滝沢馬琴の最期~嫁・路の献身
嘉永元年(1848年)11月6日、あの『南総里見八犬伝』の著者として有名な滝沢馬琴が亡くなりました。
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この滝沢馬琴(たきざわばきん)さん・・・本名を滝沢興邦(おきくに)さんと言い、ペンネームが曲亭馬琴(きょくていばきん)ですが、実のところ、滝沢馬琴という呼び方は後世の人が本名とくっつけて勝手にそう呼ぶようになたのであって、ご本人は一度も使った事がないのだとか・・・
そんな馬琴は、江戸・深川の旗本屋敷の用人・滝沢興義(おきよし)の三男として生まれ・・・と行きたいところですが、その生涯については、すでに9年前の2006年に、やはりご命日の本日=11月6日の日付で書かせていただいております(2006年11月6日のページ>>)。
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とは言え、未だブログを始めて間もなくの記事という事で、アッサリし過ぎで書き足りない事山の如しなんですが、足りない部分の個々の出来事については、また、おいおい書かせていただく事として、本日は、やはりごご命日という事で、以前のページでは触れなかったその最期の姿にスポットを当ててお話させていただきたいと思います。
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若い頃は放浪の日々を送ったりしていた馬琴ですが、30代に本格的に作家の道を歩み始めてからは、出世作となった『高尾船字文(たかおせんじもん)』を皮切りに、、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』『月氷奇縁(げつひやうきえん)』などの小説を精力的に発表しちゃぁ、次々とヒットを飛ばした事で、おそらくは金銭的には裕福だったと思われますが、
70歳を過ぎた頃から、老齢のためか?視力が衰えて来て、執筆期間=28年間にも渡る大作で天保十三年(1842年)に刊行に至った、あの『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』も、最後の方は、馬琴が声に出した物を、息子=宗伯(そうはく=天保六年(18356年)に死去)の嫁=みち(土岐村路)が書く・・・いわゆる口述筆記で、なんとか完成に至ったという経緯がありました。
なので、晩年の馬琴は、その、息子の嫁のみちや、その息子(=つまり孫)の太郎に、古典作品や自らの著作物を読んでもらって、それを聴くという毎日でした。
そんなこんなの嘉永元年(1848年)・・・
この年の秋の訪れは非常に早く、すでに寒い日々が続いていた9月28日。
この日は馬琴の祖母の命日であった事から、(上記の通り、馬琴の息子はすでに亡くなっているので)家督を継いでいた孫の太郎が、一家を代表して菩提寺にお参りして供養を済ませましたが、帰り際に降り出した雨に当たったせいか、帰宅して間もなくに風邪の症状を見せ始め、熱を出して寝込んでしまいます。
翌日も、薄曇りの寒い日だったので、馬琴は火鉢を手放せない状態となって一日中火に当たっていましたが、夕方頃になると、逆にのぼせてしまって気分が悪く、胸に痛みを感じるように・・・
とは言え、寒さが苦手な馬琴にとっては、この体調不良と胸の痛みは、晩年になってからの毎冬の恒例行事・・・
寒いの苦手→一日中火鉢に当たる→のぼせる→気分悪くて胸痛い→くりかえし→
て事で、さほど気にもせず、いつもの置き薬を飲んで様子を見つつ、自身の『傾城水滸伝(けいせいすいこでん)』をみちに読んでもらいながら、ゆっくり過ごしておりました。
一方、気になるのは孫の太郎です。
2~3日経っても熱が下がらなかった事から、医師の診察を受けて、熱さましや葛根湯(かっこんとう)などの漢方薬で対処してもらっていましたが、その甲斐あってか、10月に入る頃には症状も軽くなり、10月7日には熱も下がり、このまま治っていくであろう様子・・・
ところが、太郎の様態とはうらはらに、この頃から、馬琴にぜんそくの発作が出始めるのです。
10月15日には苦しくて、横になるのもままならないようになり、馬琴はここで、ようやく医師の処方した薬を試してみますが、もはや厠へ行く事もできない状態に・・・
それでも、親戚がお見舞いに持って来てくれたブドウや、お粥、うどんなどはよく食べ、「ぜんそくに効く」と言われる鳩やショウガなんかも口にしますが、お察しの通り、これらの民間療法は即効性の無い物ですから、なかなか病状は快復しませんでした。
見かねたみちが
「医者を変えましょうか?」
と尋ねますが、馬琴は
「こんな年寄りに医師三昧の薬漬けはいらん」
と・・・
実は、馬琴には、医学の知識が、かなりあったんですね。
それは彼の母・・・以前、母親が亡くなった時に、「もっとしてやれた事があったんじゃないか?」という後悔の念にかられており、以来、医学を猛勉強・・・
今は亡き、息子の宗伯が医者になったのも、父=馬琴の強い願いがあったからとも言われています。
しかも、その関連からか、嫁のみちの実家も医者・・・
つまり、馬琴さんのお家は、医学や薬の知識を持ってる人だらけだったわけで、だからこそ、馬琴自身も、現在診てくれている医師が間違った処方をしていない事は充分知ってわけで、それなのに医者を代えても薬を代えても、結果は同じだという事を悟っていたのです。
11月5日、みちは、庭に生えている竹を切って竹瀝油(ちくれきゆ)を作りました。
これは、生の竹を火であぶって、その切り口から出た褐色の液を集めたもので、ぜんそくや肺炎、解熱作用などがある民間薬として飲まれている物でした。
その後、家の中に祀ってある観音様にお百度参りをして、舅の病の快復を祈願しましたが、夜になって馬琴の容態は、ますます悪くなりました。
「胸が痛い!」
と、のたうちまわるほど苦しみ・・・
たまに少し落ち着きますが、その落ち着きはすぐに終わって、また苦しみ・・・というのをくり返しながら、やがて日付けは嘉永元年(1848年)11月6日に・・・
その日の明け方頃、ついに馬琴は、この世を去ったのです。
享年=82歳・・・葬儀は、2日後の8日に盛大に行われ、参列者は350人にも上ったとの事・・・
物書きである馬琴さん・・・自身の事についても詳細な日記を綴っていた事から、その最期へと至る様子も見て来たかのように分かるわけですが、もちろん、その大いなる日記の最後の仕上げを行ったのは、舅の晩年に、その目となり手となって物書きのお手伝いをした嫁=みちさん・・・
まさにバトンタッチするように、馬琴最後の年となったこの嘉永元年(1848年)から書き始めた彼女の日記は、後に『路女日記(みちじょにっき)』として刊行され、その生き方は貞女の鑑と評判になったという事です。
まぁ、あまりの舅×嫁に密着ぶりに、馬琴の奥さんは、かなりヤキモチを焼いていたようではありますが・・・
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コメント
滝沢馬琴・・・八十何歳とは、当時の平均寿命は32、3歳でしたから、稀に見る長寿でしょう。大作南総里見八犬伝は、20数年の年月をかけて書かれ、後半は口述筆記させたというから、凄いですね。
少年の頃に読んだ八犬伝の勇士の話は、血沸き肉踊るものでしたね。;:゙;`(゚∀゚)`;:゙
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年11月27日 (金) 18時25分
根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~
八犬伝のお話は、ホントおもしろいですね。
私は、あの人形劇の印象が強いですが…
投稿: 茶々 | 2015年11月28日 (土) 03時59分
茶々さん、こんばんは。
一昨年に二回倉吉に行きましたが、倉吉で里見家の菩提寺を訪れました。倉吉藩最後の殿様である里見忠義と八人の殉死の墓を見て、改めて里見家の悲劇に思いをふけました。
馬琴ですが江戸時代の後半で里見家の事は忘れ去られていますがよく里見家の悲劇を知っていたと感心します。
里見家は八犬伝と違い悲劇に終わりましたが、馬琴が残したことで名誉挽回されたと思います。
里見家の物語はある意味で幕府への抗議を表した感じがします。
私は倉吉駅から倉吉中心部まで歩きましたが1時間かかりました。距離にしますと7キロ以上はありました。茶々さん、もし倉吉に行かれるようでしたら倉吉駅から路線バスに乗った方が良いです。歩くのは無謀すぎます。
投稿: non | 2016年1月 8日 (金) 17時40分
nonさん、こんばんは~
そうなんですか~
倉吉は行った事無いですね~
7kmはイイ運動ですね。
投稿: 茶々 | 2016年1月 9日 (土) 02時10分
ところで映画「八犬伝」はご覧になりましたか?今年の時代劇の映画作品では最注目作です。
経歴を考えると来年の大河ドラマ・べらぼうにも出てもおかしくないのですが、べらぼうは今の時点で決定している登場人物を見ると、「鬼平・剣客・必殺・商売人」のような印象ですね。
投稿: えびすこ | 2024年12月 7日 (土) 14時37分
えびすこさん、こんばんは~
今回の「八犬伝」は見てませんね~
昔の薬師丸さんのは見ましたが…
どんな大河になるんでしょうね。
楽しみです。
投稿: 茶々 | 2024年12月 8日 (日) 02時48分