関ヶ原~竹ヶ鼻城攻防戦に散る杉浦重勝
慶長五年(1600年)8月22日、関ヶ原の戦いを前に岐阜城へと迫る東軍が攻撃した竹ヶ鼻城で杉浦重勝が自刃しました。
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関ヶ原の戦い・・・これまでの経緯は_
豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用して、その分裂具合を広げようとする徳川家康(とくがわいえやす)が、会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発・・・
そのスキに、留守となった伏見城を石田三成(いしだみつなり)が攻撃(8月1日参照>>)した事を知った家康は、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明します。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)
・・・で、その評定の席で、ノリノリで東軍=家康方での参戦を表明して先鋒を任された福島正則(ふくしままさのり)と池田輝政(てるまさ)が、正則の居城である清州城(きよすじょう=愛知県清須市)を拠点に、西軍=三成方についた南美濃の諸城を落としにかかる・・・先日=8月16日は、その最初の福束城(ふくつかじょう=岐阜県安八郡)の開城についてお話させていただきましたが(2015年8月16日参照>>)・・・
←福束城攻防戦のページにupした位置関系図ですが、今回のご参考に…
(クリックしていただくと大きいサイズで開きます)
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その後、周辺の高須城(たかすじょう=岐阜県海津市海津町)、駒野城(こまのじょう=岐阜県海津市南濃町)、津屋城(つやじょう=岐阜県海津市南濃町)と次々と制圧した東軍(8月19日参照>>)は、いよいよ次の狙いを岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に定めます。
というのも、先日も書かせていただいた通り、この岐阜城は、あの織田信長(おだのぶなが)の嫡孫=織田秀信(おだひでのぶ=清州会議(6月27日参照>>)で後継者となった三法師です)が城主を務めていて、今回、その彼が西軍として参戦していた事から、この南美濃周辺の諸将が西軍についたという事もあり、そういう意味でも重要な城だったのです。
とは言え、ご存じのように、この岐阜城・・・もともとは、あの斎藤道三(さいとうどうさん)が構築した稲葉山城(いなばやまじょう)(2009年8月15日参照>>)に信長が手を加えた屈指の名城で、その難攻不落ぶりは有名なところ・・・
しかも、今回の東軍からだと木曽川を越えねばなりません。
渡河の候補地は、上流の河田(こうだ)と下流の尾越(おこし=尾起)の2か所・・・全軍を福島正則隊と池田輝政隊の2隊の分けて渡河する事になりますが、最短距離で渡れる河田コースと、迂回しなければならない尾越コースとを「どちらの隊がどちらを行くか」で大モメにもめる正則と輝政・・・どっちもが、先陣を切りたいですからね。
で、結局、「どちらが先に渡河しても、すぐに攻撃に出ず、後からの隊が渡河してから合図の狼煙(のろし)を上げた後、両者が同時に攻撃を開始する」という約束を取り交わして、輝政が上流=河田、正則が下流=尾越へという事で、何とか収まりました。
かくして慶長五年(1600年)8月22日、夜明けとともに、前後して清州城を出陣した福島隊&池田隊は、両者それぞれの場所へと軍を進めます。
この東軍を動きを敏感に察したのが、竹ヶ鼻城(たけがはなじょう=岐阜県羽島市)の杉浦重勝(すぎうらしげかつ)でした。
早速、城中にて軍議を開いた結果、まずは大浦に柵を構築し、対岸の尾越から渡河しようとする東軍を食い止める・・・さらに、もし、木曽川を突破された場合は、竹ヶ鼻城に籠城しつつ、岐阜城&大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)からの援軍を待つという作戦に決定します。
そう、この杉浦重勝の軍が、迂回した福島正則隊とぶつかるのです。
とは言え、当然、川を渡る前に、対岸にて準備万端で待ち構える西軍=杉浦隊を目の当たりにした正則・・・「簡単には突破できない」と判断した正則は、隊を少し下流へと移動させ、別の場所から密かに渡河しようと動きますが・・・
その時です!
上流から、激しい銃撃音とともに聞こえる鬨(とき)の声・・・池田隊が渡河を開始したのです。
「おいおい!狼煙の合図で、同時に川渡るんちゃうかったんかい!」
と驚く正則でしたが、もはや、上流で渡っちゃってる以上、「約束破りやんけ!」と、ここで地団太踏んで立ち止ったところでどーしようもありません。
すぐに気持ちを切り替えて、渡河を決行する東軍=福島隊・・・渡った先に、まずあったのが加賀野井城(かがのいじょう=岐阜県羽島市)でした。
この加賀野井城の城主は加賀井重望(かがのいしげもち)という武将・・・彼は、あの小牧長久手の戦いで秀吉に敵対したものの、その勇猛ぶりをかわれて戦後に秀吉傘下へと組みこまれたという武勇伝の持ち主。
今回も、家康の会津征伐に従軍していて、本来なら東軍の彼らとともにいるはずでしたが、この1ヶ月前の7月19日に三河国池鯉鮒(ちりふ=愛知県知立市)にて行われた宴会の席で、水野忠重(みずのただしげ)と堀尾吉晴(ほりおよしはる)の両名と口論の末に斬り合いとなって殺害されてしまっていたのです。
(一説には、「家康暗殺」の密命をおびて東軍に潜入していたのがバレて殺害されたとも)
この事件の時、加賀野井城にて、兄=重望の留守を守っていた弟の秀盛(ひでもり)は、当然、水野&堀尾のいる東軍ではなく、西軍に与する事をいち早く表明して、この時は、すでに援軍として竹ヶ鼻城に入っており・・・って事は、加賀野井城は城主不在・・・
なので、東軍に攻め込まれた加賀野井城は、あっさりと陥落しますが、上記の通り、城主が援軍として竹ヶ鼻城に入っている時点で、加賀野井城は、はなから捨てる覚悟ですから、これは、あくまで予想通り・・・
予想と違っていたのは、先に尾越の対岸=大浦に柵を構築して待ち構えていた守備隊でした。
上記の通り、そこではない少し下流から渡河した東軍=福島隊は、加賀野井城を落した勢いのまま竹ヶ鼻城へと向かいますが、それに気づいた大浦の守備隊が、慌てて竹ヶ鼻城へと戻るも、東軍の突入に間に合わなかったのです。
竹ヶ鼻城は、沼地という天然の要害に、大きな堀を構えたなかなかの堅城でしたが、未だ主力が戻らぬ間に大軍に攻め込まれては、もはや防ぎようもありませんでした。
またたく間に本丸のみになってしまった竹ヶ鼻城ですが、城主の杉浦重勝は、なおも奮戦し続けます。
しかし、所詮は多勢に無勢・・・もはや味方の兵が30名余りとなってしまった午後4時頃・・・覚悟を決めた重勝は、城に火を放った後、自刃して果てたのでした。
この時、最後まで重勝とともにいたのは、わずか7名・・・彼らは、その主君の遺体を取り囲むようにして次々と自刃したと言います。
この光景には、さすがの東軍の武将たちも、彼ら主従の絆の深さに感激しきりだったとか・・・
ドラマ等では、大抵ひとまとめにされる関ヶ原ですが、一つ一つの戦いにドラマがある事を改めて痛感させられます。
とは言え、まだまだ続くのが関ヶ原・・・ちょうどこの竹ヶ鼻城攻防戦が終焉を迎えた頃、正則は、一方の池田隊が岐阜城下へ侵入した事を知らされ、
「遅れてなるものか!」
とばかに、彼も、岐阜城下へと向かうのです。
8年前のページなので、かなり未熟で大雑把な記事ですが、
よろしければ、この続きとなる・・・
【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】もどうぞ>>
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コメント
こんにちは
この福島&池田の騒動は大河ドラマ「葵徳川三代」で本多忠勝がたじたじしながら戦功を裁定したシーンが印象的だったのを覚えています。(実際は輝政が正則に謝り功績を譲った)しかしこの両者はあまり仲がよろしくないようで関ヶ原の戦後功賞の際に南宮山監視しかしていない輝政に播磨52万石が与えられた際に正則が嫌味を言ったそうな。(そんなこと言ったら山内や浅野もそうなのに)黒田長政と細川忠興の関係といい、関ヶ原発端の七将があまり仲がよくないことを考えると、この七人が結束するくらいに三成は相当憎い存在だったんでしょうね。まあ正則の名誉のために言えば輝政との喧嘩の原因となった織田秀信を命がけで助命したんですよね。あまり接点なさそうなのに。
投稿: 貧乏武士 | 2015年8月22日 (土) 03時47分
貧乏武士さん、こんばんは~
輝政は当然ですが、秀吉子飼いの正則にとっても、やはり信長嫡流は特別な物だったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2015年8月23日 (日) 02時25分