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2016年6月24日 (金)

嘉吉の乱~万人恐怖のくじ引き将軍・足利義教の憂鬱

 

嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨の守護・赤松満祐が第6代室町幕府将軍・足利義教を自宅にて騙まし討ちするという・・・世に言う嘉吉の乱がありました。

・・・・・・・・・

以前、『あなたが思う戦国の幕開けは?』というアンケート(2010年7月28日参照>>)をさせていただいた時には、応仁の乱>>が圧倒的1位、続いて北条早雲(ほうじょうそううん)足利=堀越公方を倒しちゃう伊豆討ち入り>>が2位につけ、その2強が他に大差をつけた状態だったわけですが、実は、永享十一年(1439年)に起きる永享(えいきょう)の乱(2月10日参照>>)と、その2年後に起きる今回の嘉吉(かきつ)の乱(以前のページは2009年6月24日参照>>)「戦国の幕開け」と位置づける研究者も多いんです。

つまり、戦国時代は関東から畿内にやって来て全国に広がったと・・・となると、永享の乱に勝利して嘉吉の乱にて暗殺される第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)は、まさに戦国の幕を開けた男という事になります。

とまぁ、上記でリンクを貼っておる通り、すでにこのブログで1度は書かせていただいている永享の乱と嘉吉の乱ではありますので、その内容は少々かぶり気味になりますが、今回は、その両乱の主役でもある足利義教さんを中心に書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

足利義教は、室町幕府を開いた初代将軍=足利尊氏(たかうじ)(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)の孫で、南北朝合一を果たして幕府を全盛期へと導いたあの足利義満(よしみつ)(12月30日参照>>)の息子です。

とは言え、彼は五男・・・なので、第4代将軍は長兄の足利義持(よしもち)が継ぎ、第5代将軍は、その義持の息子の足利義量(よしかず)が継ぎ・・・と、本来なら、将軍の座が義教に回って来るはずは無かったのです。

Dscn9028a800 なので、完全に将軍候補から外れていた彼は、10歳にして天台宗のお寺=青蓮院(しょうれんいん京都市東山区粟田口)に預けられて義圓(ぎえん=義円)と号し、兄の義持が亡くなるその日まで、僧として修行する毎日を送っていたのです。

なんせ、25歳で天台座主(てんだいざす=本山の延暦寺の住職で末寺を総監する役職)となった後、大僧正(だいそうじょう=僧を統括する最高位)にまで上り詰めていたのですから、もはや将軍職の事なんか頭のスミにも置かず、ドップリシッカリと僧の道を全うするつもりでいた事でしょう。

ところが人生わからない物・・・応永三十五年(1428年)1月に兄の義持が後継者を指名しないで亡くなってしまい、しかもその時には、5代将軍を継いでいた一人息子の義量も、若くして子供をもうけないまま、すでに亡くなってしまっていた=嫡流がいなくなったために、次期将軍を巡って幕府内は大モメにモメるのです。

と言うのも・・・
わずか11歳で将軍職を継いでから、ヤバイ相手には容赦ない鉄槌を下す、かなりハードな戦人生を送りつつ足利家の全盛を築いた3代将軍の義満が、息子の義持がわずか9歳の時に早々と将軍職を譲りながらも、その後も実権は自らが握るというワンマン社長的な政治体制をとっていたおかげで、いつしか義持の中には、父=義満に反発する気持ちが芽生えており、義満が亡くなって後に義持自身が実権を握ってからは、父とは正反対の(将軍の)側近たちと仲良くし、彼らの意見を聞く」という政治体制をとっていたのです(5月8日参照>>)

なので、大抵の事は側近たちが話し合って決めていた・・・だからこそ、義持は、亡くなる時も、自らが次期将軍を指名せず、「君ら(側近)で話合うて決めてぇな」と遺言して逝ったのでした(1月18日参照>>)

こうして、次期将軍は義持の4人の弟たちの中から選ばれる事になり、管領の畠山満家(はたけやまみついえ)をはじめ、斯波義満(しばよしみつ)細川持元(ほそかわもちもと)山名時煕やまなときひろ)畠山満慶(はたけやまみつのり)といった将軍側近メンバーたちが、義持の心を汲んで、未だ将軍が生きている段階から話し合いを始めるのですが、

候補となる4人の兄弟たちは、いずれも大寺院に務める立派な僧侶で、辿って来た経歴もほぼ同じ・・・今回ばかりはいくら話し合っても、いっこうに決まる気配がなく、結局、「話し合っても決められない事は神頼み」って事で、戦勝の神様=石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)にてくじ引きする事に・・・

で、神の御前でくじ引きし、義持の死後に開封された、その結果が義教・・・となったわけですが、この時代のくじ引き、しかも神前でのくじ引きは神託=神様のお告げであって、決してふざけているわけではなく、これでも、立派な将軍決定劇に間違い無かったのです。

とは言え、例え神のお告げであったとしても、前例のないくじ引きに、前例のない還俗(げんぞく=僧侶をやめて一般人に戻る事)からの将軍誕生という、このドタバタ劇は、内外に多大なる影響を与える事になるわけで・・・

こうして、早速、兄の死から2ヶ月後の応永三十五年(1428年)の3月に左馬守に任じられ、将軍の邸宅である室町殿に入った義教ですが(当時の名は義宣=よしのぶ)、2ヶ月後の正長元年(4月に応永から改元)5月に、早くも不穏な動きが・・・

それは、関東にて度々勝手な行動に出ていた鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)足利持氏(あしかがもちうじ)上洛を企てているとの噂

と、ここで、これまでもブログに度々登場している鎌倉公方・・・この鎌倉公方というのは、そもそも室町幕府を開いた初代の足利尊氏が、自らの出身&領地が関東であったにも関わらず、かの後醍醐天皇(ごだいごてんのう)との南北朝問題があった事などから、その幕府を京都で開く事になっために、

留守がちになる関東の領地を、息子の義詮(よしあきら)に治めさせていたのですが、尊氏の死後、その義詮が2代将軍になったために京都へ行き、その弟である基氏(もとうじ)初代鎌倉公方に就任し、以来、その基氏の家系が代々鎌倉公方職を継いでいて(9月19日参照>>)、今回の持氏が4代目・・・という事になるのですが、

そう、もはや4代目ともなれば、関東は関東で、独自の道を歩み始めていたわけで・・・

しかも、この持氏は、生前の義持に「猶子(ゆうし=契約上の養子)なりたい」との話を持ち掛けて来た事もあり、「くじ引きするくらいモメるんなら、俺が将軍になるってのもアリじゃね?」的な匂いがプンプン・・・

なんたって、本来なら仏門に入った人は将軍候補から外されるのですから、将軍家の直系がいなくなった今、分家とは言え、仏門に入って無い持氏は候補者の一人なわけで、そこを「くじ引きさせて還俗させて就任させるくらいなら俺が…」って考えるのも無理のないところ・・・

とは言え、この一件に関しては、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)の取りなしで、なんとか事無きを得ました。

しかし、このタイミングで伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)が南朝勢力の回復を企んで(7月20日参照>>)後亀山天皇(ごかめやまてんのう)(4月12日参照>>)の一派と組み、かの持氏に連絡を取ったりなんぞ・・・

さらに、8月頃から近江(おうみ=滋賀県)で始まっていた土民(農民や都市の庶民)たちの不穏な動きが、9月には京都まで波及して、さらに播磨・丹波・伊勢・大和近畿一帯を巻き込んで大暴れ・・・ご存じ、正長の土一揆(9月18日参照>>)です。

伊勢のゴタゴタには守護の土岐持頼(ときもちより)を、一揆には幕府侍所(さむらいどころ)赤松満祐(あかまつみつすけ)を派遣して鎮圧に当たらせ、何とか事を治める義教・・・

ところが一方で、朝廷からは「こんな前代未聞な誕生っぷりの将軍は見た事無いよって、将軍宣下なんかしたるかい!」と言われ、正式な将軍就任を1年も待たされる事に・・・

Asikagayosinori600_2 とか何とかありながらも、翌・正長二年(1429年)3月には、無事、正式に第6代将軍に就任した義教(実際にはここで義宣から義教に改名)は、しばらくは、何かと側近たちに相談しつつ、その意見を聞きつつ、波風立てぬように、表面上はうまくやって来ていたわけですが、

その後も、周防長門(すおう・ながと=山口県)豊前(ぶぜん=福岡県東部)の三国を治める大内氏と、豊後(ぶんご=大分県)大友筑前(ちくぜん=福岡県西部)少弐(しょうに)連合軍との合戦や内紛に関与せざるを得なくなったかと思えば、比叡山延暦寺の僧が神輿をかざして強訴(ごうそ=力づくの強引な訴え)して暴れるわ・・・

その度に、側近と話し合えば、これまた意見は分かれるわ、そのワリには義教にとっては許し難い事さえも「まぁまぁまぁ」と側近たちによって無理やり鉾を納めさせられるわ、鎌倉公方はチョイチョイ出て来るわ、比叡山の僧はうっとぉおしいわで・・・ここらあたりから、とうとう義教はぶち切れはじめるのです。

永享六年(1434年)2月、義教に待望の男子(後の第7代将軍=義勝)が誕生し、祝賀のために多くの人々が彼の御所につめかけましたが、一方で、その男子を産んだ義教の側室=日野重子(ひのしげこ)の実家である日野家にも多くの人が参賀にやって来たのです。

ところが、なぜか、義教は、その日野家の邸宅前に見張りを立てて、誰が祝いにやって来たのかをチェックさせ、それらの人物=60人余りに所領没収の処分を下したのです。

しかも、その3ヶ月後に、その日野家の当主であった日野義資(よしすけ=重子の兄)強盗に殺害されるという事件が・・・「黒幕は義教?」との噂が流れる中、数日後には、犯人として高倉永藤(たかくらながふじ)という公家が逮捕されますが、一貫して無実を訴える彼をしり目に、罪状は所領没収のうえ硫黄島への島流しに決定してしまいました。

さらに、ここに来て、一旦おとなしくなっていた延暦寺が再び暴れ出すと、以前の時には側近になだめられて、何とか押さえた怒りが、数倍になって爆発・・・義教は、延暦寺の使節として京都に滞在していた3人の僧を捕えて処刑します。

これに激怒した僧徒たちは、翌日、根本中堂に火を放ち、その中で約20人の僧が、抗議の自害をするという事態に・・・

よく、義教の独裁政治っぷりを表す時に『万人恐怖』という言葉が使われますが、これは、この比叡山の一件の事を日記に記した伏見宮貞成(ふしみのもやさだふさ)親王が、日記の中で「万人恐怖す、言う莫(なか)れ」と書き残した事にはじまります。

そんな中、ここらあたりで徐々に側近たちも世代交代して行き、もはや、誰も義教を止められない状態になる中、いよいよ関東の持氏が動き始めます

これまでも何度となく不穏な動きをしながらも、なんとなく事無きを得ていたものの、中央では永享に改元されてからも、なんだかんだと関東では正長を使い続けていたヤル気満々持氏は、永享十年(1438年)、自らの嫡男の元服に当たって、息子を義久(よしひさ)と名乗らせます。

これは、これまでは京都の将軍の一字をもらって名を名乗っていた鎌倉公方(持氏は義持の「持」なのねん)将軍家が受け継ぐ「義」の文字を使った・・・つまり、「俺らも同格やで」と宣言したわけです。

しかも、それに反対した関東管領の上杉憲実を討つべく出陣・・・憲実からの救援要請を受けた京都では、奥州の諸将に上杉の応援をするように命じるとともに、出兵の大義名分となる綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給する命令文書)を得て軍制を整え、錦の御旗を掲げて官軍として京都を出発・・・さすがに義教自身が京都を離れる事はありませんでしたが、将軍の意を受けた官軍は見事勝利し、持氏を自害に追い込みました永享の乱:2月10日参照>>)

ところがその後・・・永享12年(1440年)、将軍の右腕だった一色義貫(いっしきよしつら)若狭(わかさ=福井県南部)武田信栄(たけだのぶひで)に、同じく幕府の重要人物だった土岐持頼は伊勢の国人=長野氏に、それぞれ殺害されるという事件が勃発・・・これまた「義教が黒幕なのでは?」と噂される中、翌年1月には畠山持国(もちくに=満家の息子)が追放され、6月18日には加賀守護の富樫教家(とがしのりいえ)義教の怒りに触れて出奔・・・かくして事件は、その6日後に起きました。

嘉吉元年(1441年)6月24日、病気で欠席の赤松満祐に代わって、息子の赤松教康(のりやす)が、義教はじめ、管領や側近などの大名たちを赤松の宿所に招き、酒宴の席を設けます。

宴席では猿楽が繰り広げられ、ゴキゲンの義教が盃を重ねていく中、その後方にあった障子がいきなり開かれ、そこから数十人の武装した兵が乱入・・・アッと言う間に義教の首を跳ねてしまったのです。

あまりに突然の事だったのか?
一部の側近は奮戦するものの、列席していた大名たちの多くは、将軍の仇を、その場で討とうとのそぶりも見せず、ただただ唖然とする者、慌てて逃げる者ばかり・・・

実は、この宴席に欠席していた赤松満祐の病気は「狂乱」だったとの記録もありまして・・・あまりの義教の暴走っぷりに、満祐は気を病んでしまったのだと・・・

なので、満祐だけでなく、他の大名たちも「処刑や追放の憂き目に遭うのは次は自分か?」と、毎日恐怖におののいていたわけで・・・(だから、将軍の仇を討とうなんて思う者はいなかった?)

そのおかげで、教康たちは、義教の遺骸をその場に放置したまま、首を剣に突き刺して高々と掲げて京都市中を練り歩き、堂々と故郷の播磨(はりま=兵庫県南西部)へと去って行ったのです。

この将軍暗殺劇が嘉吉の乱です。

とは言え、さすがに将軍殺害犯をそのままにして置くわけにはいかず、この後、幕府による討伐軍が派遣され、そこで活躍したのが山名持豊(やまなもちとよ)・・・後に、日本を東西に分けて戦う西陣代表の大大名となる名宗全(そうぜん)(3月18日参照>>)です。

また、義教の死によって、彼と敵対していた一部の人々の罪も許された事から、この後、あの持氏の遺児=足利成氏(あしかがしげうじ)大暴れして、まさに関東は戦国に突入する事となるのですが、そのお話は2012年9月30日のページ>>

に、しても・・・
『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やら、

その暴君っぷりで散々に言われる義教さんですが、その生涯を見てみると、なんか最初はイイ人だったような?気が・・・

そもそも、ご本人も将軍になりたかったんですかね?
「俺はくじ引きパス!」てな事は言えなかったんでしょうか?

なんとなく、そのまま僧として過ごしていたら、穏やかに、それでいて凛々しい高僧になられたような気がしてなりませんね。
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2016年6月17日 (金)

明治の大阪を襲った災害~明治十八年淀川大洪水

 

明治十八年(1885年)6月17日~18日にかけて、枚方から下流の淀川南岸の堤防が次々に決壊し、大阪府中南部の広範囲にわたって洪水被害を出しました・・・『明治十八年淀川洪水』または『明治の大洪水』と呼ばれます。

・・・・・・・・・・

Oosakaheiya2000ccb 琵琶湖を水源に、滋賀→京都→大阪を大阪湾へと流れる淀川は、未だ大阪平野が河内湖と呼ばれる大きな湖であった神代の昔から(6月18日【日本最古の『つるの橋』】参照>>)、周辺に大きな恵みをもたらす一方で、災害をももたらすあばれ川でもありました。

Dscn3734a1000 古くは、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)(1月16日参照>>)の時代(5世紀前半頃?)日本書紀「北の河(淀川)の澇(こみ・浸水)を防がんとして、茨田堤を築く」 と記され、
古事記でも「秦人を役てて、茨田堤を造りたまい」 と記録されている日本最古の堤防茨田堤(まんだのつつみ→)が築かれますが、今に伝わる民話(6月25日参照>>)では、その後も、たびたび堤が決壊して被害をもたらしていた事をうかがわせます。

その後、河内湖の陸地化が進み、河口付近に堆積する土砂によって沖積平野(ちゅうせきへいや)形勢されて行き、長い年月をかけて、いくつもの川が縦横無尽に走る大阪平野ができあがっていくのです。

やがて中世になると、その縦横無尽の川によっての水運が発達し、水の都となっていく大阪平野ですが、
Tennouzikassenzucc ←以前に書かせていただいた織田信長(おだのぶなが)VS石山本願寺天王寺合戦の布陣図(5月3日参照>>)でも解るように、この頃でも、まだまだ大阪平野は川だらけだったわけで・・・

とは言え、ご存じのように、信長の後に天下を取った豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって大坂は大きく変わります。

Dscn5300a1100 堤防と街道を兼ね備えた文禄堤(ぶんろくつつみ=京街道→)が築かれて(8月10日参照>>)大坂⇔京都間を多くの人が行き交うようになり、川の付け替えや開削工事も行われ、江戸時代の頃には、ほぼ現在の大阪平野のようになって来るのですが、堤防を高くして流れを押しこめるようになると、川の水面は周辺の平地より高くなってしまうわけで、1度洪水が起こると、その被害は、とても大きな物となるのです。

そんな中で、近代における最も大きな被害となったのが『明治十八年淀川洪水』『明治の大洪水』です。

明治十八年(1885年)6月15日に北朝鮮北部に現れた低気圧と、17日に瀬戸内海西部に現れた低気圧・・・二つの低気圧によって、6月15日から降り始めた雨が夜半には豪雨なり、さらに17日夜まで降り続いた事で淀川の水位は上昇し続けたのです。

大阪府から内務省に提出された『水害概況報告』によると
Hirakatakouzui700_2←水没した伊加賀一帯

「河内国茨田郡伊加賀村(現在の大阪府枚方市)堤防17日午後10時30分決壊、わずかに30分にして破壊20余間。
ただちに三矢・伊加賀2ヵ村の家屋24戸流失す。
よって堰止方法につき百方計画するも、水勢猛烈にして堰内に奔注することあたかも瀑布のごとく、切断しだいに広大となり、19日にいたりついに5、60間におよぶ」

と・・・

また6月21日付けの『朝日新聞』は・・・
18日の午前3時、ついに堤防が決壊し、水の勢いは白浪をうちガウガウと鳴響した」
と伝えました。
(下記の『淀川洪水碑』の説明板では、この日付け=6月18日午前3時に三矢村と伊加賀村の堤防が決壊したとの説明になっています)

さらに、未だ堰止めの工事が完全で無い中、25日からの再度の暴風雨により、三矢村淀川字安居堤防と新町村天野川堤防(いずれも現在の枚方市)が決壊して、その濁流が大阪市内へと達する中、淀川上流の宇治川木津川桂川などの堤防も決壊して、水は低い方へ低い方へと流れて行き、上町台地と呼ばれる、現在の大阪城~天王寺あたりの一部の高台を除いて大阪はほぼ浸水・・・まさに2000年前の河内湖を思わせる一面の湖水状態となり、中心部である淀屋橋をはじめ大阪市内の橋も30余りが流され、市内の交通も完全にマヒしてしまいました。

その後も、明治二十二年(1889年)と明治二十九年(1896年)に、枚方付近での堤防の決壊が相次いだ事から、大阪府民による「淀川改修工事運動」が起こり、その声を聞いた政府は、その明治二十九年(1896年)から15年に渡る改修工事を実施します。

川幅の拡張や堤防の構築を行い、さらに、上流となる瀬田川洗堰(あらいぜき)を設置して水量を調節する一方で、下流は長柄から大阪湾までの約8kmを直線で結ぶ新淀川(現在の淀川)を開いて、川の流れがまっすぐに大阪湾に流れるようにしました。

また、旧淀川(現在の大川→堂島川&土佐堀川→安治川)には毛馬(けま)に閘門(こうもん)を設けて、これまた水量を調節・・・もちろん、府民自らも「防水組合」を立ち上げ力を合わせて洪水を防ぐ対策を整えていったのです。

おかげで、以後の災害は劇的に少なくなりました。

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三矢・伊加賀付近に建つ『明治十八年淀川洪水碑』と枚方市付近を流れる淀川(右)

とは言え、淀川の治水に関する取り組みは、今現在も続いています。

災害への教訓を忘れまいと、洪水の翌年=明治十九年(1886年)に、最初の決壊場所となった枚方三矢・伊加賀地区の淀川沿いに建立された『明治十八年淀川洪水碑』は、淀川治水の重要性を、この平成の世にも伝えようとしています。

ちなみに、現在の枚方三矢・伊加賀地区周辺は、日本で最初にスーパー堤防が整備された場所であります。
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2016年6月 9日 (木)

加賀一向一揆の始まり~長享一揆・高尾城の戦い

 

長享二年(1488年)6月9日、長享一揆=高尾城の戦いで一揆勢が勝利し、富樫政親が死去しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、約100年の長きに渡って本願寺門徒が一帯を支配する事になる加賀一向一揆・・・まさに百姓の持ちたる国」の始まり~という事になるのですが、

そもそもは嘉吉元年(1441年)、赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍・足利義教(よしのり)を暗殺した嘉吉の乱(6月24日参照>>)をキッカケに、加賀の守護大名だった富樫(とがし)が分裂し、やがて起こった応仁元年(1467年)の応仁の乱(5月20日参照>>)で、兄の富樫政(とがしまさちか)東軍細川勝元に、政親の弟の富樫幸千代(こうちよ)西軍山名宗全(そうぜん=持豊)について家督争いを激化させていたわけですが、

この間ず~と、戦いがあれば、軍費を徴収されるし、田畑は荒らされるし、男たちは人夫に駆り出されるしで苦しめられ続けていた領民たちの唯一の救いは仏の教えでした。

ちょうどその頃、京都にて他派からの迫害を受けて北陸へと逃れ、各地を巡っていた蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、教えを広めるとともに、部落ごとに、道場をを建て、信者が集まって談合をする事を勧めた事で、その場所は領民たちにとって、信仰の場所でもあり、議会を行う場所でもあり、やがては一致団結し、組織として活動する場となっていくわけですが・・・当然、そこには、100%の農民ばかりではなく、半士半農の地侍たちも多く含まれていたわけで・・・

文明六年(1474年)、その団結を警戒した幸千代が、本願寺門徒を弾圧し始めると、彼らは、幸千代と対立する兄=政親と組んで対抗・・・最初の加賀一向一揆である文明一揆となります(7月26日参照>>)

しかし、この文明一揆で一揆勢を味方につけた政親も、実のところは、この団結力は脅威なわけで・・・結局、政親は、すぐさま一揆衆と結んだ同盟を破棄して、一転、本願寺門徒の弾圧に取りかかったのです。

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富樫と一揆勢との戦いの挿絵…蓮如上人御一代記図絵より部分抜粋(国立国会図書館蔵)

・・襲撃された門徒は散り散りに逃げるしかなく、その多くが越中(えっちゅう=富山県)瑞泉寺(ずいせんじ)へと逃れ、教祖様=蓮如が北陸の拠点としている吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)に救いを求めます。

しかし、この時に対応に当たった蓮如の側近=下間蓮崇(しもつませんそう)は、あくまで平和解決を考えていた蓮如の思いを伝えず、門徒には徹底抗戦を命令・・・それを受けた門徒たちがますます過激になった事から、翌文明七年(1475年)、蓮如は蓮崇の行動に失望して吉崎を退居(8月21日参照>>)、以後の蓮如は、大坂を拠点にする事に・・・

一方、加賀に逃れて越中に集結しつつあった門徒たちを、文明十二年(1480年)、砺波郡(となみぐん=富山県砺波市)一帯を支配していた石黒光義(いしぐろみつよし)が襲撃します。

ところが、手勢を二手に分けて石黒勢を挟み討ちにした一揆勢は、この戦い=越中一向一揆に見事勝利(2月18日参照>>)・・・この勝利に勢いづいたのが、各地へと逃れ、あるいは隠れるように身を潜めていた加賀の門徒たちでした。

やがて訪れた長享元年(1487年)、近江(滋賀県)にて六角氏との戦い(12月2日参照>>)に苦戦を強いられていた第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が、全国の武将に援軍を要請した事を受けて近江へと向った政親の留守を見計らって、再び、活発な動きを見せ始める一揆勢・・・

この一報を聞いて、慌てて戻って来た政親は、一揆勢を抑えるべく、更に弾圧を強化します。

しかし、もはや一揆勢の勢いは止まらないばかりか、ここに来て、その一揆勢を一つにまとめるべく、富樫家の中で、政親と対立していた富樫泰高(とがしやすたか)総大将として担ぎあげたのです。

一方の政親は、自らの居城=高尾城(たかおじょう・たこうじょう=石川県金沢市)に籠城・・・ここは天然の要害となる山の上に造られた大規模な山城でした。

かくして長享二年(1488年)5月・・・南無阿弥陀仏と書かれたむしろ旗を先頭に、12万人とも20万人とも言われる一揆勢が、その高尾城を取り囲んだのです。

政親を守る城兵は、わずかに1万ほど・・・相手が烏合の衆である一揆勢とは言え、この数の差は大きい・・・

この軍勢の差に、もはや将軍の権威も地に落ちたこの時期に、その呼びかけに応じてくれた政親を助けようと、将軍=義尚も援軍を派遣しますが、一揆勢の数の多さに高尾城までたどり着けず・・・

やがて6月に入ると、高尾城内は敗戦ムードに包まれますが、このタイミングで一揆側から総攻撃をチラつかせながらの投稿をうながすと、城内からの離反者が次々と現れ、ますます敗戦の色濃くなりばかり・・・やがて城兵の数も底をつき始めます。

そんなこんなの長享二年(1488年)6月9日、いよいよ一揆勢は城内へと怒涛の如く押し寄せ、山頂へと追い詰められた政親は、そこで討死して果てたとも、自害したとも言われます。

享年34歳。
一方の泰高は齢70の老人で、政親の祖父の弟にあたる人物・・・この戦いの後、この泰高が加賀の守護となるわけですが、もちろん、それは名ばかりで、実際には一揆勢=本願寺門徒や僧、半士半農の国人衆たちが支配する事となります。

蓮如の五男=実如(じつにょ)の言う「百姓の持ちたる国」の誕生です。

この後、加賀一向一揆は、朝倉や上杉との北陸争奪戦をくりかえしながら、
【九頭竜川の戦い】>>
【朝倉宗滴】>>
【上杉謙信の和睦】>>
この地に、日本史上最強の戦国武将がやって来るまでの100年間、加賀一向一揆の支配が続く事となります。
【加賀一向一揆はなぜ100年も続いたか?】参照>>)

その最強の戦国武将とは、
ご存じ織田信長(おだのぶなが)・・・そのお話は
【金沢御坊・落城】>>
【鳥越城攻防戦】>>
でどうぞ

★一揆の方法や惣村について
 【一味同心・一揆へ行こう】で>>
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2016年6月 2日 (木)

本能寺の変~信長による家康暗殺計画説について

 

天正十年(1582年)6月2日明け方・・・・ご存じ、本能寺の変が勃発しました。

・・・・・・・・・・

今以って「戦国最大の謎」と称され、もはやYouTubeでもダンス>>が再生されまくりの超有名事件『本能寺の変』

て事で、これまで、このブログでも、最も史実に近いであろう『信長公記』に記された当日の様子を始め、謎に迫る様々な説をご紹介して来ましたが・・・
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
【その時、安土城では…】>>

今回は、最近話題の『徳川家康、暗殺計画説』について・・・

この説は、上記の「家康、黒幕説」とはちょっと違っていて、「本能寺の被害者である織田信長(おだのぶなが)の方が、実は、かの本能寺に徳川家康(とくがわいえやす)を呼びつけて、そこで暗殺しようと計画していたのを、うち明けられた明智光秀(あけちみつひで)が、その計画を逆手に取って、家康が到着する前の明け方に本能寺を襲撃して信長を討ったのだ」という感じの説で、以前から、一部では囁かれていたのですが、ここに来て、光秀の子孫とおっしゃる明智憲三郎(あけちけんざぶろう)氏がお書きになった『本能寺の変 431年目の真実』なる書籍がベストセラーとなって、にわかに脚光を浴び始めたようです。

なので、本日は、最近人気のこの説について考えてみたいと思いますが、もちろん、日頃から何度も言わせていただいております通り、私は「歴史に100%正しい」なんてのは「無い」と思っており、アプローチの仕方は様々で、どの文献のどの部分に重きを置き、どのように推理して行くかは、それぞれ自由であって良いし、それこそが歴史を楽しむ醍醐味だと思っております。

なんせ、1級史料と呼ばれる文献にも正しく無い部分はあるでしょうし、現在の歴史小説のような物と言われる軍記物の中に真実が隠されてる事もありますからね。

とは言え、そもそもは、自分の思いや考えを言いたいがために、この趣味のブログやってるような物ですので、「真実がどうこう」とか「反論がどうこう」とかではなく、あくまで「私はこう思う」という意味で、私自身の見解と抱いた疑問を、このブログ上でだけは述べさせていただく事をお許しいただくとともに、そこをご理解いただけるとありがたく思いますo(_ _)oペコッ

追記:ネタバレありますので、ご注意!

・‥…━━━☆

で、今回の明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』における『徳川家康、暗殺計画説』ですが・・・

この書籍の内容としては、丁寧にお調べになっていて、賛同する部分も多々あります。

信長の家臣になる前の光秀の過去に関しては、「そうなんだろうなぁ」と思う部分もあり、また、この本能寺の直後の家康が、「信長の死を悼むどころか、逆に、そのドサクサで領地を広げようとしていた」という部分も、まさに、その通りだと思います。

今年の大河ドラマ「真田丸」でも描かれていた天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる複数の合戦集合体(10月29日参照>>)ですが、これは実質的には家康と北条による、3か月前に滅亡した武田(3月11日参照>>)の旧領の取りあいであり、武田滅亡後に信長から甲斐(かい=山梨県)を与えられた河尻秀隆(かわじりひでたか)が、このドサクサまぎれで命を落とす事になる一揆を扇動していたのは家康かも?という事を、このブログでも書かせていただいております(6月18日参照>>)

また、
「現在のドラマや小説で描かれるような本能寺前後のストーリー展開の基となっている『惟任退治記』は、山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が書かせた秀吉を宣伝するための本なので信用ならず、それを基に書かれた『明智軍記』などもウソが多い…」
というところも大賛成です。

秀吉に限らず、その後に天下取った家康によっても「歴史は改ざんされてるんじゃね?」と、私も、このブログで散々書いてますし、果ては明治維新で勝利した新政府なんて、まさに「勝てば官軍」とばかりにイロイロと手を加えたでしょうし、やはり「歴史は勝者が作る物」ですのでね。

なので、明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』という書籍に関しては、その内容も、なかなかに読み応えがあり、このストーリーでドラマをやればオモシロイ物ができるかも知れません。

ただ・・・
この一連の検証を、著者ご本人は「歴史捜査」と銘打っておられるのですが・・・
残念ながら、「捜査」するなら、身内(子孫)ではなく、今ハヤリの名(迷)ゼリフ=「第三者の厳しい目」で捜査しなければ・・・

やはり、ご子孫であるが故の「ご先祖の汚名を晴らしたい感」による解釈があちらこちらに・・・おそらくは、ご自身が描く「明智光秀の名誉回復ストーリー」があるのだと思われますが、それを正当化するために、文献の都合の良い所だけを取り出して、都合の悪い所はウヤムヤのままにしてしまっているような気がします。

なので、先に、他の説を否定するために「嘘ばかり」とこき下ろした文献を、後で、「ここに書いてあるから…」と、ご自身の説の正しさを示すために持ち出される事多数で、読み手は少々混乱してしまうかも・・・

とにもかくにも、今回の明智憲三郎氏の『徳川家康、暗殺計画説』の流れを大まかに書かせていただくと・・・
「自らの出自である土岐(とき)の再興を悲願としていたものの、信長が宣教師に対して唐入り(大陸を攻める)の夢を語っているのを聞き、せっかく平和になると思っていたのに、これから唐入りとなれば、老いた身で遠い国まで行く事になり、老い先短い自分では土岐氏の再興が叶わなくなる」
と思っていた光秀に、
「少人数で堺見物している家康を本能寺に呼び出すので、お前が暗殺しろ」
と信長が命じた事で
「これはチャンス」
と思った光秀が、安土で接待している時に、家康にこの暗殺計画を打ち明け、両者合意のうえ、信長が家康を呼びつけた6月2日の明け方(家康が来る前に)に謀反を決行した。
という事のようですが、

私個人的には・・・
●土岐氏の再興が、なぜ?この時期に、力づくで急がねばならないのか?(←こういう事は何世代にも渡って貫く悲願なのでは?…ちなみに土岐頼芸が追放されたのは本能寺の40年前で、ご高齢&流浪の身ではあるものの、当の頼芸さんご本人もまだ、この本能寺の時点では生きてはります
●唐入りと言っても、未だ信長は天下統一すらしてない
ですから、まだまだ先なのでは?(←毛利も上杉も北条も…九州&東北も手つかずなのに?)
などなど、いくつかの疑問が湧くのですが、

そんな中・・・そもそも、なんで?家康を暗殺??

著書による、その暗殺理由は、
「信長にとっての家康との同盟は、武田への対策であり、武田が滅亡した今となっては家康は不要・・・また、この先、唐入りのために日本を留守にしている間に家康が反旗をひるがえすかも知れず、その存在が脅威となるであろう」
との事ですが・・・

う~ん?武田が滅亡しても、まだ北条も上杉もいますよ。
しかも、武田が滅亡して、まだ3ヶ月・・・奪い取ったばかりの領地を、織田配下の者が、ちゃんと治め切れてもいないこの時期に???
(現に、上記の通り、武田の遺領を任された織田家臣は死ぬか逃げるかして、遺領は北条と上杉と徳川の取りあいになってます)
しかも、西では毛利とドンパチやってるのに???

それに、家康を脅威に思うのは、この先の歴史を知ってるからではないですか?
確かに、晩年の秀吉は家康を脅威だと思っていたでしょうが、この時点での信長にとって家康は脅威だったんですかね?
かなり兵力に差があると思うんですが・・・

また、歴史上、これだけの兵力差があって、反旗を翻したわけでもない従順な同盟者を暗殺した例ってあるんでしょうか?
(ちなみに、もし書籍の通りなら「暗殺」というより「騙し討ち」ですが…)

古今東西・・・暗殺とは、力の無い者が力のある者に対してする行為・・・なんせ、まともに戦っては勝ち目が無いので「暗殺」ですからね。

これに対しては『孫子』の兵法を出して、
「合戦をすればお金がかかるし、人も死ぬ…これが、孫子の言う『戦わずして勝つ』 という事だ」
とおっしゃっておられますが、

ま、文献の解釈もそれぞれなので、何とも言えませんが、私は、「戦わずして勝つ」というのは、単に、その言葉通り=戦わないで勝つのが1番(そのためには暗殺でも良い)という意味では無いと解釈してます。

とりあえずは以前書かせていただいた『孫子の兵法・謀功篇』(4月19日参照>>)を見ていただけると解りやすいと思うのですが、孫子の言う「戦わずして勝つ」は、
「合戦をすればお金がかかるし、人も死ぬ」というのは、その通りですが、だからこそ、
「合戦の前に敵の事を入念に調べつくして、様々な対策を取り、敵を孤立させるなど完璧な姿勢で挑み、相手が「こんだけされたら、もうアカン、降伏するしかない!」と思うように持って行って、結果、両者無傷のまま勝つ」
みたいな事であって「戦わずして勝つ」なら「どんな手段を用いても良い」事では無いように思うのです。

なんせ、孫子は、その第一章(【孫子:第一章:始計篇】参照>>)の第一番目に
「一に曰く道」
という言葉を持って来ています。

この「道」とは「道理」=「大義名分」の事・・・「その戦いに大義名分があるからこそ、領民も納得するし、兵卒もついて来る」
というわけですが・・・もはや天下を目前にした信長が、この時期に、兵力差のある家康を暗殺する事に大義はあったのでしょうか?

とは言え、例えそれが、古今東西に例が無かったとしても、例えそれが、天下人にあるまじきコスイ手段=弱者を騙し討ちという行為であったとしても、信長が家康を暗殺しようとした事、それに乗っかった光秀が家康と組んで信長に謀反を起こそうとした事が、絶対に=100%無い事だとは言えません=それが歴史・・・事実を直接見る事は不可能ですから。

Aketimituhide600 なので、もし、それも含め、その他の事も含め(色んな疑問を言いだすと長くなるので…)、すべてが、明智憲三郎氏のおっしゃる『本能寺の変 431年目の真実』の通りであったとしても・・・残念ながら、私が、この本能寺の変の中で最も重要だと思っている謎は、この明智憲三郎氏の説では解決されていないように思います。

それは、「信忠スルー」です。

個人的な考えではありますが・・・
謎解きに至る重要事項はイロイロあれど、このどれよりも、実は「信忠スルー」が、この本能寺の変にとって1番大事な事なんじゃないか?と、私は思っています。

この「信忠スルー」というのは、あまりドラマ等では描かれないのですが、信長の嫡男=織田信忠(おだのぶただ)が、この日、本能寺のすぐそばの妙覚寺にいたのに、光秀は、信長の暗殺ばかりに夢中になり、かなり後になってから「あ、信忠もいたんだ」てな感じで攻撃に向かう、あの状況の事です。

この時、本能寺が襲撃された事を知った信忠は、逃げる時間があったにも関わらず、自ら二条御所へと移動して、そこで籠城戦に挑み、結局、明智軍に討ち取られるのです(くわしくは2008年6月2日の後半部分で>>)

これは、本能寺の事が書かれている文献で、ほぼ一致した内容となっており、おそらく史実とされていて、反対意見もほぼ無い出来事・・・現に、信忠はここで死にますが、寸前まで信忠とともにいた息子の三法師(さんほうし=後の織田秀信)(8月22日参照>>)や弟の織田長益(ながます=後の有楽斎)(12月13日参照>>)は逃走して助かり、その後も歴史に登場します。

さらに・・・
この時、移動した二条御所には、時の天皇である正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第1皇子の誠仁親王(さねひとしんのう)と猶子の和仁親王(後の後陽成天皇)がいましたが、妙覚寺から移動して来た信忠は、その二人に、
「ここは、もうすぐ戦場になりますので、内裏(だいり=天皇の私的区域)へとお移り下さい」
と言って送り出していますが、当然、このお二人も無事です。

この雰囲気を見る限りでは、やはり、本能寺→妙覚寺→二条御所の間には、なかなかの時間差あったように思えてなりませんね。

信長は、7年前に嫡男の信忠に家督を譲っています(11月28日参照>>)から、もし、ここで信長が死んでも、信忠が生きていれば、そのまま、信忠が織田家の当主としてバトンタッチされるだけですので、この「信忠スルー」は、光秀の謀反が計画的かつ計算通りであるなら、あってはならない事なのです。

確かに、この時点で信忠が譲られていたのは織田家の家督ですので、それはあくまで織田家の当主として織田家を仕切れる権であって、天下うんぬんとは別物・・・ではありますが、もし、信忠が生きていたとしたら、おそらく、織田家家臣団の結束が揺らぐ事も無いですから、例え信長を討ったとしても、ただ信長を暗殺した謀反人とされるだけで、結局は大きな態勢の変化は無く、むしろ、信忠率いる織田家とその配下全員を敵に回す事になるだけで、逆に天下が遠のくような気がします。

むしろ、なんなら「信忠も京都にいたからこそ、謀反に踏み切った」と考えた方がシックリくるくらいなのですが、それならそれで、やはり信長の本能寺と信忠の妙覚寺とを同時攻撃しなければ意味が無く、信長攻撃に夢中で信忠が逃げちゃうようなスキを与えてはならないわけで・・・(結果的に信忠が逃げずに戦ってくれたおかげで討つ事ができましたが…)

まさに、ここが1番の悩みポイントです。

ただし、ひょっとしたら、この日の光秀が、信忠が妙覚寺にいる事を知らなかった可能性もゼロではありません。

この本能寺の2日前の5月29日、家康は京都から堺に移動して堺見物をしていて(上記の【徳川家康、黒幕説】参照>>)、信忠も、それに同行していたわけですが・・・
実は、本来なら、この後も家康と行動をともにするはずだった信忠は、急きょ予定を変更して、その日のうちに京都へとやって来ていて、6月1日の夕方から本能寺で行われた酒宴にも出席しています。
(注:この年の5月は29日までなので、29日の翌日が6月1日となります)

27日付けの信忠の書状でも
「家康さんに同行して堺見物するつもりやったけど、お父ちゃんがもうすぐ安土を出ると聞いたんで、堺見物は止めて、京都でお父ちゃんを出迎える事にするわ」
と、信長につき従っている森蘭丸(もりらんまる)に言っています。

って事は、信長からの中国出陣命令を受けて、すでに5月17日の段階で安土を発って坂本城へ入城し、さらに5月26日には丹波亀山城(京都府亀岡市)に入っていた(5月28日参照>>)光秀は、この信忠の移動を知らなかったのかも・・・

で、この明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』でも
「光秀は、信忠が妙覚寺にいた事を知らず、彼が二条御所に籠った時点で気付いた」
としています。

明智憲三郎氏の説によると、それは
「家康が信長の接待を安土城で受けていた時に、安土城内の一室で密談して、二人が信長暗殺計画を練ったであろう時点では、この信忠の京都入りは予定に無かった事で、家康に同行していたはずの信忠が予定を変更した時には、すでに亀山城に入っていた光秀は、その予定変更を知らず、信長も(光秀は家康を討ちに京都に来ると思っているので)あえて光秀に知らせる必要は無かった
と考えれば謎が解ける・・・とおっしゃってますが、

んん???
確かに、亀山城にいた光秀は知らなかったかもしれないし、信長もあえて言わなかったかもしれませんが・・・

堺にいた家康は???

だって、家康は光秀と組んでるんですよね?
ともに、信長暗殺の計画を練った家康は、なんで、光秀に信忠が予定変更した事を知らせなかったんでしょう?

まして、明智憲三郎氏の説では、あの安土で密談をした時に、光秀が本能寺で信長を討つと同時に、家康も堺で信忠を討つという綿密な打ち合わせをしていた事になってるんですよ。

たった4~50人の側近しか連れていない家康が、5~600の馬廻りを従える信忠を、どうやって討つのか?という疑問も残りますが(それこそ暗殺かも?)
それ以上に、討つはずだった信忠を討ち漏らしたばかりか、そのターゲットが、もう一人のターゲットと接触する事を「仲間に知らせない」なんて事がありえるんでしょうか?・・・これ、1番知らせなきゃいけない事なんじゃ?

しかも、家康との親交も深かった京都の商人=茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)の屋敷は本能寺にも近く、彼ら茶屋家の人が、この時、家康のいる堺と自宅のある京都を行ったり来たりしてる記録もあるようで・・・つまり、知らせる時間もあったし、伝令として使える人材もいたわけですよね?

まさか、同行していた信忠がいなくなった事を、家康は気づかなかったとか?
いやいや、この時点では信忠も、光秀&家康の計画は知らないわけですから、別行動とるなら挨拶くらいしてから行くでしょうし、第一、これから討とうと思ってるターゲットの行動を、戦場でも無い場所で見失っていては戦国武将としてやっていけません。

一つだけ考えられるのは、光秀から信長暗殺をうち明けられた家康が、光秀に同意するフリをしておきながら実は裏切っていて
「光秀が信長殺ってくれんなら、これ幸い…そのドサクサで領地増やして、知らん顔しといたんねん」

と思っていた・・・なので、信忠の予定変更を、あえて光秀に知らせなかった可能性ですが・・・

しかし、明智憲三郎氏の説では、
「家康は、光秀を援護しようと、慌てて岡崎に帰って準備していたが、秀吉があまりに早く中国から戻って来たために、光秀を救援する事ができなかった」
「それでも家康は、落ち武者となった者を救うべく、軍を西へ向けようとするが、山崎の戦いに勝利した秀吉から『すべてが片付いたので帰陣せよ』との知らせを受けたので、やむなく兵を退いた」

とおっしゃる・・・

・・・て事は、山崎の合戦の時点でも家康は光秀の味方だったわけで・・・それなら、やはり、
「家康が、堺にて信忠を暗殺できなかった事を、相棒の光秀に報告しない」
からの
「光秀が、信忠が妙覚寺にいる事を知らないまま、本能寺の信長を攻撃してしまう」

という展開は、なんか変・・・一つの創作物語としても辻褄が合って無い気がします。

○○黒幕説うんぬん、野望説うんぬん、四国説うんぬん・・・イロイロありますが、それらの説すべてが、この「信忠スルー」を、「光秀は信忠が妙覚寺にいた事を知らなかった」で、一応の解決ができるのですが(解決=それが「正しい」という意味ではなく「可能性がゼロではない」「あり得るかも」「否定はできない」という意味です…個人的には、優秀な光秀が「知らなかった」とは考え難い気がしてますが…)

残念ながら、最後の最後まで光秀と家康が共謀している設定である、明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』における『徳川家康、暗殺計画説』は、この「信忠スルー」を、「光秀は知らなかった」では「謎を解いた」とは言えないような気がするのですが・・・

結局のところ・・・やっぱ、まだまだ謎かなぁ~(*^-^)と、実は、謎のままな事を喜んでいる茶々でした~
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