関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略
慶長五年(1600年)10月5日、関ヶ原の本戦の後、勝利を収めた徳川家康の命を受けた亀井玆矩らが鳥取城を攻撃しました。
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天下分け目の関ヶ原・・・
これまで、度々お話させていただいているように・・・
豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、その政権下で家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として実権握る徳川家康(とくがわいえやす)が、会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発したスキに、留守となった伏見城を石田三成(いしだみつなり)が攻撃(8月1日参照>>)し、これを知った家康が小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明・・・(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)
で、その小山評定のページで書かせていただいたように、この家康Uターンの時に、同じ豊臣の家臣として(この時点では家康も三成も豊臣の家臣です)会津征伐に同行していた諸将たちが、「このまま家康につくのか?」「畿内で兵を挙げた三成につくにか?」の選択を迫られる事になるわけですが・・・
先日も、日向(ひゅうが)=宮崎における諸将の動向を紹介させていただきましたが(9月29日参照>>)、本日は、鳥取城攻撃の日付けに合わせて、因幡(いなば)=鳥取県東部の諸将の動きをご紹介します。
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今回の主役となる亀井玆矩(かめいこれのり)は、もともとは出雲(いずも=島根県東部)に君臨した山陰の雄=尼子氏に仕えた武将でしたが、毛利に滅ぼされそうになった尼子一族の尼子勝久(かつひさ)が、織田信長(おだのぶなが)を頼ってお家再興を計った時に(5月4日参照>>)、そのまま信長傘下に組み込まれ、その後、中国地方の担当となった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の下で働く中、あの本能寺の変の中国大返しで活躍したりして、そのまま豊臣傘下となって、因幡鹿野(しかの=鳥取県鳥取市鹿野町)1万4000石を領する武将となっていました。
そんな中で、今回の、家康の会津征伐に従軍していた因幡の武将たち・・・
いち早く西軍につく事を表明した因幡若桜(わかさ=鳥取県八頭郡若桜町)の木下重堅(きのしたしげかた)と、因幡浦住(うらすみ=鳥取県岩美郡)の垣屋恒総(かきやつねふさ)は、早速、畿内で起こった伏見城の攻撃や(8月1日参照>>)、大津城の攻撃(9月7日参照>>)に加わります。
一方の亀井玆矩は、因幡鳥取(鳥取県鳥取市)の宮部長房(みやべながふさ)とともに東軍につく事を表明・・・しかし、間もなく相方=長房は気が変わって西軍に寝返ろうとしたのか?、真夜中にわずかの者だけを従えて、無断で東軍の陣営を離れてしまったため、気づいた追手によって捕縛されて拘束されてしまいます。
・・・と、そんなこんなやってるうちに、ご存じ、9月15日には関ヶ原本チャン・・・(9月15日参照>>)
この本戦で勝利した家康は、亀井玆矩に、西軍についた木下重堅&垣屋恒総らの領地を平定するように命じます。
「待ってました!」と玆矩・・・
実は、玆矩は、関ヶ原当日、現地にて参戦していたものの、南宮山に布陣した毛利&吉川勢の動きをけん制する役回りを任されていたのですが、ご存じのように、毛利勢は、ギリギリの決戦前日に成立した約束によって(9月28日参照>>)、まったく動かず、結局、戦いに参加しなかった事で、玆矩自身は現地で何の働きもできなかったわけで・・・
せっかくの大戦、せっかくのチャンス・・・ここで大きな武功を挙げておかないと、せっかく勝利チームに属しておきながら、何の恩賞も貰えないハメになってしまいますがな!
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
大戦から1週間後の9月23日・・・玆矩は自ら400余の軍勢を率いて、一路、因幡へ・・・
早速、垣屋恒総の桐山城(きりやまじょう=鳥取県岩美郡岩美町)の攻撃し、またたく間に陥落させた後、続いて木下重堅の若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう=鳥取県八頭郡若桜町)もすぐに降伏させて無血開城へと運ばせます。
・・・というのも、実は、彼ら両人は、本チャンでの敗戦を受けて、恒総は高野山へと逃れて、すでに自刃・・・重堅も、摂津(せっつ=大阪)の一心寺にて蟄居しており(この後の10月13日に自刃を命じられます)、どちらの城も、わずかな城兵しか残っていないばかりか、ご覧の通り、もはや、主を失っている状態なわけですから、そりゃ、ほぼ無抵抗で開城するわけです。
こうして、桐山城と若桜鬼ヶ城を、なんなく落した玆矩は、いよいよ鳥取城へと向かうのですが、ご存じのように、この鳥取城は、あの秀吉さえ、落とすのに3カ月以上かかった(10月25日参照>>)難攻不落の堅城・・・
先の両城同様に、到着早々に攻撃を開始しつつ、降伏&開城の誘い水をかけてはみる玆矩でしたが、留守を預かる城将の伊吹三左衛門は、降伏勧告に耳を貸さず、徹底抗戦の構えです。
そこで玆矩は、友人の赤松広秀(あかまつひろひで=広通・広英・斎村政広)を誘います。
この広秀は、室町時代に勢力を誇った赤松氏(3月12日参照>>)の流れを汲む名門ですが、戦国の世となって後、あの信長の中国攻めの時にその傘下に入って以来、秀吉の下で活躍し、当時は但馬竹田(たけだ=兵庫県朝来市和田山町)2万2000石を領していました(ちなみに雲海で超有名になった竹田城を構築したのは、この広秀さんです…(2月21日参照>>)が、今回の関ヶ原では西軍につき、細川幽斎(ゆうさい・藤孝=忠興の父)の守る丹後田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)の攻撃(7月21日参照>>)に参加していたのです。
そう、このままでは敗軍の将として、何らかの罰を受けねばなりませんが、ここで東軍として参戦して功績を残せば、ギリ間に合うかも・・・いや、少しでも罪が軽くなれば、それで御の字ちゃうん?とばかりに、玆矩は広秀に声をかけたのです。
早速、広秀は、やはりそれまで西軍として関ヶ原に参加していた但馬出石(いずし=兵庫県豊岡市出石町)の小出吉政(こいでよしまさ)と、丹波園部(そのべ=京都府南丹市)の別所吉治(べっしょよしはる)たちも誘って、ともに鳥取城の攻撃に加わったのです。
かくして慶長五年(1600年)10月5日、遅ればせながらの寝返り東軍諸将を加えての鳥取城総攻撃が開始されたのです。
さすがの三左衛門も、連合軍による総攻撃となると太刀打ちできず、「これ以上の抗戦は死傷者を増やすばかり」との判断をして、開城の勧告を受け入れ、まもなく鳥取城攻防戦は終結しました。
おかげで、終戦後の論功行賞で、玆矩は3万8000石に加増され、小出吉政と別所吉治も所領安堵=つまり、「最初に西軍で参戦したお咎めは無し」って事になったんですね。
ところが、なぜか、赤松広秀だけ自刃を命じられてしまうのです。
直接の理由は、この鳥取城攻撃の際に城下を焼いた事が家康の逆鱗に触れたから・・・という事ですが、一説には、激怒する家康に平謝りで謝りたおした玆矩に、その全責任をなすりつけられたとも、はなから広秀を陥れる計画だったとも、逆に玆矩自身は、純粋に友人である広秀を救いたかっただけだったが家康がそうさせなかったとも・・・様々に言われます。
何とも不可解・・・
私個人としては、以前、広秀さんのご命日に日に書かせていただいた【関ヶ原後の豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀】のページ>>でお話させていただいたように、広秀が、かなり優秀な豊臣恩顧の武将であった事や、金の成る木の生野銀山を、家康は江戸幕府の直轄地にしたかったんじゃないか?と思っておりますが・・・
いずれにしても謎は簡単には解けそうに無い中、何とも後味の悪い終わり方をする鳥取城攻防戦@関ヶ原でした。
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