法要が行われます。
私も参列させていただきます。
墓があり、また、茶々さん引用されている写真もそこに収蔵されております。
地元で、こんな偉大な人がいたとは、最近知り驚きました。
投稿: 持丸節男 | 2018年6月27日 (水) 23時44分
持丸節男さん、こんばんは~
そうですか。。。
地元で法要が行われるのですね。
あまりに身近だと、かえって気付かない場合も多々ありますが、一旦気づくと地元故に、すごく身近に感じて大好きな歴史人物になる事ありますよね。
投稿: 茶々 | 2018年6月28日 (木) 03時55分