日本史の新発見&発掘…2015年総まとめ
いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、この2015年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。
とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、
また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ
1月 | ● | 奈良県立橿原考古学研究所が奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、飛鳥時代中期(7世紀中頃)頃の巨大な古墳の墳丘の一部と濠跡を発見…方墳と推定されるその遺跡は、飛鳥時代最大級の蘇我馬子(そがのうまこ)の墓とされる石舞台古墳(11月13日参照>>)より大きい事から、第34代:舒明天皇の初葬墓(しょそうぼ=改葬前の墓)である滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高いとみられますが、一方では馬子の子=蘇我蝦夷(えみし)の大陵とも考えられるとの事。 |
● | 滋賀県彦根市松原町の松原内湖遺跡の丘陵地から、織田信長(おだのぶなが)が元亀元年(1570年)の佐和山城攻めの際に築いた堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)などの遺構を発見…織豊期における包囲網戦を考える貴重な史料となりそうです。 | |
2月 | ● | 大阪文化財研究所が大阪市の難波宮(なにわのみや)跡近くで、地方行政単位「五十戸」を記した木簡が出土した事を発表…大化の改新後の646年に難波宮に遷都した孝徳天皇が(6月14日参照>>)「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに一人徴発せよ」との詔(みことのり)を発した事が書かれている『日本書紀』の内容を裏付ける証拠となる可能性も… |
3月 | ● | 滋賀県彦根市教育委員会が、彦根城から、石田三成(いしだみつなり)の居城で関ケ原合戦で落城した佐和山城で使われていた石垣と瓦片を確認…佐和山城の石垣を利用したことは江戸中期に書かれた井伊家文書「井伊年譜」に記述がありますが(2月1日参照>>)、実際に発見されたのは初めて。 |
4月 | ● | 福井県が、織田信長に攻められた越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)が自害した(8月6日参照>>)事を伝える羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の書状を、島根県在住の個人から購入した事を発表…義景自害後にその事が書かれた最も早い書状との事。 |
5月 | ● | 昨年(2014年)6月に、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛てた四国攻めに関する書状が見つかった(昨年のニュース総まとめページ>>)岡山市北区の林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に元関白:近衛前久(このえさきひさ)が、本能寺の変の9ヶ月後に元親の腹心に宛て、困窮状態への助力を求めた書状を発見…光秀謀反の要因=「四国説」(6月11日参照>>)を後押しする史料として注目を浴びそうです。 |
6月 | ● | 京都平安文化財(京都市伏見区)が、豊臣秀吉が造営した伏見城(3月7日参照>>)の初期段階にあたる指月(しげつ)城とみられる石垣と堀が見つかったと発表…城の中心部が確認されたのは初めてで、「幻の城」とされてきた指月城の存在をより確実にする貴重な遺構です。 |
● | 大阪府高槻市の安満(あま)遺跡にて、弥生時代前期(約2500年前)の近畿における最古級の水田跡を確認…近畿地方で米作りが始まった頃の風景や稲作のルーツを探る新発見となりそうです。 | |
7月 | ● | 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が、ドイツのボンで開催されていた「第39回 世界遺産委員会」において世界文化遺産に登録されることが決定しました。 |
● | 平安時代後期の約60年間に7回以上の拡張工事が行われたとみられる滋賀県長浜市の塩津港遺跡の遺構から、多種多様な遺物を次々と発見…中でも、今回確認された造成技術や石製としては最古級となる12世紀頃の硯(すずり)など、この塩津港が交通の要所として繁栄していた事をうかがわせる物が多数。 | |
8月 | ● | 兵庫県あわじ市で発見された弥生時代中期の銅鐸(どうたく)7個のうち、大きい銅鐸に小さい銅鐸をはめ込んだ「入れ子」状態の1組2個を調査したところ、つい手にあたる「鈕(ちゅう)」と、内部につり下げて打ち鳴らすであろう棒=「舌(ぜつ)」にひもやひもをつけた痕跡を発見…銅鐸や舌からひもが見つかったのは初めてで銅鐸の使用法を探る貴重な発見となります。 |
9月 | ● | 奈良県明日香村の飛鳥時代(7世紀)に造られた国内最古の宮廷庭園跡=飛鳥京跡苑池で、苑池に入るための門跡を発見…天皇たちが利用した門の跡であると見られ、未だ全体像がつかめない苑池を考察するうえでの貴重な発見となっています。 |
● | 京都市の中心街=四条烏丸に近い改築予定の店舗兼住宅地から、室町時代の寺院の物とみられる風呂跡や、香炉等の土器類、瓦などが出土…江戸時代の観光ガイドブックにしか、その存在が記されていなかった幻の寺=五条寺の可能性があるとして調べがすすめられています。 | |
10月 | ● | 国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、第2次大戦後のシベリア抑留の資料と国宝「東寺百合文書」(いずれも京都府所在)の重要性を認め、世界記憶遺産に登録した事を発表しました。 |
11月 | ● | 「みだれ髪」などで知られる歌人=与謝野晶子(よさのあきこ)が半身不随になった最晩年、鉛筆書きの乱れる字で短歌の草稿を記したノートを、東京都内に住む晶子のひ孫さんが納戸で発見しました。 |
12月 | ● | 奈良市役所南側の奈良県警奈良署跡地から、大型建物跡を含む奈良時代後半(8世紀後半)の広さ約14000㎡と推定される邸宅跡を発見…場所は、天皇の住居である内裏(だいり)があった平城京から、南東に約600mの一等地で、貴族高級官僚の邸宅跡とみて調査しています。 |
・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも興味津津なのは、やはり、昨年発見された「長宗我部元親の書状」に続く「石谷家文書」での発見。。。
今回発見されたのは、元関白の近衛前久(このえさきひさ)が、徳川家康(とくがわいえやす)のお膝元の浜松から、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の側近であった石谷頼辰(いしがいよりとき=斉藤利三の実兄)とその義父に宛てた書状で、日付けは天正十一年(1583年)2月20日=本能寺の変の9ヶ月後となっています。
気になる内容は・・・(報道によると…)
「信長とは長年仲良くしてたんで、変の後にはおかしな噂をたてられてしもて…
その後に光秀を倒して京都に来た秀吉からも関与を疑われて…
ほんで、今は家康君を頼ってここに来てるんやけど…
今度、四国に行く時には長宗我部君を頼りたいと思てんねん。
一昨年くらいに、公家の一人が信長に長宗我部君の悪口を吹き込んだ時、僕は「長宗我部君は、そんなヤツやない!メッチャ律儀なええヤツや!」って言うて、とりなした事もあってんやから、もし四国に行く事になったら、その時はヨロシクね」
てな感じです。
ニュースの見出しには『(本能寺の変の)四国攻め回避説強める』とありますが、私としては昨年同様、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・という感じですね。
昨年のその時にもお話させていただいたように、明智光秀も、その側近たちも、四国攻めを回避するに越した事はないとは思っていたでしょうが、だからと言って、「主君に対して謀反を起こす」という重大さは大変な物・・・それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないはすで・・・
やはり、この書状も、その「ものスンゴイ理由」にはなっていない・・・むしろ「本能寺の…」「四国説の…」というよりは、めまぐるしく変わる状況に翻弄されるお公家さんの右往左往っぷりが垣間見える感じですね。
結局、この後の前久さんは、秀吉VS家康の小牧長久手を避けて奈良へと避難した後、秀吉が四国攻めを開始したさ中に、秀吉を猶子(ゆうし)として迎え、関白の座に着く手助けをするのですから、まさに翻弄された感じ・・・とは言え、当時の状況を知る重要な史料である事には間違いないですね。
さらに、もう一つは、秀吉が造営した初代伏見城である指月(しげつ)城とみられる石垣と堀の発見!ですね。
今や2代目の伏見城でさえ幻の城なのに、さらに、その前の指月城ですから・・・
今のところ、京都市内の聚楽第(じゅらくだい=じゅらくてい)(2月23日参照>>)と様式が酷似している石垣と、それに沿う形の堀の跡などが発見されているようですが、なんせ、場所が指月城の中心部に当たると推定させる場所からの出土ですから・・・更なる発掘に期待したいですね。
・‥…━━━☆
という事で、様々なご意見もおありかと思いますが、とりあえずは、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~
今年一年、本当にありがとうございました・・・
皆さま、良いお年をお迎えくださいm(_ _)m
そして2016年も、よろしくお願いします
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