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2015年11月28日 (土)

古河公方・足利晴氏と関東管領・北条氏綱の蜜月

 

天文八年(1539年)11月28日、古河公方・足利晴氏が北条氏綱の娘・芳春院と結婚しました。

・・・・・・・・・

鎌倉公方(かまくらくぼう)関東管領(かんとうかんれい)と…この両勢力のいぶつかりは、関東支配において必然的かつ重要な要素でもありました。

そもそもは、関東に領地を持っていながら、あの南北朝の動乱(12月21日参照>>)のために、京都にて幕府を開かねばならなかった室町幕府:初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都に居なけらばならない将軍に代わって、領地のある関東の支配を任せるべく作ったのが鎌倉公方・・・以来、将軍は尊氏の嫡男=義詮(よしあきら=三男)の家系が、鎌倉公方は弟=基氏(もとうじ=四男)の家系が世襲していく事となるのですが・・・(9月19日参照>>)

一方の関東管領は、その鎌倉公方の補佐をする執事(しつじ)・・・当時は将軍の補佐をする執事もいましたので、それと区別するべく「関東執事」と呼ばれたのが始まりで、最初は管領家と称される斯波氏畠山氏が就任していましたが、やがて、その名が「関東管領」と呼ばれるようになる第3代鎌倉公方=足利満兼(みつかね)の頃からは上杉氏が独占していくようになりました。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そんな中、本来は将軍家の代わりだった鎌倉公方は、しだいに関東の支配者として独自の道を歩み始めるのですが、その血筋による完全世襲の公方と違い、世襲とは言え、あくまで幕府に任命される立場である関東管領としては、その姿勢は幕府寄り・・・公方が将軍に反発すれば、それを制する側になるわけで、そこには、当然、公方VS関東管領の構図が生まれて来ることになります。

やがて永享十年(1438年)に入り、第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)が、第6代将軍=足利義教(よしのり)と対立・・・それは永享の乱(2018年2月10日参照>>)へと発展し、結城合戦(4月16日参照>>)を経て鎌倉公方は断絶状態に追い込まれます(2007年2月10日参照>>)

その後、その持氏の遺児=成氏(しげうじ)が、一旦は傀儡(かいらい=操り人形)の鎌倉公方に就任しますが、やがて亡き父が目指していたような独立色の強い関東支配を目標に、古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした事から)を名乗って大暴れしはじめます(9月30日参照>>)

もちろん、そんな勝手な行動を幕府が見逃すはずなく、幕府は将軍=義教の息子である足利政知(まさとも)を、公式の鎌倉公方として関東に派遣・・・しかし、動乱のために鎌倉に入れなかった政知は、手前の伊豆堀越(ほりごえ)堀越御所(静岡県伊豆の国市)を建設して、そこを本拠とした事から堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれました。

・・・で、その堀越公方の2代目(←諸説あり)足利茶々丸(ちゃちゃまる)を倒して関東支配に乗り出したのが、ご存じ北条早雲(ほうじょうそううん)(10月11日参照>>)でした。

その後、管領の上杉は、その上杉同志でモメる(9月27日参照>>)、成氏の後を継いだ古河公方2代目の足利政氏(まさうじ)の息子同志がモメて(6月23日参照>>)、兄の高基(たかもと)に対抗すべく、弟の義明(よしあき)が独立して小弓公(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城が本拠)を名乗りはじめるわで、ますます混乱する中、そんな彼らと着かず離れず、徐々に関東での地位を固める北条は、初代=早雲から2代目=北条氏綱(うじつな)の時代へと移っていくのです。

Houzyouuzituna300a 永正十六年(1519年)に父の早雲が亡くなってからちょっと間は合戦を控えて領国経営に没頭する氏綱でしたが、大永四年(1524年)、敵対する扇谷(おうぎがやつ)上杉の家臣である太田資高(おおたすけたか)に、自らの娘を嫁がせて味方につけ、事実上、資高の江戸城を攻略した(1月13日参照>>)ばかりか、その後も追い打ちをかけていきます。

これに対して、扇谷上杉は、それまで敵対していた山内(やまのうち)上杉古河公方の高基、小弓公方の義明とも和睦し、さらに甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)をも味方につけ、まさに北条包囲網を敷いたのです。

もちろん、ここには、小弓公方を推す安房(あわ=千葉南部)里見(さとみ)も全面協力・・・大永六年(1526年)には鎌倉へと侵攻して(鶴岡八幡宮の戦い=11月12日参照>>)四面楚歌の氏綱は最大のピンチ!となるのですが、

その鶴岡八幡宮の戦いのページにも書かせていただいたように、この時の里見は、後継者争いという内紛を抱えていたわけで・・・

この内紛によって分裂した里見が北条包囲網から脱落した事をキッカケに氏綱は形勢逆転・・・天文六年(1537年)には扇谷上杉の本拠である河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)陥落させました(7月15日参照>>)

一方、この間に、駿河(するが=静岡県東部)の今川でもお家騒動=花倉の乱(6月10日参照>>)が発生・・・この乱に勝利して後継者となった今川義元(いまがわよしもと)が、かの北条包囲網の一角である武田信虎の娘を娶って、武田と同盟を結んだ事から、父=早雲の頃からの仲良しだった今川と(9月21日参照>>)、氏綱は決別する事になります。

とは言え、去る者あれば、来る者あり・・・

同じく、この間に、かの古河公方でも、高基と、その息子の晴氏(はるうじ)の間で抗争が勃発したらしく(←諸説ありくわしい事は不明)古河公方の座も高基から晴氏へ移行しますが、この晴氏が小弓公方の義明と抗争をしていた関係から、氏綱は晴氏と接近・・・

晴氏の要請を受けた氏綱は、天文七年(1538年)10月、第一次国府台合戦にて義明を討ち取り(10月7日参照>>)小弓公方を滅亡させたのです。

この功績により、氏綱は、晴氏から関東管領職に任じられます『伊佐早文書』に依る)

・・・と、この関東管領・・・前半部分に書かせていただいている通り、本来は室町幕府が任命する物で、上記の通り、この頃は上杉が代々継いでいたわけで、現に、この時にも、山内上杉憲政(やまのうちうえすぎのりまさが関東管領職に着いていました。

なので、歴史的見解では、「正式な関東管領では無い」との見方もありますが、そもそも、公方が複数存在している時点で、幕府による関東の支配もグダグダ感満載なワケですから、そんな中では正式か正式で無いかもウヤムヤになる事山の如し・・・

思えば、将軍も足利家なら公方も足利家・・・将軍では無く、公方からの任命であったとしても、もともと幕府に任命された守護大名でも無かった北条家にとっては、この関東管領は、この上無く名誉な事であっただろうと思います。

実は、それ以前の天文元年(1532年)、まだ敵対関係では無かった小弓公方の義明から許可を得た氏綱は、鶴岡八幡宮の造営を開始しています。

ご存じのように、戦乱や災害で崩壊した神社仏閣を再建したり造営したりする事業は、天下人、あるいはその地方を支配下に治めた者が行う公共事業であり、それを行う事がその地を統治したという証にもなるというのが、歴史上の暗黙の了解なわけですが、そんな中でも鶴岡八幡宮と言えば、足利の祖である源頼朝(みなもとのよりとも)によって勧請(かんじょう)された東国一帯の鎮守・・・つまり関東一円の代表的な神社なわけで・・・

この造営をするという事は、東国の正統な支配者を意味するわけで、本来なら鎌倉公方の足利や、関東管領の上杉が行わねばならないわけですが、それを北条がやっていた・・・しかも、ここに来て、後付けではあるものの関東管領職を得た事で、鶴岡八幡宮を造営すべき地位を、氏綱は正式に得た事になったわけです。

そして、いよいよ天文八年(1539年)11月28日・・・氏綱の娘(後の芳春院)が足利晴氏のもとへと嫁ぎ、ここに北条氏は、渋川(しぶかわ)吉良(きら)山内上杉といった名門家と並ぶ、足利氏「御一家」という家格も手に入れたのです。

さらに、翌・天文九年(1540年)11月21日には、鶴岡八幡宮の正遷宮(しょうせんぐう=神社の改築・修繕が完了して、神体を仮殿  から新殿に遷座すること)を挙行という一大事業も成し遂げました。

一方で、ライバルになりそうな吉良には、娘を嫁がせたうえに一族の者を養子に送り込んだりして、何重もの縁を結んで関係を深めています。

こうして、父=早雲から受け継いだ関東の地盤を、盤石な物に固めた2代目=氏綱・・・

この後、氏綱の後を継いだ息子の氏康(うじやす)が、戦国三大奇襲の一つに数えられる河越夜戦(4月20日参照>>)で、「かの古河公方の晴氏を扇谷&山内=両上杉ごと蹴散す」という下剋上の極みをやらかしちゃうので、

初代の父と目立つ息子に挟まれて、何かとスポットの当たり難い氏綱さんではありますが、100年・5代に渡って関東に君臨する北条家の、しっかりした基礎を築いたのは、やはり、この氏綱である!・・・と言えるのです。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

こんばんは、茶々さん。
あまり関係ないですが阿波公方と呼ばれた方々がいましたがこの方々は古河公方の子孫よりも待遇が悪いのです。本家ですし義詮や義満の子孫なのにです。何故こういう待遇の差が出たのでしょうか?
でも本来鎌倉公方と言うのは関東管領です。一休さんにも出てきました。だから公方様と呼ぶのはおかしいです。寧ろ阿波公方は本来ならば公方様なのにです。ちょっと感情が出ましたが、でも現在では阿波公方の方々が本家に戻ったのは嬉しいです。

投稿: non | 2016年1月 5日 (火) 18時27分

nonさん、こんにちは~

阿波公方は三好が大切にしてましたが、負け組となってしまいましたから…

>本来鎌倉公方と言うのは関東管領です…

??よくわかりません。
鎌倉公方は足利家、その執事である関東管領職につくのは斯波・畠山・上杉などの管領家だと思いますが…

一休さんは京都が舞台だと思いますが、関東管領って出てましたっけ?

投稿: 茶々 | 2016年1月 6日 (水) 14時28分

茶々さん、こんにちは。
関東管領は本来は関東執事で、鎌倉公方は関東管領だったそうです。Wikiの鎌倉公方のところに書いています。ちょっとマウスが壊れて、コピーできませんので・・・
一休さんで将軍様に面会したいと関東管領が来ていました。どう見ても対等だったので鎌倉公方は関東管領が正式名称だと思いました。
阿波公方は可哀そうなのです。三好についていましたが阿波では名君でしたし、文化活動にも熱心な教養人でした。今でも徳島では阿波公方を惜しむ声は多いです。

投稿: non | 2016年1月 6日 (水) 15時30分

nonさん、こんにちは~

名称の事を言っておられるのですね?

確かに最初のうちはそうだったかもですが、歴史の話をする時にそれを持ち出すと、お互いが感違いして話が噛みあわず、おかしな流れになります。
なので、教科書でもメディアでも、途中で名前が変わった物でも、最も知名度のある一つの名称に統一するのが一般的だと思いますよ。

投稿: 茶々 | 2016年1月 6日 (水) 16時08分

茶々さん、こんにちは。
茶々さんは優しいですね。私はこういう事を言いましたらいつも総スカンを喰らっています。正式名称を言ってしまうからです。
それはそうと鎌倉公方ですが義詮、基氏の頃は兄が後継者、弟が鎌倉という様に父尊氏の教えに従いましたが、氏満は反抗したとしても行動しませんでしたが、満兼以降は実力も無いのに反抗しますね。何故なのでしょうか?特に持氏はちょっと義教を馬鹿にし過ぎていませんか。あれだと攻め滅ぼされてもおかしくないと思います。
最後に義教関連で言いますと私が見た資料ですと義教と一休さんは知り合いみたいです。一緒に修行していたころもあるそうです。また調べなおしたいと思います。

投稿: non | 2016年1月 7日 (木) 13時02分

nonさん、こんにちは~

>義教と一休さんは知り合いみたいです

たぶん知り合いだったと思います。
一休さんは後小松天皇のご落胤説がありますし、義教が将軍になった年には、天皇の即位にも口出す位の地位だったわけですし…

投稿: 茶々 | 2016年1月 7日 (木) 17時14分

茶々さん、こんばんは。
そうなんですか。あの口出しは義教が諸郡即位の時ですか。
天皇の子、将軍の子が僧侶にされたのでお互いの境遇を慰め合ったのでしょうね。
そう言えば映画を見ていますと道元と公暁は比叡山で一緒に修行していたみたいですね。

投稿: non | 2016年1月 7日 (木) 21時20分

将軍になった年ですね。どうも変換がだめです。PCは古くなりました。
ところで畿内、関東の混乱はやはり義教が暗殺されたのが原因でしょうか。義教が天下統一に成功したら凄かっただろうと思いますし、信長以上になったと思います。

投稿: non | 2016年1月 7日 (木) 21時23分

nonさん、こんばんは~

すみません、書き方がヘタで誤解を招いてしまいました。

ご存じの通り義教の将軍就任はくじ引きで、意休さんの口出しは、それと同じ時期に行われた後花園天皇の即位についてです。
もちろん、その即位には義教さんも関与してますので、たぶん知り合いだったんだろうなぁ、と思った次第です。

投稿: 茶々 | 2016年1月 8日 (金) 02時25分

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