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2016年2月 1日 (月)

天下のご意見番~大久保彦左衛門忠教が逝く

 

寛永十六年(1639年)2月1日、講談や時代劇で知られる大久保彦左衛門忠教がこの世を去りました。
(死亡日については2月29日もしくは2月30日説もあり←29日や30日だと書き難いので1日の日付けで書きます(*´v゚*)ゞ)

・・・・・・・・・

戦国時代を徳川家康(とくがわいえやす)とともに駆け抜けた後、その家康の息子の秀忠(ひでただ)、さらにその息子の家光(いえみつ)江戸時代初期の3代の将軍に仕えた重臣大久保忠教(おおくぼただたか)・・・

ここ最近はすっかり少なくなったテレビ時代劇ですが、その華やかなりし頃には、様々な立ち位置で何度もドラマに登場したのがこの方・・・ファンの皆様には大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)の名前の方がお馴染みかも知れませんね。

ある時は、魚屋の一心太助(いっしんたすけ)窮地に立った時に助ける大物役だったり、ある時は、若き家光をサポートする傅役(もりやく)だったり・・・いずれにしても、ドラマの場合は、弱き庶民が抵抗できないような役人や武士に対して臆することなく物を言い、庶民の味方となって見事に問題を片づけてくれる「天下のご意見番」という冠がつくカッコイイ老人の場合がほとんどですねww

ただし・・・お察しの通り、時代劇に登場する「カッコイイ老人」の代表格である水戸黄門と同様に、この彦左衛門さんの逸話も、ほぼほぼ後世の創作と言われています。

なんせ、江戸時代から彦左衛門さんは講談やお芝居で大人気だったですから・・・時代劇で描かれる彦左衛門の姿は、その江戸のお芝居の流れのまま描かれているんですね。

そもそも・・・
彦左衛門さんの大久保氏は、平安時代に関白となって権勢を振るった藤原北家藤原道兼(ふじわらのみちかね)の子孫で、南北朝時代には新田義貞(にったよしさだに従い、その後、三河(みかわ=愛知県東部)松平信光(まつだいらのぶみつ=家康の6代前)に仕えたのが始まりとされますが、実際のところはよくわかっていません。
(家康の父の清康(12月5日参照>>)から…という説もあります)

とは言え、家康の時代には、父の大久保忠員(ただかず)や、後に蟹江(かにえ)七本槍徳川十六神将の1人に数えられる兄の大久保忠世(ただよ)(3月1日参照>>)とともに彦左衛門も活躍し、いつしか彼らの大久保家は、本家の伯父さん(父の兄=大久保忠俊)の大久保家をしのぐ勢いとなっていきます。

とにもかくにも、天正十三年(1585年)の第一次上田城=神川の戦い(8月2日参照>>)や天正十八年(1590年)の小田原征伐(7月5日参照>>)、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦(関ヶ原の戦いの年表>>)に慶長十九年(1614年)の大坂の陣(大坂の陣の年表>>)などなど・・・数多くの合戦に従軍して奮戦したという事なんですが・・・

それは彦左衛門さんが一個師団を率いる武将ではなく、父や兄の軍に従属して参戦する人だったからか?

はたまた、晩年に書いた子孫へ残す家訓的な自叙伝=『三河物語』が、戦争を知らない子供たちの間で大ヒットし、若き武将のバイブル的存在になった事が大きかったのか?

やはり、今に残る逸話の多くが、平和な江戸時代になっても、戦国の生き残りとして反骨精神を失わない頑固なジッチャンのイメージ・・・痛快でおもしろく、一応史実とされる事でも「そら、講談や時代劇にしたなるわな!」って感じの逸話が多いんです。

・‥…━━━☆

ある時、某という武将の屋敷に招かれた彦左衛門・・・

宴会でひとしきり飲んで盛りあがる中、その武将がうやうやしく一頭の馬を引き立てて来て、
「どや!俺の持ってる、この馬…メッチャええ馬で、ごっつい俊足やねんゾ!大坂の陣でも大活躍した名馬や!」
と自慢するので、
「なるほど…あの大坂の陣の時に素早く逃げられたんは、足の速いこの馬のおかげかぁ~さすがの俊足で主人を助けるとは大した馬やなぁ」
と皮肉を一言・・・その武将が聞こえないフリをする一方で、他の者たちは顔を見合わせて、笑いをこらえるのに必死だったとか・・・

・‥…━━━☆

また、ある時、江戸城に登城した彦左衛門に、将軍=秀忠から
「今日の料理、珍しいが出るさかい、お前も一緒に食べへんか?」
と誘われてご一緒したところ、汁物の料理が登場・・・

「どや、珍しいやろ?鶴なんかめったに食べられへんで」
と秀忠が言うと、
「いや、ウチでは毎日食べてまっせ」
と彦左衛門・・・

「ウソやろ?なんぼなんでも毎日はムリやで」
と疑う秀忠に
「ホンマです…なんやったら、その証拠に、これから毎日、食用の鶴持って登城しますわ~お楽しみに~~」

と、翌日登城した彦左衛門は、2~3束の菜っ葉を手に秀忠の前に出て
「お約束の鶴を持って参りました=」
と、うやうやしく差し出します。

「これ、菜っ葉やんけ」
と秀忠・・・すると彦左衛門が、
「はい!僕らは菜っ葉て呼んでますけど…
昨日いただいた汁物に、この菜っ葉がよーけ入ってて、将軍様が、『鶴や~』『鶴や~』て言わはるんで、将軍家では、これを鶴って呼ぶんかなぁ~って思いまして…
それやったら、ウチにぎょーさんあるさかいに、献上しよかなって持って来ましてん」

とクソ真面目な顔で返答します。

「どないなっとんねん」
と不思議に思った秀忠が詮索してみたところ、料理人が証言・・・
「実は、昨日の汁物には、鶴と菜っ葉と入ってましたが、鶴が貴重なものでっさかいに、ちょっとしか使用しませんでした。
ほんで、もったいないかなぁ~なんて思て、彦左衛門はんのお椀には鶴入れんと、大量の菜っ葉だけ入れときましてん」

と・・・

つまり、誰の悪意でも皮肉でもなく、完全な感違いのすれ違い・・・一同大いに笑ったのだそうです。

・‥…━━━☆

そんな彦左衛門さん・・・
78歳にして病気になってからというもの、さすがの豪傑ジイチャンも日増しに弱々しくなっていき、誰の目にも余命少なく感じるようになった時、鹿島(かしま=茨城県)で暮らす彼のもとに、時の将軍=家光からの使者が訪れ、「5000石加増」の沙汰を伝えました。

すると彦左衛門は
「もうアカンわ~て思うような重病にかかってるジジイに加増してもろても、この先、何もお役に立つ事ができまへんがな。
子孫に残したれ…てな事やったら、楽して得しても、心が緩むだけです。
僕の子孫は、この先、僕以上の手柄を立てて、自分らの功績で加増してもらいますよって、今はいりませんわ」

と、固辞したのだとか・・・

それから間もなくの寛永十六年(1639年)2月1日大久保彦左衛門忠教は80歳の生涯を閉じたのでした。

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錦絵に描かれた大久保彦左衛門(上田市立博物館蔵)
大坂の陣にて家康を追い込む真田幸村VS守る彦左衛門

人一倍強い忠誠心を持ち、家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕えた彦左衛門は、若き日に城主になるチャンスを蹴って旗本に徹し、老いてもなお加増のチャンスを蹴って逝く・・・歯に衣着せぬ物言いをしながらも、生真面目で曲がった事が嫌い・・・

そんな彼の魅力そのままが、後に講談や時代劇に描かれて人気を馳せる「天下のご意見番」の魅力となっているのでしょうね。
 .

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コメント

関西弁の台詞、爆笑でした( ´艸`)プププ

大久保彦左衛門は、ガンダムの安彦さんの、
漫画で読みました。

晩年に書いた本がベストセラーと言うのは、
やはりセンスのあった方なのでしょうね。

投稿: tobiguruma | 2016年2月 1日 (月) 21時07分

tobigurumaさん、こんばんは~

もちろん、彦左衛門さんが関西弁しゃべるわけないですが、文書の直訳より、自分の話す言葉でやった方が臨場感あるかな?と思いまして…(*´v゚*)ゞ

文才あったんでしょうね~
かなりの人気ぶりですもんね。

投稿: 茶々 | 2016年2月 2日 (火) 02時43分

>錦絵に描かれた大久保彦左衛門
彦左、お爺さんの筈なのに、若っ!
隣の幸村も若っ!
馬も赤過ぎて三国志の赤兎馬!?
…と、「実年齢より若くカッコよく表現しないといけない」という暗黙のルールはいつの時代にもあるんだなぁと思いました

徳川の世が去っても彦左衛門は他の徳川家臣そっちのけで月岡芳年など色んな絵描きに描かれてますし、
時代を超えて人を惹きつけるというのは凄いですね(隣の幸村もですが…)。

投稿: 禿鼠 | 2016年2月 4日 (木) 12時03分

禿鼠さん、こんにちは~

>「実年齢より若くカッコよく表現しないといけない」という暗黙のルールは…

ホントですね。
ドキュメントの再現ドラマ同様に…

ゲームでも全員20代ですし、実際には父子ほど離れた年齢の前田慶次郎と直江兼続も、漫画の見た目は同世代ですしね。

いつの時代も人気者がセンターを張りますが、この錦絵も、幸村と家康の間に彦左衛門…いかに人気があったかがわかりますね。

投稿: 茶々 | 2016年2月 4日 (木) 16時10分

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