後藤又兵衛の大和口要撃作戦~道明寺誉田の戦い
慶長二十年(元和元年・1615年)4月30日、大坂の陣を迎えた大坂城内にて軍議が開かれ、後藤又兵衛の提案した要撃作戦が採用される事が決定しました。
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天下人=豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、関ヶ原の戦いに勝利して(2008年9月15日参照>>)豊臣家内の反対派を一掃した五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)が、いよいよ豊臣家を潰すべく、秀吉の遺児=豊臣秀頼(ひでより)が進めていた大仏建立事業に難癖(7月26日参照>>)をつけた事をキッカケに勃発したのが大坂の陣・・・
(くわしくは【大坂の陣の年表】から>>)
前半戦である冬の陣では、真田丸の攻防(2015年12月4日参照>>)で徳川方が痛手を被るも、一方の豊臣方も、徳川の大砲が天守閣に命中(12月16日参照>>)して痛手を被り、慶長十九年(1614年)12月19日に和睦が成立(2011年12月19日参照>>)・・・しかし、かりそめの講和は、ほどなく破られ、後半戦=夏の陣へと突入していくわけですが・・・
一般的には、講和の条件で外堀を埋められた大坂城は裸城同然で、夏の陣は、最初から、浪人ばかりの豊臣方に勝ち目は無かった・・・なんて事も言われたりしますが、それこそ歴史の見方は様々・・・
身も心も豊臣方の私としては、個人的な思いではありますが・・・確かに、すでに冬の陣の時点で、老獪な家康に翻弄されていた感があるので、五分五分とは言えない状態だったかも知れませんが、かと言って負けが見えていたわけではなく、まだまだ勝つ見込みはあったと感じています。
そのページにも書かせていただきましたが、紀州一揆との繋がりができており、樫井(かしい・泉佐野市)の戦い(2013年4月29日参照>>)で勝っていれば、すでに豊臣側を表明していた一揆勢と合流して、その数はとてつもない大軍になるはずでした。
しかし、残念ながら、連携がうまく行かず敗北・・・結局、後世にはターニングポイントだった言われるこの戦いに負けてしまいました・・・が、いやいや、まだ見込みはあります!
それが、今回の後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)の提案した道明寺要撃作戦!
これまた一般的には、夏の陣での豊臣方は籠城作戦一辺倒で、今回の又兵衛の作戦も軍議では一蹴され、やむなく、基次の案に賛成した真田幸村(さなだゆきむら=信繁)と毛利勝永(もうりかつなが)だけが、ともに撃って出た・・・なんて事も言われますが、冒頭に書かせていただいた通り、その案が採用されたとする記述もあります。
『豊内記』によれば、慶長二十年(元和元年・1615年)4月30日に大坂城内にて開かれた軍議で、又兵衛の意見を採用して大和口にて要撃する事が決定した・・・とあります。
要撃とは「待ち伏せて攻撃する事」・・・
で、大和口とは・・・そう、この場所を守る事こそが、起死回生のポイントだったんです。
この時、豊臣方の主将格の大野治長(はるなが)の采配により、夏の陣の野戦は、すでに始まっていたわけで・・・
4月26日には、大和郡山城(こおりやまじょう)を先制攻撃し(4月26日参照>>)、続く27日には、和泉の岸和田城を攻撃し、徳川方の兵の待機場所となっていた堺の町に火を放ち、さらに2日後の4月29日が例の樫井の戦い・・・つまり、豊臣方は、未だ家康の本体が来る前に、徳川配下となっている城と町を攻撃して押さえたわけですが、残念ながら、かの樫井の戦いで負けてしまったために、作戦は練り直し・・・
この間の徳川方は、4月18日に家康が京都二条城に入り、4月21日には将軍:徳川秀忠(ひでただ=家康の息子)が伏見城に入城・・・25日は各部隊の編成を定め、26日には家康&秀忠以下、主だった者を集めて、二条城にて軍議を開いています。
つまり、この先は、京都から攻めてくる徳川を、大阪の豊臣が迎え撃つ・・・となるわけですが、まずは衛星写真と地図の比較を見てみましょう。
●衛星写真はJAXA>>から、地図は国土地理院>>からお借りしました
注:掲載した図は、地理院からお借りした地図に、管理人:茶々が文献などを参考に趣味の範囲で制作した物で、その正確さを保証できる物ではありません。
で、ご覧の通り、大軍を率いて京都から大阪へ向かう場合、大阪の東側にドッカリと生駒山地があるため、秀吉が整備した京街道と昔ながらの西国街道が淀川の両岸を通る例の場所か、奈良を経由して、これまた昔ながらの竹内街道付近を通る大和口か・・・実は、この2か所しか無いのです。
「淀川の両岸を通る例の場所」とは、このブログで度々登場しているアノ場所←…西に天王山を望み、淀川を挟んで東に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が建つ男山を望む、神代の昔から(真偽のほどは定かではありませんが日本書紀にも出てきます)、鎌倉時代にも、南北朝にも、山崎の合戦にも、そして、かの鳥羽伏見の戦いにもと・・・日本の歴史上、数限りなく戦場になって来た場所ですね。
上記の衛星写真で見ると、生駒(いこま)山地の北端と天王山の間が、少し空いているように見えますが、これは、現在の大阪⇔京都間が、ほぼ切れ目なく家々が建ち、町として開発されている場所なので衛星から撮ると山や森林のように写っていないだけで、実際には、ここも山で、住宅開発もされていない当時は、淀川の両岸に山が迫って来ている感じ・・・なので、どうしてもこの淀川河岸を通らなくちゃいけなくなるわけで・・・
木津川に架かる御幸橋から見る男山(左)…川を挟んで右側手前に見えるのが天王山
男山&石清水八幡宮周辺、写真に写り込んでいる桜の名所の背割堤への行き方は本家HP:京都歴史散歩「男山周辺散策」でどうぞ>>
で、一方の大和口・・・ここは、大阪と奈良を東西に分ける、かの生駒山地が終わり、すぐ南側から、今度は金剛(こんごう)山地が始まる、まさに、一瞬の切れ目の部分・・・やはり、攻めるならココを通るしかない場所で、しかも、その南側には、まさに、そこを通る敵を見降ろせる小松山がある絶好の場所だったんですね。
とまぁ、長い前置きスンマセンでしたm(_ _)m
近畿地方にお住まいの方や土地勘がある方にとっては「そんなんわかってるわ!」てな、お話だったかも知れませんが、この後の道明寺の戦い&若江の戦い&八尾の戦いを語る上では、やはり、この位置関係は大事かと思い、長々とご紹介させていただきました。
一方の徳川方・・・
豊臣方の作戦が大和口要撃に決まった事を知ってか知らずか、この日=4月30日には、松平忠輝(まつだいらただてる=家康の六男)を総大将にした徳川軍大和方面隊の本多忠政(ほんだただまさ=本多忠勝の息子)や松平忠明(まつだいらただあき=家康の外孫)らが奈良に着陣し。
同じく徳川方の伊達政宗(だてまさむね)が木津(きづ)に陣を敷いています(『本光國師日記』より)。
ちなみに、家康と秀忠は、この時点では、まだ二条城と伏見城にいます。
翌・5月1日、大和口での要撃作戦で道明寺付近が戦場となると予想した又兵衛は平野村に陣を置き、幸村&勝永は後陣として、そこから少し西の位置となる天王寺方面に陣取りました(5月1日参照>>)。
5月3日には、木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)が今福(大阪市城東区)方面に布陣し、北側の京街道をやって来る敵に備えます。
さらに5月5日には、又兵衛&幸村&勝永が平野にて軍議を開き、作戦の最終確認をするとともに、別れの盃を交わす酒宴を開きますが、同じ、この日、家康は二条城を、秀忠は伏見城を出て京街道を下り、河内星田(大阪府交野市・枚方市)あたりに着陣しました。
かくして翌慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日、京街道をやって来る家康&秀忠らを重成らが向かえる若江の戦いと、大和口からやって来る忠輝&政宗らを又兵衛らが要撃する道明寺・誉田の戦いが火蓋を切るのです。
玉手山ふれあい公園(小松山付近)から激戦が展開された眼下を望む
この日の夜明け前、先発隊として平野を出た又兵衛は、未明のうちに藤井寺・道明寺付近にやって来ますが、なんと、その時すでに、間近に敵が迫っている事に気づきます。
本来なら、続く第2弾の薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)や、さらに幸村&勝永らとこの地で合流してから、小松山の向こう側の国分にて敵を迎える手はずでしたが、又兵衛が来た時には、すでに徳川方は、その国分まで来ていたのです。
『孫子:行軍編』(6月17日参照>>)にもあるように、こういう地形の場合、「高きに処(お)り、隆(たか)きに戦いて登ることなかれ」=「視界の開けた高い所に陣を敷き、決して登る側になって戦かってはいけない」てのが戦の定石・・・おそらく敵も狙っているであろう小松山を取るためには、味方の到着を待っているわけにはいかない!
やむなく午前4時頃・・・又兵衛は単独で石川を渡って、まずは小松山を占領し、そこから徳川方の諸隊めがけて攻撃を仕掛けます。
しかし、この時の軍勢は、わずかに2800騎程度・・・なんせ、まだ又兵衛しか来てませんから・・・
一方の徳川方は本多=約5000、松平=約3800、伊達=約10000などなど・・・合計で約25000もの大軍でした。
さすがの又兵衛も、最初こそ善戦したものの、所詮は多勢に無勢・・・まもなく三方から攻められてしまいます。
戦いは数時間続き、昼頃になってようやく、薄田隼人や明石全登(あかしたけのり・てるずみ=景盛)らか到着・・・さらに遅れて幸村たち、さらに勝永たち・・・と次々に、豊臣方の武将が到着しますが、その頃にはすでに後藤又兵衛も薄田隼人(2009年5月6日参照>>)も討死し、徳川方も石川を越えてしまった後だったのです。
道明寺・誉田・小松山の戦い布陣図
●布陣図は国土地理院>>からお借りした地図に、管理人:茶々が文献などを参考にポイント等を付けくわえて趣味の範囲で制作した物で、その正確さを保証できる物ではありません。
この連携ミス・・・『北側覚書』によると「霞故に夜の明候を不存」=つまり、「濃霧だったので夜明けに気づかなかった」と・・・
上記の布陣図を見る限り、豊臣諸隊の出遅れ感満載で、ホントに残念無念・・・
『落穂集』にても幸村は、「手前義時を取違へ刻限遅くなり又兵衛、隼人其外討死と承り此上ハ手立も不入、責ての申訳と存シ一戦に及ひ候」=「自分が時間を間違えて遅れたために又兵衛と隼人を死なせてしまったので、その責任を感じて申し訳ないと思い、次の一戦に至った」との言葉通り、
この後の真田隊は、日本第2位の大きさを誇る古墳=応神天皇陵(誉田陵)の西側にて、伊達隊との激戦を展開させるのですが、午後2時頃になって若江の戦い(2011年5月6日の後半部分参照>>)と八尾の戦い(2010年5月6日参照>>)が敗戦となってしまった事を受けて、大坂城内から放たれた「大坂城へ戻れ」との命令が届き、午後4時頃までに豊臣方は徐々に撤退・・・殿(しんがり=最後尾)をつとめた幸村も、無事、大坂城まで撤退しました。
かの『北側覚書』では、
「傍輩(ほうばい=同僚)を討せ面目(めんもく)なく…泪(なみだ)を流し申候(そうろう)」
と、大坂城に戻った武将たちが、自分たちの連係ミスによって後藤又兵衛と薄田隼人を死なせてしまった事に涙を流しながらくやしがる様子が垣間見えます。
とは言え、大坂の北東と南東を突破した徳川軍・・・
いよいよこの翌日の5月7日、大坂城総攻撃を仕掛ける事になりますが、そのお話は、
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>
【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦い】>>
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】>>
【大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語】>>
後藤又兵衛については
【後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?】>>
【後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣】>>
などなどでどうぞm(_ _)m
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コメント
茶々さま、こんばんは~
東西最手切れから1か月以上経ってるのに
なんで出遅れちゃうのよ~
投稿: しまだ | 2016年5月 2日 (月) 21時10分
しまださん、こんばんは~
樫井も道明寺も連絡ミスで…残念ですね。
投稿: 茶々 | 2016年5月 3日 (火) 02時16分
「大阪と奈良を南北に分ける生駒山、」との表記は、もしかして、東西に分ける、ではないでしようか?
いつも、愛読し、いつもその博識ぶりに感心するファンです(^-^)
投稿: | 2016年5月10日 (火) 08時04分
>もしかして、東西に分ける、ではないでしようか?
ありゃりゃw(゚o゚)w
ホントですね~ww
確かに、一瞬、「東西に分ける」にするか「南北に走る」にするか迷ったんですよね~
何度も読み直したのに、全然気づいてませんでした~
ありがとうございます~
早速、訂正させていただきます。
投稿: 茶々 | 2016年5月10日 (火) 17時59分