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2016年7月11日 (月)

天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱

 

保元元年(1156年)7月11日、後白河天皇崇徳天皇との対立を軸にした保元の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・

そもそもは天皇家と摂関家、それぞれの内部抗争が発端の保元の乱・・・すでに5年前のブログで、その流れを書かせていただいておりますので、少しかぶる部分もあるかと思いますが、簡単にご紹介させていただきますと・・・

Hogennoransoukanzu (←相関図)
天皇家では、第74代鳥羽(とば)天皇が、第75代天皇となっていた息子の崇徳(すどく)天皇(8月23日参照>>)を強制的に退位させて、同じく息子の第76代近衛(このえ)天皇を擁立し、さらに近衛天皇が若くして亡くなった後は、これまた息子の第77代後白河(ごしらかわ)天皇(10月26日参照>>)即位させた事で、兄=崇徳と弟=後白河の確執が生まれ・・・

摂関家では、関白の藤原忠通(ふじわらのただみち)に対し、父で先の関白である藤原忠実(ただざね)が、その関白の座を弟の藤原頼長(よりなが)に譲るよう持ちかけますが兄=忠通は拒絶・・・これで忠実は忠通を義絶(ぎぜつ=父子の縁切り)して、頼長を氏長者にした事で、これまた兄と弟で対立・・・

で、保元元年(1156年)7月2日、思いっきしモメ事の種をまいた鳥羽院が崩御した(7月2日参照>>)事をキッカケに両者の抗争が表面化したのが保元の乱というワケです。

で、否応なくその抗争に源平の武士たちが巻き込まれてて行く・・・そう、ここで彼らは、どちらの側につくのか?という、究極の選択を決断せねばならなくなるのです。

ところで、「源平」と聞くと、あの『平家物語』のイメージが、どうしても強いので、何となく「源氏VS平氏」という構図を頭に浮かべてしまいますが、実は、この保元の乱は、源氏は源氏で、平氏は平氏で、それぞれが一族同士で袂を分かつ事になる戦いなのです。

という事で、本日は、参戦した源平の武士たちによる、それぞれの事情、それぞれの選択にスポットを当てつつ、乱の流れを見ていきたいと思います。

Hogennoranbyoub900
保元合戦図屏風(馬の博物館蔵)

とは言え、それぞれの武士たちは、結局は、自分たちが直に仕える上司、あるいは荘園領主の側に立つ事になるのですが・・・

最終的に鳥羽院が擁立した天皇である後白河側は、その鳥羽院の遺志を受け継ぐ者として、未だ鳥羽院の崩御前の6月1日の時点から、院の名を借り、後白河天皇の里内裏(さとだいり=邸宅)である高松殿の守護命令を出していますが、この時、これにすぐさま応答したのが、源義朝(みなもとのよしとも)源義康(よしやす)らでした。

義朝の父は、武士の鑑とされる、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(10月23日参照>>)の孫にあたる源為義(ためよし)で、母は白河院の側近の藤原忠清(ふじわらのただきよ)の娘でしたが、この為義が若くして家を継いだ事が災いしたのか?何かと周辺がゴタゴタ続きであったため、武名はあるものの、なかなか出世コースに乗れずにいました。

しかし、やがて、荘園の管理や武装する寺院の僧兵たちへの対策として武力を必要としていた摂関家の藤原忠実に接近する事ができ、康治二年(1143年)には、その息子の頼長と正式に主従関係を結ぶ事に成功していたのです。

途中、八男の為朝(ためとも(3月8日参照>>)が西国で暴れ過ぎて出世にストップかかったりなんぞしながらも、やはり、事が起これば、当然、上司である頼長に加勢する事になりますが、実は、この保元の乱勃発の前年に亡くなった近衛天皇の死は、「頼長の呪詛(じゅそ)による物」との噂が流れていて、それを信じた鳥羽上皇は、忠実&頼長父子に、只今激怒真っ最中だったわけで・・・

そうなると当然、忠実&頼長父子は鳥羽上皇の意思を引き継ぐ後白河側とは敵対し、敵の敵は味方とばかりに、為義は崇徳上皇側として参戦する事になります。

一方・・・・そんな中で、東国での活躍にて、ここのところメキメキ名を挙げて来たのが嫡男の義朝でした。

この時代、武士が昇進するためには、やはり京の都で活躍せねばならず、長期に渡って京を離れる事ができない為義に代わって、東国は嫡男の義朝が仕切っていたわけですが、いつしか義朝は、忠実&頼長の配下となっている父から距離をとるがの如く、鳥羽院や、その皇后である美福門院藤原得子(びふくもんいんふじわらのなりこ=近衛天皇の生母)に近づいていくのです。

おかげで仁平三年(1153年)には、父=為義よりも官位が上になるという出世街道まっしぐら・・・しかも、この保元の乱の前年には、義朝の長男=義平(よしひら)が、東国にて為義の息子(義平にとっては叔父)源義賢(よしたか=木曽義仲の父)を殺害する(8月16日参照>>)という事件も起こっています。

なので、今回、鳥羽上皇の遺志を受け継ぐ後白河側が声を挙げた時、義朝はすぐに従ったわけです。

また、義朝と行動をともにした義康は、父=為義の従兄弟にあたる人物で、鳥羽院の近臣であり熱田大宮司である藤原季範(ふじわらのすえのり)養女(実孫)を正室として迎えており、同じく季範の娘の由良御前(ゆらごぜん)を正室に迎えている義朝とは、奥さんを通じての義兄弟という関係となり、彼もまた後白河側で参戦する事になるのです。

一方の平氏・・・

平氏は、有名な平清盛(たいらのきよもり)の祖父にあたる平正盛(たいらのまさもり)が、天仁元年(1108年)に源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)を平定した(12月19日参照>>)事で第72代白河天皇(しらかわてんのう=鳥羽天皇の祖父)からの信頼を得て、息子の忠盛(ただもり=清盛の父)も白河院の近侍として仕え、白河院亡き後は鳥羽院にも使えますが、そんなこんなの長承四年(1135年)に西海の海賊追討で多大な成果を挙げた(8月21日参照>>)事で、一気に源氏との差を広げ、武士のトップに躍り出る事となり、同時に、息子の清盛も出世コースに乗る事になったのです。

ちなみに、この追討使には為義も希望を出していましたが、残念ながら為義は採用されませんでした。

と、このように、白河院から鳥羽院への流れで出世して来た平氏ですが、一方では崇徳上皇や摂関家との関係も強くしようと働きかけてもいました。

ふふ~~ん、何やら戦国時代のどっちか生き残り作戦(7月14日参照>>)にも似た雰囲気ですね~
(ま、源氏もソレっぽい気がしないでもない…)

その役回りをしていたのが、忠盛の弟=平忠正(たいらのただまさ)と、清盛の弟=平頼盛(たいらのよりもり=清盛の異母弟)(6月2日参照>>)でした。

忠正の生年が不明なので、あくまで予想ですが、おそらく未だ10代であろう元永二年(1119年)に、すでに崇徳院(当時は顕仁親王)の御監(ごげん=馬廻り)として仕えた後、忠実&頼長父子にも仕え、その流れから、忠正の息子の平長盛(ながもり)も崇徳院に仕えています。

また、頼盛を産んだ忠盛の後妻さん=宗子(池禅尼)は、崇徳天皇の皇子=重仁親王(しげひとしんのう)の乳母をやってますので、コチラでも繋がりが・・・

結局、忠正は崇徳天皇&藤原頼長派として保元の乱に参戦します。

そんな中、乱の勃発寸前まで動向を明らかにしていなかったのが清盛でした。

彼は、天皇家とも摂関家ともつかず離れず・・・そう、乱の成り行きを見ていたのです。

Hogennoranitikankeizucc (位置関係図→)
鳥羽院が崩御した3日後の7月5日、後白河側は、崇徳院と頼長が挙兵の準備をしているとして市中の警戒を強め、7月8日には綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発する命令書)を発して忠実&頼長父子の荘園を差し押さえ、東三条殿(ひがしさんじょうどの=現在の京都市中央区にあった摂関家の邸宅)も没収しました。

これを知った崇徳側が、7月10日、白河北殿(しらかわきたどの)兵を集結させますが、同時に白河側も兵を集めます。

すでに参戦している義朝らは当然ですが、ここで清盛、そして源頼政(みなもとのよしまさ)(4月10日参照>>)らも後白河側に集結する事になるのです。

乱勃発の直前にて「後白河優位」と判断した清盛・・・これにより宗子も我が息子=頼盛に、異母兄の清盛に従うよう進言し、彼ら兄弟は後白河側として参戦する事になります。

かくして翌・保元元年(1156年)7月11日保元の乱勃発・・・戦いの流れについては2011年7月11日 【武士の時代の幕開け…保元の乱】のページでどうぞ>>
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

天皇陛下のご高齢による譲位問題が浮上してますね。

被災地で膝を折ってお話しているお姿は痛々しくて見てられません。

何とか配慮して差し上げることが国民の義務でしょう。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年7月16日 (土) 00時23分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~

本当に、陛下が希望されておられるのであれば、仰せの通りにするのがよろしいかと思います。

投稿: 茶々 | 2016年7月16日 (土) 01時47分

茶々さん、こんばんは。
もし清盛のすぐ下の弟で家盛が元気だと家盛、頼盛の方と清盛はわかれただろうなと思います。
朝廷ですが、皇室も摂関家も分かれていますが、公家の源氏、平氏、菅原などはどうしたのでしょうか?
それから源平以外でも強い佐藤盛清等の藤原武家はどうしたのでしょうか?その動向があまり見当たらないのが不思議です。

投稿: non | 2016年7月28日 (木) 22時15分

nonさん、こんにちは~

そうですね~あまり聞きませんね。
小説やドラマ等に出て来るのは西行の動向くらいでしょうか?
調べてみないと…ですね。

投稿: 茶々 | 2016年7月29日 (金) 17時19分

茶々さん、こんにちは。

そこなんです。摂関家よりも力を得た三条家などがいますし、久我家などの村上源氏も摂関家と並ぶかしのぐようになってきています。それなのに何もないのが不思議です。それと不思議なのは摂関家で忠通が氏の長者になっていたのに忠実が強引に源氏を使い襲って奪い頼長に与えているのです。それで鳥羽法皇に嫌われたところもあるのにそういうことをしています。普通にしていたら鳥羽法皇は忠通よりも忠実の味方だったのにです。不思議なことです。
不思議と言いますと昔の大江匡房みたいに兵法学者は実践的な事を義家に教えるし、義家も耳を貸すなど対等だったのに頭だけの頼長は為朝の意見を馬鹿にしています。清盛を見ていたらそう感じました。ところが実戦では役に立たないです。この点もダメなところです。というくらいに何故か忠通、信西は武家に任せたのに、頼長は自分で勝手に決めるです。おまけに忠実は何も動かないのです。強引なことをして摂関家の分裂を作ったのにです。本当に何のために奪ったのかよくわからないです。
わからないといいますと近衛天皇の系統と後白河法皇の系統は仲があまりよくないのに協力しています。後白河法皇はどう考えても崇徳天皇の後に天皇になっておかしくないのに不遇です。二条天皇のつなぎにしても天皇になったのも不思議ですというようにこの保元の乱のルーツを探ると不思議不思議というのが続いています。
最後に崇徳天皇は鳥羽法皇の実子と思います。あの頃の習慣を見ますととても実子でないと天皇になれないと思いますし、男二人に女一人の添い寝なんかもありますので、とてもご落胤とは思えません。まだ清盛のほうが真実味があると思いますが・・・

投稿: non | 2016年7月30日 (土) 17時00分

nonさん、こんにちは~

ホント!
色々と謎が多いですね。

投稿: 茶々 | 2016年7月30日 (土) 17時44分

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