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2016年2月25日 (木)

映画「信長協奏曲」~感想です

 

公開から1ヶ月経ちましたが、やっとこさ、映画『信長協奏曲(のぶながコンチェルト)を鑑賞させていただいたので、その感想など、お話させていただきます。

・・・・・・・・・・

映画は、まだ公開中ですので、なるべくネタバレしないよう感想を述べたいと思いますが、「ネタバレなして感想を書く」というのは、かなり高度な技術がいると思われます中、もともと文才の無い茶々でございますゆえ、話を進めていくうちに、少々バレてしまうかも知れませんが、そこのところは、ご了承いただきたく存じます。
(注:原作漫画は見ておりませんので、あくまでドラマと、それに続く映画の感想です…あと、ドラマはすでに放送されているのでドラマの内容は完全にバラします)

・・・まず、最初の感想は、
当然ですが、「ドラマを見てオモシロイと思っていた方はオモシロイ」です。

なんせ、俳優さんもろともドラマの続きですから・・・
いや、むしろ、ドラマが、完全に「続きあるヨ」的な終わり方だったので、自身の心の中で、あのドラマを完結させるという意味では、映画も見た方が、完全にスッキリ終われますね。

・・・で、2014年の10月から1クール=3ヶ月間放送されていた映画の前篇となるドラマは・・・

小栗旬さん演じる高校生のサブローがタイムスリップ・・・そこで、自分とソックリの若き日の信長に出会いますが、その信長は、自分が病弱な事や、父親から「大将の器では無い」と叱責された事から自信を失っており、サブローに「自分に代わって信長やってくれへん?」と自身の証となる刀を預けます。

タイムスリップする前にいた場所が映画村(歴史村?)だった事から、(イベントの劇とかで)信長の役をやってくれ」と頼まれていると思ったサブローは「オモシロそう!やってみる!」と引き受けますが、それが、ホンモノの信長だったわけで・・・と、こんな感じで話が進んでいきます。

サブローが信長になった時点で、すでに帰蝶(きちょう=濃姫)と結婚している(2月24日参照>>)、父の信秀(のぶひで)が序盤で亡くなる(3月3日参照>>)から、ドラマの始まりは、天文二十年(1551年)=信長18歳のちょっと前の頃から・・・となっているようです。

第2回の放送で、天文二十二年(1553年)の信長と斉藤道三(さいとうどうさん)との会(4月20日参照>>)が描かれていますので、やはり、そうなんでしょう。

そう、実は、この「信長協奏曲」のオモシロイところは、はじまりが「タイムスリップ」という荒唐無稽な設定ながら、そこに史実をうま~く絡めてくれているところです。

おそらくは、原作者の方が、かなりの歴史好き&信長好きなのでしょう・・・その発想に歴史愛が見え隠れします。

また、原作には無いドラマ版でのオリジナルキャラとして、信長の従兄弟の織田信清(のぶきよ)>>をチョイスして下さる所なんざ、ドラマの造り手さんの中にも、歴史好き&信長好きが感じられるので、お笑い的な要素も、創作丸々な部分も、落ち着いて見ていられるのだと思います。

そんな中で、奇抜なヘアスタイルに奇抜なファッション、変な言葉づかいに突飛な発想は、現代人のサブローなればこそ・・・という路線で物語は進みます。

未だ群雄割拠する戦国で、「天下を取ってやる!」と豪語するのも、「これ以上誰も死んでほしく無い!」「戦争の無い日本にするには全国を一つにするしかない!」という、現代日本の平和を知っている者なら、ごく普通に思い描く部分から来ているのですが、未だ戦国真っただ中の人たちにとっては、それは思いもよらぬ発想・・・そこに、家臣たちも魅かれていくわけで・・・

・・・とまぁ、こんな感じで、未だ、尾張(おわり=愛知県西部)すら統一していない時点の織田家を信長として引っ張っていく事になるサブローが、

その後の・・・
弘治二年(1556年)の斎藤道三の最期>>
永禄三年(1560年)の桶狭間の戦い>>
永禄九年(1566年)?墨俣の一夜城>>からの
永禄十年(1567年)の稲葉山城・陥落>>
永禄十一年(1568年)の足利義昭を奉じての上洛>>
元亀元年(1570年)に始まった浅井朝倉との戦いでの金ヶ崎の退き口>>から続く、主要キャラの森可成(もりよしなり)が討死する宇佐山城の戦い>>へと、

信長主人公の物語の定番となる様々な場面を、歴史に疎く、戦いに慣れていない現代高校生のサブローの成長ぶりとうまく絡めつつ、ドラマは描いてくれていましたね。

さらに、
元亀二年(1571年)の比叡山焼き討ち>>や、
天正元年(1573年)に将軍を追放する槇島城の戦い>>浅井家の滅亡>>まで・・・

と長々とお話してしまいましたが、この浅井家の滅亡までが、月9で放送されたドラマでの出来事で、映画では、その続き=安土城を完成>>させるあたりから、信長の最期となる本能寺の変>>までが描かれます。

もちろん、本能寺へ至る伏線は、すでにドラマの時から貼られているわけですが・・・

それが、途中から、頭巾で顔を隠した本物の信長が、謎の武将=明智光秀(あけちみつひで)と名乗り、家臣となってサブローをサポートする事・・・

もう一つ、以前、信長(本物の方)が焼き討ちした村の生き残りで、家族を皆殺しにされた恨みを持つ男が、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)と名乗って、草履取りから側近となっていく事・・・

最初は、本当にサブローの味方となってサポートしていた光秀でしたが、その冷酷な性格から、信長当時は、心通わす事が無かった家臣たちや妻の帰蝶が、サブローを心底慕っている場面を目の当たりにし、密かに嫉妬の炎を燃やす中、信長⇔サブロー入れ替わりの事実を知った秀吉が、「あなた様こそ信長様…」と、光秀にサブローを暗殺させようと画策し、光秀自身も、信長の座を取り戻したいと思うようになり・・・と、これらが、本能寺への伏線ですね。

天正十年(1582年)6月に
光秀が本能寺で謀反を起こす事・・・
その13日後に、
秀吉が山崎の合戦>>で、その光秀を討つ事・・・
を、知っている私たちから見れば、
なるほど・・・そう来たか~
という感じですね。
(ちなみに、サブローは歴史が苦手で、本能寺の変の事は、まったく知らない設定です)

なので、すでにドラマの終盤で、本能寺への流れが見えている感じですが、果たして映画では、その予想通りの結末となるのか?どうか・・・

それは、映画を見てのお楽しみ・・・それを確かめるためにも、ドラマのファンだった方は、その落とし所を確認しないと、ですね。

もちろん、歴史としてのツッコミどころはありますが、それこそ、時間にも役者さんの数にも限りがありますので、完全スルーで描かれなかった場面があるのも、大人の事情として理解できますし、何より、物語の中での辻褄が合ってるのでOKです。

そして、ウレシイのは、「ここのところはテレビドラマでは派手なのはムリなんだろうなぁ」と思える軍団による戦闘シーンが、ちゃんと描かれているところ・・・

ドラマでは、いまどきの高校生で、刀の扱いも不得手だった小栗サブロー君が、映画ではかなりの戦闘シーンを見せてくれてます。

ドラマの最後である浅井家の滅亡から、映画の始まりである安土城完成までは約3年間・・・そこから本能寺までは約6年間・・・

思えば、タイムスリップした高校生から、「にんげんごじゅうね~ん」の本能寺までの年月=約30年が経っているわけですから、サブロー君も成長したという事でしょう。

あと、ドラマでは、サブローと家臣たちのやりとりや、奥さん帰蝶との掛け合いで笑わせてくれるシーンがふんだんにありましたが、映画では最初のあたりだけで、あとは、どちらかというと真剣なノリでの話が進みます。

また、武田滅亡>>が完全スルーなので、個人的には、この武田とのアレコレを中心に、毛利とのドンパチも描きつつのドラマを、もう1クールやってから、映画での本能寺でも良かったんじゃないか?と思ったりもするのですが・・・

ただ、武田は無かったけれど、一方では、石山本願寺との天王寺合戦>>松永久秀(まつながひさひで)との信貴山城の戦い>>というあまり、ドラマや映画ではお目にかかれないシーンが出て来たのは良かったです。

特に天王寺合戦は、この戦いでのサブローの動きっぷりが、この後のある事のキーポイントとなるので、イイ感じで描かれていましたね。

ティーパーティがウエディングだったり・・・
「敵は本能寺にあり!」と叫ぶのが光秀じゃなかったり・・・
なのに、物語の中では、ちゃんと辻褄が合って成立しているのがオモシロイ・・・
山田孝之=秀吉君の恨み爆発の演技も良かったしね

とにかく、もともと月9のドラマも好きだった私の中では充分満足できました~

ただ、最後の最後がなぁ~
いや、見てるお客さんに対し、その後の事も伝えなけらばならないので、来たばかりのウイリアム・アダムス三浦按針)君が、太陽電池のスンゴイ充電器を持っていたと仮定して、アレはアレで良いのかも知れないけれど、私個人としては・・・
「サブローと松永久秀と、さらにアダムス君までもがナニするなら、帰蝶ちゃんがナニしても良かったんとちゃうん?
てか、そうしてあげて欲しかったワ」

と思うのですが、造り手さんの中では、「往復はあっても片道切符は発行しない」って決まり的な物があったのかも知れませんね。
(ちなみに、史実としてのウィリアム・アダムスが漂着する>>のは慶長五年(1600年)=関ヶ原の直前の事なので信長どころか秀吉も死んだ後ですが…オモシロイので許すww)

んん?って事は、ドラマの序盤に死んだ斉藤道三もナニしてるのか?
という疑問を残しつつも、個人的には見て良かった映画だと思いました。

追記:ネタバレしないために、アレがナニが、という曖昧な表現が多くなってしまった事をお詫びしますm(_ _)m
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2016年2月18日 (木)

幕末維新の公卿で政治家…三条実美

 

明治二十四年(1891年)2月18日、幕末~明治の公家で大臣等を歴任した政治家でもある三条実美が死去しました。

・・・・・・・・・

三条実美(さんじょうさねとみ=三條實美)の三条家は五摂家に次ぐ格式の清華(せいが)の一つ・・・三条実万(さねつむ)の息子として天保八年(1837年)に生まれた実美は、6歳まで洛北の豪農=楠六左衛門に養育されました。

その後、邸宅に戻ってからは、三条家の用人であった富田織部(とみたおりべ)が、実美の教育係となりますが、この織部がバリバリの尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を尊び外国を排除)であった事から、当然の事ながら実美も尊攘思想へと傾いていく事になります。

この頃は、例の嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)を受けて、開国か攘夷かで日本が真っ二つに分かれていた頃・・・

しかし、米国総領事・ハリス(7月21日参照>>)から日米修好通商条約を迫られた幕府は、安政五年(1858年)、時の第121代天皇・孝明(こうめい)天皇からの勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ずに条約を締結・・・幕府大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、反対する者を次々と弾圧していきます。

これが世に言う安政の大獄(たいごく)(10月7日参照>>)ですが、実美の父も、辞職して出家という処分を受け、実美自身も政争に巻き込まれた事から、より一層、尊王攘夷の思いを高めるのでした。

Sanzyousanetomi600 そんなこんなの文久二年(1862年)、すでに兄の病死等を受けて三条家を継ぐ身となっていた実美は、公武合体(こうぶがったい=天皇家と幕府が協力)(8月26日参照>>)を主張する岩倉具視(いわくらともみ)薩摩(さつま=鹿児島県)などと対立・・・

反幕府で攘夷派の長州(ちょうしゅう=山口県)と組んで京都での主導権を握りはじめ、公家攘夷派の中心人物となっていくのです。

この年の8月には、自ら江戸へと赴いて、
時の14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)攘夷の決行を約束させたり(5月10日の前半部分参照>>)
弾劾意見書を提出して岩倉を蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)に追い込んだ(7月20日の真ん中あたり参照>>)
孝明天皇の大和(やまと=奈良県)行幸を企画したり(9月27日の真ん中あたり参照>>)・・・
と、まさに縦横無尽の活躍ぶりだったわけですが・・・

だがしかし・・・
ここで、ご存じの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)です。

実は、孝明天皇自身が考えておられたのは、あくまで幕府が行う攘夷であって、倒幕すら視野に入れた過激な尊王攘夷派には少し違和感を持っておられたようで、朝廷内も一枚岩では無かったのです。

・・・で、その孝明天皇を意を汲んだ中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(2009年8月18日参照>>)は、京都守護職を務めていた会津藩と、トップクラスの軍備を持つ薩摩藩に同盟を組ませ、彼らに御所の警備を任せる事にして、この文久三年(1863年)8月18日の朝に攘夷派の長州藩を禁門(蛤御門・御所の門の一つ)の警備から外したのです。

出勤しようと門の前まで来た尊王攘夷派の公卿たちは、会津&薩摩の警備陣に阻まれて御所の中に入れてもらえず、この日を境に警備から外された長州藩も京都から追い出される事になりました。

中心人物だった実美はもちろん、彼以外にも、
三条西季知(さんじょうにしすえとも)
東久世通禧(ひがしくぜみつとみ)
壬生基修(みぶもとなか)
四条隆謌(しじょうたかうた)
錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)
澤宣嘉(さわのぶよし)
の合計7人が、長州藩士に守られながら一路長州へ・・・これを、七卿落ち(しちきょうおち)と言います。

その翌年、何とか巻き返しを図ろうと集まっていた長州藩士たちのところに、会津藩預かりとなった新撰組が踏み込んだのが元治元年(1864年)6月に起こった池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・

さらに、その1ヶ月後、かの八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州が、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛し、「御所に入れろ」「入れない」でドンパチ・・・これが禁門の変(7月19日参照>>)ですが、この時に長州藩の放った弾丸が御所に命中した事から、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家に反逆した者)となってしまいました。

これで、幕府による長州征伐(第一次)が開始される事になりますが、この時は、長州藩自ら、変の首謀者とされる3人の家老の首を差し出す事で、何とか交戦を回避しました(11月12日参照>>)

とは言え、揺れ動く長州藩内・・・禁門の変の失敗で、一旦は保守派が牛耳る事になった藩の上層部でしたが、功山寺で挙兵した(12月16日参照>>)高杉晋作(たかすぎしんさく)によって再び革新派が返り咲いています。

この間に、七卿のうちの澤宣嘉は長州を出て生野(兵庫県生野)にて別行動をし、錦小路頼徳が病死したため、5人となっていた実美以下公卿たち・・・彼らが危険に晒される事を案じた長州藩は、慶応元年(1865年)2月に、彼ら五卿を、筑前大宰府(福岡県太宰府市)にある延寿王院(えんじゅおういん=太宰府天満宮の宿坊)へと移しました。

ここで、しばらくの間、実美は幽閉生活を送る事になるのですが、この時、かの禁門の変で負傷して長州に逃げて来ていた土佐(高知県)中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が、実美のもとへ足しげく通い、薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と交渉したり、以前は公武合体を叫んでいた岩倉具視をコチラ側に向けたりの大活躍・・・(8月6日参照>>)

その努力が実って慶応二年(1866年)1月21日、ご存じの薩長同盟の成立(1月21日参照>>)・・・その年の6月から開始された第二次長州征伐(四境戦争)(6月8日参照>>)は、なんと長州優位のまま、将軍=家茂の死(7月20日参照>>)によって幕が閉じられました

さらに年末の孝明天皇の崩御(12月25日参照>>)によって、加速する倒幕への波は留まる事を知らず・・・翌慶応三年(1867年)10月14日には第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)による大政奉還(10月14日参照>>)が行われる一方で、その前日と同日には、薩摩と長州に「討幕の密勅」が下る(10月13日参照>>)というスピード展開の中、12月9日の王政復古の大号令(12月9日参照>>)をキッカケに、実美は京都へと戻り、やっと表舞台に復帰する事ができました。

その後は、戊辰戦争の勝利によって維新が成った明治新政府の要人として、副総裁から右大臣を経て太政大臣まで務めますが、なぜか、新政府内での実美の影は薄い・・・

どうやら実美さん、政治的な決断力に欠ける人だったようで・・・

そもそも、その地位や立場から、尊王攘夷の旗印のように掲げられたものの、ご本人の性格はいたって温和な公家風おじゃる丸・・・新政府内で誰かと誰かが対立する度に、その板挟みとなって苦悩する毎日だったようで・・・

結局、名誉職などにはついたものの、あまり存在感が無いまま第1線を退き、明治二十四年(1891年)2月18日55歳でこの世を去ったのです。

高熱で病床についたとの事で、おそらくは流感(りゅうかん)インフルエンザだったらしい・・・

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萩が盛りの梨木神社(京都)

墓所は東京都文京区の護国寺、その御霊は、かつて三条邸が建っていた場所(京都御所の近く)に建立された梨木神社に合祀されました。

ドラマなどでは、主役を張る長州藩の志士たちに対して、薄暗いすだれの向こうから「あーしろ」「こーしろ」とか「まだやらんのか?」とかばかり言ってそうなイメージの実美さんですが、意外に、争いを好まない、心やさしい方だったのかも知れませんね。
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2016年2月12日 (金)

祝!ブログ開設10周年…ありがとうございます

 

私ごとで恐縮ですが・・・

おかげ様で、
本日・・・2016年2月12日を以って、このブログが、開設10周年を迎えました~~
( ^-^)ノ∠※PON!。.:*:・'°☆。.:*:・'°ヽ(´▽`)/

少し前から
「ん?これは?」
「開設10周年と2000万アクセス越えと、ダブル祝いか?」

と、ちょっと期待してたんですが、

さすがに、世の中、そう甘くは無いww・・・
残念ながら、ご覧の通り、総アクセス数は、まだ1900万アクセスを越えたばかりなので、2000万アクセスまでは、もう少しかかりそうです(*´v゚*)ゞ

とは言え、10年ひと昔・・・
もう10年なのか?
まだ10年なのか?

長いようでもあり、短いようでもあり・・・

個人的には、
いろんな事があった10年でもあったし、
大した変化は無かった10年でもありました。

正直、この10年間で「ブログを止めよう」と思った事も1度や2度では無かったし、逆に「やってて良かった」と思った事も1度や2度ではありません。

・・・で、調べてみると、様々なデータが出て来ましたが、世の中、毎日多くのブログが生まれる一方で、毎日多くのブログが閉鎖されている・・・その中で、「ほぼ9割のブログが開設8カ月以内で閉鎖している」のだそうで・・・それを思えば、10年は長い(笑)

アクセス数に関しては、7割以上のブログが1日100PV以下で、一日500以上あれば大手ブログと呼べるのだそうで・・・って事は、ウチも大手なのか?(*^-^)とちょっと喜んでみたりなんかして・・・

そう言えば、10年前にブログを始めた第1日目のアクセスは12でした~「このブログの歩み」参照>>) ←別窓で開きます
思えば、そこから始まっての10年ですね~
としみじみ(u_u。)

もちろん、アクセス数を上げるためにブログを書いてるわけではありませんが、それだけ多くの方に見ていただいているとなると、自身のモチベーションが上がり、更新の励みになる事は確かです・・・にんげんだもの…みつを

とは言え、最近は忙しさにかまけて、以前のような頻度で更新できておらず、心の中に焦りみたいなものを感じています。

また、趣味である城巡りや寺巡りが、以前のようにできていない事も確か・・・

なんか、ブログを始めた頃の余裕を保てていないなぁ~とつくづく・・・

しかし、聞くところによると、巷では1ヶ月に1回以上更新しているブログを『アクティブブログ』と呼んで、「休止中または放置されてるブログでは無い」という分類になるのだそうで・・・それでいくと、このブログもまだまだアクティブブログ・・・

なので、皆々様の長~いお気持ち、広~いお心に甘えつつ、焦らす余裕を以って、これからも細々とブログを続けていけたらいいなぁ~と思っております。

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♪花咲て また立出ん 旅心~♪もうすぐ…春になったらどこかへ出かけたいですね~
写真は「日本さくら名所100選」に選定されている岐阜県霞間ヶ渓サクラ

てな事で、皆様のおかげを以って、こうして開設10周年を迎える事ができました。

ありがとうございます!
今後とも『今日は何の日?徒然日記』を、よろしくお願いいたしますm(_ _)m

::::::::::::::::::::::::::::::管理人:羽柴茶々でした~
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2016年2月 7日 (日)

幕末維新を駆け抜けた実業家…「東洋男子」岩崎弥太郎

 

明治十八年(1885年)2月7日、近代日本屈指の実業家=岩崎弥太郎がこの世を去りました。

・・・・・・・・・

「三菱商会会長の岩崎弥太郎殿は、深川清住(きよすみ)町なる前島密(ひそか)君の旧邸より引続き、同地所四万余坪を買入れ、吾朝の阿房宮(あぼうきゅう)とも称すべき壮麗なる高堂を建設される。
入費凡
(およそ)四万円の見積もりにて、公園内にも、稀なる巨大の珍石花木等蒐集(しゅうしゅう)の為め、既に千有余円を出して毎日エンサカエンサカ曳き入る云々」

Iwasakiyatarou500a これは、明治十一年(1878年)7月19日付けの『東京曙新聞』の記事・・・この時、まさに実業家として絶頂期にあった岩崎弥太郎(いわさきやたろう)ですが、去る平成二十二年(2010年)の大河ドラマ『龍馬伝』で、演技派の香川照之(かがわてるゆき)さんが、記憶に残る好演された事で覚えておいでの方も多いかと思います。

なので、このブログでも、大河ドラマ関連で、弥太郎と海援隊&龍馬の関係など(1月31日参照>>)書かせていただいたり、彼が実業家に至る経緯(10月9日参照>>)なんかも書かせていただいておりますので、弥太郎さんの前半生は、そちらのページでご覧いただくとして、本日は、ご命日という事で、その最期の姿をご紹介させていただきます。

かの『龍馬伝』での弥太郎さんの立ち位置が、極悪人では無いにしろ、小憎たらしい役だったからなのかも知れませんが、亡くなるシーンは、自宅の部屋?お屋敷?みたいな場所で、ものすごく変わったポーズで動かなくなってる姿が一瞬映っただけの、何か不思議な最期の描き方だったですが、当時の報道を見る限りでは、実際にはしっかり&キッチリとした亡くなり方だったようですヨ。

・‥…━━━☆

幕末維新の流れの中で、土佐藩の貿易業務を引き継いだ三菱商会で成功を収めた弥太郎は、明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(9月24日参照>>)での軍事輸送で更なる利益を上げ、冒頭に紹介させていただいた新聞記事のように、まさに時代の寵児となったわけですが、そうなれは当然、それに反発する勢力もあるわけで・・・

今のところ、海運を独占する形になっている三菱商会に対して、ライバルとなる三井を中心とした勢力が政党や経済学者を巻き込んで反発し、三井VS三菱の抗争は社会問題にまでなっていたのですが、

そんなこんなの明治十八年(1885年)2月7日午後・・・

付き添い人や取り巻きを遠ざけた後、奥さんの喜勢(きせと息子の久弥(ひさや)と弟の弥之助(やのすけ)のみを側に呼んで、奥さんと息子には
「俺亡き後は、弥之助を俺やと思て、言う事聞けよ」
と言い、弟には
「万事、お前に任す…俺に代わって、何でもやってくたらええけど、俺が雇た使用人たちは、そのまま使うたってくれ。
他に言う事は無いわ」

と言うと、少しの間、目を閉じて横になりました。

実は、この7~8年前から、頭痛に悩まされて体調を崩していた弥太郎・・・少し前からは、もはや、以前のように仕事こなす事も難しくなっていた上に、この1年前には胃がんが発覚し、それからは、仕事はシャットアウトして、すべて弟の弥之助にやってもらっていたのですが、ここに来て、彼自身「いよいよか…」と思ったのでしょうか・・・

しばらくして目を開けた弥太郎は、よほど気がかりなのか?もう一度
「俺の雇うた使用人たちの事、頼むで…くれぐれも遠ざけるような事無く、世話したってくれよ」
と言い残したとか・・・

その後、母親の美和(みわ)さんが会いに来てくれたので、笑みを浮かべながら、
「今日は、随分と気分がええんですが、喉に何かつっかえた感じがあって、それだけが気がかりですわ。
けど、明日にでも床上げしますさかいに、心配せんといて下さい」

と言いながら、カッカッと大声で笑って、年老いた母を安心させたそうです。

しかし、それから間もなく、弥太郎は瞑想するがの如く、深く目を閉じ、その目が開く事は2度と無かったのです。

かくして明治十八年(1885年)2月7日午後6時30分、岩崎弥太郎は51年の生涯を閉じたのです。

その日の『東京日日新聞』は、
「世に並々の人ならんには、身を惜しみ財を惜しみて、臨終を潔くする能はざるべきに、此等の事共は恰(あたか)も土芥(どかい=土やゴミのような値打ちの無い物)の如く、臨終の一言只母を痛はり人を憐むのみなりし」
と、その最期の場面を報じています。

一説には、
「俺は、東洋男子として恥ずかしく無い生き方をして来たつもりだ」
という言葉を、日頃から口癖にしていた事を受けてか、
“東洋男子!”と大きく叫んで亡くなった=それが最期の言葉だった」という話もあるらしいですが、個人的には、お母さんを気づかうやさしい言葉の方が好みデス(*´v゚*)ゞ

その後の2月13日、午前中から行われた葬儀の後、午後3時半頃から墓地にて行われた埋葬式では、会葬者のために約6000坪の畑を借り受け、そこ一面に筵(むしろ)を2重に敷き詰めて人が座れるようにし、6万人分の料理やお菓子を用意をしていた岩崎家でしたが、身分の上下を問わず、来る者拒まず受け入れたので、午後4時半頃には、ほとんど無くなっってしまったそうで、その光景から察して、約7万人ほどの人々が参列したのではないか?と言われています。

なんか・・・スケールが違うな...(A;´・ω・)アセアセ

ちなみに、そんな弥太郎がやり残した事=三井VS三菱の抗争ですが・・・

ご安心を・・・
この弥太郎の死から約半年後の明治十八年(1885年)9月29日、お互いの共同出資という形で合同する事となり、日本郵船(にっぽんゆうせん)が設立される事となります。
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2016年2月 1日 (月)

天下のご意見番~大久保彦左衛門忠教が逝く

 

寛永十六年(1639年)2月1日、講談や時代劇で知られる大久保彦左衛門忠教がこの世を去りました。
(死亡日については2月29日もしくは2月30日説もあり←29日や30日だと書き難いので1日の日付けで書きます(*´v゚*)ゞ)

・・・・・・・・・

戦国時代を徳川家康(とくがわいえやす)とともに駆け抜けた後、その家康の息子の秀忠(ひでただ)、さらにその息子の家光(いえみつ)江戸時代初期の3代の将軍に仕えた重臣大久保忠教(おおくぼただたか)・・・

ここ最近はすっかり少なくなったテレビ時代劇ですが、その華やかなりし頃には、様々な立ち位置で何度もドラマに登場したのがこの方・・・ファンの皆様には大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)の名前の方がお馴染みかも知れませんね。

ある時は、魚屋の一心太助(いっしんたすけ)窮地に立った時に助ける大物役だったり、ある時は、若き家光をサポートする傅役(もりやく)だったり・・・いずれにしても、ドラマの場合は、弱き庶民が抵抗できないような役人や武士に対して臆することなく物を言い、庶民の味方となって見事に問題を片づけてくれる「天下のご意見番」という冠がつくカッコイイ老人の場合がほとんどですねww

ただし・・・お察しの通り、時代劇に登場する「カッコイイ老人」の代表格である水戸黄門と同様に、この彦左衛門さんの逸話も、ほぼほぼ後世の創作と言われています。

なんせ、江戸時代から彦左衛門さんは講談やお芝居で大人気だったですから・・・時代劇で描かれる彦左衛門の姿は、その江戸のお芝居の流れのまま描かれているんですね。

そもそも・・・
彦左衛門さんの大久保氏は、平安時代に関白となって権勢を振るった藤原北家藤原道兼(ふじわらのみちかね)の子孫で、南北朝時代には新田義貞(にったよしさだに従い、その後、三河(みかわ=愛知県東部)松平信光(まつだいらのぶみつ=家康の6代前)に仕えたのが始まりとされますが、実際のところはよくわかっていません。
(家康の父の清康(12月5日参照>>)から…という説もあります)

とは言え、家康の時代には、父の大久保忠員(ただかず)や、後に蟹江(かにえ)七本槍徳川十六神将の1人に数えられる兄の大久保忠世(ただよ)(3月1日参照>>)とともに彦左衛門も活躍し、いつしか彼らの大久保家は、本家の伯父さん(父の兄=大久保忠俊)の大久保家をしのぐ勢いとなっていきます。

とにもかくにも、天正十三年(1585年)の第一次上田城=神川の戦い(8月2日参照>>)や天正十八年(1590年)の小田原征伐(7月5日参照>>)、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦(関ヶ原の戦いの年表>>)に慶長十九年(1614年)の大坂の陣(大坂の陣の年表>>)などなど・・・数多くの合戦に従軍して奮戦したという事なんですが・・・

それは彦左衛門さんが一個師団を率いる武将ではなく、父や兄の軍に従属して参戦する人だったからか?

はたまた、晩年に書いた子孫へ残す家訓的な自叙伝=『三河物語』が、戦争を知らない子供たちの間で大ヒットし、若き武将のバイブル的存在になった事が大きかったのか?

やはり、今に残る逸話の多くが、平和な江戸時代になっても、戦国の生き残りとして反骨精神を失わない頑固なジッチャンのイメージ・・・痛快でおもしろく、一応史実とされる事でも「そら、講談や時代劇にしたなるわな!」って感じの逸話が多いんです。

・‥…━━━☆

ある時、某という武将の屋敷に招かれた彦左衛門・・・

宴会でひとしきり飲んで盛りあがる中、その武将がうやうやしく一頭の馬を引き立てて来て、
「どや!俺の持ってる、この馬…メッチャええ馬で、ごっつい俊足やねんゾ!大坂の陣でも大活躍した名馬や!」
と自慢するので、
「なるほど…あの大坂の陣の時に素早く逃げられたんは、足の速いこの馬のおかげかぁ~さすがの俊足で主人を助けるとは大した馬やなぁ」
と皮肉を一言・・・その武将が聞こえないフリをする一方で、他の者たちは顔を見合わせて、笑いをこらえるのに必死だったとか・・・

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また、ある時、江戸城に登城した彦左衛門に、将軍=秀忠から
「今日の料理、珍しいが出るさかい、お前も一緒に食べへんか?」
と誘われてご一緒したところ、汁物の料理が登場・・・

「どや、珍しいやろ?鶴なんかめったに食べられへんで」
と秀忠が言うと、
「いや、ウチでは毎日食べてまっせ」
と彦左衛門・・・

「ウソやろ?なんぼなんでも毎日はムリやで」
と疑う秀忠に
「ホンマです…なんやったら、その証拠に、これから毎日、食用の鶴持って登城しますわ~お楽しみに~~」

と、翌日登城した彦左衛門は、2~3束の菜っ葉を手に秀忠の前に出て
「お約束の鶴を持って参りました=」
と、うやうやしく差し出します。

「これ、菜っ葉やんけ」
と秀忠・・・すると彦左衛門が、
「はい!僕らは菜っ葉て呼んでますけど…
昨日いただいた汁物に、この菜っ葉がよーけ入ってて、将軍様が、『鶴や~』『鶴や~』て言わはるんで、将軍家では、これを鶴って呼ぶんかなぁ~って思いまして…
それやったら、ウチにぎょーさんあるさかいに、献上しよかなって持って来ましてん」

とクソ真面目な顔で返答します。

「どないなっとんねん」
と不思議に思った秀忠が詮索してみたところ、料理人が証言・・・
「実は、昨日の汁物には、鶴と菜っ葉と入ってましたが、鶴が貴重なものでっさかいに、ちょっとしか使用しませんでした。
ほんで、もったいないかなぁ~なんて思て、彦左衛門はんのお椀には鶴入れんと、大量の菜っ葉だけ入れときましてん」

と・・・

つまり、誰の悪意でも皮肉でもなく、完全な感違いのすれ違い・・・一同大いに笑ったのだそうです。

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そんな彦左衛門さん・・・
78歳にして病気になってからというもの、さすがの豪傑ジイチャンも日増しに弱々しくなっていき、誰の目にも余命少なく感じるようになった時、鹿島(かしま=茨城県)で暮らす彼のもとに、時の将軍=家光からの使者が訪れ、「5000石加増」の沙汰を伝えました。

すると彦左衛門は
「もうアカンわ~て思うような重病にかかってるジジイに加増してもろても、この先、何もお役に立つ事ができまへんがな。
子孫に残したれ…てな事やったら、楽して得しても、心が緩むだけです。
僕の子孫は、この先、僕以上の手柄を立てて、自分らの功績で加増してもらいますよって、今はいりませんわ」

と、固辞したのだとか・・・

それから間もなくの寛永十六年(1639年)2月1日大久保彦左衛門忠教は80歳の生涯を閉じたのでした。

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錦絵に描かれた大久保彦左衛門(上田市立博物館蔵)
大坂の陣にて家康を追い込む真田幸村VS守る彦左衛門

人一倍強い忠誠心を持ち、家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕えた彦左衛門は、若き日に城主になるチャンスを蹴って旗本に徹し、老いてもなお加増のチャンスを蹴って逝く・・・歯に衣着せぬ物言いをしながらも、生真面目で曲がった事が嫌い・・・

そんな彼の魅力そのままが、後に講談や時代劇に描かれて人気を馳せる「天下のご意見番」の魅力となっているのでしょうね。
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