上杉謙信から武田信玄へ~「敵に塩を送る」
永禄十一年(1568年)1月11日、今川との関係が悪化したために、塩の流通を止められた武田信玄に対して、上杉謙信が塩を送りました。
これが、「敵対する者の弱みに付け込まず、戦う時は正々堂々と真正面から戦う」てな意味を表す『敵に塩を送る』という言葉の語源となったとされる出来事です。
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そもそもは・・・
天文二十三年(1554年)には甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結ぶ(3月3日参照>>)ほどにイイ感じだった甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)と相模(さがみ=神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす)と駿河(するが=静岡県東部)の今川義元(いまがわとしもと)・・・
室町幕府の関東管領(かんとうかんれい)を敵に回して実質的に関東支配をしたい北条と(4月20日参照>>)、その関東管領から頼られている上杉謙信(うえすぎけんしん)の越後(新潟県)へと触手を伸ばしたい武田と(4月22日参照>>)、西の織田をけん制するためにも、これまで怪しかった自らの領地の北と東を安心できる場所にしておく必要があった今川と(11月6日参照>>)・・・それぞれの利害関係が一致する中で、お互いの息子と娘をテレコテレコで結婚させて姻戚関係を結んでの見事な同盟成立でした。
しかし、永禄三年(1560年)5月のあの桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で状況が変わります。
もちろん、すぐに・・・という事では無く、永禄四年(1561年)9月には、全部で5回あった川中島の合戦の中でも最も激しい第4次川中島の戦い(9月10日参照>>)なんかも、信玄と謙信の間で繰り広げられていたわけですが、
一方で、桶狭間キッカケで三河(みかわ=愛知県東部)で独立した徳川家康(とくがわいえやす)が、義元亡き後の今川を狙いはじめるわ(2008年5月19日参照>>)、尾張(おわり=愛知県西部)を統一した織田信長(おだのぶなが)が隣国=美濃(みの=岐阜県)へと攻め入るわ(8月15日参照>>)。
この状況を真横で見ている信玄にしてみたら、もはや、決着つきそうに無い謙信の事より、家康が狙う駿河が欲しいわけで・・・「おいおい家康くん、駿河を取るんやったら、おっちゃんも協力したるさかい、半分っこにしよーや」てな感じで、永禄十年(1567)、かの甲相駿三国同盟を一方的に破棄しちゃいます。
なんせ、その同盟の証として今川の姫を娶っていた嫡男=義信(よしのぶ)と決別して(10月19日参照>>)の破棄ですから・・・その後の展開を見る限りでは、この後はもう、信玄の心は、家康と連携を組んでの東海侵攻へ一直線!
で、これに激怒したのが、亡き義元の後を継いだ息子=今川氏真(うじざね)・・・かの北条と連携して信玄への経済封鎖=武田領内への塩止めを決行したのです。
ご存じのように、甲斐は「山があっても山梨県」・・・海の無い山梨では自国で塩を生産する事が難しい中で、隣国からの輸入をストップされちゃったワケです。
言うまでもありませんが、塩は人間が生きて行くうえで欠かせない物・・・当然、この塩が入って来ない状態に甲斐の領民たちは苦しむわけですが、そこを知らん顔できなかったのが義の人=謙信・・・
永禄七年(1564年)8月の塩崎の対陣(8月3日参照>>)を最後に、決着が着かないままになっている川中島での敵である武田と言えど、「合戦の勝敗は合戦で着けるべき物…領民が苦しむのを見過ごす事はできない」とばかりに、永禄十一年(1568年)1月11日、越後の塩を甲斐へと送ったのです。
まぁ!なんてカッコイイ~ヽ(´▽`)/
と、大絶賛される逸話ですが、もう、皆様ご存じの通り、この逸話は後世の創作だと言われています。
現に、同時代の1級史料とされる史料には、まったく、この話は出て来ません。
出どころがわからぬまま、いつの間にか語られるようになり、いつの間にか「ことわざ」にまでなっちゃったわけですが、それなら、なんで?まことしやかに永禄十一年(1568年)1月11日という日付けまで言われてるのか?
実は、越後からの塩は、本当に武田領に到着していたんです。
それは、謙信が「送った」というよりは、「(塩の流通を)止めなかった」って事・・・つまりは、あえて「何もしなかった」って事なわけですが、ここで、今川&北条に同調して、謙信も経済封鎖してたら、武田は困ったでしょうか?
歴史に「もしも」は禁物なので、あくまで推測ですが・・・確かに、多少は困ったかも知れませんが、私としては、「結局は、何とか出来た」と思っています。
それは・・・
後々に、結局は徳川&織田と敵対する武田ではありますが、この直後に起こる永禄十一年(1568年)12月の薩埵(さった)峠の戦い(12月12日参照>>)&今川館攻防戦(12月13日参照>>)や掛川城攻防戦(12月27日参照>>)を見る限りでは、どう考えても、この時期の武田&徳川の連係プレーが見え隠れしますし、実際に、信玄と家康は「今川の攻撃に関しては協力していた」という話もあります。
・・・て、事は、ここで今川&北条&上杉が塩を止めたところで、いずれは徳川から運ばれて来るわけで、徳川から来れば織田からも来るわけで・・・
それならば、あえて流通を止めずに・・・「もし、本当に困ってんなら、そのぶん+αで高値で売った方が得じゃね?」って事になるんじゃないでしょうか?
ま、そのへんの心の動きは想像するしかありませんが、とにもかくにも、謙信が今川&北条に同調する事なく、塩の流通を止めなかった事から、永禄十一年(1568年)1月11日、越後の塩が松本に到着して、その日「塩市」が立ったんですね~
以後、毎年、1月11日に松本で「塩市」が行われるようになって、その「塩市」がいつしか「あめ市」に変わって、それが現在でも毎年行われている「松本あめ市」なのだそうです。
って事は、この「塩を送る」に感謝した信玄が、謙信に送ったとされる福岡一文字の太刀=『「弘口(通称:塩留めの太刀)』も、「塩を止めない」に感謝という事なのか?
ま、実際に塩が届いた事は確かなようですし・・・めでたしめでたし
でも、ドラマなんかではやっぱり、謙信から信玄へ「カッコよく敵に塩を送って」欲しいですけどね~
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コメント
茶々さん、こんにちは
敵に塩を送るの意味も知らず😅
今日集まりでの景品に島の塩を入れていて
主人が これ貰った人喜ぶで〜って
言ったので、私、 敵に塩を送るって
あんまり良くないたとえなんちゃうって
会話、朝してたんで我が家的にはタイムリーな話で
ドキッとしちゃいました
昨日から真田丸始まりましたね
茶々さんを知ってまだ僅か、満載すぎてなかなか
読み進めませんが😢 頑張って大好きな歴史お勉強しまーす
投稿: こまちゃん | 2016年1月11日 (月) 10時57分
こまちゃんさん、こんにちは~
それは…偶然とは言えタイムリーですね( ^ω^ )
また遊びに来てくださいね。
今年も、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2016年1月11日 (月) 16時42分
茶々さん、こんにちは。
今川氏真も御家を滅ばされた暗君というイメージがありますが、武田家の周辺の国々に働きかけて経済制裁を加えるとは、なかなかやるなと思います。「敵に塩を送る」いきさつは知っていても、当時の今川家の当主と氏真が結びつかないのが、ちょっと可哀想。
投稿: 高来郡司 | 2016年1月11日 (月) 18時56分
高来郡司さん、こんばんは~
結局負けてしまうので愚将のイメージ強いですが、私も、氏真さんはなかなかの武将だったと思います。
投稿: 茶々 | 2016年1月12日 (火) 01時28分
茶々さん、こんにちは。
伊豆から帰ってきました。
伊豆は良かったです。
伊豆は北条、後北条の故郷ですが、韮山は平地ですが、西海岸の土肥から南の松崎から石廊崎まではピストンカーブが10キロ以上も続きますし、清水から土肥の船旅は荒れていますので疲れました。
そういう所を治めた両方の北条は善政を行ったのでしょうか。評判が良いし、頼朝関係はよく見られました。
ところで今川よりも北条の方が凄くないですか。氏康、氏政は武田、今川の連合軍にも互角だし、上杉から小田原を守りました。氏真よりも氏政の方が主導した感じもします。
それはそうと敵の塩を送るではないですが上杉謙信は卑怯な戦はしないし、正義の味方を演じ続けたのは凄いと思いますし、独身を続けたのも凄すぎます。謙信はある意味で言いますと信長と正反対の武将だったと思います。真田丸で思い出したのですが上杉家は御館の乱で分裂しました。謙信の死後も結束していたら武田は残っただろうと思いますし、松姫関係を考えたら信長も滅ぼさなくても良かったのにと思いました。案外甲斐と諏訪だけという様に秀吉が島津に和睦の条件を示した感じだと両者が得しただろうし、信濃の混乱も無かったと思いました。
投稿: non | 2016年1月15日 (金) 16時42分
桶狭間の戦いの後もしばらくは、今川氏はまだ周辺の大名と対峙できるだけの力はあったようですね。その仔細については来年の大河ドラマで見るとして、「敵に塩を送る」の話は記録に残ってなく、兵糧に関する書類にもないので創作なんですね。
投稿: えびすこ | 2016年1月15日 (金) 23時10分
nonさん、こんばんは~
旅に出られていたのですね。
イイですね。
>今川よりも北条の方が…
今川と北条は、これまでの経緯が(守護か実力かとか)違うので単純には決められないような気がします。
謙信は伝説に彩られてますね。。。
幕末の坂本龍馬と似た彩られ感あります。
まぁ、信長も、逆の意味で伝説に彩られてると思いますが…
投稿: 茶々 | 2016年1月16日 (土) 02時58分
えびすこさん、こんばんは~
本文にも書かせていただいた通り、普通に流通してたので「わざわざ送ったわけでは無い」って感じですけどね。
投稿: 茶々 | 2016年1月16日 (土) 03時00分
茶々さん、おはようございます。
今日は寒いですね。
ところで国際政治、軍事ではもしは重要です。これからの事でシミュレーションをします。
これは日本史と国際政治等の世界史の違いです。
今川は義元の死後はチェックメイトでした。後は武田の脅威に信長に頼るしかなかったでしょう。多分信玄と家康の共同作戦は信長は了承していたでしょう。そう言うのを見ますと信長は武田と仲良くした方が天下統一に繋がったと思います。
ところで今川ですが、吉良、畠山と同族で三河出身です。家康もその関係で義元に可愛がられたのでしょう。もしかしたら徳川は本当に新田の子孫かもと思いました。
投稿: non | 2016年1月18日 (月) 10時17分
nonさん、こんにちは~
>もしかしたら徳川は本当に新田の子孫かも…
どうなんでしょうね~
戦国武将は怪しい人、多いですね。
投稿: 茶々 | 2016年1月18日 (月) 16時35分
「敵に塩を送る」という逸話は、聞いたことがあります。上杉謙信(最初の名前は、長尾景虎)が武田信玄(出家前は、晴信)に対して、塩を送ったとされたそうですが、実は、塩の流通を止めなかったことが、事の始まりだったようですね。ただし、そうなった背景には、寿桂尼が、孫である今川氏真に対して、「塩の流通を止めれば良い。」と提言したとも言われているようですから、寿桂尼&氏真としては、名案と思ったのでしょうが、それでも、「敵に塩を送る」という逸話が誕生したのは、謙信の義を重んじる心に加えて、越後が海に面しているからだと思います。
投稿: トト | 2017年4月 5日 (水) 18時37分
トトさん、こんばんは~
経済封鎖は、21世紀の現代でも外交における有効な手段の一つですね。
今川と北条は同盟者ですが、謙信は別行動って感じでしょうか…
投稿: 茶々 | 2017年4月 6日 (木) 01時08分