恋の歌姫~式子内親王と藤原定家
建仁元年(1201年)1月25日、後白河天皇の皇女で歌人として知られる式子内親王が薨去されました。
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式子(しきし・しょくし・のりこ)内親王は、あの源平争乱期に源頼朝(みなもとのよりとも)をして「日本一の大天狗」と言わせた後白河(ごしらかわ)天皇(10月25日参照>>)の第3皇女・・・
あの平清盛(たいらのきよもり)の娘=徳子(とくこ)を中宮に迎えて(12月14日参照>>)安徳(あんとく)天皇をもうける第80代:高倉(たかくら)天皇(1月14日参照>>)は、彼女の異母弟にあたり、その清盛に最初に反旗を翻す以仁王(もちひとおう)(4月9日参照>>)は、彼女の同母兄にあたるという超セレブなお姫様です。
とは言え、お察しの通り、この時代に皇室のお姫様が政治的or軍略的に何かをするという事はほぼ無いので、この式子内親王も特記するほどの「何かをした」という事も無いわけですが、彼女の歌が『小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)』に収められていたり、新三十六歌仙や女房三十六歌仙の一人にも選ばれてもいる事などから、歌詠み人として、彼女の名前を記憶されている方も多いかと思います。
そんな式子内親王は、10歳前後だった平治元年(1159年)に内親王宣下を受けたのをキッカケに斎院(さいいん)として賀茂神社(かもじんじゃ=京都の上賀茂神社と下鴨神社の総称)に奉仕する事になります。
この斎院とは、賀茂神社の神に仕えて祭祀を行う巫女の事で、もともとは、第10代崇神(すじん)天皇の時代(3世紀~4世紀頃)に始まったとされる(『日本書紀』による:実際には天武天皇の時代=飛鳥時代に正式な制度が確立したと思われる)、未婚の内親王が伊勢神宮に一定期間奉仕する斎宮(さいぐう)にならって、平安時代の初め頃から鎌倉時代頃まで行われた制度・・・
上記の通り伊勢神宮に奉仕する内親王を斎宮と言い、賀茂神社に奉仕する内親王を斎院と言い、その総称を斎王(さいおう)と言います。
ちなみに、現在、京都三大祭の一つに数えられている葵祭(あおいまつり)で、毎年、一般市民の未婚の女性から選ばれている最も華やかで注目される斎王代(さいおうだい)は、太平洋戦争後に葵祭が復活する際に、平安時代に祭を主宰していた斎王の代理という意味で「斎王代」なんですね。
こうして11年という月日を神に仕えて過ごした式子内親王でしたが、嘉応元年(1169年)に病気を理由に退下した後、母の実家である高倉三条第、父の後白河院の法住寺殿、叔母である八条院暲子(はちじょういんあきこ)内親王の館などで暮らしていましたが、
その八条院母子とのモメ事や、建久三年(1192年)に崩御された父の後白河院の遺領の相続問題やら、橘兼仲(たちばなのかねなか)陰謀事件などに翻弄される中、晩年には病気がちなり、建仁元年(1201年)1月25日、式子内親王は薨去・・・・53歳の生涯を閉じられたのです。
このように、その心の内を察する事ができるような記録が皆無な式子内親王ですが、実は、彼女の事を、自らの日記に書きとめている人がひとり・・・
それが、式子内親王が斎王を退下した直後、三条第に住んでいた頃に、そこに足しげく通っていた藤原定家(ふじわらのさだいえ=ていか)・・・ご存じ、『小倉百人一首』の撰者です。
一般的には、その頃の定家は三条第の家政の管理をしていたから・・・つまり、仕事で通っていたとされますが、日記の記述を見る限りでは、その頃だけでなく、晩年になっても、定家と式子内親王の間には交流があった事がうかがえ、特に晩年に病気が悪化した頃には、頻繁にお見舞いにも訪れている事から、一説には、二人は恋人同士?・・・いや、計算上では定家が13歳年下になる事から、「式子内親王は定家の初恋の人だったんじゃないか?」てな事も言われます。
斎院を退下して間もなくの頃なら、式子内親王は20歳を少し過ぎた頃・・・
定家は10歳の少し前・・・
小学校4~5年の、ちょっと色気づき始めた男の子が、バッチリ化粧の女子大生に憧れる・・・
「キレイお姉さんは好きですか?」っていうアレですね。。。
(相手が美人なら、完全にアリやな(o^-^o))
この「二人恋仲」の噂は、かなり昔から囁かれており、ご存じのように、この話を題材にした謡曲『定家』も室町時代に誕生し、能の演目になっています。
とは言え、皇室の姫が自由な恋愛など許されるわけもなく、まして式子内親王は、それまでの10年間神に仕えていた身でもあるわけで、そんな恋だの愛だのという記録が残っている事もないですから、あくまで想像するしかないわけで・・・
実際には、歌人としても名高い式子内親王が、その歌の手ほどきを受けた先生が藤原俊成(としなり)(7月25日【忠度の都落ち】参照>>)であり、その息子が定家だったというだけの仲だったのかも知りません。
しかし、例え妄想の範ちゅうであったとしても「どうせならステキな恋であってほしいヽ(´▽`)/」と人は思う物・・・
そんな中、有名な『小倉百人一首』・・・
以前の5月27日【百人一首に秘められた暗号】>>で書かせていただいたページでは、その『小倉百人一首』の成立を、承久の乱で流罪となった後鳥羽(ごとば)上皇に(2月22日参照>>)に絡めてお話させていただきましたが、それはあくまで伝説の域を超えない話・・・
しかし、後鳥羽上皇うんぬんがなかったとしても、沢山の歌を残している歌人に対して、その中から一首を選ぶ段階で、歌の名人である定家が「なぜ、その一首を選んだの?」と、歌の善し悪しがわかる人が見れば首をかしげる一首もあるのだそうで・・・
つまり、この『小倉百人一首』は、「定家の独断=好みで歌を選んだ」可能性が大いにあるわけです。
一般的に式子内親王の作風&評価は、悲しみや孤独といった情感をモロに出す事はなく、それを内に秘めた感じでありながら、なんとなくそれを匂わせるような・・・で以って、他の歌人の影響を受けつつも一線を画する独自性を持つ見事なバランスを保った世界観で、まさに新古今時代の代表的な歌人とされています。
当然、複数の歌集に複数の式子内親王作の歌が収められているわけですが、その中から定家が『小倉百人一首』に選んだ一首は・・・
♪玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする ♪
「玉の緒」とは、直訳すれば「玉に開けた穴に通されたヒモ」の事ですが、この場合の「玉」は「魂」の事を意味していて、つまりは「命をつなぐ糸」みたいな意味ですね。
で、全体を意訳するなら
「命をつなぐ糸なんか、切れるんやったら切れてしもたらええねん。
このままやったら、この気持、隠し通されへんようになってしまうもん!」
てな感じでしょうか?
ここには、文字に表さなくとも・・・
「このまま我慢できなくなって、忍ぶ恋が世間にバレてしまって悲しい結末になるくらいなら、いっその事…」
てな前置き的な気持ちが含まれている事も想像できます。
もちろん、これは「歌」ですから、現在の作詞家さんがそうであるように、歌詞に書いた事がすべて事実の実体験とは限らないわけですが・・・
自由な恋愛など許されない皇女という身分で、この歌を詠んだ式子内親王・・・
式子内親王亡き後、複数の彼女の歌の中から、この一首を選んだ定家・・・
そんな定家が百人一首に残した自らの歌は・・・
♪来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
焼くや藻塩(もしお)の 身もこがれつつ♪
「海岸で藻塩を(藻を焼いて塩を精製する)焼いてる火のように身をこがして、俺はけぇーへん人を待っているんやで」
う~~ん・・・亡くなった人(男女問わず)への情と言えば情ですが、恋と言えば実らぬ恋と知りつつ相手を待っている歌のような気もする・・・
・・・と、まぁ、おそらく実際には何も無かったんでしょうけど、膨らむ妄想で胸キュンとなりそうですね((w´ω`w))
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