江戸城無血開城に尽力した「江戸幕府の三本柱」…大久保一翁
明治二十一年(1888年)7月31日、幕末維新の時代に政治家として活躍し、「江戸幕府の三本柱」の一人と称される大久保一翁がこの世を去りました。
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文化十四年(1817年)、旗本の大久保家に生まれた大久保一翁(おおくぼいちおう)・・・本名は大久保忠寛(ただひろ)さんですが、本日は、有名な方の一翁さん(隠居&剃髪後の名)で呼ばせていただきます。
・・・と、この一翁さんの大久保家は・・・そう、あの徳川家康(とくがわいえやす)の三河時代からの譜代の家臣である、あの大久保の一門・・・
そんな中、それまでの通例通り、小姓に始まって、あれやこれやの役職をこなし、旗本としては最高の大目付にまで出世する一翁ですが、その先・・・本来なら大名の息子がなるべき若年寄まで出世するのは、やはり彼の実力と、そんな一翁の力を見出した阿部正弘(あべまさひろ)(6月17日参照>>)の先見の明・・・
そう、この先の歴史の流れを見て行くと、まさに、一翁が、いち早く描いていた流れの通りに進んで行くのです・・・つまり、一翁自身も、先を見る目を持っていたという事です。
そんな一翁が、その才能を見出して大抜擢したのが、あの勝海舟(かつかいしゅう)ですが、その海舟の話によると、一翁は幕府が倒れる12年前・・・と言いますから安政三年(1856年)頃でしょうか?
自宅を新築した際に、その海舟に対して
「この屋敷が完成するより、幕府が倒れる方が早いんちゃうかな」
と、冗談まじりに言っていたとか・・・
安政三年(1856年)と言えば、後に初代アメリカ駐日総領事となるハリス(7月21日参照>>)が下田に初めてやって来た年ですやんか!!(゚ロ゚屮)屮早っ
実は、一翁さんは、幕府内でいち早く、あの大政奉還の青写真を描いていた人なんです。
「朝廷から任されている尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を大事に外国を排除)を実行できずにいて、天皇からの信頼が得られないのであれば、将軍職を返上して旧領の三河・遠江・駿河を領する一大名となったらええねん。
ほんで、全国の大名で作る議会によって国を運営すんねん」
と・・・
未だ初期の段階では、この一翁の案は一蹴され、幕府内部からは冷笑されたと言いますが、ご存じの通り、結果的には幕府の最終手段は大政奉還となっていきます。
なので、そんな一翁さんは、反対派を力で抑えて弾圧する井伊直弼(いいなおすけ)の安政の大獄(2012年10月7日参照>>)にも大反対しており、おかげで、免職されて、しばらくの間失脚する事になりますが、この間にも
「内輪モメしてる間、外国への防御対策がストップすんのが残念」
と漏らしていたとか・・・
やがて、ご存じの桜田門外の変(3月3日参照>>)で井伊直弼が倒れた後に復帰・・・再び幕政に参加する事になった一翁は、その後、外国奉行などの要職を歴任しますが、この間にも先ほどの「将軍職を返上して…」の意見を度々プッシュした事から、その都度、上司から怒られ、職務を罷免されちゃぁ、また、別の要職に任命されをくりかえす中で、そんな状況にイヤ気がさしたのか?49歳で早々と隠居して、実際には、ここから一翁を名乗ります。
そして慶応二年(1866年)6月には、あの第2次長州征伐=四境戦争(6月8日参照>>)も開始されますが、これまでの様子でお察しの通り、この戦いに対しても一翁は
「無意味な戦いはやめなはれ」
と言っていたとか・・・
結局、この第2次長州征伐での幕府の手こずりぶり(7月27日参照>>)が幕末の動乱に拍車をかけ、翌年10月の大政奉還(たいせいほうかん)(10月14日参照>>)へとつながるのは、皆様ご承知の通り・・・ここで、ようやく一翁が描いていた青写真と重なりました。
しかし、その裏で「討幕の密勅(みっちょく)」(10月13日参照>>)が薩長に下され、もはや事は、大政を奉還しただけでは済まされない状況となっていたわけで、12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)、さらに薩摩藩邸焼き討ち事件(12月25日参照>>)をキッカケにした薩摩討伐を訴える幕府の隊列を、薩長が阻止しようとして慶応四年(明治元年・1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)が勃発します。
(厳密には、その前日に海戦が勃発してます…1月2日参照>>)
この鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗(にしきのみはた)を掲げてイケイケムードの薩長に押され気味だった幕府軍(1月5日参照>>)を察してか?幕府側の総大将であった第15代江戸幕府将軍=徳川慶喜(とくがわよしのぶ=厳密には大政奉還してるので、もう将軍ではありませんが…)が、掟破りの敵前逃亡・・・1月6日に、わずかな側近だjけを連れて本陣である大坂城を捨てて江戸へと戻ってしまったのです(1月6日参照>>)。
その後、1月9日には大坂城が開城(1月9日参照>>)となって一旦終結した鳥羽伏見の戦いは、ここからは戊辰戦争と名を変え、薩長軍は江戸城を目指して東へと進む事になります。
ここで、抗戦ではなく恭順姿勢を貫く事を決意した慶喜(1月23日参照>>)の意を受けて、徳川家の存続に奔走するのが一翁たちです。
冒頭に「江戸幕府の三本柱」と書かせていただきましたが、その3本=3人は江戸無血開城に尽力した3人で、有名な西郷隆盛(さいごうたかもり)との会見を行って江戸城総攻撃を中止させた勝海舟(3月14日参照>>)、その会見のダンドリを組んだ山岡鉄舟(やまおかてっしゅう=鉄太郎)(2007年4月11日参照>>)、そして、江戸城内にて、未だ徹底交戦を訴える幕府の者たちの説得当たった一翁・・・この3人なのです。
さらに一翁は、この時、未だ江戸城内にいた第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の奥さんである和宮(かずのみや・静寛院宮=孝明天皇の妹)(1月17日参照>>)と第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の奥さんである天璋院・篤姫(てんしょういんあつひめ=薩摩からお嫁に…)(2008年4月11日参照>>)の身の安全にも心を配ると同時に、イギリス公使のパークスの説得も行っています。
上記の西郷と勝の会見のページにも、書かせていただきましたが、この話し合いで、西郷が江戸総攻撃を中止した要因の一つとして、パークスをはじめとする欧米列強が「総攻撃を決行した場合は薩長に協力しない」との姿勢をとっていた事が挙げられますが、それを説得したのが一翁だったわけです。
こうして、江戸城無血開城が成された後、残るは徳川家の存続ですが・・・開城から1ヶ月半後の5月24日、大総督府により、わずか6歳の徳川家達(いえさと)に駿河70万石が与えられ、徳川家の存続が決定したのです(5月24日参照>>)。
わずか6歳の駿河藩主・・・当然、未だ政務はこなせませんから、一翁が徳川家始末担当として補佐する事になりました。
維新後の版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)の時には静岡藩権大参事、明治四年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)では静岡県参事に就任し、翌年には東京へと呼ばれて文部省二等から東京府知事まで・・・一翁は、様々な役職で様々な政務をこなし、新政府の議会政治の立ち上げにも尽力しました。
明治二十一年(1888年)7月31日、大久保一翁は、病にて72歳の生涯を閉じますが、その直前、彼のお屋敷に勅使(ちょくし=天皇の使者)が訪れ、子爵従二位を授かった後、間もなく息を引き取ったと言います。
子爵(ししゃく)とは、華族制度の中の公爵(こうしゃく)とか男爵(だんしゃく)とかのアレですが、この位を授かるのは、武家の場合は、ほとんどが大名=元藩主・・・そんな中で、徳川家の家臣であった一翁が授かったのは、まさに、大久保家の出世頭と言える功績で、いかに、皇室からも信頼されていたかがうかがえますね。
幕末維新の動乱の時代を生き抜くには、時には、ズル賢く、要領よく波に乗らなくてはいけないかも知れません・・・なので、ドラマや小説の世界では、志半ばで散って逝く人とか滅びの美学やらにスポットが当たる事が多いです。
しかし、絶妙な駆け引きで生き残った人の中でも、一翁さんに悪い印象を持つ人は少ないでしょう・・・それは、やはり、彼の思いが私利私欲ではなく、「徳川家の存続」ただ一つであった事にあるのかも知れません。
三河の時代から、主君を守り続けてきた大久保家・・・その最後の最後を締めくくったのが一翁だったのです。
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