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2015年11月13日 (金)

戦国最弱は不屈の不死鳥~小田氏治の負けっぷり

 

慶長六年(1602年) 閏11月13日、戦国時代の常陸小田城主で、小田氏最後の当主となった武将・小田氏治がこの世を去りました。

・・・・・・・

「おだ」「おだ」でも「織田」ではなく「小田」・・・

今回ご紹介する小田氏治(おだうじはる)さん・・・実は、一部の歴史好きの間で大人気の武将なんですヽ(´▽`)/

その人気のヒミツは、何と言っても彼の戦績なんですが・・・

そもそも、小田氏治の小田氏は、あの源頼朝(みなもとのよりとも)に従って源平合戦で活躍した功績から、頼朝亡き後に鎌倉幕府内で発足した有力御家人13人による合議制(4月12日参照>>)の、その13人の中に入っていた八田知家(はったともいえ)を祖とする名門で、以来、.常陸国筑波郡小田邑(茨城県つくば市小田)を本拠として一帯を支配し、室町時代初めには、関東を支配する強い大名を意味する関東八屋形(かんとうはちやかた)の一つにも数えられました。

しかし、その室町時代も後半・・・いわゆる戦国=群雄割拠の時代になると、徐々に近隣諸国から領地を脅かされるようになるのです。

そんな中、天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(4月20日参照>>)で、氏治の父である小田政治(まさはる)足利晴氏(はるうじ)に味方した事から敗戦となり、しかも、その父は2年後に死亡・・・

Odauziharu300 このため氏治は、天文十七年(1548年)に、わずか14歳で家督を相続して小田家を引っ張っていかねばならなくなったのです。

しかも、ここに来て北関東の情勢は、ますます複雑化・・・望むと望まざるとにかかわらず、氏治は華麗なる戦いの日々へと突入して行きます。

まずは氏治・・・
常陸(ひたち=茨城県)佐竹義昭(さたけよしあき)の協力を得た事で、かねてより敵対関係にあった結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)城主の結城政勝(ゆうきまさかつ)への攻撃を開始しました。

しかし弘治二年(1556年)、相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(ほうじょううじやす)の援助を受けて軍を強化した政勝に、逆に小田領へと攻め込まれ敗退・・・本拠の小田城(茨城県つくば市)を奪われてしまいます。

でも、そのわずか半年後に氏治は北条と和解・・・北条の援助を失った結城勢から小田城を取り戻しました。

翌・弘治三年(1557年)には、かの佐竹と組んで、小田の支城にチョッカイを出して来た下妻城(しもつまじょう=茨城県下妻市)多賀谷政経(たがやまさつね)攻めるも敗れて小田城を奪われ、家臣の菅谷政貞(すげのやまささだ)土浦城(つちうらじょう=茨城県土浦市)へと逃走しました。

翌・永禄元年(1558年)には、またもや佐竹&多賀谷連合軍に敗退するも、さらに翌年の永禄二年(1559年)には、何とか小田城を奪回・・・

永禄三年(1559年)には、北条に反発する諸大名の要請を受けて関東まで遠征に出張って来た上杉謙信(うえすぎけんしん)(6月25日参照>>)に従って、北条側についた結城城を攻めて降伏させた後、北条の本拠である小田原城への攻撃にも加わりますが、小田原城の陥落を見ないまま、謙信は越後(えちご=新潟県)へと帰還・・・

そのため、またぞろ佐竹からの攻撃にさらされる事になった氏治は、北条へと転じてしまいます。

これに怒った謙信の意を受けて、佐竹義昭&宇都宮広綱(うつのみやひろつな)真壁氏幹(まかべうじもと)の連合軍が小田城を攻撃・・・たまらず氏治は藤沢城(茨城県土浦市藤沢)へと逃れ、小田城は落城します。

その後、何とか小田城を奪回しますが、永禄十二年(1569年)に、またまた佐竹&真壁の連合軍に敗退・・・手這坂(てはいざか)の戦いでも敗れて、またもや小田城を失い、またもや土浦城へ敗走・・・

って、どんだけ負けとんねん!(`ε´)

そう、氏治さんの魅力は、この見事な負けっぷりにあるんですねぇww

なので、巷では『戦国最弱の武将』なんて事も言われますが、実際には、ただ弱いだけでは人気者になれないわけで・・・そこには、負けても負けても立ち上がる、不屈の精神があるわけですよ。

考えてもみて下さい・・・
本当に弱いだけなら、生き馬の目を抜く戦国の世では、とっくに命を失ってるはずですが、何度も居城を奪われながらも、わずかな期間で奪回してますよね?

実は、この氏治さん・・・家臣や領民にメチャメチャ好かれていた良い領主だったんです。

聞くところによると、小田城を奪われていた間でも、領民たちは、新領主に屈する事なく、わざわざ逃走中の氏治に年貢を収めに行ってたんだとか・・・

家臣団は家臣団で、その結束の固さから、敗退してバラバラになっても、すぐに再び集まって忠誠を誓い合い、氏治のもとて立ちあがるのです。

まさに不死鳥・・・フェニックス氏治!
これこそが、最大の彼の魅力なのです。

そんな氏治は、もちろんその後も、土浦城や木田余城(きだまりじょう=茨城県土浦市木田余)などの支城を点々としながら小田城の奪還を試みるのですが・・・

そんなこんなの天正十八年(1590年)、まだまだ小田城奪回に執念を燃やす氏治は、小田城外にて佐竹方を攻撃し、間近まで迫りますが・・・

そう、天正十八年(1590年)と言えば・・・あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原攻めですがな!(4月3日参照>>)

このブログでも何度か書いておりますが、この時、秀吉は、各地の大名に、味方となって参戦するように促していた(12月24日参照>>)わけですが、佐竹対策に必死の氏治は参戦せず・・・逆に、豊臣方で参戦していた佐竹を攻撃してしまってた状態なわけで・・・

当然の事ながら、戦後、激怒した秀吉によって所領没収・・・小田城奪回どころか、大名としての小田氏も、ここに滅亡する事となってしまったのです。

その後は、娘が側室となっていた縁から、結城秀康(ゆうきひでやす=徳川家康の次男で秀吉の養子)に客分として迎え入れられ、慶長六年(1602年) 閏11月13日、その秀康の領地である越前(えちぜん=福井県)にて68歳の生涯を終えました。

そう・・・
戦国に生まれ、戦国に生き、こんだけ負けた氏治さんが、最期は畳の上で68歳の大往生を迎えたわけで・・・これは、ある意味強い?!

一般的には「常陸の不死鳥」との異名を持つ氏治さんですが・・・
負けても負けても立ちあがる不屈の精神、
魅力的な上司のもとで結束する家臣団や領民、

なんだか、今期ハヤリのドラマ=「下町ロケット」を見るようで、ついつい応援したくなっちゃいますね。

ただし、もし「下町ロケット」風に描くとしたら、彼らに立ちはだかる大企業の悪役は上杉謙信という事になる・・・なんせ、『別本和光院和漢合運』には、永禄九年(1566年)に小田城が落城した際には、城下にて上杉勢による乱取り(略奪や誘拐)甚だしく、その日の内に人身売買の市が立って、謙信の意向によって一人20銭(現在の2000円くらいらしい)~30銭で捕えられた人々が売られていった事が記されているので・・・

そのままドラマにしたら、まさに悪役の中の悪役・・・謙信ファンの方を敵に回しそうで怖い( ̄○ ̄;)!
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは!

小田氏治という人物、始めて知りました。家臣や領民に好かれていた…って所に何か親しみが持てそう!
昨今はカッコ良さとか力強さで武将を見ちゃう風潮があるけど、氏治のような人物こそ、その魅力が何なのかを追求するべきじゃないでしょうか。
さらには言えば、氏治の長男・友治の子の義治は母方の縁者である速水守久に招かれて大坂方として戦い、生き延びて福島正則の客将となっているんですね。そこも(大坂方シンパとしては)親しめそうなポイントかも!

投稿: 御堂 | 2015年11月15日 (日) 03時57分

御堂さん、こんばんは~

ホント、魅力的ですよね~
おっしゃる通り…関東の方ですが、関西人でも親しみを感じます。

投稿: 茶々 | 2015年11月16日 (月) 02時52分

小田氏治・・関東の戦国史なかなか面白いですね。地方地方で発掘したい魅力的な歴史物はたくさんありますね。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年11月27日 (金) 18時16分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~

魅力的な人で、まだまだ埋もれてる方は、たくさんおられるでしょうね。

投稿: 茶々 | 2015年11月28日 (土) 03時57分

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