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2015年7月31日 (金)

江戸城無血開城に尽力した「江戸幕府の三本柱」…大久保一翁

 

明治二十一年(1888年)7月31日、幕末維新の時代に政治家として活躍し、「江戸幕府の三本柱」の一人と称される大久保一翁がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

文化十四年(1817年)、旗本の大久保家に生まれた大久保一翁(おおくぼいちおう)・・・本名は大久保忠寛(ただひろ)さんですが、本日は、有名な方の一翁さん(隠居&剃髪後の名)で呼ばせていただきます。

Ookuboichio600a ・・・と、この一翁さんの大久保家は・・・そう、あの徳川家康(とくがわいえやす)三河時代からの譜代の家臣である、あの大久保の一門・・・

そんな中、それまでの通例通り、小姓に始まって、あれやこれやの役職をこなし、旗本としては最高の大目付にまで出世する一翁ですが、その先・・・本来なら大名の息子がなるべき若年寄まで出世するのは、やはり彼の実力と、そんな一翁の力を見出した阿部正弘(あべまさひろ)(6月17日参照>>)の先見の明・・・

そう、この先の歴史の流れを見て行くと、まさに、一翁が、いち早く描いていた流れの通りに進んで行くのです・・・つまり、一翁自身も、先を見る目を持っていたという事です。

そんな一翁が、その才能を見出して大抜擢したのが、あの勝海舟(かつかいしゅう)ですが、その海舟の話によると、一翁は幕府が倒れる12年前・・・と言いますから安政三年(1856年)頃でしょうか?
自宅を新築した際に、その海舟に対して
「この屋敷が完成するより、幕府が倒れる方が早いんちゃうかな」
と、冗談まじりに言っていたとか・・・

安政三年(1856年)と言えば、後に初代アメリカ駐日総領事となるハリス(7月21日参照>>)下田に初めてやって来た年ですやんか!!(゚ロ゚屮)屮早っ

実は、一翁さんは、幕府内でいち早く、あの大政奉還の青写真を描いていた人なんです。

「朝廷から任されている尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を大事に外国を排除)を実行できずにいて、天皇からの信頼が得られないのであれば、将軍職を返上して旧領の三河・遠江・駿河を領する一大名となったらええねん。
ほんで、全国の大名で作る議会によって国を運営すんねん」

と・・・

未だ初期の段階では、この一翁の案は一蹴され、幕府内部からは冷笑されたと言いますが、ご存じの通り、結果的には幕府の最終手段は大政奉還となっていきます。

なので、そんな一翁さんは、反対派を力で抑えて弾圧する井伊直弼(いいなおすけ)安政の大獄(2012年10月7日参照>>)にも大反対しており、おかげで、免職されて、しばらくの間失脚する事になりますが、この間にも
「内輪モメしてる間、外国への防御対策がストップすんのが残念」
と漏らしていたとか・・・

やがて、ご存じの桜田門外の変(3月3日参照>>)で井伊直弼が倒れた後に復帰・・・再び幕政に参加する事になった一翁は、その後、外国奉行などの要職を歴任しますが、この間にも先ほどの「将軍職を返上して…」の意見を度々プッシュした事から、その都度、上司から怒られ、職務を罷免されちゃぁ、また、別の要職に任命されをくりかえす中で、そんな状況にイヤ気がさしたのか?49歳で早々と隠居して、実際には、ここから一翁を名乗ります。

そして慶応二年(1866年)6月には、あの第2次長州征伐=四境戦争(6月8日参照>>)も開始されますが、これまでの様子でお察しの通り、この戦いに対しても一翁は
「無意味な戦いはやめなはれ」
と言っていたとか・・・

結局、この第2次長州征伐での幕府の手こずりぶり(7月27日参照>>)が幕末の動乱に拍車をかけ、翌年10月の大政奉還(たいせいほうかん)(10月14日参照>>)へとつながるのは、皆様ご承知の通り・・・ここで、ようやく一翁が描いていた青写真と重なりました。

しかし、その裏で「討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)が薩長に下され、もはや事は、大政を奉還しただけでは済まされない状況となっていたわけで、12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)、さらに薩摩藩邸焼き討ち事件(12月25日参照>>)をキッカケにした薩摩討伐を訴える幕府の隊列を、薩長が阻止しようとして慶応四年(明治元年・1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)が勃発します。
(厳密には、その前日に海戦が勃発してます…1月2日参照>>

この鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗(にしきのみはた)を掲げてイケイケムードの薩長に押され気味だった幕府軍(1月5日参照>>)を察してか?幕府側の総大将であった第15代江戸幕府将軍=徳川慶喜(とくがわよしのぶ=厳密には大政奉還してるので、もう将軍ではありませんが…)が、掟破りの敵前逃亡・・・1月6日に、わずかな側近だjけを連れて本陣である大坂城を捨てて江戸へと戻ってしまったのです(1月6日参照>>)

その後、1月9日には大坂城が開城(1月9日参照>>)となって一旦終結した鳥羽伏見の戦いは、ここからは戊辰戦争と名を変え、薩長軍は江戸城を目指して東へと進む事になります。

ここで、抗戦ではなく恭順姿勢を貫く事を決意した慶喜(1月23日参照>>)の意を受けて、徳川家の存続に奔走するのが一翁たちです。

冒頭に「江戸幕府の三本柱」と書かせていただきましたが、その3本=3人は江戸無血開城に尽力した3人で、有名な西郷隆盛(さいごうたかもり)との会見を行って江戸城総攻撃を中止させた勝海舟(3月14日参照>>)、その会見のダンドリを組んだ山岡鉄舟(やまおかてっしゅう=鉄太郎)(2007年4月11日参照>>)、そして、江戸城内にて、未だ徹底交戦を訴える幕府の者たちの説得当たった一翁・・・この3人なのです。

さらに一翁は、この時、未だ江戸城内にいた第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の奥さんである和宮(かずのみや・静寛院宮=孝明天皇の妹)(1月17日参照>>)と第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の奥さんである天璋院・篤姫(てんしょういんあつひめ=薩摩からお嫁に…)(2008年4月11日参照>>)身の安全にも心を配ると同時に、イギリス公使パークスの説得も行っています。

上記の西郷と勝の会見のページにも、書かせていただきましたが、この話し合いで、西郷が江戸総攻撃を中止した要因の一つとして、パークスをはじめとする欧米列強が「総攻撃を決行した場合は薩長に協力しない」との姿勢をとっていた事が挙げられますが、それを説得したのが一翁だったわけです。

こうして、江戸城無血開城が成された後、残るは徳川家の存続ですが・・・開城から1ヶ月半後の5月24日、大総督府により、わずか6歳の徳川家達(いえさと)駿河70万石が与えられ、徳川家の存続が決定したのです(5月24日参照>>)

わずか6歳の駿河藩主・・・当然、未だ政務はこなせませんから、一翁が徳川家始末担当として補佐する事になりました。

維新後の版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)の時には静岡藩権大参事、明治四年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)では静岡県参事に就任し、翌年には東京へと呼ばれて文部省二等から東京府知事まで・・・一翁は、様々な役職で様々な政務をこなし、新政府の議会政治の立ち上げにも尽力しました。

明治二十一年(1888年)7月31日大久保一翁は、病にて72歳の生涯を閉じますが、その直前、彼のお屋敷に勅使(ちょくし=天皇の使者)が訪れ、子爵従二位を授かった後、間もなく息を引き取ったと言います。

子爵(ししゃく)とは、華族制度の中の公爵(こうしゃく)とか男爵(だんしゃく)とかのアレですが、この位を授かるのは、武家の場合は、ほとんどが大名=元藩主・・・そんな中で、徳川家の家臣であった一翁が授かったのは、まさに、大久保家の出世頭と言える功績で、いかに、皇室からも信頼されていたかがうかがえますね。

幕末維新の動乱の時代を生き抜くには、時には、ズル賢く、要領よく波に乗らなくてはいけないかも知れません・・・なので、ドラマや小説の世界では、志半ばで散って逝く人とか滅びの美学やらにスポットが当たる事が多いです。

しかし、絶妙な駆け引きで生き残った人の中でも、一翁さんに悪い印象を持つ人は少ないでしょう・・・それは、やはり、彼の思いが私利私欲ではなく、「徳川家の存続」ただ一つであった事にあるのかも知れません。

三河の時代から、主君を守り続けてきた大久保家・・・その最後の最後を締めくくったのが一翁だったのです。
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2015年7月25日 (土)

伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原

 

慶長五年(1600年)7月25日、天下分け目の関ヶ原で、東軍参戦の伊達政宗の攻撃を受けていた上杉方の白石城が開城しました。

・・・・・・・・・・・・

慶長三年(1598年)8月、諸大名には秀頼への忠誠を誓う誓詞を要求(7月15日参照>>)、皆の前で、しっかりとした遺言(8月9日参照>>)残して、伏見城にて62歳の生涯を閉じた豊臣秀吉(とよとみひでよし)・・・しかし、秀吉の後を継ぐべく息子=秀頼(ひでより)未だ6歳の幼子でした。

その遺言通り、秀頼は母=淀殿とともに大坂城へと入り、五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)は政務を補佐すべく伏見城に留まりましたが、案の定、すぐに始まる家康の約束破り・・・

Datemasamune600a ご存じのように戦国時代の結婚は、両者の同盟の証でもありますから、秀吉は、大名同士の結婚を許可なくする事を禁じていたのですが・・・にも関わらず、まもなく、家康の六男・松平忠輝(まつだいらただてる)伊達政宗(だてまさむね)の長女・五郎八(いろは)が勝手に婚約・・・

この約束破りに同じく五大老の一人の前田利家(まえだとしいえ)が激怒すると、当然の事ながら、豊臣政権内は徳川派と前田派に分かれ、一触即発のムードになりますが、そんな利家が翌・慶長四年(1599年)に秀吉の後を追うように亡くなると、家臣団の亀裂が表面化(3月4日参照>>)・・・この時は、何とか、石田三成(いしだみつなり)蟄居(ちっきょ=謹慎処分)を以って事を収めましたが・・・

Uesugikagekatu600a そんな中、家康は、再三の上洛要請に応じない会津(あいづ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」として、慶長五年(1600年)6月6日、諸大名を大坂城西の丸に集めて、会津征伐を決行する事を発表したのです。
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この先の歴史を知ってる私たちから見れば、かの家臣団の亀裂をうまく利用して、三成側に挙兵させるべく時を待っていたとおぼしき家康ですが、上記の通り、この段階では、あくまで豊臣家臣団の筆頭として、会津の上杉征伐を行う家康・・・

この日の軍義では
家康が息子=秀忠(ひでただ)とともに白河口から…
佐竹義宣(よしのぶ)仙道口から…
最上義光(もがみよしあき)米沢口から…
前田利長(としなが)掘秀治(ほりひではる)津川口から…
そして、
本日の主役=伊達政宗は信夫から…
と、この五つのルートからの侵入が決定され、東北勢(佐竹・最上・伊達)らは6月14日に大坂城を出立し、国許で出兵準備に取り掛かります。

Sekigaharadatesiraisicc
 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

翌・6月15日には、家康のいる西の丸に秀頼が訪れ、軍資金と兵糧を与えていますので、やはり、あくまでも、この出兵は豊臣家のための出兵だったわけですから、多くの者が家康に従軍する事となります。

その後、6月18日に家臣の鳥居元忠(もとただ)に伏見城の留守を任せた(8月1日参照>>)家康は、一旦江戸城へと入って準備を整えた後、7月21日に会津へ向けて出陣したのです。

一方、娘の婚約発表の時点でバリバリの家康派の匂いプンプンの伊達政宗は、一足先に帰国した後、居城の岩出山城いわでやまじょう=宮城県大崎市)には戻らず、上杉の領地に1番近い北目城(きためじょう=宮城県仙台市)に入り、準備を整えました。

もちろん、それは上記の通り、家康から
「信夫口を頼むでよ」
と任されていたからではありますが、実は、今回の政宗・・・その意気込みがハンパ無い!

なんせ、現在上杉が治めている会津は、もともと政宗の領地だったのが、小田原参陣に出遅れ(6月5日参照>>)葛西大崎一揆への関与を疑われ(2月4日参照>>)たために大幅減封となってしまい、その時に蒲生氏郷(うじさと)の物となった会津は、その氏郷亡き後も上杉の物となっていたわけで・・・

もちろん、それは会津だけではなく刈田(かった=宮城県刈田郡)信夫(しのぶ=福島県福島市)なども・・・そう、政宗としては、この機会にちょっとでも多くの所領を回復したいわけですね。

そんな中、上杉の執政である愛の兜の直江兼続(かねつぐ)が、混乱を招くべく越後一揆を扇動(7月22日参照>>)した7月22日、北目城を出陣した政宗は、まずは24日に、家臣の桜田元親(さくらだもとちか)に上杉方の河股城(かわまたじょう=福島県伊達郡 )を攻撃させます。

・・・が、実は、これは、上杉の注意を河股城に向けさせるための囮(おとり)作戦で、本当の狙いは、その北に位置する白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)・・・

河股城への攻撃の真っ最中の24日に、政宗自らが率いる本隊が白石城を囲み、その日のうちに石川昭光(いしかわあきみつ)片倉景綱(かたくらかげつな)が、白石城下を焼き払い、三の丸の攻撃を仕掛けて白石城を裸城にしたのです。

この時の白石城は、上杉景勝から白河口の守りを任されていた甘糟景継(あまかすかげつぐ)が、甥っ子の登坂勝乃(とさかかつのり)に1000ほどの城兵をつけて防備させていただけで、未だ大軍を迎え撃つ準備などは、まったくしていなかったのです。

そのため、伊達勢の猛攻撃に、またたく間に本丸のみとなってしまった白石城は、翌・慶長五年(1600年)7月25日降伏のうえ開城となったのでした。

こうして白石城を攻略した政宗は、今後は、ここ白石城を拠点に、上杉領内深くへと攻め込むつもりでしました。

ところがドッコイ!
この白石城が陥落したまさにその日、かの家康が大いなる作戦変更・・・そう、あの「小山評定(おやまひょうじょう)(2012年7月25日参照>>)です。

前日の夕刻、留守を任せた鳥居元忠が放った早馬によって伏見城への攻撃を知った家康(7月24日参照>>)が、急きょ、会津征伐を中止し、Uターンして畿内に戻る事を、従軍している諸将に発表したのです。

当然ですが、中止になった以上、去る6月6日の軍義で決まった作戦も白紙・・・むしろ、戻る家康としては、東北で勝手な軍事行動を起こされた方が困るわけで・・・

家康から、攻撃を制御するよう要請された政は、やむなく、奪い取った白石城を石川昭光に任せ、自らは北目城に戻りますが、

家康が戻っちゃって強い後ろ盾を失うわ、その家康から「ちょっと大人しくしといてね」と言われちゃうわで、思う存分暴れられなくなった政宗は、結局、奪ったばかりの白石城を返還して、上杉とは一時休戦・・・

ただ、戻る家康も、自身の背後を上杉側から突かれては大変・・・なので、政宗クンには、今後も上杉をけん制しといてもらわんと・・・

てな事で、8月12日には秀忠による協力要請を、8月22日には家康による「勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束するよん」の覚書=世に言う「百万石のお墨付き」を政宗に与える事になるのですが、そのお話は2009年8月12日の後半部分で>>(←今回と内容がかなりかぶってますが(*_ _)人ゴメンナサイ )

一方、家康のUターンで強気になった上杉は、家康の背後を突くのではなく、隣国の最上義光(もがみよしあき)の領地へ侵攻・・・(9月9日参照>>)

そして、あの関ヶ原で天下分け目の大合戦が行われた、まさにその日の慶長五年(1600年)9月15日、ここ東北でも長谷堂の戦い(9月16日参照>>)が勃発する事となります。

【関ヶ原の合戦の年表】も参照>>
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2015年7月17日 (金)

関ヶ原に花と散る~細川ガラシャ=明智玉の壮絶最期

 

慶長五年(1600年)7月17日、大坂城に入る事を拒んだ細川忠興の妻=ガラシャが昇天しました。

・・・・・・・・・・

本能寺の変関ヶ原の戦い・・・細川ガラシャことお玉(たま=玉子)は、戦国屈指のこの二つの出来事に翻弄された女性です。

Dscn1467ab600 永禄六年(1563年)、明智光秀(あけちみつひで)三女(四女説あり)として生まれた玉が、細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)の息子=細川忠興(ただおき)のもとに嫁いだのは天正六年(1578年)・・・彼女が16歳の時でした。

光秀&藤孝がともに主君と仰ぐ織田信長(おだのぶなが)の命による政略結婚ではありましたが、お相手の忠興も玉と同い年の16歳ですし、何より、この時の明智家&細川家の結びつきの大切さったら・・・

なんせ、ご存じのように、先代将軍の足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)された時、奈良の興福寺に幽閉されていた義輝の弟=足利義昭(よしあき=当時は覚慶)を救い出して、越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)のもとへと連れて行ったのが藤孝で、その義昭と信長を結びつけたのが光秀・・・(10月4日参照>>)

そのおかげで永禄十一年(1568年)に、信長は義昭を奉じて上洛(9月7日参照>>)・・・信長の畿内制圧&第15代将軍・足利義昭の誕生(10月18日参照>>)となるので、まさに二人は将軍擁立の立役者なわけで・・・

そんな両家が結ばれるという事は、結婚する当人たちにとっても良縁だったのです。

祝言こそ、こじんまりした質素な物だったようではありますが、結婚の翌年には長女が誕生し、そのまた翌年には長男が誕生し・・・と、最初の4年間は才色兼備を絵に描いたような美人でステキな奥さんに、忠興もメロメロで、新婚さんは幸せな日々を過ごしました。

この間、藤孝が丹後12万石を与えられたので、家族皆で宮津(みやづ=宮津市)にお引越しをしています。

ところが、ご存じ天正十年(1582年)・・・父の光秀が、あの本能寺の変を起こします。

この時、光秀は、当然、細川家にも協力を要請するのですが、藤孝&忠興父子の答えはNo!(6月9日参照>>)

その証として、父子は(もとどり)を切って(頭を丸めて)主君の喪に服し、主君の仇を父に持つという理由で玉を離縁として味土野(みどの=京都府京丹後市)の山里に幽閉したのです。

明智家時代からの女房衆とわずかな側近のみで幽閉状態となった玉は、
「腹黒なる御心ゆえに自らも忠興に捨てられ…」
と恨みムンムンの手紙を父=光秀に宛てて書いたとも言われますが、そうこうしている間に光秀は山崎の合戦(6月13日参照>>)で敗退し、居城へ戻る途中の山科小栗栖(おぐるす)にて死亡・・・

変の2日後には坂本城も落ちて、玉の母や姉、その姉の夫で重臣の明智秀満(あけちひでみつ)など、明智家の人々は、ことごとく城と運命をともにしたのです。(6月15日参照>>)

それから約2年間・・・玉の幽閉生活が終わりを迎えるのは天正十二年(1584年)の事・・・

かの山崎の合戦で主君の仇を討った事で、織田政権内での地位を上げた(6月27日参照>>)豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が、さらに賤ヶ岳の戦い(4月21日参照>>)にも勝利し、続く小牧長久手の戦い(11月16日参照>>)をおっぱじめて、まさに信長亡き後の政権を掴みはじめたのが、この天正十二年でした。

そんな秀吉快進撃の一翼を担ったのが忠興だったわけで、その功績によって秀吉が忠興と玉の復縁を認め、玉は再び忠興の妻として、大坂の細川邸(大阪市中央区森ノ宮中央付近)に移ったのです。

「あぁ、やっと幽閉から解放されるぅ~」
と思いきや、待っていたのは、モラハラ忠興による、幽閉以上に厳しい監禁生活だったのです。

宣教師のルイス・フロイスの書いた『日本史』によると・・・
忠興は、玉を監視する者=2名を雇い、朝から晩まで、屋敷に出入りする者を、その日時までチェックさせて細かく報告させるばかりか、ごく親しい者しか玉への伝言は許さず、また、その伝言も、必ず内容を監視役にチェックさせ、その検閲が通った内容しか、玉には伝えられなかったのだとか・・・

この頃のモラハラっぷりな逸話として有名なのは、
庭の手入れだか何だかをしていた小者が、そばを通った玉の美しさに見とれて一瞬フリーズ・・・それを見た忠興が激怒して、その場でその者を斬り捨て、刀にこびりついた血を玉の小袖で拭き取ったところ、玉は驚くどころか、平気な顔をして、その血のついた小袖を2日も3日も着続けていたので、忠興が
「お前はヘビか!」
と言ったところ
「鬼の嫁にはヘビがお似合いですやろ?」
と答えたとか・・・

また、ある時、食事に髪の毛が入っていたのを見つけた玉が、そっと隠すように取り除いたところ、忠興が
「お前は、ヘタこいた料理人をかばうんか?」
とこれまた激怒し、料理人を呼んで手討ちにし、その首を食事中の玉の膝の上に乗せますが、彼女は顔色一つ変えずに座り続けていたとか・・・

・・・と、どこまで信用できるかは謎な逸話ではありますが、実際に、気に入らなくて手討ちにした家臣を数えてみたら36人いたので、36人=三十六歌仙にちなんで『歌仙』と名付けたとされる忠興本人の愛刀が現実に残っていたりするので、やっぱり短気でハラスメント満載な人だった可能性大ですね。

結局、この事から、玉は心を病んでしまう・・・そう、鬱になってしまうんですね。

しかし、そんな彼女の心を救ってくれたのがキリスト教でした。

上記の通り、厳しい監視下に置かれていたため、彼女が実際に教会に足を運んだのは、ただ1度きりだったようですが、フロイスの『日本史』によると、その時に対応した高井コスメ修道士必死のパッチで返答せねばならないような高い知識のスルドイ質問&反論を浴びせかけたらしい・・・

その日の問答でキリスト教を理解した玉は、先に入信した侍女のいと(洗礼名=マリア)から洗礼を受け、ガラシャという名のもとにキリスト教徒となります。

しかし、それと前後してキリスト教徒には厳しい時代が・・・そう、天正十五年(1587年)、島津を討つべく(4月17日参照>>)九州に乗りこんだ秀吉が、まるで異国に乗っ取られたかのような九州の現状と、そこに見える外国の思惑を垣間見て、あの2日連続のキリシタン禁止令を発布するのです。
【天正十五年六月十八日付覚】>>
天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)>>

そんな中、九州での合戦を終えて大阪の自宅に戻った忠興が見た物は・・・嫁から侍女から家臣から、嫁に近しい者順に、多くの者がキリスト教徒になってしまっている現実・・・

「ワシの留守中に何やっとんじゃぁ!」
と激怒する忠興でしたが、何と言っても驚いたのは玉の変わりようでした。

あの心の病はすっかり消え、元気ハツラツ!ファイト1発!で健康バリバリの生き生きとした生活を送る玉・・・結局、この先の10何年かの夫婦は、むしろ、波風立たぬ穏やかな日々を過ごす事となります。

やがて訪れる慶長五年(1600年)・・・

秀吉亡き後の豊臣政権内での主導権争いで、西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)を担いだ石田三成(いしだみつなり)西軍と、五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)東軍による天下分け目の関ヶ原の戦いです。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

この時、夫の忠興は、会津征伐に向かう家康に従って北上中・・・実は、この家康の留守を狙って伏見城を三成が攻撃したのが、関ヶ原の1発目の戦いなんです(8月1日参照>>)

・・・で、この伏見城攻防戦と同時進行で行われたのが、三成による諸大名の妻子の囲い込み・・・大坂城周辺に屋敷を持つ大名たちの妻子を大坂城に登城させ、言わば質として確保し、諸大名が西軍に味方するようにし向けたわけです。

当時、侍女をしていた(しも)という女性が後に書いた『霜女覚書(しもじょおぼえがき)によると・・・
慶長五年(1600年)7月13日、この噂を耳にした玉は、夫=忠興が、以前から、三成と対立する立場にあった事から、まずは、忠興の妻である自分が人質に取られるであろう事を予感して準備していたと言います。

案の定、まもなく親交のあった尼僧を通じて、大坂城への登城を打診された玉は、すかさず、これを拒否・・・さらに16日になって正式に登城の通告がもたらされますが、そこには、「仮に拒絶するならば、力づくでも大坂城に連れて行く」との内容が・・・

果たして、その日の夜、大坂方の武将が細川邸を取り囲むと、娘・二人を大阪教会オルガンチノ神父に預け、息子の嫁をお隣さんの宇喜多家へ避難させた玉は、夫=忠興と、長男=忠隆(ただたか)に宛てた手紙を霜に託して、彼女らにも退去をうながし、自らは礼拝堂へ・・・

そこに、稲富祐直(いなどめすけなお)の裏切りによって防戦し切れなくなった家老の小笠原秀清(おがさわらひできよ=少斎)がやって来たので、自ら髪を束ね、首を差しのべて秀清に討たせたのです。

時に慶長五年(1600年)7月17日細川ガラシャ=享年38歳・・・お察しの通り、キリシタンである彼女には自殺が許されない事から、秀清による昇天となり、その秀清は、玉を殺害した直後に屋敷に火薬をまいて点火し、自らも自刃して果てました。

この玉の壮絶な死によって、これ以降、「同じような事が続けば、かえって諸大名の反発をかうだけだ」として、大坂方による妻子人質作戦は行われなくなったという事です。

彼女の死は、『細川家記』では「御義死」と表現されています。

つまり、「死を以って、後の徳川政権における細川家の立場を守った」と・・・まさに、その通り・・・

おそらくは、あの監禁うんぬんの時点で、すでにお互いに夫婦の愛情なんて無かったと思われる二人・・・特に玉にとっての忠興は、うっとぉしい事この上ないモラハラ夫であったはずです。

しかし、最後の最後は夫の・・・いや、自らの婚家である細川家のために・・・そこには、愛だの恋だのを越えた何かがあるのです。

19や20歳の若者なら、愛だの恋だのが人生の最優先事項・・・もちろん、それはそれで青春の1ページとしてすばらしき事には違いないのですが、人間、歳を重ねて行くと、最優先の重要事項が徐々に変化して来るわけで・・・

その時の玉の中にあったのは、愛だの恋だのを越えた戦国の女の意地??いや、それは、大地のように広く、海のように深い、母のごとき本能だったのかも知れません。

♪ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の
  花も花なれ 人も人なれ ♪
 細川ガラシャ:辞世

Dscn1472a800
越中井

現在、細川邸があったと伝えられる場所には、台所の井戸だったとされる『越中井(えっちゅうい)が残っています。
(「越中井」のくわしい場所や地図などは本家HPの大阪歴史散歩:上町台地へ>>別窓で開きます
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2015年7月 9日 (木)

小笠原諸島を守った「屏風」水野忠徳…幕府終焉とともに死す

 

慶応四年(1868年)7月9日、幕末期、外国奉行などを歴任して活躍した幕臣=水野忠徳が59歳で死去しました。

・・・・・・・・・・・

わずか500石の旗本だった水野忠徳(みずのただのり)が、時の老中=阿部正弘(あべまさひろ)(6月17日参照>>)に、その才能を認められて西丸目付に抜擢されたのは天保十五年(1844年)4月の事でした。

Mizunotadanori600a 以来、様々な役職をこなしつつ、、嘉永五年(1852年)には浦賀奉行を、翌・嘉永六年(1853年)4月には長崎奉行に任ぜられますが、お察しの通り、これは、近年騒がしく日本の近海を行き来する外国船に対する交渉役として、彼が幕府からの信頼を得ていたという事・・・

・・・にしても、メッチャ惜しいですやん(^-^;

そう、あのペリーが黒船に乗ってやって来るのは嘉永六年(1853年)6月3日・・・忠徳が赴任した長崎ではなく浦賀へ来ちゃった(6月3日参照>>)ために、ペリーとの交渉の場での彼の出番は無かったのです。

その代わりと言っちゃぁ何ですが、続く7月18日に長崎にやって来たプチャーチン率いるロシア船=ディアナ号他4隻(10月14日参照>>)との交渉を、川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)の補佐という形で行い、日露の国境などを定めた日露和親条約の締結にこぎつけています。

さらに、その後に長崎を訪れたイギリスの東インド艦隊とも交渉を重ねて、日英和親条約に調印した事から、安政五年(1858年)には外国奉行となって、日英修好通商条約日仏修好通商条約も締結させました。

そんな中で、外国との格差が生まれていた金銀貨の交換問題や、外国に開港する港の選定などにも尽力した忠徳は、人呼んで「屏風水野」・・・これは、外国との交渉に挑むおエライさんを、その屏風の後ろからコッソリ指導すると事でついた異名で、まさに、優秀な官僚でないとできない役どころでした。

とは言え、途中に安政の大獄があったり、ロシア士官殺害事件の責任を取ったりで、いち時、左遷されたりもしましたが、外国奉行に返り咲いた文久元年(1861年)、歴史に残るある事をやってのけます。

それは、世界遺産になった事も記憶に新しい、あの小笠原諸島・・・

『近世日本国防論』によれば、
この遥か南海の島々は、それまでの幕府の認識としては、伊豆七島の流れから、日本の物としての多少の防衛意識はあったものの、ほぼ眼中になく、打ち棄てられたような状態で、結局は、江戸時代を通じて「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれているのが現状でした。

しかし、ここに来て、外国の捕鯨船が周辺を行き交い、イギリスやロシアが、ここを海軍の基地とすべく領有権を主張・・・幸いな事に、この時は、そこにアメリカが参入して潰し合いをしてくれたおかげで、辛うじて日本領となっていたのでした

そこを忠徳は見逃さなかった・・・

早速、その年の暮れ、幕府の了解を得て小笠原諸島に乗りこんだ忠徳チームは、現地を探検して測量・・・すでに住んでいた島民たちには、ここが日本領である事、また、彼らを日本国が保護する事などの約束を取り付けて、

「ここは、古くは文禄二年に小笠原貞頼(おがさわらさだより)なる人物が島に渡って島内を統治し、「小笠原島」という名前を賜ったものの、波荒く、行き来が難しい事から、いつしか通う人もいなくなっていたところを、享保十三年にその貞頼の子孫を名乗る宮内貞任(さだとう=小笠原貞任)が渡航と領有を江戸幕府に願い出るものの、やはり風波荒き中、往来ができずにいたけれど、今回は心機一転、忠徳チームによってしっかりと統治する事を、永久に記録すべく、ここに碑を建立します」
てな内容(だいぶはしょってます)石碑を建立したのです。

そう、実効支配・・・その後、時の老中=安藤信正(あんどうのぶまさ)(1月15日参照>>)の名のもと、諸外国に書簡で以って、事を報告し、それを認めさせた事で、小笠原諸島は日本の領土という事が確定したのです。

そんな忠徳さん・・・幕府官僚の中でもいち早く、鎖国継続の不可能&攘夷の不可能を悟った人物だと言われていますが、それ故か、当時、進められていた公武合体(朝廷と幕府が協力)(8月26日参照>>)に強く反対したため、文久二年(1862年)に箱館奉行に左遷されてしまい、しかもわずか2ヶ月でそれも辞任・・・さらに、翌文久三年(1863年)の小笠原長行(おがさわらながみち)クーデター(1月25日参照>>)に同調し、結果的に失敗に終わった事で謹慎処分となってしまいました。

それでも屈しない忠徳・・・慶応四年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦いの敗北(1月9日参照>>)の後、江戸城内での会議(1月23日参照>>)にて、新政府軍との徹底交戦を主張するも、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)恭順姿勢を取る事を決意した(1月17日参照>>)事から、失意のうちに隠居して、武蔵布田宿(ふだしゅく)に移住ます。

しかし、それから間もなく、忠徳は病に倒れてしまうのです。

『偉人豪傑言行録』によれば、
もはや、手の施しようも無いほどになった夜・・・それまで横たえていた身体が、にわかにムクッと起きあがり
「今すぐ、礼服の準備をせい!
俺が君命をたずさえて、諸国に伝えに行かなアカンのや!」

叫んだ後、亡くなったと・・・

それは慶応四年(1868年)7月9日、まさに、戊辰戦争が北へ北へとと延びていた頃・・・元号が明治と変わる2ヶ月前の事でした。

屏風の後ろから幕府を支え続け、最後まで徹底交戦を訴えた忠徳には、「生きるも死ぬも幕府とともに…」という思いがあった事でしょう。

そういう意味では、まさに幕府とともに・・・幕府の終焉とともに幕を下ろした彼の人生ではありましたが、おそらく、その気持ちは、未だ決戦の真っただ中だったに違いありません。
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2015年7月 3日 (金)

琵琶湖の水運と織田信長の大船建造

 

元亀四年(天正元年・1573年)7月3日、織田信長が琵琶湖畔にて建造させていた百挺櫓の大船が完成しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)は、未だ幼き頃に、父=織田信秀(おだのぶひで)から那古野城(なごやじょう=名古屋市中区)を譲られた(1月17日の冒頭部分参照>>)のをはじまりに、守護代の織田信友(のぶとも)を倒した弘治元年(1555年)には、その信友のいた清州城(きよすじょう=愛知県清須市)に入り(4月20日参照>>)、翌・弘治二年(1556年)に、舅の斎藤道三(どうさん)が息子=義龍(よしたつ)との戦いで討死して(4月20日参照>>)美濃(みの=岐阜県)が敵対勢力になると、美濃との国境に近い小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に城を構えて拠点を移し(この間に桶狭間>>がありますが…)永禄十年(1567年)にその斉藤氏を倒したら(8月15日参照>>)、斉藤氏の居城だった稲葉山城(いなばやまじょう)岐阜城(岐阜県岐阜市)と改名して、次の拠点としました。

そう・・・信長は、何か行動を起こすその都度、最も便利かつ重要な場所に拠点を移す人なのです。

そんな信長が天正四年(1576年)、満を持して建設を開始したのが、結果的に人生最後の城となる安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市安土町)(2月23日参照>>)

もはや、説明するまでも無いでしょうが、まさに、天下を見据える信長の城です。

なので、その煌びやかな設備にばかり目が行きがちですが、実は、この安土という場所そのものが、本当は、とても重要な場所だったわけで・・・

なんせ安土は琵琶湖の東岸・・・背には近江(滋賀県)の穀倉地帯が広がり、東海道中山道北国街道のいずれにもすぐに向かえるので、生誕地である尾張(おわり=愛知県西部)にも、勝ち取った美濃にも、この先、目を光らせねばならない都=京都にも通じる・・・

『信長公記』の記述を見ても、発掘された現地の大手道の構造を見ても、建築の最初の段階から、この安土城に天皇を迎えようとの構想があったとの推理もありますし、この先、連絡を密に取るためにも、自身の居城は、京都に近くなければなりませんからね。

もちろん、同時に琵琶湖の水運にも目をつけての安土でした。

以前、琵琶湖疏水を完成させた田辺朔郎(たなべさくろう)さんのページ(9月5日参照>>)で、それが、平清盛が構想し、豊臣秀吉も夢見た一大プロジェクトだったと書かせていただきましたが、それは、すでに、琵琶湖と京都が船で結ばれる以前から、若狭湾の豊富な海の幸や米どころ北陸の農産物などを琵琶湖の北岸から船で運び、大津で荷揚げするという事実があったから・・・なんたって、大型トラックという物が無い時代、大量の物資をいち早く、少ない労力で運べるのは船ですからね。

そして、その大量の物資をいち早く、少ない労力で早く運べるという利点は、当然、物流だけではありません。

そう、軍事です。

それは、安土に本拠を構える以前の永禄十二年(1569年)頃から、すでに琵琶湖の水運を支配しはじめた信長は、湖上での廻船(かいせん)の運行許可を出したりしながらも、一方で、何か事あらば、自ら大軍を率いてすぐに京都へ向かえる導線も確保しておこうとしていたのです。

そう、ご存じのように、永禄十一年(1568年)に「ともに天下を統べろうぞ!」と約束して(10月4日後半部分参照>>)、ともに意気揚々と上洛(9月7日参照>>)した第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)(10月18日参照>>)と信長の仲は、アッと言う間にグダングダン・・・

元亀四年(天正元年・1573年)の正月には義昭が挙兵するという事態にまで発展(2月20日参照>>)しました。

さすがに、この時は、その後の上京焼き討ち(4月4日参照>>)に驚いた正親町(おおぎまち)天皇が仲介に入って、何とか和睦となりましたが・・・

しかし、これで義昭の不満が収まったわけではありませんから、いずれは、また、敵対して来るであろうし、「その時は、おそらく、琵琶湖を防衛線にして京都を掌握するに違いない」と考えた信長・・・で、今こそ、先ほどの「自らが大軍を率いて」「すぐに」「いつでも」京都に入れる準備を・・・って事になったわけです。

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佐和山から琵琶湖を望む

そこで元亀四年(天正元年・1573年)5月22日、琵琶湖東岸の佐和山(滋賀県彦根市)に陣を構えた信長は、多賀山田(滋賀県犬上郡多賀町)の山中から木材を伐採して、佐和山の麓の松原(彦根付近)に引き下ろし、国中の鍛冶屋や大工、製材業などの職人を集めて、大きな船の建造を命じたのです。

大工の岡部又右衛門(おかべまたえもん)を棟梁に・・・その仕様は、
長さ=三間(約54m)、
横幅=七間(約13m)、
(ろ)は百挺、
(とも=船尾)と舳(へさき=船首)に櫓(やぐら)
を設置した強固な物・・・

建造期間中、信長はずっと佐和山の陣に滞在して、状況を見て回ったり、作業員にゲキを飛ばしたりしていたおかげか、元亀四年(天正元年・1573年)7月3日、ついに、その大船が完成・・・その大きさには見る者すべてが驚いたと言います。

・・・と、そのわずか2日後の7月5日、案の定、義昭が再び挙兵するのです。

二条御所(義昭御所=京都市上京区)日野輝資(ひのてるすけ)三淵藤(みつぶちふじひで=細川藤孝の異母兄)らを置き、自らは槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)に陣を置いた義昭・・・

この報告を聞いた信長・・・翌・7月6日に、早速、建造したばかりの大船に乗って、佐和山から坂本(滋賀県大津市)に向けて琵琶湖を渡ります。

おりからの風にのってスピード全開で到着した信長・・・その日は坂本に一泊して翌・7月7日に入京した後、すぐさま二条の妙覚寺(みょうかくじ=京都市上京区)に陣を構えて、圧倒的兵力で二条御所を包囲すると、公家衆中心だった二条御所側は、驚き桃の木で、すぐさま人質を差し出して投降し、市街地での戦いは、まもなく終了しました。

『信長公記』によれば、その後7月16日に槇島を目指した信長は、五ヵ庄柳山に陣を取り、
「宇治川を押し渡って槇島を攻略せよ!」
(ちなみに信長軍が到着したのは東岸で、宇治川を挟んだ向かい側が槇島です)
との命令を諸将に言い渡しますが、

ご存じのように、宇治川は水量豊富な暴れ川・・・水面は常に波立ち、流れも速い・・・これを「どうしたものか?」と思案する諸将の姿を見た信長は、
「君らがゴチャゴチャやっとって長引くんやったら、俺が先陣を切るわ!」
と・・・

さすがに後に退けなくなる武将たちは、あの源平合戦の名場面梶原景季(かげすえ)と、佐々木高綱(ささきたかつな)による宇治川の先陣争い(1月17日参照>>)にならって、元亀四年(天正元年=1573年)7月18日に宇治川を渡る・・・と、こうして槇島城の戦いとなるのですが、その結末については、2012年7月18日【槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重】>>の後半部分で見ていただくとして・・・

実は、今回建造された大船・・・このたった1度きりの航行で、その役目を終えて解体されてしまいます。

以前、あの石山本願寺との大阪湾決戦の際に造った華麗なる鉄甲船が、たった1度きりの戦いで使うためだけに建造したであろう事を書かせていただきましたが(9月30日参照>>)、今回の大船も、まさに、そう・・・

反旗をひるがえした将軍に、自分はたった1日で大軍を率いて京に入れる事を見せるためだけに作った大船だったのです。

建造から3年後、まさに安土城を築いた天正四年(1576年)の秋、信長は猪飼野正勝(いかいのまさかつ=猪飼昇貞)に命じて大船を解体させ、その材料を用いて、10艘の早舟(はやぶね)を造らせたのだとか・・・

たった1度きりで役目を終えた大船は、今度は小回りのきく早舟に生まれ変わって次なる役目をこなす・・・

配下の武将を適材適所に配置する信長さんらしいエピソードのように思いますが、とりあえずは、有り余る金を持ってないとできませんわな(*≧m≦*)
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