幕末維新の公卿で政治家…三条実美
明治二十四年(1891年)2月18日、幕末~明治の公家で大臣等を歴任した政治家でもある三条実美が死去しました。
・・・・・・・・・
三条実美(さんじょうさねとみ=三條實美)の三条家は五摂家に次ぐ格式の清華(せいが)家の一つ・・・三条実万(さねつむ)の息子として天保八年(1837年)に生まれた実美は、6歳まで洛北の豪農=楠六左衛門に養育されました。
その後、邸宅に戻ってからは、三条家の用人であった富田織部(とみたおりべ)が、実美の教育係となりますが、この織部がバリバリの尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を尊び外国を排除)派であった事から、当然の事ながら実美も尊攘思想へと傾いていく事になります。
この頃は、例の嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)を受けて、開国か攘夷かで日本が真っ二つに分かれていた頃・・・
しかし、米国総領事・ハリス(7月21日参照>>)から日米修好通商条約を迫られた幕府は、安政五年(1858年)、時の第121代天皇・孝明(こうめい)天皇からの勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ずに条約を締結・・・幕府大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、反対する者を次々と弾圧していきます。
これが世に言う安政の大獄(たいごく)(10月7日参照>>)ですが、実美の父も、辞職して出家という処分を受け、実美自身も政争に巻き込まれた事から、より一層、尊王攘夷の思いを高めるのでした。
そんなこんなの文久二年(1862年)、すでに兄の病死等を受けて三条家を継ぐ身となっていた実美は、公武合体(こうぶがったい=天皇家と幕府が協力)(8月26日参照>>)を主張する岩倉具視(いわくらともみ)&薩摩(さつま=鹿児島県)藩などと対立・・・
反幕府で攘夷派の長州(ちょうしゅう=山口県)藩と組んで京都での主導権を握りはじめ、公家攘夷派の中心人物となっていくのです。
この年の8月には、自ら江戸へと赴いて、
時の14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)に攘夷の決行を約束させたり(5月10日の前半部分参照>>)、
弾劾意見書を提出して岩倉を蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)に追い込んだり(7月20日の真ん中あたり参照>>)、
孝明天皇の大和(やまと=奈良県)行幸を企画したり(9月27日の真ん中あたり参照>>)・・・
と、まさに縦横無尽の活躍ぶりだったわけですが・・・
だがしかし・・・
ここで、ご存じの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)です。
実は、孝明天皇自身が考えておられたのは、あくまで幕府が行う攘夷であって、倒幕すら視野に入れた過激な尊王攘夷派には少し違和感を持っておられたようで、朝廷内も一枚岩では無かったのです。
・・・で、その孝明天皇を意を汲んだ中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(2009年8月18日参照>>)は、京都守護職を務めていた会津藩と、トップクラスの軍備を持つ薩摩藩に同盟を組ませ、彼らに御所の警備を任せる事にして、この文久三年(1863年)8月18日の朝に攘夷派の長州藩を禁門(蛤御門・御所の門の一つ)の警備から外したのです。
出勤しようと門の前まで来た尊王攘夷派の公卿たちは、会津&薩摩の警備陣に阻まれて御所の中に入れてもらえず、この日を境に警備から外された長州藩も京都から追い出される事になりました。
中心人物だった実美はもちろん、彼以外にも、
三条西季知(さんじょうにしすえとも)、
東久世通禧(ひがしくぜみつとみ)、
壬生基修(みぶもとなか)、
四条隆謌(しじょうたかうた)、
錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)、
澤宣嘉(さわのぶよし)
の合計7人が、長州藩士に守られながら一路長州へ・・・これを、七卿落ち(しちきょうおち)と言います。
その翌年、何とか巻き返しを図ろうと集まっていた長州藩士たちのところに、会津藩預かりとなった新撰組が踏み込んだのが元治元年(1864年)6月に起こった池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・
さらに、その1ヶ月後、かの八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州が、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛し、「御所に入れろ」「入れない」でドンパチ・・・これが禁門の変(7月19日参照>>)ですが、この時に長州藩の放った弾丸が御所に命中した事から、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家に反逆した者)となってしまいました。
これで、幕府による長州征伐(第一次)が開始される事になりますが、この時は、長州藩自ら、変の首謀者とされる3人の家老の首を差し出す事で、何とか交戦を回避しました(11月12日参照>>)。
とは言え、揺れ動く長州藩内・・・禁門の変の失敗で、一旦は保守派が牛耳る事になった藩の上層部でしたが、功山寺で挙兵した(12月16日参照>>)高杉晋作(たかすぎしんさく)によって再び革新派が返り咲いています。
この間に、七卿のうちの澤宣嘉は長州を出て生野(兵庫県生野)にて別行動をし、錦小路頼徳が病死したため、5人となっていた実美以下公卿たち・・・彼らが危険に晒される事を案じた長州藩は、慶応元年(1865年)2月に、彼ら五卿を、筑前大宰府(福岡県太宰府市)にある延寿王院(えんじゅおういん=太宰府天満宮の宿坊)へと移しました。
ここで、しばらくの間、実美は幽閉生活を送る事になるのですが、この時、かの禁門の変で負傷して長州に逃げて来ていた土佐(高知県)藩の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が、実美のもとへ足しげく通い、薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と交渉したり、以前は公武合体を叫んでいた岩倉具視をコチラ側に向けたりの大活躍・・・(8月6日参照>>)
その努力が実って慶応二年(1866年)1月21日、ご存じの薩長同盟の成立(1月21日参照>>)・・・その年の6月から開始された第二次長州征伐(四境戦争)(6月8日参照>>)は、なんと長州優位のまま、将軍=家茂の死(7月20日参照>>)によって幕が閉じられました。
さらに年末の孝明天皇の崩御(12月25日参照>>)によって、加速する倒幕への波は留まる事を知らず・・・翌慶応三年(1867年)10月14日には第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)による大政奉還(10月14日参照>>)が行われる一方で、その前日と同日には、薩摩と長州に「討幕の密勅」が下る(10月13日参照>>)というスピード展開の中、12月9日の王政復古の大号令(12月9日参照>>)をキッカケに、実美は京都へと戻り、やっと表舞台に復帰する事ができました。
その後は、戊辰戦争の勝利によって維新が成った明治新政府の要人として、副総裁から右大臣を経て太政大臣まで務めますが、なぜか、新政府内での実美の影は薄い・・・
どうやら実美さん、政治的な決断力に欠ける人だったようで・・・
そもそも、その地位や立場から、尊王攘夷の旗印のように掲げられたものの、ご本人の性格はいたって温和な公家風おじゃる丸・・・新政府内で誰かと誰かが対立する度に、その板挟みとなって苦悩する毎日だったようで・・・
結局、名誉職などにはついたものの、あまり存在感が無いまま第1線を退き、明治二十四年(1891年)2月18日、55歳でこの世を去ったのです。
高熱で病床についたとの事で、おそらくは流感(りゅうかん)=インフルエンザだったらしい・・・
墓所は東京都文京区の護国寺、その御霊は、かつて三条邸が建っていた場所(京都御所の近く)に建立された梨木神社に合祀されました。
ドラマなどでは、主役を張る長州藩の志士たちに対して、薄暗いすだれの向こうから「あーしろ」「こーしろ」とか「まだやらんのか?」とかばかり言ってそうなイメージの実美さんですが、意外に、争いを好まない、心やさしい方だったのかも知れませんね。
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コメント
おはようございます。
インフルエンザですか。悪性の風邪で寝込んでいます。三条は大変でしたね。
ところで明治天皇入れ替え説ですが、あり得ますか?
あの頃御所の周りを守っていたのは薩摩等が中心ですし、そんな事をしたら忠臣蔵の親戚の浅野に見つかります。それ以外にも通り道には両池田がいますので無理ではと思いますが・・・
最後に三条は内閣総理大臣になりましたね。第三代総理ですが、誰も認めていません。京都がまだ首都なのを認めていないのと同じくらいに理不尽だと思います。
投稿: non | 2016年2月19日 (金) 10時35分
nonさん、インフルなら無理なさらずに、ぐっすりお休みになった方が良いですよ。
入れ替えは無いように思います。
投稿: 茶々 | 2016年2月19日 (金) 14時35分
茶々さん、ありがとうございます。
こんな長引く風邪を引いたのは10年以上前です。それ以降は無かったのでかなり悪性と思います。
入れ替えは無理ですね。でも宮内庁も余計な事をしましたね。昭憲皇后にすればよいのに皇太后です。おまけに改めようとしないです。こういう頭の固さが陰謀論を鹿島茂などに語らせていますね。
先ず薩摩が何故長州の方を認めるのか?と言うのとあの頃は薩摩が主で長州は従、おまけに土佐、肥前もいるのに無理だし、勤王の浅野、両池田の領地を通らないと長州に行けないのでまず無理ですね。確か浅野とは長州は互角で圧倒していません。そんな強力な浅野を敵に回せないと思います。
三条も体調が悪かったのですね。なるほどと思いました。あの時に左大臣がいたら西郷さんは韓国へ行っただろうと思います。運命と言うのは?ですね。
投稿: non | 2016年2月20日 (土) 10時20分
風邪はまだ治っていませんし、どうも疲れて何もする気が出ません。
三条も征韓論の時は躁だったのかなと思います。
ところで左大臣は何故あまりいなかったのでしょうか?
三条の太政大臣、岩倉の右大臣はいつもでしたが、左大臣は島津久光などたまにしかいません。不思議です。本来の制度からですと左大臣がいつもいないといけないし、左大臣抜きですと関白が無いと駄目ですが、廃止しています。滅茶苦茶な時代だったと思います。漫画を見ますと岩倉、大久保、伊藤が三条をロボットみたいに扱っていますが、現実はどうなのでしょうか?
投稿: non | 2016年2月20日 (土) 14時04分
最近は体調不良が続いていますが、茶々さんは如何ですか?
どうも三条はあまり騒ぐのは好きでなかった感じがします。岩倉は好きそうですがあまり好まなかった感じがします。
三条の気持ちも少し理解できました。
でも三条は司馬遼太郎に滅茶苦茶に書かれましたね。
司馬によって坂本龍馬は持ち上げられ、井伊直弼、小栗上野介は滅茶苦茶です。三条も司馬によって悪く書かれた悲劇かなと思いました。
投稿: non | 2016年2月21日 (日) 14時32分
こんばんは。
ここで梨木神社が出てきましたか。お写真は、“萩まつり”のときのようですね。去年の萩まつりに行ったら、マンション建設とかで、門前に大きな囲いがしてありました。
投稿: 南太郎 | 2016年2月21日 (日) 19時54分
nonさん、こんにちは~
nonさんはパワフルですね。
私は、風邪をひいた時はネットを見る気にも、ましてやコメント残す気にもなれず、土日は寝てました。
投稿: 茶々 | 2016年2月22日 (月) 15時21分
南太郎さん、こんにちは~
写真は2~3年前の物です。
>去年の萩まつりに行ったら、マンション建設とかで…
そうなんですか?
下鴨神社の糺の森のマンションはニュースになってましたが…時代の流れなのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2016年2月22日 (月) 15時24分
茶々さん、こんばんは。
私はネット中毒なのでいつも気になってしょうがないのです。
前に書いたことは良かったのかなと気になるのです。
それくらいに神経質です。多分信行の血が濃いからと思います。
投稿: non | 2016年2月22日 (月) 18時15分
nonさん、こんばんは~
そうなんですか~
しんどいですね。。。
投稿: 茶々 | 2016年2月24日 (水) 01時16分