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2016年7月 3日 (日)

新世界ルナパークと初代通天閣の誕生

 

明治四十五年(1912年)7月3日、大阪・天王寺新世界ルナパークが開場し、通天閣が人気となりました。

・・・・・・・・

明治三十六年(1903年)、3月1日~7月31日の153日間に渡り、大阪の天王寺一帯で開催された第五回内国勧業博覧会は、欧米をはじめとする世界18ヶ国が参加する、事実上日本初の万国博覧会であった事から、
(↑これまでの東京&京都での博覧会は、日本がパリ条約に加盟していなかったために外国からの出品はありませんでした)
これまでの最高=前回の京都(4月1日参照>>)の5倍近くの約500万人の入場者数を記録する大成功イベントとなりました。

その博覧会を成功に導いたのが土居通夫(どいみちお)という実業家・・・彼が、実際にフランスパリへと飛び、そこでパリ万博のノウハウを吸収して来た事が大きかったのです。

Tuutenkaku1912a700 で、その彼がパリで見たエッフェル塔凱旋門に魅了され「日本にもあんなん造りたい!」と構想・・・

と、同時に、明治四十四年(1911年)に起こった火災によって閉園を余儀なくされた遊園地=東京の浅草ルナパーク(ニューヨーク=コニーアイランドのルナパーク がモデル)の後を引き継ぐ遊園地の設立を模索していた河浦謙一が、未だ開発中だった、かの博覧会の跡地に2番目となるルナパークの建設を決意します。

後に「新世界」と呼ばれる事になるこの場所ですが、実はこの、土居さんの夢見たパリと、河浦さんの目指したニューヨーク合体作品だったんですね~
・・・てか、そもそも通天閣だけで、エッフェル塔と凱旋門が合体してるんですがww

なので、通天閣の北側は、パリの凱旋門を中心にのびる放射状の道路と同様の構造となっており、大阪の新名所的な意味を持つ「新世界」という名称になる前は「新巴里」と呼ばれた時もあったのだとか・・・

とは言え、結果的に遊園地のシンボルとなる通天閣・・・
設計したのは建築家=設楽貞雄(しだらさだお)で、通天閣と命名したのは儒学者の藤沢南岳(ふじさわなんがく)、その意味は「天に通じる高い建物」という意味だと言われますが、実は通天閣の「通」は通夫さんの「通」らしい・・・てな事も。

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誕生した新世界…左奥が通天閣で右がホワイトタワー、その手前の木々のある部分がルナパーク

とにもかくにも、こうして・・・
明治四十五年(1912年)7月3日大阪天王寺界隈の博覧会の跡地に、通天閣とルナパークが誕生します。

通天閣の高さは75m(諸説あり)で東洋一とのフレコミ・・・世界初の円形エレベーターが装備され、現在でもお馴染みのネオン広告も、誕生の時から、すでにあったとか・・・

一方のルナパークには、現在の絶叫マシーン的な物やメリーゴーランド演芸場映画館ローラースケート場スパワールドコンサートホールと、平成のテーマパークに勝るとも劣らない設備の数々・・・

Luna_park2a550 また、メインとなる展望塔=ホワイトタワー(白塔=現在の「づぼらや」付近に建っていた)は通天閣と対峙する形の高さ40mで、両塔の間には飛行機型のゴンドラに乗って移動できるイタリア直輸入のロープウェイが!
(写真→)

いやはや、明治の遊園地とは思えませんねぇ~

で、そのホワイトタワーの下部にあった白雨亭という休憩所の奥に、お堂建てて祭ってあったのが、アメリカ生まれのビリケン像でした。

いつの間にやら、すっかり有名になって、今じゃ大阪のあちこちで見かけるビリケンさんですが、もともとは1908年(日本では明治四十一年)にフローレンス・プレッツというアメリカの芸術家が、自身の夢に出て来た人物をモデルに造った像が、「幸運の神様」として世界中に大流行・・・
(ちなみにビリケンという名前は、当時のアメリカ大統領=タフトのニックネームだそうな)

Billiken700a 日本では、明治四十四年(1911年)に大阪の繊維会社=神田屋田村商店(現在の田村駒株式会社)が、同社商品の販売促進キャラクターとして広告で使用した事から大人気となり、おそらくは、その人気にあやかってルナパークにもビリケン像が設置されたと思われ・・・って事は、今で言うところの「お台場のガンダム」「神戸の鉄人28号」みたいな物かしらん?
(ちなみに現在のビリケンさんは3代目で←写真のビリケンさんは2代目…最近はどんどん人気が出てどんどん神様っぽいキンキラの飾り付けが増えて来ている気が…(>0<)

とは言え、時代の流れは酷な物・・・

大正時代に入ってからすぐには隣接する天王寺公園動物園が誕生したものの、それ以降は、ほぼ同じ敷地の南側に大相撲を中心とした興業を行う大阪国技館が、南東側には、当時、日本最大級の遊郭街と称された飛田新地が・・・と、次々と町並みが変化していく中で、徐々に新世界は大人の遊び場=歓楽街へと姿を変えていく事になります。

となると、当然、家族連れは少なくなって行き、やがて人出もまばらになった遊園地ルナパークは大正十二年(1923年)に閉鎖・・・

一方の通天閣は、それでも残っていたのですが、昭和十八年(1943年)の第二次世界大戦真っただ中の1月に、ねきにある大橋座火災発生した事から足元部分を損傷・・・
これを受けて、通天閣が高い建物であるが故に空襲での標的にされやすい事、金属類不足による鉄材供出などを理由に翌・2月に解体されたのでした。

そう、現在の通天閣は2代目!・・・コチラが建設されたのは昭和三十一年(1956年)なんです。

大阪が日本一の人口を誇った大大阪と呼ばれる時代・・・明治の終わりから大正の初めにかけて、その大大阪の象徴のごとく隆盛を誇った通天閣は、一度は壊されながらも、戦後の高度成長期を迎えて再び活気づく大阪の空によみがえったのです。

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清水寺(大阪市天王寺区伶人町)の舞台から望む2代目通天閣

平成の世となった今、東洋一&日本一どころか、あべのハルカスから見下ろされ、大阪一の高さでもなくなった通天閣に、初めて訪れた人は「思たより低いな」と言わはりますが、そこには、高さだけやない、大阪人の夢と希望と憧れがつまってますのや!

てな事で、もし、新世界に来られて通天閣に登られる機会がありましたら、展望台からの風景に、古き良き大大阪の時代を垣間見ていただけましたら幸いです。

ほな、今日は、これくらいにしといたろww
 .

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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

そうやねん!よく言うてくれたし!
ほな、おおきにw

投稿: ほよよんほよよん | 2016年7月 3日 (日) 09時12分

ほよよんほよよんさん、こんにちは~

おぉ!
ほよよんほよよんさんは、大阪の方でしたかー
ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2016年7月 3日 (日) 16時53分

茶々様、おはようございます。

エッフェル塔と凱旋門を単にコピーするのではなくて合体させてしまったのが凄いですね。
一気に親近感増す建築物に仕上がってる。

投稿: しまだ | 2016年7月 4日 (月) 05時37分

しまださん。こんにちは~

ホント、発想がスゴイですね。
「親近感」はタテマエよりホンネの大阪らしい気がします。

投稿: 茶々 | 2016年7月 4日 (月) 17時27分

茶々さん、こんにちは。
私は長いこと東京タワーはエッフェル塔のコピーと思っていましたが、あれはどちらかと言いますと法隆寺の五重塔と同じ構造なのでエッフェル塔と違うのですね。むしろ通天閣のほうがエッフェル塔をまねたのだとこの間知りました。
でも当初の頃だとどちらかと言いますと下町でなく山の手の遊園地みたいだったのですね。それが続かなかったのが残念です。
でも飛田新地の隣の阿倍野、その近くの帝塚山は今でも高級住宅街と聞きますので昔の面影が残っているのかなと思いました。
大阪が大大阪の頃は東京市よりも広かったですが、郊外を合わせても大阪のほうが活気があったのを見ても明治の広岡夫妻以来関西は発展していたのだと思いました。
その頃は徳島も発展していてまだまだ四国の中心でした。今は全然ダメですが・・・

投稿: non | 2016年7月17日 (日) 10時54分

nonさん、こんばんは~

ミナミは昔の面影を残している場所が多いですね。
建物の中のテナントは、かなり変化してしまってますが…

投稿: 茶々 | 2016年7月18日 (月) 02時10分

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