大坂夏の陣~渡辺糺と母・正栄尼の最期
慶長二十年(1615年)5月7日、大坂の陣で負傷した渡辺糺が、母の正栄尼とともに自害しました。
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渡辺糺(わたなべただす)については、合戦で討死した説、この翌日=5月8日に主君の豊臣秀頼(とよとみひでより)&淀殿(よどどの=浅井茶々)らとともに自刃した説もありますが、今回は、個人的好みで『難波戦記』や『落穂集』などに残る、母=正栄尼(しょうえいに)と迎える感涙の最期の情景とともに、糺さん母子を、ご紹介させていただきたいと思います。
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天下人=豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、関ヶ原の戦いに勝利して(2008年9月15日参照>>)豊臣家内の反対派を一掃した五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)が、いよいよ豊臣家を潰すべく、秀吉の遺児=秀頼が進めていた大仏建立事業に難癖(7月26日参照>>)をつけた事をキッカケに始まった家康による豊臣潰し=大坂の陣・・・
(くわしくは【大坂の陣の年表】から>>)
そもそもは平安の昔、源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)や坂田金時(さかたのきんとき=昔話の金太郎)とともに酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治(12月8日参照>>)した英雄として知られる渡辺綱(わたなべのつな)の末裔とされる渡辺糺ですが、この大阪の陣がほぼ初登場です。
糺の父である渡辺昌(わたなべまさ)は、もともとは室町幕府・第十五代将軍の足利義昭(よしあき・義秋)に仕えていた武将でしたが、元亀四年(天正元年=1573年)の槇島(まきしま)城の戦い(7月18日参照>>)で、その義昭が織田信長(おだのぶなが)に負けた事をキッカケに織田方へと転向・・・その後、例の本能寺で信長が亡くなった(2015年6月2日参照>>) 事を受けて、事実上、その後継者のような位置についた豊臣秀吉の馬廻り(側近)となった人でした。
ご存じのように、信長の草履取りから1代で出世した秀吉ですから、それを踏まえれば、この渡辺昌&糺父子は、言わば譜代の家臣のような物・・・まして昌の奥さんで糺の母である正栄尼は豊臣秀頼の乳母・・・
なので、その出自から見れば、豊臣家内ではエリート中のエリートですが、なぜか大阪の陣以前の史料がほとんどなく、それまでの事は「槍の名手だったので、秀頼には槍の指南役として仕えていた」程度しかわかりません。
以前書かせていただいた、やはり秀頼の乳母である宮内卿局(くないきょうのつぼね)の息子の木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)も、『秀頼四天王』の一人と称されながらも、歴史への登場は大阪の陣がほぼ初登場で、かなり史料が少ないのですが、今回の糺さんは、それ以上に少ない・・・
実は、母の正栄尼も、本当に秀頼の乳母だったかどうかもハッキリとはしてないのですが、それこそ、今回の大坂の陣において、淀殿の妹=常高院(じょうこういん=初)(12月19日参照>>)や、先日ご紹介した淀殿の乳母=大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)とともに、家康のもとに度々使者として派遣されて戦争回避への交渉を行っているので、おそらく大蔵卿局と同じような立場にある人であろうと見るのが一般的なわけで・・・
で、その大蔵卿局の息子である大野三兄弟がそうであるように、糺も、
大坂冬の陣直前の慶長十九年(1614年)7月17日に織田信包(のぶかね=信長の弟)が急死(7月17日参照>>)し、
続く9月27日に織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)(4月30日参照>>)が、
翌10月1日に片桐且元(かつもと)(8月20日参照>>)が、
さらに冬と夏の間の和睦中の2月26日には織田長益有楽斎(ながますうらくさい=信長の弟)(12月13日参照>>)と、
次々と豊臣家の家老たちが大坂城を退去してしまった事を受けて、言わば心太(ところてん)式に、大坂城内での実権を握る役割に上がって来たという事なのでしょう。
なんせ、上記の信包や信雄や有楽斎・・・本能寺で信長が亡くなって久しい今となっては、「信長の…」というよりは、秀頼の母である淀殿と血の繋がる叔父であり従兄弟であるわけですし、且元も、もともとは浅井の家臣ですから、言うなれば淀殿の身内として豊臣家に仕え、家老という立場にあったはず・・・
なので、彼ら重臣が去った後には、やはり身内と言うべき人たちが采配を振る事になるわけで、それが淀殿の乳兄弟である大野三兄弟であり、秀頼の乳兄弟である重成や糺という事だったのでしょうが・・・
悲しいかな、彼らは、実戦経験がほぼゼロの状態で老獪な家康と相まみえる事になるわけで・・・
そんな中、糺はこの頃から、大坂の陣における豊臣方の主将格となった大野治長(おおのはるなが=大野三兄弟の長男)と、時に相談しつつ、時に口論となりつつ、出自も立場もバラバラな浪人衆のまとめ役のごとく、各文献に登場して来るようになります。
実は、かの片桐且元が、自らの身の危険を感じて大坂城を出て徳川へ走るキッカケとなった『且元暗殺計画』・・・徳川と交渉中の且元に最も疑念を抱いて、暗殺計画の中心人物だったのは、この糺だったとも言われています。
ひょっとして、かなりイケイケな性格だったのかも・・・いや、乳兄弟の秀頼が、この時に23歳なんですから、おそらく糺も同世代と考えられ、未だ20代前半の血気盛んなお年頃だったのかも知れません(生年不明なので、あくまで予想ですが…)。
とにもかくにも、その槍の腕前もあってか、味方からも「鬼神の如き猛将」と一目置かれていた糺でしたが、そんなこんなで勃発した大坂冬の陣で、手痛い敗北を喰らってしまいます。
大坂冬夏陣立図=夏の陣図(大阪城天守閣蔵)部分上下反転…真田や明石の名とともに「渡辺内蔵介」の名が見えます
それは慶長十九年(1614年)11月の今福・鴫野の戦い(11月26日参照>>)・・・この日、大坂城のそばを東西に流れる大和川を挟んだ北側と南側に二手に分かれて攻め入った徳川を迎え撃つ形となった豊臣方・・・
結果的には、北側では豊臣優勢、南側は徳川優勢で幕を閉じたこの日の戦いではあったのですが・・・そう、糺は、南側を守っていたんです。
そこを攻めて来た上杉景勝(うえすぎかげかつ)の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)を総大将とする上杉軍に苦戦して、自慢の槍を振るう間もなく、早々に兵を撤退させてしまった事から、
♪渡辺が 浮き名を流す 鴫野川
敵に逢(おう)てや 目はくらの介 ♪
(糺の官位が内蔵介なので…)
と、敵から揶揄(やゆ)されたのだとか・・・
上記の通り、おそらく負けん気が強かったと思われる糺にとっては、この上無い屈辱であった事でしょうが、その汚名返上とばかりに、再び起こった夏の陣でも大いに奮戦するのです。
が、そんな糺に運命の時がやってくるのは、慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日・・・先日、後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)を中心に書かせていただいた、あの道明寺・誉田(こんだ)の戦い(4月30日参照>>)です。
そのページの末尾の方に書かせていただきましたが、午後になって、同時進行していた若江の戦い(2011年5月6日の後半部分参照>>)と八尾の戦い(2021年5月6日参照>>)が敗戦となってしまった事を受けて、大坂城内から「大坂城へ戻れ」との命令が放たれ、撤退する豊臣方の殿(しんがり=最後尾)を真田幸村(さなだゆきむら=信繁)が務めた事をお話させていただきましたが、この時、幸村とともに殿を務めたのが糺でした。
ここで、最も彼らを攻め立てたのは、徳川方の伊達政宗(だてまさむね)隊・・・豊臣方が、敵の進路に伏兵を潜ませ、敵が進んできたところを一斉に槍を突きかける『槍ぶすま』作戦で、午前中に又兵衛を討ち取った伊達隊の先手=片倉小十郎重長(かたくらこじゅうろうしげなが=景綱の息子)を翻弄して、じりじりと後退させたりしつつも、やはり、最も難しい殿の役目・・・この激戦の中で、糺は負傷してしまうのです。
これが、なかなかの重傷だったようですが、この日は何とか大坂城へと生還・・・とは言え、ご存じのように、この翌日が、あの総攻撃の日なわけで・・・
こうして迎えた翌慶長二十年(元和元年・1615年)5月7日・・・
重傷の体を押して、幸村や毛利勝永(もうりかつなが)らとともに天王寺口の戦い(2015年5月7日参照>>)にて奮戦する糺でしたが、その勝永らに本陣まで攻め込まれた事にビビッた家康が、途中で馬印(うまじるし=大将の居場所を示す目印)をたたんで群衆に紛れてしまったために、目標を見失った豊臣方の武将たちは、やむなく大坂城へと戻ろうとするのですが・・・(ちなみに、真田幸村は、この退却時に討たれます…2007年5月7日の後半部分参照>>)
昨日の重傷に加えて、さらに負傷し、もはやフラフラの状態で杖をつきながら、何とか大坂城に戻って来た糺は、母=正栄尼のもとに向かいます。
「なんや、死に遅れたんか?」
と母・・・
「もう1度、母さんに会いたかったんです」
と息子・・・
「そこまでの深手を負うてしもて、敵に首を取られでもしたら、どないするんよ!
死に場所を失うのは武人の恥やで!」
と、正栄尼は、糺に切腹を進めます。
「ならば、お先に…」
と、見事な切腹を果たした息子を正栄尼は、自ら介錯したのだとか・・・
そして、
「これで、やっと安心して死ねる」
と、短刀で自らの喉を突き、息子の屍を抱き抱えるように倒れ込んで、彼女は命尽きたのです。
自ら、息子に切腹を即し、自らの手で介錯する・・・戦国の母は、どこまで強き母なのか?と胸がいっぱいになりますね。
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コメント
茶々様お久しぶりです。
我が祖を丁寧に扱って頂いて、ありがとうございました。
一点だけ申し上げますと、この正栄尼という人が明智光秀の娘、或いは我が家の記録によれば光秀公の姪と言われていることをご紹介頂ければ、一層の幸いかと存じます。
奇しくも豊臣家には正栄尼、徳川家には春日局という明智の縁の者が、しかも後継者の養育という重大な場面において、影をさしております。。
これは同じ織田家中といえども、例えば柴田勝家や丹羽長秀、前田利家らの家では考えられない現象ではありませんかしら。以下は仮説ですが、明智家という「ブランド」は、彼女らを乳母に押し上げるのに、けっして邪魔にはならなかったのではないか、と想像しています。少なくとも光秀公以下、明智家はバカ者揃いではない(笑)むしろ、知的なイメージがあったのではないかと睨んでおります。
またオリジナル茶々様と家光公夫人のお江様は姉妹ですが、その身近に明智の縁の者が上がることにさしたる抵抗は無かったものと思われます。
従って、世に言われるお江与の方と春日局の軋轢も、限りなく後世の作り話臭いです。
戦国の姫君たちの本当の気持ちは、なかなか太平の御世の人間には判りません。ましてや、現代人には。
その違いが少しでも判ることが、或いは判ったつもりになることが、歴史を学ぶ醍醐味の一つと理解致しおり候。
投稿: 渡邊markⅡ | 2016年5月 9日 (月) 20時35分
茶々さんこんばんは。
初めて知りましたが悲しい話ですね…
戦国時代って死ぬ美学、敗北の美学など色々と凄い時代だったんだなって改めて思いました。
投稿: 愛知者 | 2016年5月10日 (火) 18時03分
渡邊markⅡさん、こんにちは~
そうですね。
正栄尼のお父さんには浅井長政説もありますね。
おっしゃる通り、
父親が明智光秀寄りなら春日局、
浅井長政寄りなら、千姫の乳母になった刑部卿局(浅井三姉妹の異母姉妹)がいますから、どちらもなきにしもあらず…というところでしょうか
長政の娘だとすると正室(お市)の娘である浅井三姉妹とは、腹違いの姉妹になりますが、彼女たちの立位置の違いついても考えさせられます…学ぶ側は、そこらあたりも理解していかねばなりませんね。
そこらへんの説明が難しいのか?最近の大河では、側室という存在がほとんど出て来ませんね…秀吉以外は
投稿: 茶々 | 2016年5月10日 (火) 18時18分
愛知者さん、こんにちは~
ホントですよね~
大の男でさえ、死を前に落ち着いてはいられないでしょうに…戦国に生きた女性はスゴイです。
投稿: 茶々 | 2016年5月10日 (火) 18時24分