明治の大阪を襲った災害~明治十八年淀川大洪水
明治十八年(1885年)6月17日~18日にかけて、枚方から下流の淀川南岸の堤防が次々に決壊し、大阪府の中南部の広範囲にわたって洪水被害を出しました・・・『明治十八年淀川洪水』または『明治の大洪水』と呼ばれます。
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琵琶湖を水源に、滋賀→京都→大阪を大阪湾へと流れる淀川は、未だ大阪平野が河内湖と呼ばれる大きな湖であった神代の昔から(6月18日【日本最古の『つるの橋』】参照>>)、周辺に大きな恵みをもたらす一方で、災害をももたらすあばれ川でもありました。
古くは、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)(1月16日参照>>)の時代(5世紀前半頃?)、日本書紀に「北の河(淀川)の澇(こみ・浸水)を防がんとして、茨田堤を築く」 と記され、
古事記でも「秦人を役てて、茨田堤を造りたまい」 と記録されている日本最古の堤防=茨田堤(まんだのつつみ→)が築かれますが、今に伝わる民話(6月25日参照>>)では、その後も、たびたび堤が決壊して被害をもたらしていた事をうかがわせます。
その後、河内湖の陸地化が進み、河口付近に堆積する土砂によって沖積平野(ちゅうせきへいや)形勢されて行き、長い年月をかけて、いくつもの川が縦横無尽に走る大阪平野ができあがっていくのです。
やがて中世になると、その縦横無尽の川によっての水運が発達し、水の都となっていく大阪平野ですが、
←以前に書かせていただいた織田信長(おだのぶなが)VS石山本願寺の天王寺合戦の布陣図(5月3日参照>>)でも解るように、この頃でも、まだまだ大阪平野は川だらけだったわけで・・・
とは言え、ご存じのように、信長の後に天下を取った豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって大坂は大きく変わります。
堤防と街道を兼ね備えた文禄堤(ぶんろくつつみ=京街道→)が築かれて(8月10日参照>>)大坂⇔京都間を多くの人が行き交うようになり、川の付け替えや開削工事も行われ、江戸時代の頃には、ほぼ現在の大阪平野のようになって来るのですが、堤防を高くして流れを押しこめるようになると、川の水面は周辺の平地より高くなってしまうわけで、1度洪水が起こると、その被害は、とても大きな物となるのです。
そんな中で、近代における最も大きな被害となったのが『明治十八年淀川洪水』=『明治の大洪水』です。
明治十八年(1885年)6月15日に北朝鮮北部に現れた低気圧と、17日に瀬戸内海西部に現れた低気圧・・・二つの低気圧によって、6月15日から降り始めた雨が夜半には豪雨なり、さらに17日夜まで降り続いた事で淀川の水位は上昇し続けたのです。
大阪府から内務省に提出された『水害概況報告』によると
←水没した伊加賀一帯
「河内国茨田郡伊加賀村(現在の大阪府枚方市)堤防17日午後10時30分決壊、わずかに30分にして破壊20余間。
ただちに三矢・伊加賀2ヵ村の家屋24戸流失す。
よって堰止方法につき百方計画するも、水勢猛烈にして堰内に奔注することあたかも瀑布のごとく、切断しだいに広大となり、19日にいたりついに5、60間におよぶ」
と・・・
また6月21日付けの『朝日新聞』は・・・
「18日の午前3時、ついに堤防が決壊し、水の勢いは白浪をうちガウガウと鳴響した」
と伝えました。
(下記の『淀川洪水碑』の説明板では、この日付け=6月18日午前3時に三矢村と伊加賀村の堤防が決壊したとの説明になっています)
さらに、未だ堰止めの工事が完全で無い中、25日からの再度の暴風雨により、三矢村淀川字安居堤防と新町村天野川堤防(いずれも現在の枚方市)が決壊して、その濁流が大阪市内へと達する中、淀川上流の宇治川、木津川、桂川などの堤防も決壊して、水は低い方へ低い方へと流れて行き、上町台地と呼ばれる、現在の大阪城~天王寺あたりの一部の高台を除いて大阪はほぼ浸水・・・まさに2000年前の河内湖を思わせる一面の湖水状態となり、中心部である淀屋橋をはじめ大阪市内の橋も30余りが流され、市内の交通も完全にマヒしてしまいました。
その後も、明治二十二年(1889年)と明治二十九年(1896年)に、枚方付近での堤防の決壊が相次いだ事から、大阪府民による「淀川改修工事運動」が起こり、その声を聞いた政府は、その明治二十九年(1896年)から15年に渡る改修工事を実施します。
川幅の拡張や堤防の構築を行い、さらに、上流となる瀬田川に洗堰(あらいぜき)を設置して水量を調節する一方で、下流は長柄から大阪湾までの約8kmを直線で結ぶ新淀川(現在の淀川)を開いて、川の流れがまっすぐに大阪湾に流れるようにしました。
また、旧淀川(現在の大川→堂島川&土佐堀川→安治川)には毛馬(けま)に閘門(こうもん)を設けて、これまた水量を調節・・・もちろん、府民自らも「防水組合」を立ち上げ、力を合わせて洪水を防ぐ対策を整えていったのです。
おかげで、以後の災害は劇的に少なくなりました。
三矢・伊加賀付近に建つ『明治十八年淀川洪水碑』と枚方市付近を流れる淀川(右)
とは言え、淀川の治水に関する取り組みは、今現在も続いています。
災害への教訓を忘れまいと、洪水の翌年=明治十九年(1886年)に、最初の決壊場所となった枚方三矢・伊加賀地区の淀川沿いに建立された『明治十八年淀川洪水碑』は、淀川治水の重要性を、この平成の世にも伝えようとしています。
ちなみに、現在の枚方三矢・伊加賀地区周辺は、日本で最初にスーパー堤防が整備された場所であります。
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コメント
有名な戦国武将は出て来ないけど興味深いお話でした。
石清水八幡宮に行く機会があって、ひらパーを横目に川沿いの土手を通りました。
今度は石碑にも注意して見てみたいです。
投稿: カッシーくん | 2016年6月17日 (金) 07時23分
カッシーくんさん、こんばんは~
>有名な戦国武将は出て来ないけど興味深い…
そう言っていただけるとウレシイです。
そうです…石碑のある場所は、まさに京阪バスの枚方公園バス停のすぐ横です。
投稿: 茶々 | 2016年6月18日 (土) 02時05分
淀川大洪水程の規模ではありませんが、静岡市でも昭和49年に後に「七夕豪雨」と呼ばれる大雨が降り、死者も20名以上、甚大な被害が出ました。特に郊外の住宅は今ほど水洗トイレが普及していなかったので、色々なモノが溢れ出る様は、それはもう言葉にできない悲劇!それ以来、水洗トイレが一気に普及したとか。でもすみません!正確なデータがあるわけではなく、あくまでの都市伝説なのであしからず!
投稿: Clef | 2016年6月18日 (土) 17時24分
徳島の吉野川も暴れ龍と言われまして、洪水が多かったです。
そこで支流だった別宮川を本流にし、吉野川の長さを短くしました。ところがそれで元の本流の旧吉野川が水が慣れなくなるので江戸時代に第十堰というのができたのです。でも最近の豪雨で吉野川でないですが那賀川という南部の川が氾濫して、中学校の校舎の二階まで水が浸かったのが2年前です。そろそろ改修しないといけない時期みたいです。南海大地震の対策にもなると思いますが、一部は無駄遣いと言っています。
明治期の治水といいますと北海道の石狩川が有名です。あそこの川の長さは信濃川よりも長かったのですが、くねくねしてすぐに氾濫をして困ったので北海道が改修して今の川の長さになったそうです。昔の名残で切り離されたところが湖になっています。
投稿: non | 2016年6月18日 (土) 18時42分
Clefさん、こんばんは~
>色々なモノが溢れ出る様は、それはもう言葉にできない悲劇!…
そう言えばそうですね。
昔は…今では考えられないような被害もあったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年6月19日 (日) 04時23分
nonさん、こんばんは~
災害との戦いは、今も現在進行形ですね。
自然の中に住まわせてもらってるのが人間ですから…
投稿: 茶々 | 2016年6月19日 (日) 04時25分
淀川もかなりの暴れ川だったのですね!?
今も治水の取り組みが行われている…なんて
知ろうはずもなく…^^;
ただ、この5月より次男が淀川区に引っ越したことで
がぜん興味を持ち拝読させて頂きました^^
その次男、この3月までは京都に、鴨川近辺に住んでいたもので
手に負えなかった?!鴨川の歴史については
多少なりとも知っていたのですが…ね♪
世が世なら
ナイル川の氾濫のように肥沃な土をもたらして
よき耕地となっていたのでしょうが^^
投稿: tonton | 2016年6月19日 (日) 15時54分
tontonさん、こんばんは~
淀川の河畔は、大きな葦原が広がっていて、なかなか耕作には向かなかったみたいですが、陸地となった河内湖だった場所は肥沃な土地になったみたいですよ。
現在の四条畷市の畷は「田んぼのあぜ道」という意味ですし、鴻池新田なんて地名も残ってますから…
私の母の子供の頃には、大阪城の東側は一面のレンコン畑だったそうで、昔の湿地帯の名残りもあったようですが、今は、その面影もないです。
投稿: 茶々 | 2016年6月20日 (月) 02時57分
いつも、たのしく拝見させていただいています!
歴史物のブログはたくさんあるけれど、今回のような地味な?ネタを興味深く書けるのは、さすが茶々さんですね!
これからも読ませていただきます。!
投稿: ヒロシ | 2016年6月21日 (火) 16時48分
ヒロシさん、こんばんは~
そんな風に言っていただけるとウレシイです。
ありがとうございますo(_ _)o
投稿: 茶々 | 2016年6月22日 (水) 01時31分
茶々さん、こんばんは。タブレットで投稿しています。疲れます。それにしても壊れた後は大変です。パソコンも堤防もです。
投稿: non | 2016年6月23日 (木) 18時17分
nonさん、こんばんは~
大変ですね。
頑張って下さい。
投稿: 茶々 | 2016年6月24日 (金) 01時59分