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2015年9月29日 (火)

関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃…の後に

 

慶長五年(1600年)9月29日、伊東祐慶が宮崎城を攻撃しました。

・・・・・・・

これまでもご紹介させていただいた通り、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、本チャンの関ヶ原だけではなく、様々な場所で、各地の武将を巻き込んでの戦いがあったわけですが・・・くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で…

この時の九州での動きとしては、9月10日に、西軍の大友義統(よしむね)が東軍=細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)を攻撃した(9月10日参照>>)事を受けて、豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)にいた黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)がその救援へと向かって、そのまま9月13日には、石垣原(別府市鶴見一帯)の戦い(9月13日参照>>)へ・・・

9月20日には、隈本城(くまもとじょう・熊本城=熊本県熊本市)加藤清正(かとうきよまさ)が、関ヶ原の西軍主力の一人として参戦=居城を留守にしていた小西行長(こにしゆきなが)宇土城(うとじょう=熊本県宇土市)を攻める(10月17日参照>>)・・・という展開になるのですが、

それらの南に位置する日向(ひゅうが=宮崎県)でも、また別の動きが見えはじめます。

ちなみに、以前のお話させていただいたように、ご存じの関ヶ原は慶長五年(1600年)9月15日=わずか1日で決着がついてしまっています(9月15日参照>>)が、その勝敗の結果が、ここ九州に届くまで、少々の日数を要します。

・・・で、この関ヶ原当時に日向を領地としていたのは・・・
伊東祐兵(いとうすけたか=日向飫肥)
秋月種長(あきづきたねなが=日向財部)
高橋元種(たかはしもとたね=日向縣)
島津豊久(しまづとよひさ=日向佐土原)
などでしたが、彼ら全員、この時は、徳川家康(とくがわいえやす)が当初行うはずだった会津攻め(7月24日参照>>)に合流すべく、領国を出て大坂にいて、その準備を整えていたのです。

しかし、未だ彼らが東北を向かう前に、かの石田三(いしだみつなり)挙兵したために(7月11日参照>>)、彼らは、ここ大坂にて、東軍につくのか?西軍につくのか?を決めなければならない立場に追い込まれます。

この時、いち早く西軍参戦を表明した秋月種長と高橋元種は、西軍主力とともに伏見城攻防戦(8月1日参照>>)に参戦した後、やはり西軍主力とともに大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)へと入りました(8月10日参照>>)

また、島津豊久は、伯父である島津義弘(よしひろ)(7月21日参照>>)と行動をともにしていて、本来は東軍として伏見城の守りにつくはずでしたが、城将の鳥居元忠(もとただ)に入城を断られ、なりゆきで西軍として関ヶ原に参戦する事になります(9月16日の前半部分参照>>)

・・・で、残った伊東祐兵・・・

その名前でお解りの通り、彼は日向の王と呼ばれた伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)の三男・・・例の島津の侵攻(11月12日参照>>)で、大友とともに一旦領地を奪われていたのを、豊臣秀吉(とよとみひでよし)九州攻め(4月17日参照>>)によって回復していたのです。

とは言え、祐兵の動向は他の武将と、ちと違う・・・

西軍から伏見城攻めを誘われた時、「行きたいトコなんですけど、病気でムリですわ」と断りつつ、水面下では、密かに黒田如水に家康への仲介を頼んでいた・・・つまり、東軍で参戦するつもりだったんですね。

ただし・・・この「病気」というのは、断るために仮病ではなく、本当に病気だったようで・・・

その後、如水から「東軍に参戦すんねやったら、九州へと戻って西軍に属する諸将の城を攻めるように」と勧められるものの、本当に病気で大坂から動く事ができなかったため、ともに行動していた嫡男の伊東祐慶(すけのり)日向へと向かわせたのです。

Sekigaharamiyazakicc
 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、以前にupした「加藤清正の九州の関ヶ原の関係図」>>に宮崎をプラスして、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

こうして日向に帰国した祐慶・・・当然、そのターゲットとなるのは、大坂にいた時に西軍参戦を表明した、同じ日向の彼らの城・・・という事になるのですが、

早速、祐慶が家老の稲津重政(いなづしげまさ)に、まずは攻撃を命じたのが、敵の領地からは飛び地となっており、逆に伊藤氏の領地=飫肥(おび=宮崎市南部)に近いという絶好の位置にある高橋元種の城=宮崎城(みやざきじょう=宮崎県宮崎市)でした。

かくして慶長五年(1600年)9月29日、400余の兵を率いた稲津重政が、宮崎城を攻撃したのです。

この時、宮崎城を守っていたのは城代の権藤種盛(ごんどうたねもり)以下、700名に満たない城兵のみ・・・なんせ上記の通り、元種の本城は縣城(あがたじょう=宮崎県延岡市=後の延岡城)であって、ここ宮崎城は飛び地にある属城でしたし、そもそもは、殿様の出発時には「会津征伐」であって「関ヶ原の戦い」では無かったですから、まさか、隣国同士で西と東に分かれるとも思って無かったわけで・・・

ほとんど準備ができていない状態での攻撃に、種盛は、すぐに本城へ救援の要請を発すると同時に、目の前の敵への防戦態勢をとりますが、残念ながら、今さら縣城から援軍を送っても、もはや間に合わない距離にあった宮崎城に援軍が派遣される事は無く、間もなく種盛は自刃・・・宮崎城は落城しました。

この後、この宮崎城を拠点に、祐慶は島津とも戦う事になるのですが・・・実際には、そんなこんなしてる場合じゃぁ無かった・・・

そう・・・です。
お察しの通り、、、

去る9月15日に、本チャンの関ヶ原が、わずか半日で決着がついております。

かの高橋元種はこの時、西軍本営の大垣城の三の丸の守備隊として守りについていましたが、城内にて関ヶ原本戦の勝敗を知り、攻め寄る東軍の矢面に立たされている三の丸は、「もはや防ぎきれない」と判断・・・いっしょに三の丸を守っていた秋月種長(たねなが)とともに、このまま東軍につく事を決意し、反対する二の丸の守備隊=垣見一直(かきみかずなお=家純)木村由信(よしのぶ)相良長毎(さがらながつね・頼房)らを殺害して、東軍の水野勝成(かつなり)へ降伏を申し入れ、大垣城の二の丸と三の丸を開城したのです。

それが、9月17日の事・・・(9月17日参照>>)

そう・・・祐慶が重政に宮崎城の攻撃を命じた時点で、すでに高橋元種は東軍についていたのです。

当然そこには、元種と東軍主力との「本領安堵」という取引があったわけで・・・で、結局、翌・慶長六年(1601年)8月に、祐慶は奪った宮崎城の返還を求められたのです。

さらに、その返還劇には、「宮崎城を攻撃した責任者は誰なのか?」という責任問題もついて来るわけですが、この時、祐慶は重政に責任を負わせ、切腹するよう命じます。

一説には、重政に全責任をなすりつけたのは、祐慶ではなく、黒田如水の差し金であって、祐慶は、それに従っただけという見方もあります。

なんせ御大であった父=祐兵は、関ヶ原の2ヶ月後=慶長五年(1600年)の11月に、あのまま大坂にて病死してしまい、慌てて家督を継いだ祐慶は、未だ10代前半の坊ちゃんだったようですから、海千山千の如水に睨まれちゃぁ~言う通りにするしかないか・・・てね。

いずれにしても納得できないのは、全責任を負わされた重政・・・

居城である清武城(きよたけじょう=宮崎県宮崎市清武町)に籠城して抵抗しますが、所詮は多勢に無勢・・・翌・慶長七年(1602年)に祐慶に攻められて討死(自刃とも)したという事です。

小説やドラマで『関ヶ原』と言えば、ほとんどが、あの関ヶ原・・・例え黒田家が主役で『九州の関ヶ原』と称しても、舞台は石垣原・・・

しかし、実は、それ以外にも様々・・・まして、本人たちの意識に無い、遠距離ゆえの結果報告のタイムラグによる悲しい結末

またもや、関ヶ原にはいくつものドラマがある事を感じさせられますね。
 .

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2015年9月23日 (水)

アンケート企画:「信長・被害者の会」の会長は?

 

さて、久々にアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
『信長・被害者の会』を作るとしたら、「あなたは誰を会長に推薦しますか?」という、まさにお遊びのアホなアンケートです(*´v゚*)ゞ

なんせ、ヤラなきゃヤラれる戦国ですから、勝ったから加害者で、負けたから被害者って事も無いワケですし・・・
とは言え、これはこれで、個人で考えるには思いもつかないような、様々な
楽しいご意見が聞けるのではないか?という期待ありますので、是非ともお気楽な感じでよろしくお願いします。

という事で、とりあえずは、いつものように、個人的に「この人は?」と思う選択肢を用意させていただきましたので、あなたが「推薦したい」と思う方に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 「うつけ」時代の信長に傷心
    平手政秀(参照ページ>>)
  2. 兄貴に勝ちたかった弟
    織田信行(参照ページ>>)
  3. 桶狭間に散った海道一の弓取り
    今川義元(参照ページ>>)
  4. 尾張統一の影に~上四郡守護代
    織田信賢(参照ページ>>)
  5. 交代劇でロックオンされた道三の孫
    斉藤龍興(参照ページ>>)
  6. 近江源氏の血を継ぐ名門
    六角承禎(参照ページ>>)
  7. 抗い続けた男たちに会長&副会長&書記を
    三好三人衆(参照ページ>>)
  8. 京都を追われても将軍は将軍じゃ!
    足利義昭(参照ページ>>)
  9. 織田になんか頭下げられるかいな!
    朝倉義景(参照ページ>>)
  10. お市っちゃんより義景を選んだヨ
    浅井長政(参照ページ>>)
  11. 助けたるって言うたやん!ヒドイゎ
    波多野秀治(参照ページ>>)
  12. 皆殺しの三瀬の変
    北畠具教(参照ページ>>)
  13. あんなにリスペクトしてくれたくせに…
    松永久秀(参照ページ>>)
  14. 干殺しの恨みは忘れん!
    別所長治(参照ページ>>)
  15. 長島&越前加賀を含む一向一揆の代表
    顕如(参照ページ>>)
  16. 信長だけは許さんゾ!
    荒木村重(参照ページ>>)
  17. 惣国壊滅~天正伊賀の乱
    滝野吉政(参照ページ>>)
  18. 干殺しの恨みは忘れん!
    吉川経家(参照ページ>>)
  19. 僕が何かした?エ…何もしてないからやて?
    佐久間信盛(参照ページ>>)
  20. カリスマ父が逆に重荷?
    武田勝頼(参照ページ>>)
  21. 心頭滅却すれば火もまた涼し
    快川紹喜(参照ページ>>)
  22. もしパワハラで心を病んだのだとしたら…
    明智光秀(参照ページ>>)
  23. その他
    「やっぱ、この人でしょう」っていう方がおられましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・
悩みに悩んで、なんとか上記の23項目に絞ってみました。

・‥…━━━☆

勝手ながら、アンケートは10月7日に締め切らせていただきました。

投票結果&いただいたコメントは、コチラのページでどうぞ>>

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2015年9月13日 (日)

鳥羽城の戦い~九鬼嘉隆&守隆・父子の関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月13日、関ヶ原の合戦にて東西に分かれた九鬼嘉隆&守隆父子が戦いました。

・・・・・・・・・・

度々の関ヶ原の戦いですが・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、その政権下で家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として実権握る徳川家康(とくがわいえやす)は、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発したスキに、留守となった伏見城石田三成(いしだみつなり)が攻撃(8月1日参照>>)した事を知り、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明しました。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)

・‥…━━━☆

この時、その会津征伐軍に従軍していた志摩(しま)鳥羽城(とばじょう=三重県鳥羽市)の城主=九鬼守隆(くきもりたか)は、とりあえず帰国の途につく事にしますが、その直後に、すでに隠居していた父=九鬼嘉隆(くきよしたか)西軍についた事を聞かされます。

この嘉隆は、もともと伊勢志摩周辺を活動拠点とする海賊であったのが、あの織田信長(おだのぶなが)と出会った事から一大水軍への道を歩み始め、長島一向一揆攻め(9月29日参照>>)石山本願寺との海戦(9月30日参照>>)でも大活躍・・・秀吉の時代には朝鮮出兵(4月13日参照>>)で数百隻の造船を担当し、「水軍大将」と呼ばれた人物・・・

しかし、一方では隣国の伊勢(いせ)岩手城(いわでじょう=三重県度会郡玉城町)の城主=稲葉道通(いなばみちとう)と度々対立していたのです。

そう、今回の関ヶ原では、その稲葉が東軍参戦を表明していたわけで、そこを突いて、すでに西軍参戦していた新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)城主の堀内氏善(ほりうちうじよし=嘉隆の娘婿)を通じて、石田三成(いしだみつなり)からのお誘いがあったわけです。

さすがは水軍大将と呼ばれた男・・・「西軍で参戦!」と決めたからには、多少老いたとて行動が早い!

早速、息子が留守にしている鳥羽城を占拠し、稲葉の岩手城を攻め、志摩周辺を横行する東軍の船に次々と攻撃を仕掛けます。

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鳥羽城跡から伊勢湾を望む

この状況に、息子=守隆は、家康に対して志摩の平定を願い出・・・家康は「勝利のあかつきには南伊勢5郡を与える」との条件を付けて守隆を送り出したのです。

早速、安乗(あのり)から上陸して国府城(こくふじょう=三重県鈴鹿)に拠点を置いた守隆は、父=嘉隆に「鳥羽城の開け渡し」を求める使者を送りますが、嘉隆はその使者を送り返し、断固「No!」の姿勢・・・

おぉ!見事な連携プレーですね~
と、これ↑は、記録には残ってませんので、あくまで私個人の私見ですが、おそらく、あの「大きな合戦における、どっちか生き残り作戦」=人呼んで「二股作戦」ですよね?

以前【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】>>のページで書かせていただきましたが、戦国の彼らが大きな戦いに巻き込まれた時、1番の重要事項は「家名と血筋を残す事」・・・全国が東西に分かれて戦うような場合なら、父子や兄弟が敵味方に分かれて、「どちらかが生き残る…あわよくば、戦後に、勝った側が家名と負け組の命の存続に奔走する」

当然ですが、勝った側が上記の使命を遂行するためには、負けた側の命が救われるに値するほどの活躍を合戦の中でしておかなくてはならないわけで・・・「二股かけてるから中途半端に戦おう」では問屋が卸さないわけで・・・

なので、しばらくは両者ともに、ゆ~っくりと、様子見ぃ見ぃで行動していましたが、慶長五年(1600年)9月11日、ようやく守隆は、鳥羽城に向けて1500余の軍勢を率いて国府城を出陣します。

すると、鳥羽城を占拠していた嘉隆は、こちらも約1300の軍勢を率いて城下を出ます。

そう、鳥羽城ではなく、そこから少し南下した舟津(ふなつ)に布陣・・・おそらく、我が息子の大切な城と城下町を、戦火から守ったのでしょう。

慶長五年(1600年)9月13日、父の行動を受けて、息子=守隆も舟津へ・・・ここで戦闘が開始されます。

息子の軍に被害があってはならないと空砲を撃ち続ける父・・・しかし、守隆側では家康から付けられた目付=石丸雲哲(うんてつ=池田家の家臣)がシッカリ見極めているため、さすがに「戦うフリだけ」というわけにはいかず、一応真剣に応戦しますが、そうなると当然、父の嘉隆側は、またたく間に不利な状況に陥るわけで・・・

結局、負けが濃くなった嘉隆勢は、例の堀内氏善の新宮城目指して落ちて行きますが・・・ところがドッコイ、この間に堀内は東軍に降伏してしまっていたため、城内には入れず、やむなく嘉隆は、伊勢湾内に浮かぶ答志島(とうしじま)へと逃れ、そこで身を潜めていたところ・・・

そう、ご存じのように、この2日後の慶長五年(1600年)9月15日、本チャンの関ヶ原の戦いが、わずか半日で決着がついてしまいます(2008年9月15日参照>>)

おそらくは九鬼父子の計算通り・・・いや、むしろ、さすがの彼らさえ、あの大戦がわずか半日で決着がついてしまうとは!ひょっとしてウレシイ誤算だったかも・・・

とにもかくにも、こうなれば勝った側が負けた側の助命に奔走するのがダンドリ・・・やがて守隆の嘆願が家康に聞き入れられ、「勝てば加増されるはずだった南伊勢5郡を返上する代わりに、父=嘉隆の命を救う」という約束を取り付けます。

大喜びの守隆・・・早速、滞在中の大坂より、家臣の野津甚右衛門を使者として派遣し、答志島で待つ父に、命助かった事を知らせます・・・と、おそらく、ここまでは父子の計算通りの事が運んでしたはず・・・

しかし、『三河後風土記』なる文献によると・・・
重要な任務をおびて、大坂から一路、志摩へとひた走る甚右衛門ですが、昼夜問わずの走りっぱなしにさすがに疲れ、伊勢明星(あけぼし)茶屋にて休憩をとってゴロンとしていたところ、従者として同行していた2名の若者が、甚右衛門が腰にブラ下げていた財布の中身に反応・・・いきなり、刀を振りかざして襲って来たのです。

慌てて応戦しながら両者を切り捨てた甚右衛門ですが、最初の一撃で、不覚にも負傷・・・やむなく、少しの間、滞在して養生するのですが、その滞在3日目の時、その茶屋でバッタリ、顔見知りの男に再会します。

何やら大きな物を抱えるその男は豊田五郎右衛門 (とよたごろうえもん)・・・五郎右衛門の奥さんは九鬼嘉隆の長女ですから、まさに側近中の側近です。

・・・で、その五郎右衛門が抱えていたのが・・・なんと!嘉隆の首だったのです。

実は、嘉隆が答志島に身を隠していたこの間に、五郎右衛門は、かの目付=石丸雲哲からの手紙を受け取っていたのです。

そこには・・・
「息子の守隆くんは、今回、東軍で参戦してくれて、家康さんへの忠誠心を見せてくれたけれども、父親の嘉隆はんは敵対しただけやなく、その後、逃走して身を隠したまんまっていう状況は、家康さんにとっては、あんまし気分のええもんちゃいまっせ」
とのアドバイスが書かれていたとか・・・

これによって、「九鬼家の存亡が嘉隆の動向にある」と考えた五郎右衛門が嘉隆に助言すると・・・

嘉隆は、その目に涙を浮かべながら
「この命、惜しいとは思わん中で、この何日間か、恥を忍んで生きながらえたんは、ひとえに子供らの行く末が気になっての事…
せっかくの守隆の忠義が、俺の罪でかき消されてしまうんは本意やないし、子供のためやったら、この命、露とも思わん。
カッコ悪い白髪頭やけど、この首、大坂へ差し出して、守隆への災いを避けてやってくれ」

と言って、慶長五年(1600年)10月12日、覚悟の上に自刃・・・そして、その首を、今まさに五郎右衛門が大坂へと運んでいる真っ最中だったわけです。

万事休す・・・まるでドラマのような時間差で、残念ながら嘉隆の命を救えなかった息子=守隆・・・

結局、この後、守隆は、父に自刃を勧めた五郎右衛門を鋸引き(のこぎりびき)という恐ろしい方法で処刑しているのですが・・・

実は、今回の話のように、「五郎右衛門は九鬼家の将来を考えて嘉隆に自刃を勧めた」という話がある一方で、この件の後、その理由を詰問する守隆に対して、のらりくらりとかわし、なんだかんだと言い逃れするばかりであったところ、やがて、反逆的な企みが露呈し・・・つまり、九鬼家のためではなく、五郎右衛門自身の手柄として嘉隆の首を大坂へ持って行こうとしていたのでは?との見解もあるようで、

それだと、守隆の五郎右衛門への仕打ちも納得できるわけですが・・・

いずれにしても、水軍大将=九鬼嘉隆ともあろう者ならば、一たび合戦となれば、万が一の時には、自らが犠牲になって息子を盛りたてる覚悟は、最初の時点で持っていたのでしょうから、おそらくは、息子のために身体を張った父親として、誇り高く、死出の旅路へと向かわれた事でしょう。
いや、そうであって欲しいです。

*後半の最期の部分が内容かぶってますが、以前、嘉隆さんのご命日に書かせていただいた【戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃】>>もどうぞo(_ _)oペコッ
 .

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