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2015年12月31日 (木)

日本史の新発見&発掘…2015年総まとめ

 

いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、この2015年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 奈良県立橿原考古学研究所奈良県明日香村小山田(こやまだ)遺跡で、飛鳥時代中期(7世紀中頃)頃の巨大な古墳の墳丘の一部と濠跡を発見…方墳と推定されるその遺跡は、飛鳥時代最大級の蘇我馬子(そがのうまこ)の墓とされる石舞台古墳(11月13日参照>>)より大きい事から、第34代:舒明天皇初葬墓(しょそうぼ=改葬前の墓)である滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高いとみられますが、一方では馬子の子=蘇我蝦夷(えみし)大陵とも考えられるとの事。
滋賀県彦根市松原町松原内湖遺跡の丘陵地から、織田信長(おだのぶなが)が元亀元年(1570年)の佐和山城攻めの際に築いた堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)などの遺構を発見…織豊期における包囲網戦を考える貴重な史料となりそうです。
2月 大阪文化財研究所が大阪市の難波宮(なにわのみや)近くで、地方行政単位「五十戸」を記した木簡が出土した事を発表…大化の改新後の646年に難波宮に遷都した孝徳天皇(6月14日参照>>)「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに一人徴発せよ」との(みことのり)を発した事が書かれている『日本書紀』内容を裏付ける証拠となる可能性も…
3月 滋賀県彦根市教育委員会が、彦根城から、石田三成(いしだみつなり)の居城で関ケ原合戦で落城した佐和山城で使われていた石垣と瓦片を確認…佐和山城の石垣を利用したことは江戸中期に書かれた井伊家文書「井伊年譜」に記述がありますが(2月1日参照>>)実際に発見されたのは初めて
4月 福井県が、織田信長に攻められた越前朝倉義景(あさくらよしかげ)自害した(8月6日参照>>)事を伝える羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)書状を、島根県在住の個人から購入した事を発表…義景自害後にその事が書かれた最も早い書状との事。
5月 昨年(2014年)6月に、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛てた四国攻めに関する書状が見つかった(昨年のニュース総まとめページ>>)岡山市北区林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に元関白:近衛前久(このえさきひさ)が、本能寺の変の9ヶ月後に元親の腹心に宛て、困窮状態への助力を求めた書状を発見…光秀謀反の要因=「四国説」(6月11日参照>>)を後押しする史料として注目を浴びそうです。
6月 京都平安文化財(京都市伏見区)が、豊臣秀吉が造営した伏見城(3月7日参照>>)の初期段階にあたる指月(しげつ)城とみられる石垣と堀が見つかったと発表…城の中心部が確認されたのは初めてで、「幻の城」とされてきた指月城の存在をより確実にする貴重な遺構です。
大阪府高槻市安満(あま)遺跡にて、弥生時代前期(約2500年前)近畿における最古級の水田跡を確認…近畿地方で米作りが始まった頃の風景や稲作のルーツを探る新発見となりそうです。
7月 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が、ドイツボンで開催されていた「第39回 世界遺産委員会」において世界文化遺産に登録されることが決定しました。
平安時代後期の約60年間に7回以上の拡張工事が行われたとみられる滋賀県長浜市塩津港遺跡の遺構から、多種多様な遺物を次々と発見…中でも、今回確認された造成技術や石製としては最古級となる12世紀頃の硯(すずり)など、この塩津港が交通の要所として繁栄していた事をうかがわせる物が多数。
8月 兵庫県あわじ市で発見された弥生時代中期の銅鐸(どうたく)7個のうち、大きい銅鐸に小さい銅鐸をはめ込んだ「入れ子」状態の1組2個を調査したところ、つい手にあたる「鈕(ちゅう)と、内部につり下げて打ち鳴らすであろう棒=「舌(ぜつ)ひもやひもをつけた痕跡を発見銅鐸や舌からひもが見つかったのは初めてで銅鐸の使用法を探る貴重な発見となります。
9月 奈良県明日香村の飛鳥時代(7世紀)に造られた国内最古の宮廷庭園跡=飛鳥京跡苑池で、苑池に入るための門跡を発見…天皇たちが利用した門の跡であると見られ、未だ全体像がつかめない苑池を考察するうえでの貴重な発見となっています。
京都市の中心街=四条烏丸に近い改築予定の店舗兼住宅地から、室町時代の寺院の物とみられる風呂跡や、香炉等の土器類、瓦などが出土…江戸時代の観光ガイドブックにしか、その存在が記されていなかった幻の寺=五条寺の可能性があるとして調べがすすめられています。
10月 国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、第2次大戦後のシベリア抑留の資料国宝「東寺百合文書」(いずれも京都府所在)の重要性を認め、世界記憶遺産に登録した事を発表しました。
11月 「みだれ髪」などで知られる歌人=与謝野晶子(よさのあきこ)が半身不随になった最晩年、鉛筆書きの乱れる字で短歌の草稿を記したノートを、東京都内に住む晶子のひ孫さんが納戸で発見しました。
12月 奈良市役所南側の奈良県警奈良署跡地から、大型建物跡を含む奈良時代後半(8世紀後半)の広さ約14000㎡と推定される邸宅跡を発見…場所は、天皇の住居である内裏(だいり)があった平城京から、南東に約600mの一等地で、貴族高級官僚の邸宅跡とみて調査しています。

・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも興味津津なのは、やはり、昨年発見された「長宗我部元親の書状」に続く「石谷家文書」での発見。。。

今回発見されたのは、元関白の近衛前久(このえさきひさ)が、徳川家康(とくがわいえやす)のお膝元の浜松から、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の側近であった石谷頼辰(いしがいよりとき=斉藤利三の実兄)とその義父に宛てた書状で、日付けは天正十一年(1583年)2月20日=本能寺の変の9ヶ月後となっています。

気になる内容は・・・(報道によると…)
「信長とは長年仲良くしてたんで、変の後にはおかしな噂をたてられてしもて…
その後に光秀を倒して京都に来た秀吉からも関与を疑われて…
ほんで、今は家康君を頼ってここに来てるんやけど…
今度、四国に行く時には長宗我部君を頼りたいと思てんねん。
一昨年くらいに、公家の一人が信長に長宗我部君の悪口を吹き込んだ時、僕は「長宗我部君は、そんなヤツやない!メッチャ律儀なええヤツや!」って言うて、とりなした事もあってんやから、もし四国に行く事になったら、その時はヨロシクね」

てな感じです。

ニュースの見出しには(本能寺の変の)四国攻め回避説強める』とありますが、私としては昨年同様、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・という感じですね。

昨年のその時にもお話させていただいたように、明智光秀も、その側近たちも、四国攻めを回避するに越した事はないとは思っていたでしょうが、だからと言って、「主君に対して謀反を起こす」という重大さは大変な物・・・それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないはすで・・・

やはり、この書状も、その「ものスンゴイ理由にはなっていない・・・むしろ「本能寺の…」「四国説の…」というよりは、めまぐるしく変わる状況に翻弄されるお公家さんの右往左往っぷりが垣間見える感じですね。

結局、この後の前久さんは、秀吉VS家康の小牧長久手を避けて奈良へと避難した後、秀吉が四国攻めを開始したさ中に、秀吉を猶子(ゆうし)として迎え、関白の座に着く手助けをするのですから、まさに翻弄された感じ・・・とは言え、当時の状況を知る重要な史料である事には間違いないですね。

さらに、もう一つは、秀吉が造営した初代伏見城である指月(しげつ)城とみられる石垣と堀の発見!ですね。

今や2代目の伏見城でさえ幻の城なのに、さらに、その前の指月城ですから・・・

今のところ、京都市内の聚楽第(じゅらくだい=じゅらくてい)(2月23日参照>>)と様式が酷似している石垣と、それに沿う形の堀の跡などが発見されているようですが、なんせ、場所が指月城の中心部に当たると推定させる場所からの出土ですから・・・更なる発掘に期待したいですね。

・‥…━━━☆

という事で、様々なご意見もおありかと思いますが、とりあえずは、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~

今年一年、本当にありがとうございました・・・
さま、良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして2016年も、よろしくお願いします
 .

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2015年12月23日 (水)

横浜を造った実業家・高島嘉右衛門と『高島易断』

 

毎年、年末近くなると、繰り返される風景があります。

クリスマス飾りイルミネーション年賀はがきの発売に、何となく慌ただしくなる雰囲気・・・そして、本屋さんに並ぶアレ・・・

そう、カレンダー手帳とともに、本屋さんに並ぶのが・・・『暦(こよみ)です。

大抵は、白い表紙で、その真ん中の四角で囲まれた中に毛筆の縦書きで『平成○○年何たらかんたら暦』とド~ンと書いてあるアレ・・・

かくいう私も、なんだかんだで買っちゃいますね~安いのだと、100円ショップなんかで、100円~200円程度で売ってたりするんで・・・つい(*´v゚*)ゞ

私の場合は、二十四節季(10月8日参照>>)やら雑節(5月2日参照>>)やらを確認したい、まさに「暦」が見たいがために購入するのですが、買った経験のある方は、皆様ご存じの通り、アレには「暦」とともに、その年の運勢=占いも掲載されています。

生まれた年によって「一白水星」から「九紫火星」までの9種類に分けて運勢を占う物ですが、それが『高島易断』と呼ばれる占い方だそうで、本の表紙には、この『高島易断○○』という文字も書いてあったりします。

て事で、本日は、年末の風物詩とも言える、そんな『高島易断』の元祖となった高島嘉右衛門(たかしまかえもん)さんについて・・・

・‥…━━━☆

天保三年(1832年)、江戸の材木商であった薬師寺嘉衛門(遠州屋嘉衛門)の第六子として生まれた高島嘉右衛門・・・幼名を清三郎と言い、兄たちが亡くなった後に家業を継ぐ事に時に、父と同じ嘉衛門を名乗り、さらに、その後に嘉右衛門と改名し、最終的に呑象(どんしょう)と号しますが、本日はややこしいので高島嘉右衛門という名前で通させていただきます。

Takasimakaemon600a で、上記の通り、材木商として成功していたはずの父でしたが、その死後、莫大な借金があった事がわかり、家業を継いだばかりの嘉右衛門は、その返済に奔走する毎日でしたが、そんなこんなの安政二年(1855年)10月2日、あの安政の大地震が発生(10月2日参照>>)・・・

 .
天災は悲しい物ではありますが、材木屋という稼業は、その復興の一翼を担う形で大儲けする物でして・・・御多分に洩れず、今回の嘉右衛門さんも、そこで大儲けして家業も息を吹き返します。

しかし、続く安政五年(1858年)に江戸襲った大嵐では、蓄えていた大量の材木を流出させてしまい、今度は自らが被災者となって、これまた大きな負債を抱えてしましました。

「これではイカン!」
と再起を図る嘉右衛門は、ここで新しい商売に目を着けます。

それは、今まさに、破竹の勢いで進展しつつあった横浜でした。

あの嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)に幕を開け、安政四年(1858年)の日米修好通商条約の締結(7月21に日参照>>)開港する事が決まった神奈川・・・

条約締結の際、何とか、将軍のいる江戸から、少し離れた場所=神奈川での開港に漕ぎつけたものの、それでも、東海道に直結していてすでに栄えている神奈川湊の開港を避けたい幕府は、神奈川湊の対岸で、それまでな~んにも無かった横浜村を開港し、そこに外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)を儲け、さらに、外国人たちがなるべく遠方に出無くても良いように、その横浜で生活の何でもかんでもが揃うように、完璧な町づくりをしようと考えていたのです。

そう、そこには、新しいビジネスチャンスがワンサカ!

安政六年(1859年)、心機一転、その新しい地で、外国人相手に伊万里焼の磁器や白蝋を販売する肥前屋という店を開店し商売を始めた嘉右衛門・・・しかし、間もなく、「金の密売」の容疑で御用となり、投獄されてしまうのです。

実は、以前、小栗忠順さんのページ(4月6日参照>>)でも書かせていただいたように、かの条約を締結させる際、未だ日本人が国際法をよく知らなかった事で、かなり外国人に有利な条件での条約締結となっている中、一両小判と1ドル金貨の交換比率なんかも不平等で、外国人が日本に銀貨を持ち込んで、日本で金貨(小判)に交換して帰国しただけで、ボロ儲けできていたんです。

で、それに不満を感じた嘉右衛門が、商売の中で、幕府公認の交換レートではなく、国際ルールに乗っ取ったレートで金銀の交換をしていた事が発覚し、逮捕されたのです。

彼としては「不平等な条約に正義の鉄槌を!」と思っていたのか?
「単に、ひと儲けしたかった」だけなのか?
その心の内は彼のみぞ知るところですが、とにもかくにも、嘉右衛門はここで7年もの獄中生活を送る事になります。

しかし、この獄中にて、彼は一生モンの趣味に出会います。

牢屋の中の古い畳の下から一冊の本を見つけたのです。

それは、『易経(えききょう=周易とも)という古代中国の思想本・哲学書のひとつで、この世の森羅万象あらゆる物の変化の法則を運命的に深く分析する内容・・・中国占いの基本テキストと言える物でした。

「何もする事がない牢で、この本と出会ったのも何かの縁…ひとつ易学でも学んでみようか」
と読書に励む嘉右衛門さん・・・

もともと、幼い頃には、抜群の記憶力で周囲を驚かせるような利発な少年だった嘉右衛門は、その本に没頭し、やがては、それを応用した独自の占いにも目覚めていきます。

ただ、刑期を終えて慶応三年(1867年)に出所した時には、やはり商売人・・・占いの事などすっかり棚の上に上げて、再び横浜で、もとの材木業を再開し、今度は、それに伴う建設業も開始します。

7年のブランクがあるとは言え、まだまだ横浜には、箱モノや施設などが不足していて、そこかしこにビジネスチャンスが転がっていたのですね。

通訳を雇って、商売の相手を外国人にまで広げた建築業が盛況となり、嘉右衛門は出獄から、わずか3~4年で、一流の横浜商人の仲間入りを果たします。

さらに、明治三年(1870年)からは新橋⇔横浜間の鉄道建設(9月12日参照>>)にも関わり、明治五年(1872年)には日本初のガス灯の点(9月29日参照>>)にも関わり、明治四年(1871年)には、藍謝堂(らんしゃどう)という、語学に特化した私塾も創設しています。

なので、地元では、新田開発をした吉田勘兵衛(よしだかんべえ)、初期の横浜の行政を担った苅部清兵衛(かるべせいべえ)とともに「横浜三名士」と呼ばれているのだとか・・・

と、このように、商売人&実業家として名声を馳せた嘉右衛門ですが、明治九年(1876年)に45歳で隠居してからは、一方でなんやかんやと事業に関わりながらも、再び、例の易学の研究に没頭するようになり、明治二十七年(1894年)には、その集大成とも言える著作『高島易断』を出版したのです。

もともと、横浜での商売人時代に親しくなった多くの政治家から、度々の相談を受けてはアドバイスしていた事、また、嘉右衛門自身が実業家として業績を残している事、さらに明治四十二年(1909年)に友人の伊藤博文(いとうひろぶみ)満州に発つ際、「災難に遭うから行くな」と嘉右衛門が止めたにも関わらず出立して、かの地で命を失った(10月26日参照>>)などなどが重なったことから、『高島易断』は評判となって、どんどん有名に・・・なので現在でも、嘉右衛門さんは「易聖」と呼ばれます。

とは言え、文中で嘉右衛門と占いとの出会いを「一生モンの趣味」と書かせていただいたように、彼自身は、「占いは売らない」=「占いで金銭の謝礼は受けない」と言っています。

また、商売に関しても、
「商売なんてのも、親から受け継ぐ物でも無いし子孫に残す物でもない…自分一代で、その時、その場所で花開く物とも・・・

その理念からか、嘉右衛門は占いに関して、教えを請う者には広く伝授するものの、特定の弟子という者は取った事が無いのです。

晩年に使用した呑象という名前さえ、教えを受けにきていた小玉卯太郎なる人物に「使いたかったら使ってもイイヨ!」と言う感じ・・・ですから、その生涯において、占いの流派や宗教的な団体を立ち上げる事は無かったのです。

つまり、冒頭で「年末の風物詩」などと言っておきながら、まことに恐縮なのですが、厳密には、『高島易断』という名称は、 あくまで高島嘉右衛門さんが書いた本の名称、もしくは高島嘉右衛門さんがやっていた易断という事であって、

今、年末の風物詩となっている『高島易断』の「暦」の本は、先の『高島易断』を読んで占いを学んだり、そこから枝分かれした独自の占い方法で導かれた運勢判断であって、嘉右衛門さんの直系の後継では無いのですね。

とは言え、年末になれば来年の運勢が気になるもの・・・
なんだかんだで、書店にズラリとあの書籍が並ぶ風景は、やっぱり年の瀬を感じます。
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2015年12月15日 (火)

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」~最終回を見終えての感想

 

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」最終回を迎えました。

結局、今年は1度も書かなかったドラマの感想ですが、やはり、最後ですから、あくまで、一視聴者としての個人的な感想を、チョコッとつぶやかせていただこうかな?と思います。

今回のドラマの主役であった楫取美和子(かとりみわこ)さん・・・旧姓名は杉文(すぎふみ)さんですが、本日はややこしいので美和さんとお呼びします。

自ら「歴史好き」と言っておきながら恥ずかしい限りでありますが、不肖茶々、大河の主役に抜擢されるまで、この方の事を、まったく存じ上げませんでした。

なので、ほとんど知らなかった歴史人物の事を、今回の大河をキッカケに知る事ができたのは、大変良かったです。

が、いかんせん史料が少なすぎた感じが否めませんでした。

史料が少ないという事は創作のし甲斐があるという事で、ドラマにはかなりの創作が入っていたようですが、どーも個人的には、この創作の内容が、自分の肌に合わなかった気がしています。
(↑個人の感想です)

一昨年放送された「八重の桜」で、幕末維新の敗軍である会津の女性を描いた事から「今度は勝ち組の女性が主役になるのでは?」の噂があった事は確かでした。

もちろん、この噂は根拠の無い物だったのかも知れませんが、そんな流れの中で2014年に富岡製糸場が世界遺産となって・・・で、どこからともなく彼女=美和さんの名が挙がったのかも知れません。

「幕末維新の雄藩=長州に…
吉田松陰
(よしだしょういん)(11月5日参照>>)の妹で、
久坂玄瑞
(くさかげんずい)(7月19日参照>>)の妻で、
富岡製糸場のある群馬県の県令=楫取素彦
(かとりもとひこ=小田村伊之助)と再婚した女性がいる!」と・・・

おそらく、この3条件(1=松陰の妹、2=玄瑞の妻、3=楫取との再婚)変えてはならない史実として、それ以外は、彼ら3人や松下村塾の塾生やらを通じて、彼女と幕末維新の重大事項とを、うまく創作で絡めていく感じだったのかも知れません。

もちろん、ドラマなので創作はOKです。
何事にも、主人公が首を突っ込んで、しかもスーパーマンのように見事に解決して
「美和さんのおかげだぁ~(by群馬の女性陣)
「美和がおるとオモシロイ(by毛利の銀姫)
「美和、またやったなww(by楫取)
「テヘペロ(by美和)
てなシーンも、今回ばかりはヨシとしましょう。

それよりも、もはや、私の中では、歴史うんぬんよりも大きくなってしまっていた、1年間ず~っと絶えなかったモヤモヤした不思議な感じ・・・

それは、上記の、どうしても変えてはいけない史実のNo.3=楫取との再婚関連です。

条件の1と2は、そのまま普通に描けますが、この3だけは・・・そう、この楫取が、もともとは姉=寿(ひさ=久子)さんの旦那さんだったという点です。

姉が亡くなった後に、その妹が嫁に入る(あえて結婚とは言わないでおきます)・・・これは、昔は、そこまで珍しくなかった事です。

いや、昔とまで行かなくても、ほんの6~70年前=太平洋戦争の頃でも、新婚間もなくで出征した旦那さんが戦死して、その弟さんと再婚した、なんて話も聞いた事あります。

なぜなら、今のような恋愛結婚が主流になるのは、戦後の高度成長期=昭和三十年頃(1960年代)くらいからですから・・・もちろん、恋愛結婚がまったく無かったというわけではないですが(現に、源頼朝と北条政子、豊臣秀吉とおねさんも恋愛結婚です)、主流は、やはり、親や長兄が、家と家との繋がりの事を考えて決めたり、親戚などが、両家のつり合いを考えて紹介するのが一般的だったのです。

だからこそ、松陰は、自らが信頼を置く同志である楫取素彦や久坂玄瑞に妹を託したんだと思います。

なので、寅兄ぃ(松陰の事)の意思を継ぐのであれば、まことに結構なご縁談なわけですが、やはり、そんな考えは21世紀の平成の世にはそぐわないわけで・・・

そのために、造り手の方は大きな賭けに出た??

つまり、第1回の放送で、後に結婚する楫取を、美和さんの初恋の相手だった事にしちゃったわけですが、これが雰囲気的に楫取も美和に好意を持っている感じで、しかも後々の事を考えてか、この後、ず~と二人はラブラブ光線出しっぱなしなのです。
(セリフではなく、目線でラブラブ感を出す役者さんの演技がウマかった事は確か)

口ではお互いの伴侶の事を「大事に思っている」と言いながらのラブラブ光線出しっぱなしは、むしろ、スキあらば姉の夫に色目を使うエロ妹と、事あらば嫁の妹に手を出そうともくろむ浮気夫に見えてしまい、なんだか不倫ドラマを見ているような感覚に・・・

しかも、お互いの伴侶はその事に気づいていないので、哀れ感満載・・・そうなると、逆に主人公の二人が悪人に思えて来るのです。

おそらく、造り手の方々の思いとしては、第1回の初恋を秘めたまま、永きに渡って純粋な愛を貫いた二人が、最後に結ばれ、最終回にして鹿鳴館(ろくめいかん)で舞い踊る!!ここに感動も極まれり~というダンドリであったのかも知れませんが、もしそうなら、お互いの最初の伴侶(寿と久坂)を悪い妻&悪い夫に仕立て上げねば、物語は成り立たないし視聴者の共感も得られないわけですが、この、寿と久坂は主人公の協力者であるべきイイ人なので、そうもいかない感じ?だったのでしょうか・・・

なので、結局は、永きに渡って、お互いの妻&夫を騙すように不倫して来たカップルが結ばれるだけなので、むしろ、鹿鳴館でのダンスが、いかにも勝ち誇ったラスボスの勝利の舞いに見えてしまいました。
(↑スミマセンm(_ _)mきっと、私の心が悪に染まっているのです)

病気になって、自らの死を予感した寿さんが、「私が死んだら、夫の嫁に美和を…」というのは、実際に寿さんが長兄の民治(みんじ=梅太郎)さんへの手紙に書いている史実ですので、私としては、できれば、「あくまでお互いを意識するのは寿さんが亡くなってから」というストーリー展開にできなかったのかな?と残念でなりません。

あと、もう少しだけ言わせていただければ、美和さんageのために、他者sageをするところが好きになれませんでした。

たとえば・・・(最近の回のエピソードで言えば)

富岡製糸場の工女らしき少女が3人・・・「私たちも女性の学びの場に入りたい」と言って美和のもとにやって来ますが、その女の子たちがいかにも田舎者風で、読み書きもできず、まるで世間知らずのように描かれていましたが、富岡製糸場で働く工女たちのほとんどは士族の娘さんたちで、言わば、各地を代表して最新の技術を学びに来ていた少女たちです。

なのに、なぜ、あんな風に描かれたのでしょう?

さらに言えば、その富岡製糸場には、同じ長州の長井雅楽(ながいうた)(2月6日参照>>) の娘さんも働いていました。

長井雅楽と言えば、幕末の動乱の中で藩の姿勢がコロコロ変わった時に、久坂らによって自刃に追い込まれ長州内での負け組となった人物(←これはドラマでもやってました)・・・元夫が死に追いやった人物の娘さんが、現夫が県令を務める群馬県の富岡製糸場で働いている事を、彼女は知ってか知らずか・・・とにかく、ドラマでは、完全スルーでした。

慈悲・慈愛という事はステキですが、一つ間違えば、上から目線の偽善的な哀れみ&ほどこしと捉えられかねません・・・いや、なんだか、工女さんの代表を貧乏人の少女のように描く事&長井雅楽の娘さんをスルーした事で、むしろドラマではそんな上から目線の美和に見えてしまったような気がします。

できれば、これからは、主人公ageはあっても、そのために周囲を貶めるような描き方は避けていただきたいです。

大河ドラマは特別なドラマです。

例え、それが面白くて素晴らしい内容のドラマであったとしても、以前他局でやっていた「仁-JIN」を見て、「へぇ~幕末にペニシリンがあったのか~」と思う人がいるでしょうか?

「信長のシェフ」を見て、「ふ~ん、姉川の戦いで兵士たちは焼肉喰ったんだぁ」と思う人がいるでしょうか?

いませんよね?・・・でも、大河ドラマで描くと、それを「本当の事なんだ」と思う人が数多くいるのです。

それこそが、大河が特別である証拠・・・これまでのドラマの造り手の皆さんが、永きに渡って紡いできた「大河ドラマ」が持っている「大河ドラマ自身の歴史」ゆえなのだと思います。

ここ何年かは、「今度の大河はホームドラマ」とか「今度は青春群像劇」とかって話を聞きますが、私は大河ドラマが見たいのです。

ホームドラマや群像劇を見たいなら、そんな感じの別のドラマで充分です・・・でも日曜8時には、やっぱり大河が見たいのです。

あくまで個人的な意見ではありますが、是非とも、大河らしい大河を・・・せっかく先人のスタッフさんが、第1作めから紡いで来た大河の糸なのですから、これからも末長く紡いでいっていただきたいと・・・

来年も期待しておりますm(_ _)m
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2015年12月 4日 (金)

大坂冬の陣・真田丸の攻防~真田幸村と松平直政

 

慶長十九年(1614年)12月4日、大坂冬の陣における真田丸の攻防がありました。

・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣政権の五大老筆頭として腕を振るい、関ヶ原の戦いで豊臣家内の反対派を一掃してますます力をつけた徳川家康(とくがわいえやす)は、いよいよ最終目標=徳川政権を打ちたてるための最大の障害物である秀吉の遺児=豊臣秀頼(ひでより)を葬り去るべく、あらゆる手段を講じて、豊臣家を決戦の場に引きずり出したのです。

これが、冬と夏の2回に渡って勃発した、ご存じ大坂の陣・・・
さらにくわしくは、
【関ヶ原の戦いの年表】>>
【大坂の陣の年表】>>
でどうぞm(_ _)m

そんな中での今回の真田丸(さなだまる)・・・
Kinzyoumonkenroku650a 2016年の大河ドラマの題名であもある事から、もはや皆様ご存じの事と思いますが、大坂の陣勃発を予感した豊臣秀頼=大坂方からの要請を受けて、幽閉先であった九度山から脱出して大坂城に入った(10月9日参照>>)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)が、「周囲を川や堀に囲まれた難攻不落の大坂城が、もし攻められるとしたら、南に広がる平坦な地形から…」と考え、大坂城惣構(そうがまえ)南東に位置する場所に、突き出すように構築した出丸が、その真田丸です【真田丸はどこにあった?】参照>>)
(注:大河ドラマの「真田丸」は、この出丸を含め、幸村(信繁)を中心とした真田家を1隻の船に例えての「真田丸」という意味だそうです)

もし敵が、真田丸を攻撃しようと、矢や鉄砲をかいくぐりつつ、近くにたどり着いたとしても、ここで何重もの柵や堀にまたもや行く手を阻まれる・・・

ならば、真田丸を避けて惣構に直接・・・という者は、やはり突き出た真田丸からの側面からの矢や鉄砲攻撃に晒される事になります。

案の定、冬の陣真っただ中の慶長十九年(1614年)12月4日、午前2時頃、奇襲作戦の如く攻めかかった徳川方は、この真田丸を攻めあぐねた末に大きな痛手を被り、この冬の陣で一気に決着を着けたかった家康を「とりあえず一旦和睦」の方向へ向かわせたとも言われます。
(戦いの様子は、まだブログを始めたばかりの記事ですがよろしければ…【大坂冬の陣~真田丸の攻防】>>でどうぞ)

さすがは名将=幸村、計算され尽くした「ここぞ!」というピンポイントに出丸を造るなんて!!・・・と思いきや、実は、この真田丸の構築の際のおもしろい逸話『落穂集』に残っています。

その『落穂集』によれば、城の東南にあたるこの場所に、いち早く目をつけたのは、あの後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)(2008年5月6日参照>>)・・・それとわかるように縄張りを示し、木材やら竹材やらを運び込んで準備をしていたところ、ある日突然、又兵衛の資材が縄張りの外に運び出されていて、何者かが、せっせと普請に取りかかっていたと・・・

「もし、上の人たちの指示やったとしても、実行する前に俺に何らかの報告があるはず!絶対おかしい」「誰やねん!」怒り心頭の又兵衛・・・「明日には、もっと人数揃えて、取り返したんねん!」と息巻く又兵衛を「まぁ、まぁ、まぁ」と、冷静になだめる薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)(2009年5月6日参照>>)・・・

そんなこんなしてるうちに、その相手が真田幸村だと判明します。

実は、この時の大坂城内では、未だ海の者とも山の者ともわかっていなかった幸村に、
「アイツのお父ちゃんはスゴイけど(父ちゃん=真田昌幸6月4日参照>>)アイツ自身はどやねん?」
「実戦経験ほとんど無いけど、役に立つヤツなんかいな?」

との、あまり良くない噂が囁かれていたのです。

汚名返上のためにも、何としてでも大手柄がほしい幸村は、誰かが準備をしはじめていた場所を「ここ、ええやん!ベストポジションやで」と、そこにあった資材と退けて、新たに自分たちの資材を持ち込んで、出丸の構築を開始してしまったのです。

もちろん、相手が幸村だとわかっても、怒りが収まらない又兵衛ではありましたが、薄田隼人の他にも明石全登(あかしたけのり・景盛)(5月8日参照>>)やら長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)(5月15日参照>>)やら有楽斎(うらくさい=織田長益)(12月13日参照>>)やらやらが間に入って、「味方同志でモメてる場合やないし…」「合戦の時にはええグループに入れてもらえるように、上に声かけとくさかい」などとなだめすかして、何とか収まったようです。

なんだか、戦国というよりは、現代の会社内で利益競う営業マンにも似たエピソードではありますが、こうしてベストポジションに陣取ったおかげ・・・いや、もちろん、その合戦での幸村以下真田隊の活躍もあって、この真田丸の攻防は、大坂の陣の中でも屈指の大坂方圧勝の戦いとなったわけです。

結局、夜中の2時から始まった攻防戦は、その日の正午過ぎになっても徳川方に攻撃の成果は見られず、逆に真田丸からの攻撃によって死傷者が増すばかりとなり、午後3時頃に井伊隊が撤退を開始したのを皮切りに、諸将たちも徐々に後退しはじめます。

しかし、そんな中で一人奮起するのは松平直政(まつだいらなおまさ)・・・彼は、あの結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)の三男で松平忠直(まつだいらただなお)(6月10日参照>>)の弟、つまりは家康の孫。。。この時、14歳での初陣でした。

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松平直政先陣の図(『忠勇亀鑑』より=国立国会図書館蔵)

『松江藩祖直政公事蹟』によれば・・・
皆が尻ごみする中、後陣より、兵卒の中を進み出て、真田丸の堀に乗りこみ、木戸のギリギリまで迫る姿を見て、側近が
「大将なんですから、後陣に居て指示する側に回って下さい」
と言うと、
「お前が指示にまわれや!俺は先頭を行って軍勢の士気を盛り上げる!」
と言い、側近を跳ねのけるように
「猛将は進んで死ぬ事を栄誉とし、後退して生きる事を屈辱とするんや!お前は臆病者か?」
と聞き返し、持っていた鞭を振るって、さらに前へ出ます。

その様子を出丸から見ていた幸村・・・周囲に合図して、ひとまず矢を止めさせると、
「えらい頼もしい若武者やな」
と、櫓(やぐら)の上から直政に声をかけます。

さらに続けて、
「カッコええ話やけど、ここは隙間なく攻撃できるように、厳しく造った難攻の出丸やさかい、君のような大将が進み出て命を落とす場所や無いねん。
もし、ここが破られたと聞いたなら、早々に駆け付けて来たらええ…そしたら、この首を、君に差し上げるよって…」

と、その約束の証として、幸村は1本の軍扇を櫓から投げ落とします。

その扇子を受け取った直政・・・
「あなたの運が尽きて討たれる時は、おそらく雑兵でも、その首取れるでしょうね。
今、真っ盛りの策略を張り巡らした出丸を落として首を取ってこそ名誉という物ですやん!
大将やからて、矢を止める事など無用ですわ。
降りそそぐ矢の下にて、必ず、この出丸を攻め落としてみせます!」

と、高らかに言い放ったのだとか・・・

ま、結局は、この後、冬の陣は和睦となり(12月19日参照>>)、その条件の中に真田丸の破却が入っていた事で、直政の「落としてみせる!」という思いは叶わなかったわけですが・・・

それにしても、雅な源平の一騎打ちを思わせるようなこのやりとり・・・

なんだか、あまりにカッコ良過ぎて、「ホンマかいな?」と思ってしまいますが、この直政さんが、後に城主となる、あの国宝=松江城には、何と、この時、直政が幸村から受け取った軍扇が、今も保存&展示されているのです。
(茶々が行ったのは未だ重要文化財で国宝になるちょっと前なので、国宝になった現段階では展示が変わっているかもですが、松の木に日の丸が描かれている扇子でしたよ)

・・・て、事は、この一服の絵のようなカッコイイ光景も実際にあったのかも?
と思うと、ワクワクしますねo(*^▽^*)o
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