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2015年10月29日 (木)

初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』

 

貞享元年(1684年)10月29日、渋川春海が作成した貞亨暦が採用される事が決定しました。

・・・・・・・・

以前【平安の大学者・三善清行の「辛酉革命」予言】(11月21日参照>>)のページでも書かせていただいたように、古来より、(こよみ)を司る事が天皇の権威の象徴であり、世を治めている証でありました。

上記のページは「改元」のお話でしたが、当然、そもそもの「暦(暦法)を作る」という事も重要だったわけですが、古い時代の日本では長きに渡って中国から輸入した暦をアレンジした物が採用されていました。

日本史の中で「暦」の事が最初に登場する文献は『日本書紀』・・・その欽明天皇十四年(553年)に百済(くだら=現在の朝鮮半島にあった国)から暦博士が来日して伝えたというのが初。

さらに・・・
同じく『日本書紀』に、推古天皇十年(602年)に、やはり百済の僧が来日し、彼から暦を伝授された学生がいる事、また、平安時代の書物の中に、「その伝えられた物が翌々年の正月から採用された」という記述があるので、推古天皇十二年(604年)から、日本で暦が使われ始めたとも言われますが、

様々な検証の末、やはり『日本書紀』の持統天皇四年十一月甲戌朔の甲甲の条(690年11月11日)にある「勅を奉りて始めて元嘉暦(げんかれき)と儀鳳暦(ぎほうれき)とを行ふ」という所から、実際にはこれが最初であろうとされます。

その後、文武天皇元年(697年)の儀鳳暦の単独採用、天平宝字八年(764年)に儀鳳暦廃止で大衍暦(たいえんれき)採用、天安二年(858年)の大衍暦と五紀暦(ごきれき)の併用、貞観四年(862年)の宣明暦(えんみょうれき)施行と、平安時代まで、けっこう頻繁に改正が続きますが、この間の暦の改正は、実際の天文事象の違いのズレを修復するための微調整的な感じで、しかも、それには輸入先の中国の事情も影響していたのですが・・・

しかし・・・
この古代最後の暦の改正=宣明暦施行となった貞観四年(862年)の後、ご存じの遣唐使廃止(9月14日参照>>)に代表されるように、日本は、少し中国と距離を置く事になったようで、以来、823年間という長きに渡って、暦が改正される事はありませんでした。
(中国の暦はこの間にも改正されています)

やがてやって来た江戸時代・・・

江戸時代には、今回の貞享元年(1684年)の貞亨暦(じょうきょうれき)を皮切りに、宝暦五年(1755年)の宝暦暦(ほうりゃくれき)、寛政十年(1798年)の寛政暦(かんせいれき)、天保十五年(1844年)の天保暦(てんぽうれき)と、4回の改暦が行われています。

ちなみに江戸時代最後の天保の後は、有名な明治六年(1873年)の太陽暦(ユリウス暦)への変更(11月9日参照>>)・・・その後、明治三十一年(1897年)ユリウス暦から、同じ太陽暦のグレゴリオ暦になって、今に至るわけですが、

律令国家が形成された奈良時代と、幕府政治が行われた江戸時代に何度も改暦が成されたにも関わらず、その間(=宣明暦)の800年以上に渡っては、まったく変更されなかったという事実は非常に興味深いところではあります。

そんな中でも、本日は、貞享元年(1684年)10月29日の日付けにて、改正される事が決定した貞亨暦について・・・

冒頭で書かせていただいたように、「暦を司る事が権威の象徴」であるとしたら・・・そうです!
あの関ヶ原(関ヶ原の年表>>)から80余年、大阪の陣の勝利宣言とも言える「元和偃武(げんなえんぶ)(7月7日参照>>)から70年・・・ここで、この暦の変更に江戸幕府が着手し始めたという事でもあるわけですが・・・

そのおおもととなったのは、あの保科正之(ほしなまさゆき)です。

正之は、第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠(とくがわひでただ)隠し子として(12月18日参照>>)、幼き頃は不遇の日々を送ったとされますが、わだかまりが解けた後は、第3代将軍=徳川家光(いえみつ)や4代=家綱(いえつな)を支える稀代の補佐役として初期の江戸幕府に尽くした人物(9月1日参照>>)です。

そんな、幕府の重鎮として暦の重要性を知る正之が白羽の矢をたてたのが、趣味である囲碁の師匠=初代・安井算哲(やすいさんてつ)の息子=渋川春海(しぶかわはるみ)でした。

幼い頃から、父を継ぐ2代目として碁打ちの才能を発揮し、その秀才ぶりを目にした正之は、春海に将来の改暦を担わせようと、早くから天文術を勉強させていたとも言われます。

そんな春海は、とある天文談義で知り合った山崎闇斎(やまざきあんさい)と意気投合・・・ちょうどその頃、すでに朱子学で名を馳せていた闇斎が垂加神道(すいかしんとう・しでますしんとう=朱子学と陰陽学と易学などを組み合わせた独自の神道)に大転換した事から、春海は闇斎の門下生となり、あの『日本書紀』に書かれた神武東征の日付け(2月11日参照>>)から続く、2300余年渡る干支を計算して表にまとめた『日本長暦』を作り上げます。

また、この闇斎のところで、同じ門下生だった土御門泰福(つちみかどやすとみ)と出会った事も、春海のレベルアップにつながりました。

「土御門」という名前でお察しの通り、泰福は平安の昔から天文学・暦学を受け継いでいる陰陽師(おんみょうじ)の家系・・・この頃の二人は、度々、天文学や暦算の勉強会を開いたりして切磋琢磨し、お互いの知識の交流を図っていたようです。

やがて正之が亡くなった翌年の寛文十三年(1674年)、春海は、将軍=家綱に宛てて改暦の上表書を捧げますが、その後、春海が予想した日食がハズレてしまったために、大老酒井忠清(さかいただきよ)「改暦無用論」を展開して猛反対し、一旦ここで、改暦の話は却下されてしまいます。

ところが・・・
延宝八年(1680年)、将軍家綱が死去・・・病弱な家綱に子供がいなかった事から、弟の綱吉(つなよし)が第5代江戸幕府将軍となり、この政権交代で忠清が失脚した(12月9日参照>>)事から、再び、改暦の話が持ち上がって来るのです。

なんせ、これまでの宣明暦と実際の天行とにズレがある事は周知の事実で、ここらあたりで全国的に統一された暦が必要な事は明らかでした。

そんなこんなの天和二年(1682年)、これまで陰陽師の支配を巡って、土御門家とはライバル関係にあった幸徳井家の当主が突如亡くなった事を受けて、泰福に陰陽頭の座が巡って来ます。

この時、時の霊元天皇(れいげんてんのう=112代)綸旨(りんじ=天皇家の命令書)にて、将軍綱吉が朱印状にて、土御門家の陰陽師支配を認めた事で、泰福は全国の陰陽師を編成し、陰陽道の復興に力を注ぐ事ができるようになったのです。

さらに翌・天和三年(1683年)には、春海が水戸の徳川光圀(みつくに=水戸の黄門様です)の命令によって制作していた天球図を綱吉に献上し、幕府内でも改暦の重要性が語られるようになります。

しかし、それでも、朝廷では、当時の(みん=中国)で使用されていた大統暦(たいとうれき)に改暦するつもりでいましたが、そこに「待った!」をかけて「日本独自の暦に…」と、自ら制作した大和暦の採用を願い出る春海と、それを後押しする陰陽頭・泰福・・・

そう、ここで春海と泰福は一致団結し・・・後の幕末でのワードを借りれば公武合体しての改暦事業を推し進めたのです。

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渋川春海の貞享暦(国立科学博物館蔵)

貞享元年(1684年)10月29日、春海が制作した大和暦は、元号の名をとって『貞亨暦』と名付けられ、天皇宣下のもと、その採用が決定します。

その2ヶ月後、幕府は寺社奉行のもとに天文方(てんもんかた=天文職)を設置し、春海は初代天文方に就任します。

そうです。
この貞亨暦への改暦は、日本初の国産の暦を採用という記念すべき出来事であるとともに、天皇宣下のもとで実施された幕府の事業として、両者のメンツをも守るという、まさに春海&泰福の友情の成せる、見事な改暦であったのです。

なんせ、この次の宝暦暦への改暦の時は、土御門VS天文方のドロドロ感満載の改暦になったようですから・・・

とにもかくにも、この貞亨改暦は、綱吉政権が行った最も重要な施策とも言える一大事業だった事は確かでしょう。
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2015年10月22日 (木)

有田城外~中井手の戦いに散る熊谷元直とその妻

 

永正十四年(1517年)10月22日、武田元繁毛利元就有田城外・中井手の戦いに参戦した熊谷元直が討死しました。

・・・・・・・・・

ご存じのように守護大名と戦国大名が入り乱れる戦国時代・・・

鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)政権を握った後醍醐天皇(ごだいごてんのう)と南北朝に分かれて(12月21日参照>>)争った足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏)に始まる室町幕府が、南北朝合一(10月5日参照>>)を経て、名実ともに政権を掌握したのが、第3代将軍=足利義満(よしみつ)(12月30日参照>>)の時代です。

以来、その幕府から、各地方を統治する役を任されたのが守護大名・・・有名なところでは、桶狭間(おけはざま)織田信長(おだのぶなが)にヤラレちゃう今川義元(いまがわよしもと)の今川氏や、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の武田氏、周防長門(すおう・なごと=山口県)を治めていた大内氏(12月21日参照>>)・・・彼らなんかは、いわゆる幕府公認の守護大名です。

一方、義元を倒した信長の織田は、やっぱり信長に倒される事で有名な朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)の朝倉氏とともに、尾張(おわり=愛知県西部)越前(えちぜん=福井県)の守護大名だった斯波(しば)被官だった家柄ですが、そこを武力で以って尾張を統一し、幕府の任命うんぬん関係無く、事実上の領主として独自に統治する・・・こちらが戦国大名ですね。

あと・・・
最近では、もともと将軍の近臣だった(9月21日参照>>)とも言われている北条早雲(ほうじょうそううん)ですが、とりあえずは足利幕府系列の堀越公方足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を倒して(10月11日参照>>)以来、100年に渡って関東に君臨する事になるので、早雲の北条氏も戦国大名の部類だと思います(【後北条・五代の年表】参照>>)

もちろん、細かいところでは両者の違いはもっともっとあるでしょうが、とにこかくにも、室町幕府の力の弱りようと比例するように守護大名の力が弱くなっていき、それに代わるように、力をつけた各地の国人(こくじん=地元密着の半士半農の地侍)たちが、その場所を戦国大名として事実上統治していった時代というのが、今回の有田城外の合戦=有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)の頃だったわけです。

前置きが長くなりましたが・・・
今回の舞台となる安芸(あき・広島県)を、鎌倉の昔から守護として統治していた安芸武田氏は、甲斐の武田氏から枝分かれした同族で、一時は甲斐武田氏よりも勢いがあった時期もありましたが、上記の通り、やがて周辺の国人たちにちょびっとずつ領地を奪われるようになり、第7代当主の武田元繁(もとしげ)の時代には、かなり領地を削られていたのが現状だったわけですが・・・

そんな時、第10代室町幕府将軍=足利義稙(よしたね)を奉じて上洛し、先の永正八年(1511年)=船岡山の戦い(8月24日参照>>)に勝利して、中央での力をつけた大内氏の当主・大内義興(よしおき)が、「君、ゴチャゴチャやられてる場合やないで…ここらで一発ガツンとやったって安芸を平定をしてみぃや」と元繁に命じます。

もともと、できる物なら昔の領地を回復したいと思っていた元繁にとっては、この上からの命令は渡りに舟・・・そんなこんなの永正十三年(1516年)8月、未だ安芸の小豪族の一人だった毛利氏の当主・毛利興元(おきもと)24歳の若さで亡くなり、まだ2歳という幼さの息子=幸松丸(こうまつまる)が後を継いだ事を大チャンスと見た元繁は、同月3日、近隣の国人たちに声をかけ、その2年前に興元に奪われていた有田城(広島県山県郡)を包囲したのです。

Mourimotonari600 この時、有田城を守っていたのは毛利配下の吉川元経(きっかわもとつね・興元の義弟)・・・その有田城を救うべく駆け付けたのが、未だ2歳の当主をサポートして事実上の当主の役割をこなしていた亡き興元の弟=毛利元就(もとなり)・・・なんと、この時、21歳での初陣でした。

かくして、毛利本隊と吉川隊を含む元就の軍が有田へと到着した永正十四年(1517年)10月22日・・・武田VS毛利有田城外の合戦=有田中井手の戦いが展開される事になります。

元就たちが現地に到着した頃には、すでに有田城下にも火が放たれ、もはや周辺は戦場と化していましたが、迎え撃つ武田軍の中で、この元就軍と最初に相対したのが熊谷元直(くまがいもとなお)でした。

この元直は、源平争乱の時の一の谷の合戦=青葉の笛(2月7日参照>>)で有名な熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)から数えて13代目の末裔・・・その源平争乱の後、戦いの空しさに出家する直実ですが(11月25日参照>>)、彼の孫の直時(なおとき)の時代に安芸に所領を与えられて以来、この地に根付き、室町時代には、この地の守護であった武田氏の傘下となっていて、この頃には「大内>武田>熊谷」という縦関係ができており、元直も、先の船岡山の戦いにも大内配下として参戦して、その武勇を誇った武者だったのです。

この時、正面から戦いを挑んで、多勢から挟み討ちされる事を警戒した元就は、有田の城下町そのものではなく、城山のふもとで柵と防塁を築いて防戦を張っていた元直の本陣ただ一つに狙いを定めて一気に突入したのです。

これを受けた元直は、その武勇の誉れ高きゆえ・・・そう、彼の自信とプライドが退く事を許さなかったのです。

真正面からの攻撃を真正面に受けながらも、
「直実以来、敵に後ろを見せたる例は無し!」
と、自らの鎧を脱ぎ捨てながら豪快に笑い飛ばし、自らが先頭に立って指揮を取りながら奮戦していたのですが、

文字通り、矢面に立っていた事が仇となり、戦いの真っ最中に額に流れ矢を受けて馬上から転落・・・そこをすかさず近づいた吉川配下の宮庄経友(みやのしょうつねとも)なる武将に首を取られてしまったのです。

当然ですが、大将が首を取られてしまった以上、味方の士気は一気に下がり、戦いの意味すらウヤムヤになる中で、ある者は討死し、ある者は逃げ帰り・・・

やがて、元直の居城である三入高松城(みいりたかまつじょう=広島県広島市安佐北区)にたどり着いた雑兵から、「元直死亡」の一報がもたらされると、城内は悲しみに包まれました。

そんな中、皆の目の前で、流れる涙を抑えながらも、すくりと立ちあがった元直の妻・・・
「ほんで、君ら、殿にお供しながら、その首取られたばかりか、遺骸をも、そのへんにうち捨てたままにして、よ~戻って来たな!どんだけ臆病者やねん!」
と怒りに震えます。

・・・で、どうしても怒りが収まらないこの奥さん・・・その夜、ただ一人で城を抜け出し、かの戦場へと向かうのです。

やがて真っ暗な戦場跡に、累々と横たわる遺体をかき分け、一つ一つ、首の無い遺体の中で見覚えがありそうな衣類の者の右腕を確かめていく彼女・・・

そう、実は元直の右腕には、昔に患った腫れ物の跡がアザとなって残っており、それを目印に夫の遺体を探したのです。

そうこうするうち、夫婦の絆の深さ故か・・・多くの遺体の中から夫の遺体を見つけ出した彼女・・・その遺体をやさしく抱きかかえながら、声を限りに泣き叫ぶ慟哭が、夜空に響き渡ります。

ひとしきり涙にくれた彼女は、何とか、夫の遺体を持ち帰ろうとしますが、当然の事ながら、女の身一つで、その遺体を持ちかえる事なんて不可能・・・見れば、夫の遺体にはすでに無数の傷があり、その腕も、もはや斬れ々々の状態・・・

やむなく、彼女は、その斬れ々々の傷口を、涙ながらに押し斬って、愛しきアザのある右腕だけを懐に入れて城へと持ち帰ったのだそうです。

一般的には、その右腕は、その後菩提寺に埋葬されたと言われていますが、『続武将感状記』によれば、彼女は命尽きるその日まで、その腕を肌身離さず持っていたと記されています。

たった一人で真っ暗な戦場に・・・
考えただけでも恐ろしいですが、これも愛あればこそ…なんでしょうね(゚д゚;)

・‥…━━━☆

この後、元直を失った武田軍は、最終的に武田元繁という総大将も失い(2009年10月22日参照>>)毛利の完全勝利となる事から、この有田城外の合戦は「西の桶狭間」とも呼ばれます。

信長が義元を破って全国ネットの舞台に上がったと同様に、元就も守護の武田氏を破って・・・という事で、そう呼ばれるそうですが、元就の場合は、イキナリ全国ネットとは行かず、この後も、少々の時間を要する事になりますが・・・(くわしくは人物事典「も」の項目で毛利元就関連を>>)

ちなみに、今回の合戦で武田が滅亡した事もあって元直さんの息子である熊谷信直(くまがいのぶなお)は、自身の娘=新庄局(しんじょうのつぼね)を元就の息子=吉川元春(きっかわもとはる)に嫁入りさせて(8月30日参照>>)その後の熊谷は、毛利の傘下となっています。

ちなみのちなみに・・・元直さんのひ孫にあたる人物も、まったく同じ熊谷元直という名で歴史上に登場します(関ヶ原の頃です)ので、ゴッチャにならないようにお気をつけを・・・
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2015年10月13日 (火)

アンケート企画「信長・被害者の会」の会長は?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケート『信長・被害者の会』を作るとしたら、「あなたは誰を会長に推薦しますか?」結果報告で~す

投票にご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

今回は127名の皆さまのご回答&コメントをいただきましてウレシイ限りであります!

アンケートの作成時には、「この人…」と思う人物をとりあえず書き出していってると、トンデモない数になってしまって、その中から、かなり絞ったのですが、それでも、これまでで最も多い数の選択肢になるわ、悩みに悩んで削った松平信康や築山殿が「その他」の項目で推されるわやらで、反省せねばならぬ箇所が多々あるのですが・・・\(_"_ ) 反省

とりあえずは結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
21票
足利義昭
会長となればやはり大物に…選択肢の中ではダントツの肩書きであったおかげで輝く第1位に君臨ですヽ(´▽`)/
2位
17票
今川義元
締切日の3日前くらいまでは、1位の義昭さんと抜きつ抜かれつの名勝負を繰り広げた義元さん…ご本人が名門であるのと同時に、桶狭間で負けた事による「坂道転がり感がハンパない」という事で堂々の2位でした~
3位
15票
明智光秀
出自や大物ぶりは上位の二人に劣るものの、最後にヤッたった感が後押しして堂々の3位に…
4位
14票
佐久間信盛
他の方々と違い「敵対して(戦いに)負けた人」ではない部分に共感された方が多かったようです。。。なんせ譜代の家臣ですから…
5位
9票
浅井長政
義理と人情を秤にかけりゃ~お市っちゃんが軽かったんかな?その有名ぶりでイイ位置キープです。
6位
8票
平手政秀
コチラも家臣…信長の成長を見届けてほしかったですね~(;ω;)
7位
6票
顕如
何万ともつかぬ人数の一向一揆の代表という事で、なかなかの位置につけましたね。
8位
4票
快川紹喜
知名度が低い感するし武田がらみの1件だけのワリには4票を獲得…やはり、そのお亡くなり方の強烈さから?
9位
3票
織田信行
北畠具教
何度も反発した弟さんと、一気に皆殺しされた名門・北畠…相反する両者が並びました。
11位
2票
朝倉義景
荒木村重
武田勝頼
う~ん(゚ー゚;キャラ的にバラバラでコメントのしようがありませんが、とにかく2票ずつですww
14位
1票
三好三人衆
波多野秀治
松永久秀
コチラはやはり知名度かな?まぁ、知る人ぞ知るっていう方々ですが…
17位
0票

織田信賢
斉藤龍興
六角承禎
別所長治
滝野吉政
吉川経家
まぁ、今回は選択肢が多かったので「0票の方はいるだろうな」と予想してました。

その他 18票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

;;;:+*+:;;;:+*+:;;

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

その他 お隣の被害者ビジネスかいな (笑)(女性)
「なんか、最近は流行りのワードになってますね~
今川義元 まだ尾張のうつけだった信長に討たれた哀しさが涙を誘います(泣)そして、後世の扱いも(泣)(30歳代/男性/福岡)
「この1件だけでイメージ急降下ですもんね~」
その他 徳川家康様を推薦します
「人生は重荷を背負うて…信長が重荷になってたかもですね」
今川義元 桶狭間の一回の敗北で愚将のイメージが定着してしまった可哀想なお方。ほんとはすごい武将です。by静岡県民(20歳代/男性/静岡)
「そうです。ホントはスゴイんです!
今川義元 桶狭間での敗戦でのイメージダウン凄まじいですよね。(30歳代/男性/香川)
「やはり…ですね。
顕如 信長ファンなので彼を好きではなかったのですが、つい最近、実家が本願寺の檀家と判明したので…(40歳代/女性/愛知)
「本願寺の代表ですから…
佐久間信盛 やはりこの人は他と立場がまるっきり違うからですよ(40歳代/男性/福井)
「戦国に勝負はつきものですが、佐久間さんは家臣ですからね
織田信行 家の先祖は信行です。だから被害者と思います。でも子供たちは面倒を見てくれたので複雑です。(40歳代/男性/徳島)
「家を一つにまとめるための苦渋の選択かも知れませんね」
足利義昭 『余は将軍ぞ!余を敬い、尊ぶことこそ御身のためでおじゃる。』今回は難しかったですね。真面目にお市様など候補も考えましたが、ちょっとおふざけ気分で。(40歳代/男性/兵庫)
「なんか、やりたくてウズウズしてる感が…ホントは義昭さんの性格なんてわからないんですけどねww」
その他 松平信康信長から偏諱までもらったのに自刃なんて儚過ぎます。(50歳代/男性/愛知)
「スミマセンm(_ _)m最後の最後に選択肢から外しました~反省です」
その他 松平信康。例え直接的には家康と信康との内紛だったとしても、初期信長の武田家との宥和政策が家康を苦しめ、浜松城との分断を余儀なくされ、また度々の呆けた鷹狩りといい徳川内情への無理解の責は逃れ得ないと思う(30歳代/男性)
「やっぱり…ですか
佐久間信盛 佐久間さんか平手さんかな?他はどっちもどっちのところあるし。別所と経家さんはどっちかというと秀吉の被害者じゃね?(30歳代/男性/【海外】)
「そうですね~他は、あくまで勝負の世界ですからね
足利義昭 義昭が自ら会長に立候補しそう(40歳代/男性/山口)
「仕方無いなぁ~誰もやりたくないんならやってやるヨ!てなセリフが聞こえてきそうです」
平手政秀 まだ信長が大名として飛躍する前で、他大名とさして駆け引きもしていなかった頃の長男の傅役で心労も尋常ではなかったと思うので一票。(20歳代/男性/大阪)
「心労が耐えなかったでしょうね~」
足利義昭 「信長.被害者の会」の会長と言えば、大河ドラマから「信長め」と呼ぶの足利義昭を思い出す。(40歳代/男性/【海外】)
「そうなんですよ~ 何かイメージついちゃってますね」
その他 徳川家康正室の築山殿と嫡男の信康を死においやっています。(50歳代/女性/神奈川)
「スンマセン…悩んだ末に選択肢から外してしまいましたo(_ _)o」
その他 乳首を噛みきられた乳母(20歳代/男性/埼玉)
「若き日の養徳院さん(池田恒興のお母さん)だけは大丈夫だったようですが…
足利義昭 信長には都合の良いように使われて、追放されて.........。と、まあ信長の被害者としては一番でしょう。(10歳代/男性/埼玉)
「まぁ、性格的には『利用なんかされてないワイ!』て言いそうですけどね(笑)」
その他 お市(40歳代/男性/福岡)
「そう言えば、お市さんも犠牲者ですね~」
明智光秀 昔からの定番イメージ!。ほかの他国の群雄方とは違い織田家の身内!その身内が結局信長を討ったという結果から見ても、やはり会長では!と確信します。(60歳代/男性/神奈川)
「実際にやっちゃってますからね~
その他 信長の叔母のお艶の方など敗者の女性達。悪い意味で男女平等?
「男女平等ですし身内他人平等ですよね~叔母さんなのに…(ノ_-。)
足利義昭 なんで僕にかしずかんのや?という恨みをしつこーく持っていそうなキャラ設定(歴史上の行動)だし、何より将軍という肩書きから、被害者の会会長職がお似合いと思います。(30歳代/女性/岐阜)
「やはり会長というからには、それなりの肩書きが必要ですね」
今川義元 この人だったら皆が納得するでしょう。(60歳代/男性/和歌山)
「やっぱり…肩書きプラスその急降下っぷりですよね~」
足利義昭 会長ですからそれなりの地位のある方に就いて頂かないと!(笑)(20歳代/男性/愛知)
「PTAなら弁護士とか社長とか…ですもんね(*^-^)」
今川義元 基本的には、この人のせいな印象が(40歳代/男性/東京)
「確かに『なんで?』と言いたくなるような劇的ですよね~もし創作ドラマなら『ウマイ事いき過ぎやろ!』ってツッコミたくなるような
明智光秀 パワハラがきっかけで本能寺の変、と思ってしまいます。(女性/兵庫)
「やはりパワハライメージ強いですよね~」
佐久間信盛 譜代の家臣にすることじゃないけど、そこはさすが信長さん(30歳代/男性/香川)
「30年勤務のベテランですからね」
明智光秀 誰を推すか難しいですが・・・。(40歳代/男性/千葉)
「やはり、決め手は『最後にヤッタ』からですか?」
浅井長政 お市の方と別れてまで信長と戦わなければならなかったとは無常極まりない(70歳代/女性/神奈川)
「二人は良い夫婦だったイメージありますもんね~」
足利義昭 この中で最も会長に相応しいのは誰かっていうと、やっぱりこの方だと思います。別に滅びてもいないのに「幕府滅亡」とか言われるようになったのも、全部信長のせいだ!あと、副会長は三好長慶かな。
「そうですそうです(-ε-)将軍は天皇から任命されるもの…なんで京都を追われただけで滅亡なん?それやったら、三好に2回も京都を追われた義輝(しかも最後は暗殺)も滅亡になるやないかい!と個人的には思ってるんですが、未だに教科書は変わりませんね
明智光秀 明智でしょうww
「やはり、行動を起こしましたからね~」
足利義昭 いつも楽しみに拝見させてもらってます。ありがとうございます。これからも頑張ってください!応援してます。(40歳代/男性/大分)
「ありがとうございますo(_ _)o励みになります
佐久間信盛 いや、仮に本願寺で職務怠慢があったにしてもですよ、先代から一貫して付き従ってきた宿老に対する仕打ちじゃないでしょ。他と違って敵じゃ無いんだからw(40歳代/男性/愛知)
「そう…『敵じゃ無いんだから』に尽きますよね」
快川紹喜 いくら心頭滅却しても、亡くなり方が…(T△T)(30歳代/女性/福岡)
「涼しくなんか無いです!どう考えても暑…いや、熱いです
その他 徳川家康かな?嫁は殺されるし、息子は切腹させられるし・・・・
「天下取るまでは、我慢に我慢だったんでしょうね」
朝倉義景 名門が一瞬で滅びた感じがしたので(20歳代/男性/大阪)
「公家にも一目置かれる名門でしたからね~
今川義元 信長勃興の最初のきっかけを作ったとも言えるので。(60歳代/男性/兵庫)
「当時は、未だ無名の田舎侍でしたからね~
佐久間信盛 突然のリストラは、ツライ??(40歳代/男性/大阪)
「上司にそこまで言われちゃうと、再就職不可能ですよね~」
その他 比叡山長島一揆などの宗教系敵対者。抵抗も半端なかったから恨みの大きいかと。(40歳代/女性)
「一向一揆は顕如さんですが、そうですね~比叡山もありました」
顕如 元を正せば宗教弾圧された事に端を発している。仏の法(のり)を説くものが自分の欲で自分から仕掛けての争いではないので他人の意見を聞いた上で統率・采配出来ると思う。(60歳代/女性/千葉)
「ただ、この時代の宗教は武装して政治に介入するのでややこしいです」
明智光秀 実行に移して成功させたんだからそりゃ会長(40歳代/男性/福井)
「みんなの恨みを晴らしてくれたヒーロー的扱い…かな?」
武田勝頼 この人も兄の義信が父の信玄と諍いを起こさなければ、武田滅亡の張本人にならずに済んだのに、と同情します。(50歳代/女性/東京)
「そうですね~義元さんと同様に、このために愚将扱いされてますね~」
その他 濃姫だと思います。彼女の生涯についてはよく分かっていないようですが、信長の家臣、特に役に立たない家臣に対しての接し方を見れば想像はつきます。とても辛い人生だったのではないでしょうか。(50歳代/男性/石川)
「どうだったんでしょうね~史料が出て来てほしいですね」
その他 林秀貞信行に味方したから追放…理由が古すぎます。(30歳代/男性/静岡)
「定年直前のリストラ…秀貞にしてみれば『もっとはよ言うてくれたら、若いうちに別の会社に就職したわ!』って言いたかったかも
その他 お市の方と浅井三姉妹ではないでしょうかorz(20歳代/女性/広島)
「翻弄されまくりですからね~
荒木村重 めちゃ悩んだんですけど、、、やっぱり妻子をむごたらしく殺された荒木さんに一票です(?? ??)?(30歳代/女性/大阪)
「村重、逃げたからなぁ(。>0<。)」
足利義昭 推薦されなくてもやりたがりそうです(笑)
「『やっぱ、僕しかおらんやろ?そうやろ?』てな感じですかね?」
その他 寿桂尼さん。母として、その悲しさ悔しさは、いかばかりかと!(50歳代/女性/奈良)
「自らの遺言で鬼門の方角に埋葬…残された孫の事が心配だったでしょうね」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧くださいm(_ _)m)
その他 松平信康
(貧乏武士さん)
足利義昭 (高来郡司さん)
その他 徳川家康
(やぶひびさん)
その他 正親町天皇

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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2015年10月 5日 (月)

関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略

 

慶長五年(1600年)10月5日、関ヶ原の本戦の後、勝利を収めた徳川家康の命を受けた亀井玆矩らが鳥取城を攻撃しました。

・・・・・・

天下分け目の関ヶ原・・・

これまで、度々お話させていただいているように・・・
豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、その政権下で家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として実権握る徳川家康(とくがわいえやす)が、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発したスキに、留守となった伏見城石田三成(いしだみつなり)が攻撃(8月1日参照>>)し、これを知った家康が小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明・・・(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)

で、その小山評定のページで書かせていただいたように、この家康Uターンの時に、同じ豊臣の家臣として(この時点では家康も三成も豊臣の家臣です)会津征伐に同行していた諸将たちが、「このまま家康につくのか?」「畿内で兵を挙げた三成につくにか?」の選択を迫られる事になるわけですが・・・

先日も、日向(ひゅうが)宮崎における諸将の動向を紹介させていただきましたが(9月29日参照>>)、本日は、鳥取城攻撃の日付けに合わせて、因幡(いなば)鳥取県東部の諸将の動きをご紹介します。

・‥…━━━☆

今回の主役となる亀井玆矩(かめいこれのり)は、もともとは出雲(いずも=島根県東部)に君臨した山陰の雄尼子氏に仕えた武将でしたが、毛利に滅ぼされそうになった尼子一族の尼子勝久(かつひさ)が、織田信長(おだのぶなが)を頼ってお家再興を計った時に(5月4日参照>>)、そのまま信長傘下に組み込まれ、その後、中国地方の担当となった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の下で働く中、あの本能寺の変の中国大返しで活躍したりして、そのまま豊臣傘下となって、因幡鹿野(しかの=鳥取県鳥取市鹿野町)1万4000石を領する武将となっていました。

そんな中で、今回の、家康の会津征伐に従軍していた因幡の武将たち・・・

いち早く西軍につく事を表明した因幡若桜(わかさ=鳥取県八頭郡若桜町)木下重堅(きのしたしげかた)と、因幡浦住(うらすみ=鳥取県岩美郡)垣屋恒総(かきやつねふさ)は、早速、畿内で起こった伏見城の攻撃(8月1日参照>>)大津城の攻撃(9月7日参照>>)に加わります。

一方の亀井玆矩は、因幡鳥取(鳥取県鳥取市)宮部長房(みやべながふさ)とともに東軍につく事を表明・・・しかし、間もなく相方=長房は気が変わって西軍に寝返ろうとしたのか?、真夜中にわずかの者だけを従えて、無断で東軍の陣営を離れてしまったため、気づいた追手によって捕縛されて拘束されてしまいます。

・・・と、そんなこんなやってるうちに、ご存じ、9月15日には関ヶ原本チャン・・・(9月15日参照>>)

この本戦で勝利した家康は、亀井玆矩に、西軍についた木下重堅&垣屋恒総らの領地を平定するように命じます。

「待ってました!」と玆矩・・・

実は、玆矩は、関ヶ原当日、現地にて参戦していたものの、南宮山に布陣した毛利&吉川勢の動きをけん制する役回りを任されていたのですが、ご存じのように、毛利勢は、ギリギリの決戦前日に成立した約束によって(9月28日参照>>)、まったく動かず、結局、戦いに参加しなかった事で、玆矩自身は現地で何の働きもできなかったわけで・・・

せっかくの大戦、せっかくのチャンス・・・ここで大きな武功を挙げておかないと、せっかく勝利チームに属しておきながら、何の恩賞も貰えないハメになってしまいますがな!

Sekigaharainabacc
 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

大戦から1週間後の9月23日・・・玆矩は自ら400余の軍勢を率いて、一路、因幡へ・・・

早速、垣屋恒総の桐山城(きりやまじょう=鳥取県岩美郡岩美町)の攻撃し、またたく間に陥落させた後、続いて木下重堅の若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう=鳥取県八頭郡若桜町)もすぐに降伏させて無血開城へと運ばせます。

・・・というのも、実は、彼ら両人は、本チャンでの敗戦を受けて、恒総は高野山へと逃れて、すでに自刃・・・重堅も、摂津(せっつ=大阪)一心寺にて蟄居しており(この後の10月13日に自刃を命じられます)、どちらの城も、わずかな城兵しか残っていないばかりか、ご覧の通り、もはや、主を失っている状態なわけですから、そりゃ、ほぼ無抵抗で開城するわけです。

こうして、桐山城と若桜鬼ヶ城を、なんなく落した玆矩は、いよいよ鳥取城へと向かうのですが、ご存じのように、この鳥取城は、あの秀吉さえ、落とすのに3カ月以上かかった(10月25日参照>>)難攻不落の堅城・・・

先の両城同様に、到着早々に攻撃を開始しつつ、降伏&開城の誘い水をかけてはみる玆矩でしたが、留守を預かる城将の伊吹三左衛門は、降伏勧告に耳を貸さず、徹底抗戦の構えです。

そこで玆矩は、友人の赤松広秀(あかまつひろひで=広通・広英・斎村政広)を誘います。

この広秀は、室町時代に勢力を誇った赤松氏(3月12日参照>>)の流れを汲む名門ですが、戦国の世となって後、あの信長の中国攻めの時にその傘下に入って以来、秀吉の下で活躍し、当時は但馬竹田(たけだ=兵庫県朝来市和田山町)2万2000石を領していました(ちなみに雲海で超有名になった竹田城を構築したのは、この広秀さんです…(2月21日参照>>が、今回の関ヶ原では西軍につき細川幽斎(ゆうさい・藤孝=忠興の父の守る丹後田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)の攻撃(7月21日参照>>)に参加していたのです。

そう、このままでは敗軍の将として、何らかの罰を受けねばなりませんが、ここで東軍として参戦して功績を残せば、ギリ間に合うかも・・・いや、少しでも罪が軽くなれば、それで御の字ちゃうん?とばかりに、玆矩は広秀に声をかけたのです。

早速、広秀は、やはりそれまで西軍として関ヶ原に参加していた但馬出石(いずし=兵庫県豊岡市出石町)小出吉政(こいでよしまさ)と、丹波園部(そのべ=京都府南丹市)別所吉治(べっしょよしはる)たちも誘って、ともに鳥取城の攻撃に加わったのです。

かくして慶長五年(1600年)10月5日、遅ればせながらの寝返り東軍諸将を加えての鳥取城総攻撃が開始されたのです。

さすがの三左衛門も、連合軍による総攻撃となると太刀打ちできず、「これ以上の抗戦は死傷者を増やすばかり」との判断をして、開城の勧告を受け入れ、まもなく鳥取城攻防戦は終結しました。

おかげで、終戦後の論功行賞で、玆矩は3万8000石に加増され、小出吉政と別所吉治も所領安堵=つまり、「最初に西軍で参戦したお咎めは無し」って事になったんですね。

ところが、なぜか、赤松広秀だけ自刃を命じられてしまうのです。

直接の理由は、この鳥取城攻撃の際に城下を焼いた事が家康の逆鱗に触れたから・・・という事ですが、一説には、激怒する家康に平謝りで謝りたおした玆矩に、その全責任をなすりつけられたとも、はなから広秀を陥れる計画だったとも、逆に玆矩自身は、純粋に友人である広秀を救いたかっただけだったが家康がそうさせなかったとも・・・様々に言われます。

何とも不可解・・・

私個人としては、以前、広秀さんのご命日に日に書かせていただいた【関ヶ原後の豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀】のページ>>でお話させていただいたように、広秀が、かなり優秀な豊臣恩顧の武将であった事や、金の成る木の生野銀山を、家康は江戸幕府の直轄地にしたかったんじゃないか?と思っておりますが・・・

いずれにしても謎は簡単には解けそうに無い中、何とも後味の悪い終わり方をする鳥取城攻防戦@関ヶ原でした。
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