大坂冬の陣・真田丸の攻防~真田幸村と松平直政
慶長十九年(1614年)12月4日、大坂冬の陣における真田丸の攻防がありました。
・・・・・・・・・・・
豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣政権の五大老筆頭として腕を振るい、関ヶ原の戦いで豊臣家内の反対派を一掃してますます力をつけた徳川家康(とくがわいえやす)は、いよいよ最終目標=徳川政権を打ちたてるための最大の障害物である秀吉の遺児=豊臣秀頼(ひでより)を葬り去るべく、あらゆる手段を講じて、豊臣家を決戦の場に引きずり出したのです。
これが、冬と夏の2回に渡って勃発した、ご存じ大坂の陣・・・
さらにくわしくは、
【関ヶ原の戦いの年表】>>
【大坂の陣の年表】>>
でどうぞm(_ _)m
そんな中での今回の真田丸(さなだまる)・・・
2016年の大河ドラマの題名であもある事から、もはや皆様ご存じの事と思いますが、大坂の陣勃発を予感した豊臣秀頼=大坂方からの要請を受けて、幽閉先であった九度山から脱出して大坂城に入った(10月9日参照>>)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)が、「周囲を川や堀に囲まれた難攻不落の大坂城が、もし攻められるとしたら、南に広がる平坦な地形から…」と考え、大坂城惣構(そうがまえ)の南東に位置する場所に、突き出すように構築した出丸が、その真田丸です(【真田丸はどこにあった?】参照>>)。
(注:大河ドラマの「真田丸」は、この出丸を含め、幸村(信繁)を中心とした真田家を1隻の船に例えての「真田丸」という意味だそうです)
もし敵が、真田丸を攻撃しようと、矢や鉄砲をかいくぐりつつ、近くにたどり着いたとしても、ここで何重もの柵や堀にまたもや行く手を阻まれる・・・
ならば、真田丸を避けて惣構に直接・・・という者は、やはり突き出た真田丸からの側面からの矢や鉄砲攻撃に晒される事になります。
案の定、冬の陣真っただ中の慶長十九年(1614年)12月4日、午前2時頃、奇襲作戦の如く攻めかかった徳川方は、この真田丸を攻めあぐねた末に大きな痛手を被り、この冬の陣で一気に決着を着けたかった家康を「とりあえず一旦和睦」の方向へ向かわせたとも言われます。
(戦いの様子は、まだブログを始めたばかりの記事ですがよろしければ…【大坂冬の陣~真田丸の攻防】>>でどうぞ)
さすがは名将=幸村、計算され尽くした「ここぞ!」というピンポイントに出丸を造るなんて!!・・・と思いきや、実は、この真田丸の構築の際のおもしろい逸話が『落穂集』に残っています。
その『落穂集』によれば、城の東南にあたるこの場所に、いち早く目をつけたのは、あの後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)(2008年5月6日参照>>)・・・それとわかるように縄張りを示し、木材やら竹材やらを運び込んで準備をしていたところ、ある日突然、又兵衛の資材が縄張りの外に運び出されていて、何者かが、せっせと普請に取りかかっていたと・・・
「もし、上の人たちの指示やったとしても、実行する前に俺に何らかの報告があるはず!絶対おかしい」「誰やねん!」と怒り心頭の又兵衛・・・「明日には、もっと人数揃えて、取り返したんねん!」と息巻く又兵衛を「まぁ、まぁ、まぁ」と、冷静になだめる薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)(2009年5月6日参照>>)・・・
そんなこんなしてるうちに、その相手が真田幸村だと判明します。
実は、この時の大坂城内では、未だ海の者とも山の者ともわかっていなかった幸村に、
「アイツのお父ちゃんはスゴイけど(父ちゃん=真田昌幸6月4日参照>>)アイツ自身はどやねん?」
「実戦経験ほとんど無いけど、役に立つヤツなんかいな?」
との、あまり良くない噂が囁かれていたのです。
汚名返上のためにも、何としてでも大手柄がほしい幸村は、誰かが準備をしはじめていた場所を「ここ、ええやん!ベストポジションやで」と、そこにあった資材と退けて、新たに自分たちの資材を持ち込んで、出丸の構築を開始してしまったのです。
もちろん、相手が幸村だとわかっても、怒りが収まらない又兵衛ではありましたが、薄田隼人の他にも明石全登(あかしたけのり・景盛)(5月8日参照>>)やら長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)(5月15日参照>>)やら有楽斎(うらくさい=織田長益)(12月13日参照>>)やらやらが間に入って、「味方同志でモメてる場合やないし…」「合戦の時にはええグループに入れてもらえるように、上に声かけとくさかい」などとなだめすかして、何とか収まったようです。
なんだか、戦国というよりは、現代の会社内で利益競う営業マンにも似たエピソードではありますが、こうしてベストポジションに陣取ったおかげ・・・いや、もちろん、その合戦での幸村以下真田隊の活躍もあって、この真田丸の攻防は、大坂の陣の中でも屈指の大坂方圧勝の戦いとなったわけです。
結局、夜中の2時から始まった攻防戦は、その日の正午過ぎになっても徳川方に攻撃の成果は見られず、逆に真田丸からの攻撃によって死傷者が増すばかりとなり、午後3時頃に井伊隊が撤退を開始したのを皮切りに、諸将たちも徐々に後退しはじめます。
しかし、そんな中で一人奮起するのは松平直政(まつだいらなおまさ)・・・彼は、あの結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)の三男で松平忠直(まつだいらただなお)(6月10日参照>>)の弟、つまりは家康の孫。。。この時、14歳での初陣でした。
『松江藩祖直政公事蹟』によれば・・・
皆が尻ごみする中、後陣より、兵卒の中を進み出て、真田丸の堀に乗りこみ、木戸のギリギリまで迫る姿を見て、側近が
「大将なんですから、後陣に居て指示する側に回って下さい」
と言うと、
「お前が指示にまわれや!俺は先頭を行って軍勢の士気を盛り上げる!」
と言い、側近を跳ねのけるように
「猛将は進んで死ぬ事を栄誉とし、後退して生きる事を屈辱とするんや!お前は臆病者か?」
と聞き返し、持っていた鞭を振るって、さらに前へ出ます。
その様子を出丸から見ていた幸村・・・周囲に合図して、ひとまず矢を止めさせると、
「えらい頼もしい若武者やな」
と、櫓(やぐら)の上から直政に声をかけます。
さらに続けて、
「カッコええ話やけど、ここは隙間なく攻撃できるように、厳しく造った難攻の出丸やさかい、君のような大将が進み出て命を落とす場所や無いねん。
もし、ここが破られたと聞いたなら、早々に駆け付けて来たらええ…そしたら、この首を、君に差し上げるよって…」
と、その約束の証として、幸村は1本の軍扇を櫓から投げ落とします。
その扇子を受け取った直政・・・
「あなたの運が尽きて討たれる時は、おそらく雑兵でも、その首取れるでしょうね。
今、真っ盛りの策略を張り巡らした出丸を落として首を取ってこそ名誉という物ですやん!
大将やからて、矢を止める事など無用ですわ。
降りそそぐ矢の下にて、必ず、この出丸を攻め落としてみせます!」
と、高らかに言い放ったのだとか・・・
ま、結局は、この後、冬の陣は和睦となり(12月19日参照>>)、その条件の中に真田丸の破却が入っていた事で、直政の「落としてみせる!」という思いは叶わなかったわけですが・・・
それにしても、雅な源平の一騎打ちを思わせるようなこのやりとり・・・
なんだか、あまりにカッコ良過ぎて、「ホンマかいな?」と思ってしまいますが、この直政さんが、後に城主となる、あの国宝=松江城には、何と、この時、直政が幸村から受け取った軍扇が、今も保存&展示されているのです。
(茶々が行ったのは未だ重要文化財で国宝になるちょっと前なので、国宝になった現段階では展示が変わっているかもですが、松の木に日の丸が描かれている扇子でしたよ)
・・・て、事は、この一服の絵のようなカッコイイ光景も実際にあったのかも?
と思うと、ワクワクしますねo(*^▽^*)o
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コメント
真田幸村は架空の人物というのが定説になっていますが・・・大阪の陣の真田丸も史実なのかどうか・・・。( ^ω^)おっおっおっ
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年12月 4日 (金) 16時29分
根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~
兄貴が弟で弟が兄貴の可能性は無きにしも非ずですが、さすがに架空の人物の可能性は低いと思いますよ。
大阪城のすぐ近くで生まれ育ち、身も心も大坂方の茶々ですが、架空の人物説が定説になってるとは知りませんでした。
「幸村」という名前の事をおっしゃっているのでしたら、確かに、本文でも両方の名前を紹介させていただているように、幸村は講談&軍記物の世界の名で、本名は信繁だという説が一般的で有名ですが、
幸村の名が、軍記物以前にまったく出て来ないかと言えばそうでは無いらしく、「時期や場面によって使い分けていたのではないか?」と考えておられる専門家の方もおられますよ。
まぁ、このブログの場合は幸村の名前の方が有名なので、「幸村(信繁)」表記にさせていただいてますが…
投稿: 茶々 | 2015年12月 5日 (土) 01時36分
だいたい関ヶ原の戦い前後の時期に生まれた人は大坂の陣が「生涯唯一の(大規模な)戦さ」になりますね。討ち死にした人を含めても。
真田幸村の長男もそうだったはず。
上杉景勝が真田丸に出ます(演者・遠藤憲一さん)ね。前に大河ドラマで上杉景勝が登場した天地人で、景勝の少年期・喜平次を演じた溝口琢矢くんですが、今特撮番組に出ていますがご存知でしょうか?いま20歳ですっかり青年に成長しました。
投稿: えびすこ | 2015年12月 9日 (水) 10時38分
えびすこさん、こんにちは~
電王の佐藤健クン、フォーゼの福士蒼汰クンを筆頭に仮面ライダーは、その後に出世する人が多いので、今後が楽しみですね(*゚▽゚)ノ
子役さんたちは、大きくなるのが早いです。。。
神木クンと未来ちゃんのLOVE報道を見た時は親の気持ちになっちゃいました(*゚ー゚*)
投稿: 茶々 | 2015年12月 9日 (水) 16時05分
管理人様、お久しぶりです。
またお邪魔させていただきました(^w^)
来年の大河で真田丸が取り上げられると聞いて、こちらの記事にたどり着きました。
というか、真田幸村さん自体、あんまり詳しくないので、『へぇ~』と思いながら読んでいます。
学生のとき、真面目に日本史やっとけばよかった…(苦笑)
なので、幸村さんの人生の終わり際に、こんなドラマチックな話があるなんて知りませんでした。
管理人様の軽妙なセリフまわしで、映像が目に浮かぶようで、読んでて面白かったです。
また、面白いお話を勝手ながら期待させていただきます!
投稿: ぶれす | 2015年12月10日 (木) 11時34分
ぶれすさん、こんにちは~
うれしいコメントありがとうございますm(_ _)m
今後ともよろしくお願いします。
また、遊びに来てくださいませ。
投稿: 茶々 | 2015年12月10日 (木) 16時51分
大河ドラマ真田丸では「真田信繁」の呼称を優先するようです。ナレーションでも「この若者の名前は真田信繁。後世で言う真田幸村」などの紹介になるかも。
少なくとも親族を含めて登場人物が「幸村」と呼ばないのは、テレビ時代劇で初めてかも?
そういえば真田丸での本多忠勝役の藤岡弘、さんは初代・仮面ライダーでしたね。「特撮俳優の大御所」です。
投稿: えびすこ | 2015年12月15日 (火) 10時22分
えびすこさん、こんにちは~
番組紹介や関連情報が主だったNHKの番組ホームページに、いよいよ「登場人物」のページが更新されましたね。
楽しみです。
投稿: 茶々 | 2015年12月15日 (火) 17時53分
茶々さん、寒中お見舞い申し上げます!
さて、いよいよ「真田丸」始まりますね。期待度は超特大です(笑)
今年は「大河効果」に便乗して、主に八尾周辺を散策しようと計画中なんですよ。(メインは木村重成って事で!)
さらに、3月までには北浜周辺をそぞろ歩こうかな!とも…(「あさが来た」の五代さまツアーを兼ねて 笑)
今年も茶々さんの"歴史語り"楽しませて下さいね
投稿: 御堂 | 2016年1月 8日 (金) 19時29分
御堂さん、おめでとうございます
私も、大大大期待してますヽ(´▽`)/
予告編を見る限りでは、ここのところの大河では、ほぼナレーションスルーだった合戦シーンもあるみたいで…
大阪城から天王寺までの上町周辺も、真っ赤な幟があちこちに立ってますww
「あさが来た」は見て無いのですが、五代さまと言えば、北浜に銅像が建ってる方ですよね?
投稿: 茶々 | 2016年1月 9日 (土) 02時24分
茶々様、お邪魔いたします。
『真田丸』やっぱ三谷ワールドっすね。
登場人物がみんなコメディアンになっちゃうのはしょうがないので、これはこれということで^^;;;
個人的には昌幸の弟の真田信尹が活躍しているのがなかなかいいです。
池波真田太平記だとほんのちょっとかすってるだけでしたが、今回はいい感じで出てますね。
真田家の二股生き残り作戦をより深く描けるのではないでしょうか?
緊張感やリアリティは「真田太平記」に及ぶべくもないですが、ディテールで楽しむのもいいのではないかと愚考いたします。
NHKなんだし視聴率だけで一喜一憂しないでほしいですね。
投稿: しまだ | 2016年2月 8日 (月) 23時30分
しまださん、こんばんは~
『真田丸』…
私も「オモシロイ」と思って見ておりますヨ。
老兵の軍語りなんかの文献を読んでいると、合戦中なのに緊張感無い話や、マジメな時に下ネタ挟んだりドタバタしたり、武将たちの意外な一面を見る事があって、そういう面では今回の『真田丸』も、案外リアリティあるのかな?なんて…思いながら見ております。
投稿: 茶々 | 2016年2月 9日 (火) 04時56分