薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤
文明十六年(1484年)1月6日、前年より続いていた福岡合戦で、福岡城に籠城していた薬師寺貴能らが討死しました。
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そもそもは、
嘉吉元年(1441年)、一大名である赤松満祐(あかまつみつすけ)が第6代将軍の足利義教(よしのり)を暗殺という暴挙に出た嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)・・・
その乱の時に、将軍家の命で赤松氏を追い込んだ功績にて、一躍武家のトップクラスに躍り出たのが、応仁元年(1467年)に勃発したあの応仁の乱(5月20日参照>>)で西軍を担う山名宗全(そうぜん)だったわけですが、
その後、その宗全と、東軍の主将だった細川勝元(ほそかわかつもと)が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事もあって、やがて応仁の乱は終焉を迎えたものの、そのドサクサで功を挙げたとして、以前の嘉吉の乱で滅亡状態となっていた赤松氏の赤松政則(あかまつまさのり=満祐の甥の子で細川勝元の娘婿)が播磨・備前・美作(みまさか=岡山県北東部)を賜って復権します。
「オイオイ、そこは俺のジッチャンが、赤松倒した功績で賜った領地やろがい!」と不満を抱くのは山名政豊(やまなまさとよ=宗全の孫もしくは息子)・・・と、もう一人、
衰退を機に赤松を離脱し、自らの力で領地を拡大しつつあった、もと赤松氏の被官(部下=守護に従属する国人領主)で備前玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(もとなり)でした。
こうして、共通の敵が赤松となった元成は、山名と水面下で同盟を結び、文明十五年(1483年)9月に挙兵し、続く11月21日より、赤松配下の浦上則国(うらがみのりくに)が守る福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に向けて攻撃を開始・・・これが福岡合戦と呼ばれる戦いなのですが、その合戦の前半部分は2012年12月13日の【会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦】でどうぞ>>
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こうして始まった福岡合戦は、年が明けても未だ終わる事なく続いていましたが、そんな戦いの中でも屈指の激戦だったのが文明十六年(1484年)1月6日の戦いでした。
この日の松田勢からの猛攻撃に、敗北の色が濃くなった状況を見た浦上の城兵たちは、ひとまず福岡城内へと戻る事となりますが、そんな城兵の中の一人が、赤松年寄衆の薬師寺貴能(やくしじたかよし)という武将・・・
「よっしゃぁ、ここで俺が命かけて防ぎ止めたる!」
と長刀を取って応戦・・・味方が城内に戻るまで、決死の覚悟で戦う姿勢を見せます。
それを見た薬師寺家臣の弥四郎らが、主君を守るべく取って返して、これまた奮戦・・・山の麓から城壁間近のあたりまでの多勢を、わずかな手勢で追い払います。
そこに松田方の福屋九郎右衛門という剛の者が登場し、激しく圧しましたが、これも何とか討ち倒して防御・・・しかし、防いでも防いでも、その都度、敵方は新手を登場させ、城兵たちは、どんどん追い詰められて行きます。
この状況に、自らの死に場所を見た薬師寺貴能・・・自ら敵中へと飛び込み、壮絶な死を遂げました。
その光景を目にした二人の戦士・・・それは、この合戦の前に、「死ぬ時はいっしょに…」と誓い合っていた額田十郎左衛門(ぬかたじゅうろうざえもん)と片岡孫左衛門(かたおかまござえもん)なる二人の武将でした。
実は、この少し前、福岡城内には、一つの情報がもたらされていたのです。
前半部分に書かせていただいている通り、今回の福岡合戦は、直接対決している攻め手=玉松城の松田と、籠城=福岡城の浦上だけの戦いではなく、それぞれ、松田には山名、浦上には赤松、という後ろ盾がいて、それぞれが援軍を送って援助する事になっていたわけですが、その両者が先日、真弓峠(兵庫県朝来市)でぶつかり、赤松側が敗北・・・(12月25日参照>>)
福岡城にとって、頼みの綱の赤松政則が姫路に戻ってしまって、「もう援軍は来ない」というのでした。
援軍が来ないとなれば、この籠城戦も時間の問題・・・そこで、薬師寺貴能は友人である額田十郎左衛門と片岡孫左衛門の前で
「もう赤松からの援軍もけぇ~へんし、味方の士気も落ちてるし、この次に大きな戦いがあったら、おそらく負けるやろ。
せやから俺は、その時は先頭で戦って討死しようと思う…死に遅れて生きながらえるのは本意ではないんや」
と宣言していたのです。
もちろん、貴能の宣言を聞いた二人も
「思いは同じだ!」
と宣言し、イザという時は、ともに枕を並べて死のうと決意していたのです。
そして訪れた合戦の日・・・
貴能は、
「すぐに敵の手に渡る首や!最後の対面をしとこ」
と言って、鏡に自らの姿を映し、その前でにっこり笑って身支度を整え、出陣したのだとか・・・
額田十郎左衛門は、未だ若年の一人息子を
「僕といっしょにいてたら、きっと討死しますさかいに…」
と岡本筑後守なる武将に息子を預けて戦場へと向かいました。
(なので息子=又三郎は生き残りました)
片岡孫左衛門は、側近に向かって
「俺の首はきっと取られるやろから、コレを目印に遺体を探してくれ」
と、自らの左の二の腕のこよりを2重に結んで出陣しました。
果たして戦後、このこよりを目印に遺体を探し当てた孫左衛門の家臣・・・その傍らには、「ともに死のう」と約束した貴能と十郎左衛門の姿もあった事でしょう。
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こうして、大きな戦いのあった1月6日が過ぎた後、城内では、どうやってこの籠城戦を終わらせるか=開城に向けての話し合いが行われる事になりますが、
「城を枕に、側近たちと刺し違えて死ぬ!」
と主張する則国に対して、
「敵の目前で同志討ちなど、末代までの恥!」
と説得する側近たち・・・
「ならば、皆は逃げたらええ!
俺一人で自刃する!もとからその覚悟や!」
と、今まさに刀に手をかけようとするのを抑え、
「この戦いがすべてでは無いんですから…
世の中には一旦落ちてから、態勢を整えて巻き返した例も少なく無いですから…」
と、とにかく説得に次ぐ説得で、何とか納得した則国は、1月24日の夜半頃に福岡城を脱出して播磨守護代・赤松政秀(あかまつまさひで)の高田城(兵庫県上郡町)を目指してに落ち延びました。
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かくして、福岡城が陥落・・・約4ヶ月に渡る福岡合戦が終了したのです。
と、本日は『常山紀談』&『備前軍記』の内容を中心にして書かせていただきましたが、小説やドラマで描かれる戦国時代より以前の、あまり馴染みの無い頃のお話という事でとっつき難い感じがあったかも知れません。
しかし、小説やドラマで、あまり描かれない時代にも、魅力的でカッコイイ武将がいる事を、しみじみと感じる逸話でしたね。
この後、則国を諭したかの側近が言った通り、浦上が巻き返す事になるのですが、そのお話は、また別の機会に・・・m(_ _)m
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