豊臣秀次事件に連座…熊谷直之と7人の小姓たち
文禄四年(1595年)7月16日、豊臣政権への謀反を企てたとして、関白の豊臣秀次が切腹に追い込まれた、世に言う「秀次事件」に連座して、秀次の家老であった熊谷直之が自害しました。
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豊臣の姓に関白の座・・・もはや、手に入れるべき物は、全部手に入れた感のある豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、晩年になってやっと、淀殿(よどどの=浅井茶々)との間に授かった鶴松(つるまつ)が、わずか3歳で亡くなります。
そのショックとともに、56歳という年齢もあって、「もはや子供は望めない」と思ったのか?秀吉は、姉・ともと三好吉房(みよしよしふさ)との間に生まれた甥っ子の豊臣秀次(とよとみひでつぐ=三好秀次・羽柴秀次)(4月4日参照>>)に関白を譲った事から、事実上、秀次が豊臣家の跡取りに・・・
しかし、その後、またまた淀殿が懐妊し、文禄二年(1593年)に男の子を産んだ(8月3日参照>>)事から、秀吉×秀次の間に重~い空気が漂い始め、結局、謀反をはじめとする様々な罪に問われた秀次は切腹となり、その一族までもが処刑されてしまうのです。
【摂政関白~豊臣秀次の汚名を晴らしたい!】参照>>
【豊臣秀次一族の墓所~瑞泉寺】参照>>
世に「秀次事件」と呼ばれる有名な出来事ではありますが、一方で、その原因や、その結果も、未だ謎多き出来事でもあります。
もともと、謀反だ殺生だご乱行だという話はでっち上げだろうと囁かれていますし、最近では、その結果となった切腹も、秀吉が、秀次が送られる事になった高野山に対して、秀次の食事や身の回りの世話を手厚くするよう手配していたとおぼしき記録の存在などから、秀吉は「切腹しろ」とは言って無いんじゃないか?との見方も出て来ていますし、秀次自身が、自ら高野山に入って自ら切腹したなんて話も出て来ていますが・・・
とにもかくにも、一般的には・・・
罪に問われた秀次は切腹し、彼に連なる一族郎党&側室や子供たちまでもが犠牲になるこの事件・・・ここに連座して命を落とす一人が本日の主役=熊谷直之(くまがいなおゆき=直澄)です。
この「熊谷」という苗字でお気づきかも知れませんが、この熊谷さんは、源平の戦いの「青葉の笛」の逸話(2月7日参照>>)で有名な熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)の子孫・・・ご存じのように、直実自身は合戦後に戦いの空しさに悩んで出家します(11月25日参照>>)が、その後も脈々と続いて枝分かれしつつ、子孫たちは戦国時代を迎えていたのです。
この当時、直之は若狭(わかさ=福井県西部)武田氏の家臣として活躍していましたが、永禄十年(1567年)に当主が第9代武田元明(たけだもとあき)に交代した頃に、ここのところの主家の衰退ぶりに我慢できなくなり、その支配下から脱し、若狭大倉見城(井崎城=福井県三方上中郡)の城主として、事実上の独立を果たしていたと言われます。
この少し前には、直之と同族で、安芸(あき=広島県)武田氏に仕えていた熊谷家が、毛利との戦いで熊谷元直(もとなお)(10月22日参照>>)が討死した事をキッカケに、息子の熊谷信直(のぶなお)は愛娘の新庄局(しんじょうのつぼね)を、毛利元就(もうりもとなり)の息子=吉川元春(きっかわもとはる)と結婚させて(8月30日参照>>)、武田から毛利へと鞍替えしていますので、時代の流れという物かも知れません。
そんなこんなの元亀元年(1570年)、越前(えちぜん福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)の手筒山城&金ヶ崎城を攻撃(4月26日参照>>)すべく出陣した織田信長(おだのぶなが)が、若狭の熊河(くまかわ=熊川=福井県三方上中郡若狭町)で陣宿した際に、直之は信長とよしみを通じる事に成功し、以来、織田家の傘下となって各地を転戦しますが、
ご存じのように、その信長が本能寺に倒れたため、その後は秀吉の傘下となって、やがて秀次の家老という役職についておりました。
しかし、冒頭に書いた「秀次事件」・・・
軍記物などでは、直之が「秀次に謀反を勧めた」と描かれたりもしますが、先に書かせていただいた通り、「秀次事件」そのものが謎多き物なので、何とも・・・
とにもかくにも、古文書の記録としては、主君の秀次が逝った翌日の文禄四年(1595年)7月16日、京都は嵯峨野の二尊院(にそんいん=京都市右京区:倉山二尊教院華台寺)にて、熊谷直之は切腹するのです。
以下、『柳庵雑筆 (りゅうあんざっぴつ)』によりますと・・・
・‥…━━━☆
蔵に保管してあった金銀や米などを家臣たちに分配した後、小姓7人だけを連れて二尊院へやって来た直之は、門前で、小姓に持たせていた袋を受け取り、その中から黄金を小分けにして包んであった物を7つ、彼ら7人にそれぞれ手渡し、自らその袋を持って堂内へと入り、しばらくご本尊の前で祈りを捧げました。
♪あはれとも 問ふひとならで とふべきか
嵯峨野ふみわけて おくの古寺 ♪ 熊谷直之辞世
その後、7人の小姓たちに、
「ここまでついて来てもろたけど、ここからは自由やさかい。
暇をやるよって、好きなようにしたらええからな」
と・・・
しかし、7人が7人とも
「殿の最期を見届けてから、僕らもすぐに、殿のおそばに参りますよって…」
と、自分たちの覚悟を伝えます。
「いやいや、後は追わんでええ。どこかで自由に…」
「いえお供します、僕らは退きません!」
と、問答が続きますが、
そうこうしている中、検使役の見届け人が時間を知らせて急かすと、直之は
「心得た」
と返答した後、見事、腹を掻っ捌いて自刃しました。
直之の最期を見届けた検使役が、二尊院の僧に遺骸を葬るよう申し渡して立ち去ると、7人の小姓が裏手の山を掘って、主の棺を納めた後、本尊の前にてしばらく念仏を唱えた後、誰がリードするでもなく、7人輪になって、今後の事を話始めました。
7人の中でも最も年若い、未だ16~7と思しき少年は、
「殿の仇は、あの石田三成(いしだみつなり)や!アイツをこのままには、しておけん!殺ったる!」
と息巻きますが、少し年上の者は
「お前なぁ…ここから東に見えるあの山見てみぃ…三成には、あの山々の向こうに、トンデモ無い数の兵を持ってるんやゾ。
俺らだけで、どうやって刃向かえって言うねん」
と、たしなめます。
「そない言うても、このまま退かれへん」
「何とか、ええ作戦が無いか?」
と、口々に意見を交わす彼らでしたが、やがて時間が経つにつれ、主を亡くして直後は興奮気味だった心の内も、少しずつ落ちついて来て、
ある一人が
「俺は…殿の菩提を弔うために諸国を巡礼しようと思う」
と言うと、さらに皆が落ち着きを取り戻し、
「ほな、僕は、町人になって、これからは平穏に暮らすわ」
という者も・・・
結局、7人のうち3人が町人になり、4人が諸国を巡礼するという事になり、その決意を二尊院の僧に告げて、直之が最後に持っていた袋を手渡しながら
「これは主君の遺品なんですが…数年後に、皆で、また、ここに集まろうと約束してますんで、それまで預かっといて下さい」
と頼み、その後、それぞれが東西へ分かれ、どこへともなく立ち去って行きました。
果たして5年後の慶長五年(1600年)9月、誰とも知らぬ若者5人が二尊院を訪れ、直之のお墓の前で高らかに念仏を唱えた後、それぞれが一同に腹を斬って果てたのです。
異変に気付いた僧が、慌てて駆け寄ると、直之のお墓の前で自刃した若者たちは、まさに、あの時の7人の小姓のうちの5人でした。
僧が、
「…にしても、あの時は7人やったけど、あと二人は…?」
と、思っていたところに、一人の男が息を切らせながら走って来ます。
彼は、その脚力を買われて、「この文を届けてくれ」と頼まれた飛脚役の青年・・・
「おそらく、ここ(二尊院)に、熊谷の小姓衆が来るだろうから…」
と手渡されたその手紙は、残りの二人からの物でした。
「今度、京都の侍所(さむらいどころ=現在の警察署)に士官できる事になりました。
彼らに会うたら、(あとの5人も就職できそうなので)京都に来るよう伝えて下さい」
という物でした。
しかし、その5人は、すでに・・・
二尊院から戻って来た使いの者から、5人が自刃した事を聞いた二人は、すぐさま上司に暇をもらい二尊院へ直行・・・境内へと入るや否や、かの直之のお墓の前で、彼ら二人も自刃して果てたのでした。
・‥…━━━☆
と、まぁ、最初に、この逸話を知った時、「5人が自刃する」のと、「2人の手紙が届く」のとが見事なタイミング過ぎて、ホンマかいな?・・・と思っていたんですが・・・
『柳庵雑筆』には慶長五年(1600年)9月としか書いていないので、あくまで推測ですが・・・
そう、慶長五年(1600年)9月と言えば、あの関ヶ原です。
ひょっとして、関ヶ原で三成側が敗戦したタイミングのなのか?と考えると、
なるほど・・・
あの時は、バラバラに去って行ったものの、三成の失脚を知った5人が、誰が先にという事もなくお墓の前に集まる・・・
一方、残りの二人は、合戦が終わって組織の体制が変わる事で就職できるようになって・・・という事なのか?
と考えると、同時に7人全員の心が二尊院に向いた事も無きにしも非ずと思えて来ました。
とは言え、悲しい物語ではありますが、これが、武士の忠義、武士の誇りという物なのかも知れませんね。
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コメント
真田丸での秀次の最後の登場回が7月17日になったのは、命日に近いという事もあったのかな?
ところで今秋に映画版「真田十勇士」があるのはご存知ですか?
投稿: えびすこ | 2016年7月18日 (月) 10時35分
えびすこさん、こんにちは~
映画は堤幸彦作品なので見に行きたいな~と思ってます。
「トリック」も「ケイゾク」も「20世紀少年」も好きなので…
投稿: 茶々 | 2016年7月18日 (月) 15時10分
この美談とは関係ないですが
秀次事件ってどういう事件だったんでしょうねぇ
勝手なイメージですが
後の加藤清正らが秀次寄りの典型例だったのではないかと思っています
要するに親徳川とまではいかなくとも、徳川家康個人とはかなり親密だったのではないかと。
福島正則もそうですけど、そこまでの苦労なく数十万石とか手にした人間の典型例として、秀吉と違って人が良くて警戒心にやや乏しかった部分があったと思います。
唐入りで秀勝を失った上に、秀吉に人間関係についてネチネチ言われて、でも秀吉の真意を測るにはちょっと人間のスケールの差もありますが、単純な両者の年齢差もかなりの原因だったのではないかと思います。
また家康はそれらの状況を見越した対応をしてきたのではないかと思います。直接的ではなく、秀次を操って秀吉に制約をかけていく?
秀吉がついに暴発して秀次を切腹に追い込んで愚君などといわれますが、これが仮に我慢できたとしても、お門違いの家康が何故か豊臣系大名から尊敬を受けるという流れは止まらなかったように思います。
小早川秀秋にも性格を見越した対応をしていますが、全く読心術の天才だと思いますし、家康は若者がどう甘やかせばダメになっていくかを熟知していたかのようです。
投稿: ほよよんほよよん | 2016年7月22日 (金) 21時44分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
秀次事件は謎が多いですね~
側にいた人でも、何のお咎めも無かった人もいますし、(先日の大河でもやってましたが)真田信繁の側室だった娘さんも助かってますからね。
不思議な事件です。
投稿: 茶々 | 2016年7月23日 (土) 01時52分
秀次の死、最近はうつ病がエスカレートしての自殺…が、脚光を浴びていますね。
生々しく身近な動機であるせいか、反論はありませんが、ロマンが半減してしまって複雑な気分です。
投稿: パイナップル | 2016年8月 5日 (金) 22時50分
パイナップルさん、こんばんは~
今年の大河ドラマも、そんな感じで描かれてましたね。
真相はいかに?
投稿: 茶々 | 2016年8月 6日 (土) 02時21分