当主・織田信長の最初の戦い~三の山・赤塚の合戦
天文二十一年(1552年)4月17日、父の後を継いで織田家当主となった織田信長の最初の戦い=三の山・赤塚の合戦がありました。
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もはや説明するまでもない尾張(おわり=愛知県西部)の国は織田信秀(おだのぶひで)の次男(三男とも)として生まれた織田信長(おだのぶなが)ですが、
信長が幼き頃の尾張には、守護(知事)の斯波(しば)氏がいて、守護代(副知事)の織田達勝(たつかつ)がいて、その達勝の居城である清州城(きよすじょう=清須市)での清州三奉行の一人が父=信秀といった感じで、未だ上には上がいる状態・・・
ただ、祖父=信定(のぶさだ=信貞)の代から、流通の要所や賑やかな門前町を掌握していた事で、信長の織田家は経済的には恵まれていたようです。
そんな中で父の信秀は、北に位置する美濃(みの=岐阜県)の斉藤道三(さいとうどうさん)や、東の三河(みかわ=愛知県東部)&遠江(とおとうみ=静岡県西部)をも掌握する駿河(するが=静岡県中北東部)の今川義元(いまがわよしもと)と度々の交戦を繰り返していましたが、
【第1次小豆坂の戦い】参照>>
【井ノ口の戦い】参照>>
【加納口の戦い】参照>>
一方で、未だ一族の内紛(1月17日参照>>)をも抱えていた信秀は、天文十八年(1549年)、自らの息子=信長と、道三の娘=濃姫(のうひめ=帰蝶とも)との婚姻を成立させて和睦(2月24日参照>>)・・・今川に集注すべく、ひとまず美濃との戦いに終止符を打ちました。
これが信長16歳の時・・・しかし、そのわずか2年後の天文二十年(1551年)3月、父=信秀は他界するのです(3月3日参照>>)。
もちろん、嫡男として、織田家の家督を継ぐ信長ですが、ご存じのように、この頃の信長は、周囲から「うつけ」呼ばわりの真っただ中・・・後世の事を知ってる私たちだからこそ、若き信長にも大器の片りんが見え隠れするものの、実際には、味方である家臣さえ、その才能には気づいていなかったわけで・・・
で、やっぱりいました~
「こんなうつけの当主やったら、この先心配…今のうちに今川についた方がええんちゃうん」
って思った人が・・・
それが、亡き信秀から鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)を任されていた城主=山口教継(やまぐちのりつぐ)でした。
教継の山口家は、もともとは周防(すおう=山口県)の大内氏の一族だったそうですが、いつしか尾張笠寺(かさでら=名古屋市南区)付近の土豪(どごう=土地の小豪族)となって織田家に仕えるようになり、故郷の地名である山口を名乗ったとされますが、教継も信秀の家臣として、先の小豆坂の戦いでも武功を挙げ、むしろ、信秀からの信頼篤い猛将でした。
なんせ、この鳴海城・・・隣国との国境に位置する重要な場所にある城ですから、主君からその場所を任される=それだけ信頼されている証でもあるわけです。
しかし、かの信秀の死で今川に寝返る決意をした教継は、その鳴海城に息子の教吉(のりよし)を入れて守らせた後、笠寺に砦や要害を構築して、そこに、岡部元信(おかべもとのぶ)をはじめとする義元配下の者を手引きして配備し、自らは中村(同名古屋市南区)の屋敷を合戦用に改築して、そこに立て籠もりました。
この状況を見た信長・・・自ら800ばかりの軍勢を率いて那古野城(なごやじょう=愛知県名古屋市中区)を出陣し、
中根村(名古屋市瑞穂区)を駆け抜けて小鳴海(名古屋市緑区=古鳴海)へと進み、三の山(名古屋市緑区鳴海町字三王山)へと登りました。
(←織田信長初陣図(個人蔵))
時に天文二十一年(1552年)4月17日、信長19歳・・・
すでに14歳で初陣を済ませていたとされるものの、亡き父を継いで織田家当主となってからの、初めての戦いでした。
これを受けて鳴海城を出た教吉は、信長より1つ上の20歳・・・鳴海からは十五~六町(約1.6kim)北、三の山からは同じく十五~六町東にあたる赤塚(名古屋市緑区)へと約1500の軍勢を率いて出陣して来ます。
三の山・赤塚の合戦です。
三の山の上から、この山口勢の状況を見た信長は、早速、内藤勝介(ないとう しょうすけ・かつすけ)や荒川与十郎(あらかわよじゅうろう)らの先陣を赤塚へと向かわせます。
両者の距離が五~六間(約9~11m)となった時、どちらからともなく矢が放たれ、しばしお互いの矢戦と相成りますが、そんな中で、織田方で先頭を切っていた与十郎が、兜のひさしの下部分を深く射抜かれ、その衝撃とともに落馬してしまいます。
そこを、「その首取らん」と一斉に襲撃してくる敵兵・・・ある者は、そのスネを掴んで引きずり、ある者は与十郎が指していた太刀(たち)の柄(つか)を掴む者もいる中、コチラはコチラで、「与十郎を敵に渡してなるものか!」と、与十郎の上半身をしっかりと持って引っ張る・・・何とか引きずり勝って、結局、与十郎の首は取られなかったものの、
午前10時頃に始まった戦いは正午頃まで、打ち合っては退き、また攻めかかりの乱戦となりました。
しかし、あまりに近距離での戦いであったため、双方が討ち取った敵兵の首を取る事ができないまま、その後は四~五間(約7~9m)の距離を隔てて数時間の睨みあい・・・結局は、勝敗が着かないまま、この日の合戦は終了する事となりました。
信長方で討死した者は30名・・・近距離だったため、両者ともが馬を下りて戦ったので、その馬たちが、お互いの敵陣へ駈け込んでしまっていたりしましたが、敵も、もともとは織田の配下だった山口家で、お互いが顔見知りだった事から、お互いの馬たちも、生け捕りにした捕虜も、お互いに返し合い、交換して恨みっこ無しのドローという事で・・・
いや、本来、城ごと敵に寝返った武将なら、主人は、その謀反人を討って当然なわけで、それがドローなら、それは引き分けではなく、信長の負けって事になるのかも・・・
しかも、さすがは信秀が見込んだ山口教継です。
未だ若き信長は、彼らを討つどころか、逆に、この後、大高城(おおだかじょう=名古屋市緑区)と沓掛城(くつかけじょう=愛知県豊明市)をも計略で以って、教継に奪われてしまいます。
つまり、三河との国境付近の重要拠点である鳴海城・大高城・沓掛城の3城が今川義元の物となってしまったわけで・・・おかげで、信長は、この城を奪い返すための拠点として、それらの城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦・鷲津砦・丸根砦などの複数の砦を構築する事になります。
ところが・・・です。
間もなく、かの鳴海城には、あの岡部元信が城代として入り、大高城&沓掛城のそれぞれの城にも、今川の家臣たちが入城・・・
今川に対して、これだけの忠勤を見せた教継父子を駿河に呼び寄せた義元は、褒美を与えるどころか、なぜか、この父子に切腹を申し渡すのです。
・・・と言っても、この教継父子の死に関しては、複数の説があり、
上記の義元が切腹させたというところは同じでも、その原因は信長の調略にあるという話もありますし、義元ではなく信長によって殺されたという話もあります。
しかも父子が亡くなった年でさえ、この赤坂の合戦の翌年=天文二十二年(1553年)とも、永禄三年(1560年)とも言われる謎に満ちた最期となってしまっています。
この謎の死は、やはり、教継が奪い取ったこれらの城が、尾張と三河の国境の攻防戦において、最も重要な場所となるからなのでしょうか?
そう・・・この赤塚の戦いの8年後に起こる、あの桶狭間・・・この3つの城と周囲の砦は、まさに、その奇襲作戦の舞台となるのです。
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(このイラストは下記リンク【二つの桶狭間古戦場】に掲載した物で、周辺の位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した必ずしも正確さを保証する物ではありません)
桶狭間については・・・
【二つの桶狭間古戦場】>>
【桶狭間で名を挙げた毛利良勝と服部一忠】>>
でどうぞ
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コメント
茶々さま、こんばんは~
おお、山口左馬之助じゃないですか。
戸部新左衛門と二人はやっぱり今川方が偽情報つかんで誅殺しちゃったんですかね。
左馬之助って名前がかっこいいから活躍すると思ったらあっさり殺されちゃって茫然自失になったことを憶えてます。
いや~名前じゃないんだなぁなんて
投稿: しまだ | 2016年4月17日 (日) 19時06分
しまださん、こんにちは~
『信長公記』では「義元の命により切腹」ってなってますが、西村&阿部編の『戦国人名事典』では「信長に殺された」になってるんですよねぇ。
未だ『人名事典』の記述の出典を調べ中なんですが、ホント、よくわからないですね~
投稿: 茶々 | 2016年4月18日 (月) 17時20分
個人的には、山口教継は織田信長から戦っている振りをするために寝返りを指示されたのではないかと思っています
今川義元が呼びつけて切腹するのが遅すぎたのも桶狭間の敗因の1つでは…
投稿: ほよよんほよよん | 2016年4月19日 (火) 00時22分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
私としては、山口父子の切腹は天文二十二年(1553年)か?…少なくとも村木砦以前には事が片付いていたんじゃないか?と推測してますので「遅すぎた」とは思えないんですが、「教継の寝返りは、実は信秀の生存中に、すでに水面下で行われていた」と考える専門家さんもいて、そうなると天文二十二年での処分でも遅い可能性も無きにしもあらずですが、そこに信長がどう絡むのか??
色々と妄想してしまいますね。
投稿: 茶々 | 2016年4月19日 (火) 02時40分