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2016年5月25日 (水)

大河ドラマ「真田丸」の感想~大坂編~第20回前兆

 

なんとかかんとか、
ぼちぼちと調子が戻って参りました~ヽ(´▽`)/

てな事で、本日は、久々に、大河ドラマ「真田丸」の感想など・・・というのも、先日の茶々(後の淀殿)心の描写が実に良かった!!o(*^▽^*)o

この件に関しては、久々のHITな描き方でした(←個人の感想です)

そう、あの茶々様が、豊臣秀吉(とよとみひでよし)側室
(この時代には、未だ「正室は一人」という認識が確定していないと思われ、実際には多分、寧さん&淀殿の二人ともが正室だと思いますが…)
となる決意をする、あの心の描写です。

これまで、時代劇で何度となく描かれて来た場面・・・

戦国時代とまで行かなくとも、ひと昔前までは、お金持ちの実業家や、権力を握った政治家さんなんかには、「お妾(めかけ)さん」と呼ばれる女性がいて、それがバレてもセンテンススプリングに叩かれる事も、ほとんど無かったです。

おそらくは、戦前&戦中&戦後間もなくは、貧富の差も激しかったし、一生馬車馬のように働きながらも飢えに苦しむような生活をするなら、お金持ちに囲われた生活の方が幸せだったりする事もあったわけですし、なんだかんだで、現在の「不倫」とは違う次元の、そーゆー方たちがいた事も確かですし、

なんたって、生まれた子供が、そのまま元気に成人する確率も、戦前&戦中&戦後間もなく位までは低かったわけですし、

もちろん、以前、昨年の大河の話で書かせていただいたように(「花燃ゆ」最終回の感想を参照>>)、そもそもは、結婚そのものが恋愛を伴う結婚では無かったですしね。

・・・で、何が言いたいかと言いますと、そういう時代を知っている人たちが、テレビの視聴者だった時代には、時代劇での側室の存在は、当然の事で、ごくごく普通に描かれていたわけですが、

昭和30年代の高度成長期を経て、一億総中流と言われるようになり、男女平等ジェンダーフリー男も女も共同参画・・・と、ひと昔前の、かの時代の事をほとんど知らない人たちが大半を占めるようになった、今現在の平成の時代は、結婚には愛がなくてはいけないし、愛し合って結婚した以上は不倫なんてもってのほかだし、ましてや、奥さん意外に子供がいるなんて!!!

もはや友達では押し通せないこの状況に、やむなく、ここ何年かの大河では、側室をまったく無視したり、側室が正室のように描かれていたり、側室の産んだ後継ぎを正室の子にしてみたり、今回の「真田丸」でも、早々とお梅ちゃんに去っていってもらったりの苦肉の策をとっているわけで・・・

そんな中でも、最も微妙なのが茶々様の存在・・・彼女が、秀頼(ひでより)という、豊臣家にとってなくてはならない後継者を産む事で、その存在は無視できないし、かと言って、秀吉をずっと支えたゴッドマザー=(ねい=寧々・おね)さんをスルーすることもできない・・・

なので、ここ何年かの大河では、秀吉だけには側室がいる状態で描かれつつも、このへんの茶々様はじめ女性陣の心情が、うまく表現されないままドラマが進んで行く事が多々ありました(特に「姫たちの○○」はスゴかった(^-^;)

しかし、今回の「真田丸」の竹内茶々様の描写はスゴかった(もちろん、「姫たち」とは別の意味でww)

それこそ、その「姫たち」のページ(2011年5月30日参照>>)でも書かせていただきましたが、「強さ」は男の魅力でもあります・・・特に、この戦国の時代には、

そんな中、その命令一つで何万もの軍勢を動かし、その黄金で天下無双の城を建ててしまう男が、たった一人の女=自分のために右往左往し、何とか、その気を惹こうとアノ手コノ手で機嫌をとって来る・・・これを、気持ちよく思わない女性は、なかなかいませんよ!
(山本リンダの♪狙い撃ち♪の世界ですなぁ( ̄ー ̄)ニヤリ)

「なぁ、なぁ、1回だけ…な?」
てな感じで迫られて、ついつい情にほだされてしまう・・・いやはや、お見事な描写でした。

以前、「三谷さんが描く男性は魅力的なんだけど、女性は…」と書かせていただきましたが、なんのなんの、この大坂編になってからは、女性陣が魅力的ですね~イイです(*^-^)

ただ、そのぶん、大坂編での主人公=真田信繁(幸村)影が薄くなってしまっている気がしないでもない・・・

まぁ、そもそも、これまでは、「大坂での信繁は、ほぼ幽閉状態で部屋に籠りっきり」てのが定番だったわけで、やっとこさ最近になって「秀吉の馬廻り」という情報が発掘されたばかり・・・言うなれば、それだけ、大坂における信繁に関する史料は少ないわけで、ムリクリで、茶々様とのほのかな恋心を描いたり、落書き事件に絡ませたりはしてみるものの、それにも限界ありで、そこのところの影の薄さは致し方無い部分もありますね。

本来なら、大坂城の様子を、ただ見てる状態だったかも知れないわけですが、それでは、ドラマとしてはおもしろくないわけですから、そこは主役の特権をフル活用するしか手立てはないです。

それにしても、
あのお姉ちゃんの記憶喪失事件は何だったんでしょうね?

あんなにアッサリ思い出すなら、記憶喪失の設定は無かってもよかった気もしますが、やはり、あの思い出すシーンでの軽妙な家族のやり取りおんぶするとオシッコ+鼻にカニ+ひからびたカエルwwをやってみたかった?て事なのでしょうか?
(アレはアレでオモシロかったかも)

あと、親戚(信幸とは従兄弟)のはずなのに、あたかも他人のように扱われて嫁から侍女になっちゃったお兄ちゃん=信幸(のぶゆき)の奥さん=こうは・・・おそらく、このまま侍女でいくのではなく、結局は夫婦として繋がったままなんでしょうけど、お婆様の草笛とりさんにとっては、信幸もこうも同じ孫なのに、そのこうさんに「帰る場所がありません」と言わせる設定には、ちょっと悲しい思いがしてしまいましたね。

とは言え、なんだかんだで気になる信繁ときりちゃんの関係・・・ひょっとしたらプラトニックなまま最後までいくのかも知れませんね。

後に仙台藩の片倉家に嫁に行く信繁の娘=阿梅(おうめ)ちゃんは、一般的には高梨内記の娘(ドラマではきり)が産んだ事になってるので、てっきり、信繁ときりちゃんは、いずれはくっつく物だと思ってましたが、一説には、信繁の正室である竹林院(ちくりんいん=大谷吉継の娘)さんの子供と言う話もあるそうで・・・そうなると、きりちゃんの恋は実らない可能性も・・・一途なだけに、ちょっと可哀そう(。>0<。)

最後に、豊臣ファンとして、ちと寂しいのは、なんとなく秀吉さんが壊れていく雰囲気が漂い始めてるところ・・・今週は、まさに、その「前兆」でしたね。

このブログでも度々書かせていただいているように、私個人的には、やはり、秀吉さんは、死ぬ寸前までしっかりしてはったんじゃないか?(8月9日参照>>)と思ってます。

今では、秀吉が高野山の僧侶に対して、秀次のための料理人や世話人の手配をしていた事が明らかになり、「秀吉は秀次を高野山に蟄居させただけで切腹の命令は出していない」という見方も登場してますし、あの朝鮮出兵も、当時の世界情勢(10月12日参照>>)を見れば、無謀とは言い切れないわけですし・・・

でも、やはりドラマでは、これまでの一般的な見方のままの、無謀で、ちょっとタガが外れた秀吉さんになるんでしょうねぇ~

いや、でも三谷氏の事ですから・・・アッと驚く伏線があるかも(゚m゚*)

いずれにしても、今後も大いに期待し、大坂の陣のあの日まで・・・楽しみに視聴していきたいと思っておりますので、いつかまた次の感想など書かせていただく機会もあるやも知れませぬ故、よろしゅーお願いします・・・m(_ _)m

Toyotomikioosakazubyoubu
豊臣期大坂図屏風・部分(関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター蔵)

*これまでの「真田丸」の感想は・・・・
 ●大河ドラマ「真田丸」の1~2回の感想
 ●
大河ドラマ「真田丸」の感想~青春編
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2016年5月17日 (火)

祝!アクセスが2000万HITを越えました~感謝です

 

いやはや・・・
GWの最後に38.5度の熱を出し、その熱は2~3日で収まったものの、ひどい咳が1週間以上続いていたところ、何と昨日の真夜中に39.5度まで上昇し、眠れないどころか、熱に浮かされ、聞いた事も無い、どんな歌詞かもわからない鼻歌歌い始めたかと思うと、
「私にはやらなあかん使命があんねん!」
「絶対やらなあかん使命やねん!」

とドラクエの勇者の如きセリフを、大声でのたまうという現象に!!

もちろん、大声でのたまいながらも、頭のどこかには、
「なんやねんww使命て…熱に浮かされて何言うとんねん!アホか」
という冷静なツッコミをする自分もいてます。

朝5時頃に、やっと熱が38.2まで下がったので、目覚ましを9時前にセットして、何とか眠りについた後、お医者さんへ・・・お薬には解熱剤もあったので、その後、10時~夕方まで、グッスリ寝かせてもらったおかげで、何とか、熱に浮かされる事はなくなりましたが、今現在も38.0度ありますww(笑てる場合か!)

それにしても、オモロかったです・・・普段、自分が考えてもいない事を口走るなんて!!(゚ロ゚屮)屮

隣室で寝ていた家族からは
「昨日の夜中は忙しかったみたいやな」
と言われたので、やはり叫んでたのは夢では無かったようです。

とは言え、先週の大河「真田丸」草刈パパやないですが、
「悲しい事があると思たら、その後で嬉しい事もある…世の中、よ~できとる」
ですね。

高熱を出したと同じ日に、訪問者様の数が、なんと累計2000万アクセスを越えました~o(*^▽^*)o

ブログを開設してから1000万アクセスを達成するまでは7年かかりましたが、1000万から2000万までは、わずか3年で達成!(このブログのあゆみ参照>>)

これもあれも、更新が途絶えても茶々を見捨てず、いつも訪問してくださる皆さま方のおかげ・・・ありがたい限りです。

せっかくの記念日ですから、ここは2000万の報告だけというわけには行かず、「何かしらの近況j報告をしようか」「最近の真田丸の感想を書こうか」とも思いましたが、上記の通り、未だ快復しておりませんので、
「今は養生して風邪を治す事が、現在の私めに与えられた使命ww
(↑これは浮かされてません(゚ー゚))
かと存じ、本日の所は、これにて失礼させていただきたいと思います。

Oosakazyousaikencc
まさしく自画自賛ですが、まるで十勇士を従えた真田幸村(信繁)のように見えるこの大阪城の雄姿が大好きなので、再度、貼らせていただきます。

風邪が治り次第更新しますので、今後ともよろしくお願いいたしますm(_ _)m
 .

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2016年5月 7日 (土)

大坂夏の陣~渡辺糺と母・正栄尼の最期

 

慶長二十年(1615年)5月7日、大坂の陣で負傷した渡辺糺が、母の正栄尼とともに自害しました。

・・・・・・・・・・

渡辺糺(わたなべただす)については、合戦で討死した説、この翌日=5月8日に主君の豊臣秀頼(とよとみひでより)淀殿(よどどの=浅井茶々)らとともに自刃した説もありますが、今回は、個人的好みで『難波戦記』『落穂集』などに残る、母=正栄尼(しょうえいに)と迎える感涙の最期の情景とともに、糺さん母子を、ご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

天下人=豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、関ヶ原の戦いに勝利して(2008年9月15日参照>>)豊臣家内の反対派を一掃した五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)が、いよいよ豊臣家を潰すべく、秀吉の遺児=秀頼が進めていた大仏建立事業に難癖(7月26日参照>>)をつけた事をキッカケに始まった家康による豊臣潰し=大坂の陣・・・
(くわしくは【大坂の陣の年表】から>>)

そもそもは平安の昔、源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)坂田金時(さかたのきんとき=昔話の金太郎)とともに酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治(12月8日参照>>)した英雄として知られる渡辺綱(わたなべのつな)の末裔とされる渡辺糺ですが、この大阪の陣がほぼ初登場です。

糺の父である渡辺昌(わたなべまさ)は、もともとは室町幕府・第十五代将軍足利義昭(よしあき・義秋)に仕えていた武将でしたが、元亀四年(天正元年=1573年)の槇島(まきしま)城の戦い(7月18日参照>>)で、その義昭が織田信長(おだのぶなが)に負けた事をキッカケに織田方へと転向・・・その後、例の本能寺で信長が亡くなった(2015年6月2日参照>>) 事を受けて、事実上、その後継者のような位置についた豊臣秀吉の馬廻り(側近)となった人でした。

ご存じのように、信長の草履取りから1代で出世した秀吉ですから、それを踏まえれば、この渡辺昌&糺父子は、言わば譜代の家臣のような物・・・まして昌の奥さんで糺の母である正栄尼は豊臣秀頼の乳母・・・

なので、その出自から見れば、豊臣家内ではエリート中のエリートですが、なぜか大阪の陣以前の史料がほとんどなく、それまでの事は「槍の名手だったので、秀頼には槍の指南役として仕えていた」程度しかわかりません。

以前書かせていただいた、やはり秀頼の乳母である宮内卿局(くないきょうのつぼね)の息子の木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)も、『秀頼四天王』の一人と称されながらも、歴史への登場は大阪の陣がほぼ初登場で、かなり史料が少ないのですが、今回の糺さんは、それ以上に少ない・・・

実は、母の正栄尼も、本当に秀頼の乳母だったかどうかもハッキリとはしてないのですが、それこそ、今回の大坂の陣において、淀殿の妹=常高院(じょうこういん=初)(12月19日参照>>)や、先日ご紹介した淀殿の乳母=大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)とともに、家康のもとに度々使者として派遣されて戦争回避への交渉を行っているので、おそらく大蔵卿局と同じような立場にある人であろうと見るのが一般的なわけで・・・

で、その大蔵卿局の息子である大野三兄弟がそうであるように、糺も、
大坂冬の陣直前の慶長十九年(1614年)7月17日に織田信包(のぶかね=信長の弟)急死(7月17日参照>>)し、
続く9月27日に織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)(4月30日参照>>)が、
翌10月1日に片桐且元(かつもと)(8月20日参照>>)が、
さらに冬と夏の間の和睦中の2月26日には織田長益有楽斎(ながますうらくさい=信長の弟)(12月13日参照>>)と、
次々と豊臣家の家老たちが大坂城を退去してしまった事を受けて、言わば心太(ところてん)式に、大坂城内での実権を握る役割に上がって来たという事なのでしょう。

なんせ、上記の信包や信雄や有楽斎・・・本能寺で信長が亡くなって久しい今となっては、「信長の…」というよりは、秀頼の母である淀殿と血の繋がる叔父であり従兄弟であるわけですし、且元も、もともとは浅井の家臣ですから、言うなれば淀殿の身内として豊臣家に仕え、家老という立場にあったはず・・・

Oosakanozinzyounaisosikizu なので、彼ら重臣が去った後には、やはり身内と言うべき人たちが采配を振る事になるわけで、それが殿の乳兄弟である大野三兄弟であり、秀頼の乳兄弟である重成や糺という事だったのでしょうが・・・

悲しいかな、彼らは、実戦経験がほぼゼロの状態で老獪な家康と相まみえる事になるわけで・・・

そんな中、糺はこの頃から、大坂の陣における豊臣方の主将格となった大野治長(おおのはるなが=大野三兄弟の長男)と、時に相談しつつ、時に口論となりつつ、出自も立場もバラバラな浪人衆のまとめ役のごとく、各文献に登場して来るようになります。

実は、かの片桐且元が、自らの身の危険を感じて大坂城を出て徳川へ走るキッカケとなった『且元暗殺計画』・・・徳川と交渉中の且元に最も疑念を抱いて、暗殺計画の中心人物だったのは、この糺だったとも言われています。

ひょっとして、かなりイケイケな性格だったのかも・・・いや、乳兄弟の秀頼が、この時に23歳なんですから、おそらく糺も同世代と考えられ、未だ20代前半の血気盛んなお年頃だったのかも知れません(生年不明なので、あくまで予想ですが…)。

とにもかくにも、その槍の腕前もあってか、味方からも「鬼神の如き猛将」と一目置かれていた糺でしたが、そんなこんなで勃発した大坂冬の陣で、手痛い敗北を喰らってしまいます。

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大坂冬夏陣立図=夏の陣図(大阪城天守閣蔵)部分上下反転…真田や明石の名とともに「渡辺内蔵介」の名が見えます

それは慶長十九年(1614年)11月の今福・鴫野の戦い(11月26日参照>>)・・・この日、大坂城のそばを東西に流れる大和川を挟んだ北側と南側に二手に分かれて攻め入った徳川を迎え撃つ形となった豊臣方・・・

結果的には、北側では豊臣優勢、南側は徳川優勢で幕を閉じたこの日の戦いではあったのですが・・・そう、糺は、南側を守っていたんです。

そこを攻めて来た景勝(うえすぎかげかつ)の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)を総大将とする上杉軍に苦戦して、自慢の槍を振るう間もなく、早々に兵を撤退させてしまった事から、
♪渡辺が 浮き名を流す 鴫野川
 敵に逢
(おう)てや 目はくらの介 ♪
(糺の官位が内蔵介なので…)
と、敵から揶揄(やゆ)されたのだとか・・・

上記の通り、おそらく負けん気が強かったと思われる糺にとっては、この上無い屈辱であった事でしょうが、その汚名返上とばかりに、再び起こった夏の陣でも大いに奮戦するのです。

が、そんな糺に運命の時がやってくるのは、慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日・・・先日、後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)を中心に書かせていただいた、あの道明寺・誉田(こんだ)の戦い(4月30日参照>>)です。

そのページの末尾の方に書かせていただきましたが、午後になって、同時進行していた若江の戦い(2011年5月6日の後半部分参照>>)八尾の戦い(2021年5月6日参照>>)が敗戦となってしまった事を受けて、大坂城内から「大坂城へ戻れ」との命令が放たれ、撤退する豊臣方の殿(しんがり=最後尾)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)が務めた事をお話させていただきましたが、この時、幸村とともに殿を務めたのが糺でした。

ここで、最も彼らを攻め立てたのは、徳川方の伊達政宗(だてまさむね)隊・・・豊臣方が、敵の進路に伏兵を潜ませ、敵が進んできたところを一斉に槍を突きかける『槍ぶすま』作戦で、午前中に又兵衛を討ち取った伊達隊の先手=片倉小十郎重長(かたくらこじゅうろうしげなが=景綱の息子)を翻弄して、じりじりと後退させたりしつつも、やはり、最も難しい殿の役目・・・この激戦の中で、糺は負傷してしまうのです。

これが、なかなかの重傷だったようですが、この日は何とか大坂城へと生還・・・とは言え、ご存じのように、この翌日が、あの総攻撃の日なわけで・・・

こうして迎えた翌慶長二十年(元和元年・1615年)5月7日・・・
重傷の体を押して、幸村や毛利勝永(もうりかつなが)らとともに天王寺口の戦い(2015年5月7日参照>>)にて奮戦する糺でしたが、その勝永らに本陣まで攻め込まれた事にビビッた康が、途中で馬印うまじるし=大将の居場所を示す目印)をたたんで群衆に紛れてしまったために、目標を見失った豊臣方の武将たちは、やむなく大坂城へと戻ろうとするのですが・・・(ちなみに、真田幸村は、この退却時に討たれます…2007年5月7日の後半部分参照>>

昨日の重傷に加えて、さらに負傷し、もはやフラフラの状態で杖をつきながら、何とか大坂城に戻って来た糺は、母=正栄尼のもとに向かいます。

「なんや、死に遅れたんか?」
と母・・・
「もう1度、母さんに会いたかったんです」
と息子・・・

「そこまでの深手を負うてしもて、敵に首を取られでもしたら、どないするんよ!
死に場所を失うのは武人の恥やで!」

と、正栄尼は、糺に切腹を進めます。

「ならば、お先に…」
と、見事な切腹を果たした息子を正栄尼は、自ら介錯したのだとか・・・

そして、
「これで、やっと安心して死ねる」
と、短刀で自らの喉を突き、息子の屍を抱き抱えるように倒れ込んで、彼女は命尽きたのです。

自ら、息子に切腹を即し、自らの手で介錯する・・・戦国の母は、どこまで強き母なのか?と胸がいっぱいになりますね。
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