幕末維新を駆け抜けた実業家…「東洋男子」岩崎弥太郎
明治十八年(1885年)2月7日、近代日本屈指の実業家=岩崎弥太郎がこの世を去りました。
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「三菱商会会長の岩崎弥太郎殿は、深川清住(きよすみ)町なる前島密(ひそか)君の旧邸より引続き、同地所四万余坪を買入れ、吾朝の阿房宮(あぼうきゅう)とも称すべき壮麗なる高堂を建設される。
入費凡(およそ)四万円の見積もりにて、公園内にも、稀なる巨大の珍石花木等蒐集(しゅうしゅう)の為め、既に千有余円を出して毎日エンサカエンサカ曳き入る云々」
これは、明治十一年(1878年)7月19日付けの『東京曙新聞』の記事・・・この時、まさに実業家として絶頂期にあった岩崎弥太郎(いわさきやたろう)ですが、去る平成二十二年(2010年)の大河ドラマ『龍馬伝』で、演技派の香川照之(かがわてるゆき)さんが、記憶に残る好演された事で覚えておいでの方も多いかと思います。
なので、このブログでも、大河ドラマ関連で、弥太郎と海援隊&龍馬の関係など(1月31日参照>>)書かせていただいたり、彼が実業家に至る経緯(10月9日参照>>)なんかも書かせていただいておりますので、弥太郎さんの前半生は、そちらのページでご覧いただくとして、本日は、ご命日という事で、その最期の姿をご紹介させていただきます。
かの『龍馬伝』での弥太郎さんの立ち位置が、極悪人では無いにしろ、小憎たらしい役だったからなのかも知れませんが、亡くなるシーンは、自宅の部屋?お屋敷?みたいな場所で、ものすごく変わったポーズで動かなくなってる姿が一瞬映っただけの、何か不思議な最期の描き方だったですが、当時の報道を見る限りでは、実際にはしっかり&キッチリとした亡くなり方だったようですヨ。
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幕末維新の流れの中で、土佐藩の貿易業務を引き継いだ三菱商会で成功を収めた弥太郎は、明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(9月24日参照>>)での軍事輸送で更なる利益を上げ、冒頭に紹介させていただいた新聞記事のように、まさに時代の寵児となったわけですが、そうなれは当然、それに反発する勢力もあるわけで・・・
今のところ、海運を独占する形になっている三菱商会に対して、ライバルとなる三井を中心とした勢力が政党や経済学者を巻き込んで反発し、三井VS三菱の抗争は社会問題にまでなっていたのですが、
そんなこんなの明治十八年(1885年)2月7日午後・・・
付き添い人や取り巻きを遠ざけた後、奥さんの喜勢(きせ)と息子の久弥(ひさや)と弟の弥之助(やのすけ)のみを側に呼んで、奥さんと息子には
「俺亡き後は、弥之助を俺やと思て、言う事聞けよ」
と言い、弟には
「万事、お前に任す…俺に代わって、何でもやってくたらええけど、俺が雇た使用人たちは、そのまま使うたってくれ。
他に言う事は無いわ」
と言うと、少しの間、目を閉じて横になりました。
実は、この7~8年前から、頭痛に悩まされて体調を崩していた弥太郎・・・少し前からは、もはや、以前のように仕事こなす事も難しくなっていた上に、この1年前には胃がんが発覚し、それからは、仕事はシャットアウトして、すべて弟の弥之助にやってもらっていたのですが、ここに来て、彼自身「いよいよか…」と思ったのでしょうか・・・
しばらくして目を開けた弥太郎は、よほど気がかりなのか?もう一度
「俺の雇うた使用人たちの事、頼むで…くれぐれも遠ざけるような事無く、世話したってくれよ」
と言い残したとか・・・
その後、母親の美和(みわ)さんが会いに来てくれたので、笑みを浮かべながら、
「今日は、随分と気分がええんですが、喉に何かつっかえた感じがあって、それだけが気がかりですわ。
けど、明日にでも床上げしますさかいに、心配せんといて下さい」
と言いながら、カッカッと大声で笑って、年老いた母を安心させたそうです。
しかし、それから間もなく、弥太郎は瞑想するがの如く、深く目を閉じ、その目が開く事は2度と無かったのです。
かくして明治十八年(1885年)2月7日午後6時30分、岩崎弥太郎は51年の生涯を閉じたのです。
その日の『東京日日新聞』は、
「世に並々の人ならんには、身を惜しみ財を惜しみて、臨終を潔くする能はざるべきに、此等の事共は恰(あたか)も土芥(どかい=土やゴミのような値打ちの無い物)の如く、臨終の一言只母を痛はり人を憐むのみなりし」
と、その最期の場面を報じています。
一説には、
「俺は、東洋男子として恥ずかしく無い生き方をして来たつもりだ」
という言葉を、日頃から口癖にしていた事を受けてか、
「“東洋男子!”と大きく叫んで亡くなった=それが最期の言葉だった」という話もあるらしいですが、個人的には、お母さんを気づかうやさしい言葉の方が好みデス(*´v゚*)ゞ
その後の2月13日、午前中から行われた葬儀の後、午後3時半頃から墓地にて行われた埋葬式では、会葬者のために約6000坪の畑を借り受け、そこ一面に筵(むしろ)を2重に敷き詰めて人が座れるようにし、6万人分の料理やお菓子を用意をしていた岩崎家でしたが、身分の上下を問わず、来る者拒まず受け入れたので、午後4時半頃には、ほとんど無くなっってしまったそうで、その光景から察して、約7万人ほどの人々が参列したのではないか?と言われています。
なんか・・・スケールが違うな...(A;´・ω・)アセアセ
ちなみに、そんな弥太郎がやり残した事=三井VS三菱の抗争ですが・・・
ご安心を・・・
この弥太郎の死から約半年後の明治十八年(1885年)9月29日、お互いの共同出資という形で合同する事となり、日本郵船(にっぽんゆうせん)が設立される事となります。
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コメント
茶々さんこんにちは
これは知らなかったです
岩崎弥太郎は三菱開祖の守銭奴位に
思ってました
優しい熱血漢だった?
やっぱりドラマとかだと
ちょいワル役のポジションが
イメージとして
有りました
今回は印象にとても残りましたね
ラスト部分の茶々節
良かったです
私も母に気を使う
弥太郎氏だったと思いたいですね
次回の更新も楽しみにしてます
投稿: 桜文鳥 | 2016年2月11日 (木) 10時07分
桜文鳥さん。こんばんは~
そうですね。
実業家として成功した人ですから、ビジネスの世界では敵も多かったでしょうし憎まれてもいたでしょうが、それに関係の無いところでは、意外にやさしい人だったのかも知れませんね。
コメント、ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2016年2月12日 (金) 01時15分