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2015年11月28日 (土)

古河公方・足利晴氏と関東管領・北条氏綱の蜜月

 

天文八年(1539年)11月28日、古河公方・足利晴氏が北条氏綱の娘・芳春院と結婚しました。

・・・・・・・・・

鎌倉公方(かまくらくぼう)関東管領(かんとうかんれい)と…この両勢力のいぶつかりは、関東支配において必然的かつ重要な要素でもありました。

そもそもは、関東に領地を持っていながら、あの南北朝の動乱(12月21日参照>>)のために、京都にて幕府を開かねばならなかった室町幕府:初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都に居なけらばならない将軍に代わって、領地のある関東の支配を任せるべく作ったのが鎌倉公方・・・以来、将軍は尊氏の嫡男=義詮(よしあきら=三男)の家系が、鎌倉公方は弟=基氏(もとうじ=四男)の家系が世襲していく事となるのですが・・・(9月19日参照>>)

一方の関東管領は、その鎌倉公方の補佐をする執事(しつじ)・・・当時は将軍の補佐をする執事もいましたので、それと区別するべく「関東執事」と呼ばれたのが始まりで、最初は管領家と称される斯波氏畠山氏が就任していましたが、やがて、その名が「関東管領」と呼ばれるようになる第3代鎌倉公方=足利満兼(みつかね)の頃からは上杉氏が独占していくようになりました。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そんな中、本来は将軍家の代わりだった鎌倉公方は、しだいに関東の支配者として独自の道を歩み始めるのですが、その血筋による完全世襲の公方と違い、世襲とは言え、あくまで幕府に任命される立場である関東管領としては、その姿勢は幕府寄り・・・公方が将軍に反発すれば、それを制する側になるわけで、そこには、当然、公方VS関東管領の構図が生まれて来ることになります。

やがて永享十年(1438年)に入り、第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)が、第6代将軍=足利義教(よしのり)と対立・・・それは永享の乱(2018年2月10日参照>>)へと発展し、結城合戦(4月16日参照>>)を経て鎌倉公方は断絶状態に追い込まれます(2007年2月10日参照>>)

その後、その持氏の遺児=成氏(しげうじ)が、一旦は傀儡(かいらい=操り人形)の鎌倉公方に就任しますが、やがて亡き父が目指していたような独立色の強い関東支配を目標に、古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした事から)を名乗って大暴れしはじめます(9月30日参照>>)

もちろん、そんな勝手な行動を幕府が見逃すはずなく、幕府は将軍=義教の息子である足利政知(まさとも)を、公式の鎌倉公方として関東に派遣・・・しかし、動乱のために鎌倉に入れなかった政知は、手前の伊豆堀越(ほりごえ)堀越御所(静岡県伊豆の国市)を建設して、そこを本拠とした事から堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれました。

・・・で、その堀越公方の2代目(←諸説あり)足利茶々丸(ちゃちゃまる)を倒して関東支配に乗り出したのが、ご存じ北条早雲(ほうじょうそううん)(10月11日参照>>)でした。

その後、管領の上杉は、その上杉同志でモメる(9月27日参照>>)、成氏の後を継いだ古河公方2代目の足利政氏(まさうじ)の息子同志がモメて(6月23日参照>>)、兄の高基(たかもと)に対抗すべく、弟の義明(よしあき)が独立して小弓公(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城が本拠)を名乗りはじめるわで、ますます混乱する中、そんな彼らと着かず離れず、徐々に関東での地位を固める北条は、初代=早雲から2代目=北条氏綱(うじつな)の時代へと移っていくのです。

Houzyouuzituna300a 永正十六年(1519年)に父の早雲が亡くなってからちょっと間は合戦を控えて領国経営に没頭する氏綱でしたが、大永四年(1524年)、敵対する扇谷(おうぎがやつ)上杉の家臣である太田資高(おおたすけたか)に、自らの娘を嫁がせて味方につけ、事実上、資高の江戸城を攻略した(1月13日参照>>)ばかりか、その後も追い打ちをかけていきます。

これに対して、扇谷上杉は、それまで敵対していた山内(やまのうち)上杉古河公方の高基、小弓公方の義明とも和睦し、さらに甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)をも味方につけ、まさに北条包囲網を敷いたのです。

もちろん、ここには、小弓公方を推す安房(あわ=千葉南部)里見(さとみ)も全面協力・・・大永六年(1526年)には鎌倉へと侵攻して(鶴岡八幡宮の戦い=11月12日参照>>)四面楚歌の氏綱は最大のピンチ!となるのですが、

その鶴岡八幡宮の戦いのページにも書かせていただいたように、この時の里見は、後継者争いという内紛を抱えていたわけで・・・

この内紛によって分裂した里見が北条包囲網から脱落した事をキッカケに氏綱は形勢逆転・・・天文六年(1537年)には扇谷上杉の本拠である河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)陥落させました(7月15日参照>>)

一方、この間に、駿河(するが=静岡県東部)の今川でもお家騒動=花倉の乱(6月10日参照>>)が発生・・・この乱に勝利して後継者となった今川義元(いまがわよしもと)が、かの北条包囲網の一角である武田信虎の娘を娶って、武田と同盟を結んだ事から、父=早雲の頃からの仲良しだった今川と(9月21日参照>>)、氏綱は決別する事になります。

とは言え、去る者あれば、来る者あり・・・

同じく、この間に、かの古河公方でも、高基と、その息子の晴氏(はるうじ)の間で抗争が勃発したらしく(←諸説ありくわしい事は不明)古河公方の座も高基から晴氏へ移行しますが、この晴氏が小弓公方の義明と抗争をしていた関係から、氏綱は晴氏と接近・・・

晴氏の要請を受けた氏綱は、天文七年(1538年)10月、第一次国府台合戦にて義明を討ち取り(10月7日参照>>)小弓公方を滅亡させたのです。

この功績により、氏綱は、晴氏から関東管領職に任じられます『伊佐早文書』に依る)

・・・と、この関東管領・・・前半部分に書かせていただいている通り、本来は室町幕府が任命する物で、上記の通り、この頃は上杉が代々継いでいたわけで、現に、この時にも、山内上杉憲政(やまのうちうえすぎのりまさが関東管領職に着いていました。

なので、歴史的見解では、「正式な関東管領では無い」との見方もありますが、そもそも、公方が複数存在している時点で、幕府による関東の支配もグダグダ感満載なワケですから、そんな中では正式か正式で無いかもウヤムヤになる事山の如し・・・

思えば、将軍も足利家なら公方も足利家・・・将軍では無く、公方からの任命であったとしても、もともと幕府に任命された守護大名でも無かった北条家にとっては、この関東管領は、この上無く名誉な事であっただろうと思います。

実は、それ以前の天文元年(1532年)、まだ敵対関係では無かった小弓公方の義明から許可を得た氏綱は、鶴岡八幡宮の造営を開始しています。

ご存じのように、戦乱や災害で崩壊した神社仏閣を再建したり造営したりする事業は、天下人、あるいはその地方を支配下に治めた者が行う公共事業であり、それを行う事がその地を統治したという証にもなるというのが、歴史上の暗黙の了解なわけですが、そんな中でも鶴岡八幡宮と言えば、足利の祖である源頼朝(みなもとのよりとも)によって勧請(かんじょう)された東国一帯の鎮守・・・つまり関東一円の代表的な神社なわけで・・・

この造営をするという事は、東国の正統な支配者を意味するわけで、本来なら鎌倉公方の足利や、関東管領の上杉が行わねばならないわけですが、それを北条がやっていた・・・しかも、ここに来て、後付けではあるものの関東管領職を得た事で、鶴岡八幡宮を造営すべき地位を、氏綱は正式に得た事になったわけです。

そして、いよいよ天文八年(1539年)11月28日・・・氏綱の娘(後の芳春院)が足利晴氏のもとへと嫁ぎ、ここに北条氏は、渋川(しぶかわ)吉良(きら)山内上杉といった名門家と並ぶ、足利氏「御一家」という家格も手に入れたのです。

さらに、翌・天文九年(1540年)11月21日には、鶴岡八幡宮の正遷宮(しょうせんぐう=神社の改築・修繕が完了して、神体を仮殿  から新殿に遷座すること)を挙行という一大事業も成し遂げました。

一方で、ライバルになりそうな吉良には、娘を嫁がせたうえに一族の者を養子に送り込んだりして、何重もの縁を結んで関係を深めています。

こうして、父=早雲から受け継いだ関東の地盤を、盤石な物に固めた2代目=氏綱・・・

この後、氏綱の後を継いだ息子の氏康(うじやす)が、戦国三大奇襲の一つに数えられる河越夜戦(4月20日参照>>)で、「かの古河公方の晴氏を扇谷&山内=両上杉ごと蹴散す」という下剋上の極みをやらかしちゃうので、

初代の父と目立つ息子に挟まれて、何かとスポットの当たり難い氏綱さんではありますが、100年・5代に渡って関東に君臨する北条家の、しっかりした基礎を築いたのは、やはり、この氏綱である!・・・と言えるのです。
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2015年11月19日 (木)

残りの人生丸儲け~小林一茶、最期の時

 

文政十年(1827年)11月19日、江戸時代を代表する俳諧師の一人・小林一茶が、この世を去りました。

・・・・・・・・

とにもかくにも、この小林一茶(こばやしいっさ)という方は、俳句でイメージする優雅で落ち着いた印象とはうらはらな、なかなかに波乱の人生を歩んでおられるお方でして・・・

信州柏原宿(長野県信濃町柏原)の農家に生まれた一茶は、3歳で母親を亡くした後、8歳で迎えた継母との折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公に出され、やがて、亡くなった父の遺産を巡って、その母と、今ハヤリの遺産争続・・・12年間もの争いに和解し、故郷に定住すべく舞い戻ったのは文化十年(1813年)の1月でした。

奉公に出されてから、実に36年の歳月・・・もちろん、それまでにも、病に倒れた父の看病やら、それこそ継母との遺産相続の話やらで、何度か故郷に帰ってはいましたが、ここに来て、やっとこさ流浪の身に終止符を打ち、終の棲家に落ち着こうと考えたのでした。

Kobayasiissa300a 時に、一茶、51歳・・・

しかし、彼の体は、本人が思っていた以上に疲れていたのかも知れません。

帰郷から、わずか5カ月ほどの頃、善光寺の祇園祭に出かけた一茶は、お尻にできた腫れ物のせいで、その後、70日もの間、病床に臥せってしまいます。

しかし、そんな中でもウレシイ出来事も・・・
間もなく、一茶のもとには、24歳年下の若い奥さんが・・・初婚の一茶はハリキって子作りに励みますが、それが、どうやらハリキリ過ぎたか?

54歳の文化十三年7月には(おこり=マラリアのような熱病)にかかり、一旦完治するものの、57歳の文政二年7月にも、またまた瘧に・・・

翌・文政三年10月には、出かけた先の雪道で転び、中風(ちゅうぶ=脳梗塞や脳出血、くも膜下出血などの後遺症)が起こったために駕籠にて帰宅して、そのまま布団へGO!・・・一時は、歩くどころか口まで不自由になっていたとか・・・

この時、すでに二人の間には長男が生まれていたので、赤ちゃんの世話もせねばならず、さぞかし奥さんは大変だったと思いますが、そんな中でのガンバリが効いたのか?病気は間もなく快復し、正月には
♪今年から 丸まうけ(儲け)ぞよ 娑婆遊び ♪
と吟じました。

この時に、自身の事を「蘇生坊」と称してますから、つまりは
「去年、もう死ぬわ~っと思た中で快復したんやさかい、今年からの人生は丸儲けやな」
てな感じです。

なんだか、ホッとする俳句ですね~
良かった良かった・・・

しかし・・・
そんな中、一茶との間に3男1女をもうけた、あの若い奥さんがお亡くなりに・・・翌・62歳の文政七年に貰った、これまた28歳と若い2度目の奥さんとはソリが合わず、わずか3カ月のスピード離婚。

しかも、離婚した翌月、弟子宅にて、またもや中風がぶりかえし・・・
「ふと舌廻らぬやまひおこりて…」
と告白していらっしゃる事から、どうやら言語障害になっていたようで・・・

とは言え、これも何とか快復した一茶は、文政九年、64歳にして3度目の結婚を・・・またまたお若い32歳の新妻でしたが、

なんと、今度は、その翌年の6月に村を襲った大火によって、小林一家は焼け出されてしまうのです。

一旦は弟子宅に避難するも、何とか焼け残った自宅の土蔵を修理して住めるようにして、3ヶ月後の9月には自宅へと戻りました。

ちょうどその頃、
「先生!今、メッチャ菊が見頃でっせ!」
と弟子たちが誘うので、未だ、身体は思うように動かなかったものの、比較的元気だったので、駕籠に乗りつつ、アチラコチラの菊の名所を見物・・・

自宅の土蔵に戻った11月8日には、いかにも機嫌よくしていましたが、その11日後の文政十年(1827年)11月19日(西暦では1828年1月5日)、いきなり、気分が悪くなったと訴えます。

それは、あの雪道で転んだ時に起こって以来、3度目の中風の発作でした。

そして、その日の夕方・・・一声の念仏を唱えて後、一茶は、仮住まいの土蔵の中で、64年の生涯を閉じたのでした。

この時、すでに最初の奥さんとの間に生まれた子供は、すべてを幼くして亡くしてしまっていた一茶・・・新しい奥さんのお腹の中には、待望の赤ちゃんが宿っていましたが、一茶は、その子の顔を見る事なく、逝ってしまったのです。

ただ一つの救いは、一茶が亡くなった翌年に生まれた女の子は健やかに育ち、その子孫の方が、今現在も長野県信濃町にお住まいなのだとか・・・

また、一茶57歳の文政二年に成立した『おらが春』(12月29日参照>>)が、その死から25年後に読物として刊行される事となります。
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2015年11月13日 (金)

戦国最弱は不屈の不死鳥~小田氏治の負けっぷり

 

慶長六年(1602年) 閏11月13日、戦国時代の常陸小田城主で、小田氏最後の当主となった武将・小田氏治がこの世を去りました。

・・・・・・・

「おだ」「おだ」でも「織田」ではなく「小田」・・・

今回ご紹介する小田氏治(おだうじはる)さん・・・実は、一部の歴史好きの間で大人気の武将なんですヽ(´▽`)/

その人気のヒミツは、何と言っても彼の戦績なんですが・・・

そもそも、小田氏治の小田氏は、あの源頼朝(みなもとのよりとも)に従って源平合戦で活躍した功績から、頼朝亡き後に鎌倉幕府内で発足した有力御家人13人による合議制(4月12日参照>>)の、その13人の中に入っていた八田知家(はったともいえ)を祖とする名門で、以来、.常陸国筑波郡小田邑(茨城県つくば市小田)を本拠として一帯を支配し、室町時代初めには、関東を支配する強い大名を意味する関東八屋形(かんとうはちやかた)の一つにも数えられました。

しかし、その室町時代も後半・・・いわゆる戦国=群雄割拠の時代になると、徐々に近隣諸国から領地を脅かされるようになるのです。

そんな中、天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(4月20日参照>>)で、氏治の父である小田政治(まさはる)足利晴氏(はるうじ)に味方した事から敗戦となり、しかも、その父は2年後に死亡・・・

Odauziharu300 このため氏治は、天文十七年(1548年)に、わずか14歳で家督を相続して小田家を引っ張っていかねばならなくなったのです。

しかも、ここに来て北関東の情勢は、ますます複雑化・・・望むと望まざるとにかかわらず、氏治は華麗なる戦いの日々へと突入して行きます。

まずは氏治・・・
常陸(ひたち=茨城県)佐竹義昭(さたけよしあき)の協力を得た事で、かねてより敵対関係にあった結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)城主の結城政勝(ゆうきまさかつ)への攻撃を開始しました。

しかし弘治二年(1556年)、相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(ほうじょううじやす)の援助を受けて軍を強化した政勝に、逆に小田領へと攻め込まれ敗退・・・本拠の小田城(茨城県つくば市)を奪われてしまいます。

でも、そのわずか半年後に氏治は北条と和解・・・北条の援助を失った結城勢から小田城を取り戻しました。

翌・弘治三年(1557年)には、かの佐竹と組んで、小田の支城にチョッカイを出して来た下妻城(しもつまじょう=茨城県下妻市)多賀谷政経(たがやまさつね)攻めるも敗れて小田城を奪われ、家臣の菅谷政貞(すげのやまささだ)土浦城(つちうらじょう=茨城県土浦市)へと逃走しました。

翌・永禄元年(1558年)には、またもや佐竹&多賀谷連合軍に敗退するも、さらに翌年の永禄二年(1559年)には、何とか小田城を奪回・・・

永禄三年(1559年)には、北条に反発する諸大名の要請を受けて関東まで遠征に出張って来た上杉謙信(うえすぎけんしん)(6月25日参照>>)に従って、北条側についた結城城を攻めて降伏させた後、北条の本拠である小田原城への攻撃にも加わりますが、小田原城の陥落を見ないまま、謙信は越後(えちご=新潟県)へと帰還・・・

そのため、またぞろ佐竹からの攻撃にさらされる事になった氏治は、北条へと転じてしまいます。

これに怒った謙信の意を受けて、佐竹義昭&宇都宮広綱(うつのみやひろつな)真壁氏幹(まかべうじもと)の連合軍が小田城を攻撃・・・たまらず氏治は藤沢城(茨城県土浦市藤沢)へと逃れ、小田城は落城します。

その後、何とか小田城を奪回しますが、永禄十二年(1569年)に、またまた佐竹&真壁の連合軍に敗退・・・手這坂(てはいざか)の戦いでも敗れて、またもや小田城を失い、またもや土浦城へ敗走・・・

って、どんだけ負けとんねん!(`ε´)

そう、氏治さんの魅力は、この見事な負けっぷりにあるんですねぇww

なので、巷では『戦国最弱の武将』なんて事も言われますが、実際には、ただ弱いだけでは人気者になれないわけで・・・そこには、負けても負けても立ち上がる、不屈の精神があるわけですよ。

考えてもみて下さい・・・
本当に弱いだけなら、生き馬の目を抜く戦国の世では、とっくに命を失ってるはずですが、何度も居城を奪われながらも、わずかな期間で奪回してますよね?

実は、この氏治さん・・・家臣や領民にメチャメチャ好かれていた良い領主だったんです。

聞くところによると、小田城を奪われていた間でも、領民たちは、新領主に屈する事なく、わざわざ逃走中の氏治に年貢を収めに行ってたんだとか・・・

家臣団は家臣団で、その結束の固さから、敗退してバラバラになっても、すぐに再び集まって忠誠を誓い合い、氏治のもとて立ちあがるのです。

まさに不死鳥・・・フェニックス氏治!
これこそが、最大の彼の魅力なのです。

そんな氏治は、もちろんその後も、土浦城や木田余城(きだまりじょう=茨城県土浦市木田余)などの支城を点々としながら小田城の奪還を試みるのですが・・・

そんなこんなの天正十八年(1590年)、まだまだ小田城奪回に執念を燃やす氏治は、小田城外にて佐竹方を攻撃し、間近まで迫りますが・・・

そう、天正十八年(1590年)と言えば・・・あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原攻めですがな!(4月3日参照>>)

このブログでも何度か書いておりますが、この時、秀吉は、各地の大名に、味方となって参戦するように促していた(12月24日参照>>)わけですが、佐竹対策に必死の氏治は参戦せず・・・逆に、豊臣方で参戦していた佐竹を攻撃してしまってた状態なわけで・・・

当然の事ながら、戦後、激怒した秀吉によって所領没収・・・小田城奪回どころか、大名としての小田氏も、ここに滅亡する事となってしまったのです。

その後は、娘が側室となっていた縁から、結城秀康(ゆうきひでやす=徳川家康の次男で秀吉の養子)に客分として迎え入れられ、慶長六年(1602年) 閏11月13日、その秀康の領地である越前(えちぜん=福井県)にて68歳の生涯を終えました。

そう・・・
戦国に生まれ、戦国に生き、こんだけ負けた氏治さんが、最期は畳の上で68歳の大往生を迎えたわけで・・・これは、ある意味強い?!

一般的には「常陸の不死鳥」との異名を持つ氏治さんですが・・・
負けても負けても立ちあがる不屈の精神、
魅力的な上司のもとで結束する家臣団や領民、

なんだか、今期ハヤリのドラマ=「下町ロケット」を見るようで、ついつい応援したくなっちゃいますね。

ただし、もし「下町ロケット」風に描くとしたら、彼らに立ちはだかる大企業の悪役は上杉謙信という事になる・・・なんせ、『別本和光院和漢合運』には、永禄九年(1566年)に小田城が落城した際には、城下にて上杉勢による乱取り(略奪や誘拐)甚だしく、その日の内に人身売買の市が立って、謙信の意向によって一人20銭(現在の2000円くらいらしい)~30銭で捕えられた人々が売られていった事が記されているので・・・

そのままドラマにしたら、まさに悪役の中の悪役・・・謙信ファンの方を敵に回しそうで怖い( ̄○ ̄;)!
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2015年11月 6日 (金)

滝沢馬琴の最期~嫁・路の献身

 

嘉永元年(1848年)11月6日、あの『南総里見八犬伝』の著者として有名な滝沢馬琴が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

この滝沢馬琴(たきざわばきん)さん・・・本名を滝沢興邦(おきくに)さんと言い、ペンネームが曲亭馬琴(きょくていばきん)ですが、実のところ、滝沢馬琴という呼び方は後世の人が本名とくっつけて勝手にそう呼ぶようになたのであって、ご本人は一度も使った事がないのだとか・・・

Takizawabakin600a そんな馬琴は、江戸・深川旗本屋敷の用人滝沢興義(おきよし)の三男として生まれ・・・と行きたいところですが、その生涯については、すでに9年前の2006年に、やはりご命日の本日=11月6日の日付で書かせていただいております(2006年11月6日のページ>>)

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とは言え、未だブログを始めて間もなくの記事という事で、アッサリし過ぎで書き足りない事山の如しなんですが、足りない部分の個々の出来事については、また、おいおい書かせていただく事として、本日は、やはりごご命日という事で、以前のページでは触れなかったその最期の姿にスポットを当ててお話させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

若い頃は放浪の日々を送ったりしていた馬琴ですが、30代に本格的に作家の道を歩み始めてからは、出世作となった『高尾船字文(たかおせんじもん)を皮切りに、、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』『月氷奇縁(げつひやうきえんなどの小説を精力的に発表しちゃぁ、次々とヒットを飛ばした事で、おそらくは金銭的には裕福だったと思われますが、

70歳を過ぎた頃から、老齢のためか?視力が衰えて来て、執筆期間=28年間にも渡る大作で天保十三年(1842年)に刊行に至った、あの『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)も、最後の方は、馬琴が声に出した物を、息子=宗伯(そうはく=天保六年(18356年)に死去)の嫁=みち(土岐村路)が書く・・・いわゆる口述筆記で、なんとか完成に至ったという経緯がありました。

なので、晩年の馬琴は、その、息子の嫁のみちや、その息子(=つまり孫)太郎に、古典作品や自らの著作物を読んでもらって、それを聴くという毎日でした。

そんなこんなの嘉永元年(1848年)・・・
この年の秋の訪れは非常に早く、すでに寒い日々が続いていた9月28日。

この日は馬琴の祖母の命日であった事から、(上記の通り、馬琴の息子はすでに亡くなっているので)家督を継いでいた孫の太郎が、一家を代表して菩提寺にお参りして供養を済ませましたが、帰り際に降り出した雨に当たったせいか、帰宅して間もなくに風邪の症状を見せ始め、熱を出して寝込んでしまいます。

翌日も、薄曇りの寒い日だったので、馬琴は火鉢を手放せない状態となって一日中火に当たっていましたが、夕方頃になると、逆にのぼせてしまって気分が悪く、胸に痛みを感じるように・・・

とは言え、寒さが苦手な馬琴にとっては、この体調不良と胸の痛みは、晩年になってからの毎冬の恒例行事・・・
寒いの苦手→一日中火鉢に当たる→のぼせる→気分悪くて胸痛い→くりかえし→
て事で、さほど気にもせず、いつもの置き薬を飲んで様子を見つつ、自身の『傾城水滸伝(けいせいすいこでん)みちに読んでもらいながら、ゆっくり過ごしておりました。

一方、気になるのは孫の太郎です。

2~3日経っても熱が下がらなかった事から、医師の診察を受けて、熱さましや葛根湯(かっこんとう)などの漢方薬で対処してもらっていましたが、その甲斐あってか、10月に入る頃には症状も軽くなり、10月7日には熱も下がり、このまま治っていくであろう様子・・・

ところが、太郎の様態とはうらはらに、この頃から、馬琴にぜんそくの発作が出始めるのです。

10月15日には苦しくて、横になるのもままならないようになり、馬琴はここで、ようやく医師の処方した薬を試してみますが、もはや厠へ行く事もできない状態に・・・

それでも、親戚がお見舞いに持って来てくれたブドウや、お粥、うどんなどはよく食べ、「ぜんそくに効く」と言われる鳩やショウガなんかも口にしますが、お察しの通り、これらの民間療法は即効性の無い物ですから、なかなか病状は快復しませんでした。

見かねたみちが
「医者を変えましょうか?」
と尋ねますが、馬琴は
「こんな年寄りに医師三昧の薬漬けはいらん」
と・・・

実は、馬琴には、医学の知識が、かなりあったんですね。

それは彼の母・・・以前、母親が亡くなった時に、「もっとしてやれた事があったんじゃないか?」という後悔の念にかられており、以来、医学を猛勉強・・・

今は亡き、息子の宗伯が医者になったのも、父=馬琴の強い願いがあったからとも言われています。

しかも、その関連からか、嫁のみちの実家も医者・・・

つまり、馬琴さんのお家は、医学や薬の知識を持ってる人だらけだったわけで、だからこそ、馬琴自身も、現在診てくれている医師が間違った処方をしていない事は充分知ってわけで、それなのに医者を代えても薬を代えても、結果は同じだという事を悟っていたのです。

11月5日、みちは、庭に生えている竹を切って竹瀝油(ちくれきゆ)を作りました。

これは、生の竹を火であぶって、その切り口から出た褐色の液を集めたもので、ぜんそくや肺炎、解熱作用などがある民間薬として飲まれている物でした。

その後、家の中に祀ってある観音様にお百度参りをして、舅の病の快復を祈願しましたが、夜になって馬琴の容態は、ますます悪くなりました。

「胸が痛い!」
と、のたうちまわるほど苦しみ・・・

たまに少し落ち着きますが、その落ち着きはすぐに終わって、また苦しみ・・・というのをくり返しながら、やがて日付けは嘉永元年(1848年)11月6日に・・・

その日の明け方頃、ついに馬琴は、この世を去ったのです。

享年=82歳・・・葬儀は、2日後の8日に盛大に行われ、参列者は350人にも上ったとの事・・・

物書きである馬琴さん・・・自身の事についても詳細な日記を綴っていた事から、その最期へと至る様子も見て来たかのように分かるわけですが、もちろん、その大いなる日記の最後の仕上げを行ったのは、舅の晩年に、その目となり手となって物書きのお手伝いをした嫁=みちさん・・・

まさにバトンタッチするように、馬琴最後の年となったこの嘉永元年(1848年)から書き始めた彼女の日記は、後に『路女日記(みちじょにっき)として刊行され、その生き方は貞女の鑑と評判になったという事です。

まぁ、あまりの舅×嫁に密着ぶりに、馬琴の奥さんは、かなりヤキモチを焼いていたようではありますが・・・
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