初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』
貞享元年(1684年)10月29日、渋川春海が作成した貞亨暦が採用される事が決定しました。
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以前【平安の大学者・三善清行の「辛酉革命」予言】(11月21日参照>>)のページでも書かせていただいたように、古来より、暦(こよみ)を司る事が天皇の権威の象徴であり、世を治めている証でありました。
上記のページは「改元」のお話でしたが、当然、そもそもの「暦(暦法)を作る」という事も重要だったわけですが、古い時代の日本では長きに渡って中国から輸入した暦をアレンジした物が採用されていました。
日本史の中で「暦」の事が最初に登場する文献は『日本書紀』・・・その欽明天皇十四年(553年)に百済(くだら=現在の朝鮮半島にあった国)から暦博士が来日して伝えたというのが初。
さらに・・・
同じく『日本書紀』に、推古天皇十年(602年)に、やはり百済の僧が来日し、彼から暦を伝授された学生がいる事、また、平安時代の書物の中に、「その伝えられた物が翌々年の正月から採用された」という記述があるので、推古天皇十二年(604年)から、日本で暦が使われ始めたとも言われますが、
様々な検証の末、やはり『日本書紀』の持統天皇四年十一月甲戌朔の甲甲の条(690年11月11日)にある「勅を奉りて始めて元嘉暦(げんかれき)と儀鳳暦(ぎほうれき)とを行ふ」という所から、実際にはこれが最初であろうとされます。
その後、文武天皇元年(697年)の儀鳳暦の単独採用、天平宝字八年(764年)に儀鳳暦廃止で大衍暦(たいえんれき)採用、天安二年(858年)の大衍暦と五紀暦(ごきれき)の併用、貞観四年(862年)の宣明暦(えんみょうれき)施行と、平安時代まで、けっこう頻繁に改正が続きますが、この間の暦の改正は、実際の天文事象の違いのズレを修復するための微調整的な感じで、しかも、それには輸入先の中国の事情も影響していたのですが・・・
しかし・・・
この古代最後の暦の改正=宣明暦施行となった貞観四年(862年)の後、ご存じの遣唐使廃止(9月14日参照>>)に代表されるように、日本は、少し中国と距離を置く事になったようで、以来、823年間という長きに渡って、暦が改正される事はありませんでした。
(中国の暦はこの間にも改正されています)
やがてやって来た江戸時代・・・
江戸時代には、今回の貞享元年(1684年)の貞亨暦(じょうきょうれき)を皮切りに、宝暦五年(1755年)の宝暦暦(ほうりゃくれき)、寛政十年(1798年)の寛政暦(かんせいれき)、天保十五年(1844年)の天保暦(てんぽうれき)と、4回の改暦が行われています。
ちなみに江戸時代最後の天保の後は、有名な明治六年(1873年)の太陽暦(ユリウス暦)への変更(11月9日参照>>)・・・その後、明治三十一年(1897年)ユリウス暦から、同じ太陽暦のグレゴリオ暦になって、今に至るわけですが、
律令国家が形成された奈良時代と、幕府政治が行われた江戸時代に何度も改暦が成されたにも関わらず、その間(=宣明暦)の800年以上に渡っては、まったく変更されなかったという事実は非常に興味深いところではあります。
そんな中でも、本日は、貞享元年(1684年)10月29日の日付けにて、改正される事が決定した貞亨暦について・・・
冒頭で書かせていただいたように、「暦を司る事が権威の象徴」であるとしたら・・・そうです!
あの関ヶ原(関ヶ原の年表>>)から80余年、大阪の陣の勝利宣言とも言える「元和偃武(げんなえんぶ)」(7月7日参照>>)から70年・・・ここで、この暦の変更に江戸幕府が着手し始めたという事でもあるわけですが・・・
そのおおもととなったのは、あの保科正之(ほしなまさゆき)です。
正之は、第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠(とくがわひでただ)の隠し子として(12月18日参照>>)、幼き頃は不遇の日々を送ったとされますが、わだかまりが解けた後は、第3代将軍=徳川家光(いえみつ)や4代=家綱(いえつな)を支える稀代の補佐役として初期の江戸幕府に尽くした人物(9月1日参照>>)です。
そんな、幕府の重鎮として暦の重要性を知る正之が白羽の矢をたてたのが、趣味である囲碁の師匠=初代・安井算哲(やすいさんてつ)の息子=渋川春海(しぶかわはるみ)でした。
幼い頃から、父を継ぐ2代目として碁打ちの才能を発揮し、その秀才ぶりを目にした正之は、春海に将来の改暦を担わせようと、早くから天文術を勉強させていたとも言われます。
そんな春海は、とある天文談義で知り合った山崎闇斎(やまざきあんさい)と意気投合・・・ちょうどその頃、すでに朱子学で名を馳せていた闇斎が垂加神道(すいかしんとう・しでますしんとう=朱子学と陰陽学と易学などを組み合わせた独自の神道)に大転換した事から、春海は闇斎の門下生となり、あの『日本書紀』に書かれた神武東征の日付け(2月11日参照>>)から続く、2300余年渡る干支を計算して表にまとめた『日本長暦』を作り上げます。
また、この闇斎のところで、同じ門下生だった土御門泰福(つちみかどやすとみ)と出会った事も、春海のレベルアップにつながりました。
「土御門」という名前でお察しの通り、泰福は平安の昔から天文学・暦学を受け継いでいる陰陽師(おんみょうじ)の家系・・・この頃の二人は、度々、天文学や暦算の勉強会を開いたりして切磋琢磨し、お互いの知識の交流を図っていたようです。
やがて正之が亡くなった翌年の寛文十三年(1674年)、春海は、将軍=家綱に宛てて改暦の上表書を捧げますが、その後、春海が予想した日食がハズレてしまったために、大老の酒井忠清(さかいただきよ)が「改暦無用論」を展開して猛反対し、一旦ここで、改暦の話は却下されてしまいます。
ところが・・・
延宝八年(1680年)、将軍家綱が死去・・・病弱な家綱に子供がいなかった事から、弟の綱吉(つなよし)が第5代江戸幕府将軍となり、この政権交代で忠清が失脚した(12月9日参照>>)事から、再び、改暦の話が持ち上がって来るのです。
なんせ、これまでの宣明暦と実際の天行とにズレがある事は周知の事実で、ここらあたりで全国的に統一された暦が必要な事は明らかでした。
そんなこんなの天和二年(1682年)、これまで陰陽師の支配を巡って、土御門家とはライバル関係にあった幸徳井家の当主が突如亡くなった事を受けて、泰福に陰陽頭の座が巡って来ます。
この時、時の霊元天皇(れいげんてんのう=112代)が綸旨(りんじ=天皇家の命令書)にて、将軍綱吉が朱印状にて、土御門家の陰陽師支配を認めた事で、泰福は全国の陰陽師を編成し、陰陽道の復興に力を注ぐ事ができるようになったのです。
さらに翌・天和三年(1683年)には、春海が水戸の徳川光圀(みつくに=水戸の黄門様です)の命令によって制作していた天球図を綱吉に献上し、幕府内でも改暦の重要性が語られるようになります。
しかし、それでも、朝廷では、当時の明(みん=中国)で使用されていた大統暦(たいとうれき)に改暦するつもりでいましたが、そこに「待った!」をかけて「日本独自の暦に…」と、自ら制作した大和暦の採用を願い出る春海と、それを後押しする陰陽頭・泰福・・・
そう、ここで春海と泰福は一致団結し・・・後の幕末でのワードを借りれば公武合体しての改暦事業を推し進めたのです。
貞享元年(1684年)10月29日、春海が制作した大和暦は、元号の名をとって『貞亨暦』と名付けられ、天皇宣下のもと、その採用が決定します。
その2ヶ月後、幕府は寺社奉行のもとに天文方(てんもんかた=天文職)を設置し、春海は初代天文方に就任します。
そうです。
この貞亨暦への改暦は、日本初の国産の暦を採用という記念すべき出来事であるとともに、天皇宣下のもとで実施された幕府の事業として、両者のメンツをも守るという、まさに春海&泰福の友情の成せる、見事な改暦であったのです。
なんせ、この次の宝暦暦への改暦の時は、土御門VS天文方のドロドロ感満載の改暦になったようですから・・・
とにもかくにも、この貞亨改暦は、綱吉政権が行った最も重要な施策とも言える一大事業だった事は確かでしょう。
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