織田信長VS越前一向一揆~越前平定
天正三年(1575年)8月12日、織田信長が越前一向一揆討伐に向けて岐阜を出陣しました。
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元亀元年(1570年)、4月の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)からの有名な姉川の戦い(6月28日参照>>)に始まる、織田信長(おだのぶなが)VS浅井・朝倉の戦い・・・3年の年月を経た天正元年(1573年)、小谷城に北近江(おうみ=滋賀県)の浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷に越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月20日参照>>)、信長はいよいよ越前を切り取りました。
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)
越前一乗谷
この時の信長は、戦いの途中で朝倉に見切りをつけ、織田側に寝返った者の多くを配下として召し抱え、その奪い取った越前の地を治めさせるようにしました。
ところが、その旧朝倉家臣中で、旧朝倉家の本拠だった一乗谷城を与えられて越前守護代に任ぜられていた前波吉継改め桂田長俊(かつらだながとし)と、龍門寺城を与えられて府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)との間に内紛が勃発・・・
長繁が、地元の本願寺宗徒を扇動して一向一揆を起こさせ、自らも長俊の居る一乗谷へと挙兵し、またたく間に長俊に勝利・・・その勢いのまま一揆勢と長繁は、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃して、目付として赴任していた3人の奉行まで追放し、邪魔者を次々と倒して越前一国を、ほぼ掌握してしまったのです(1月20日参照>>)。
ここでハタと我に返った長繁さん。。。
そうです、今の彼は信長の配下なわけで・・・慌てて信長に、お詫びの書状を書いて弟を人質に差し出し、越前守護の地位を認める朱印状を出してくれるように願い出るのですが、ご存じのように、その信長さんは、あの本願寺宗徒の教祖様=石山本願寺と長年に渡って抗戦中(8月2日参照>>)
例え信長が許したとしても(許さんとは思うが…ww)、一緒に戦った一向一揆勢が、越前を掌握した途端に信長の配下に戻る事を許すはずはなく、この一向一揆勢に加え、先の戦いで長繁にしてやられた旧朝倉の同僚や、長繁の統治に不満を持つ府中の町衆も加わった10万の軍勢に囲まれ、天正三年(1575年)2月18日、長繁は、奮戦空しく銃弾に倒れました。(くわしくは2月18日参照>>)
そう・・・こうして、この越前の地には奮起した一向一揆が残ったのです。
かくして、
この年の5月、武田勝頼(たけだかつより)を相手にした長篠の戦い(5月21日参照>>)を終えた信長は、天正三年(1575年)8月12日、自ら越前へと向けて出陣したのです。
14日に敦賀(つるが)へと入った信長は、武藤舜秀(むとうしゅんしゅう・きよひで)が守る敦賀城(福井県敦賀市)に陣を構えました。
一方の一向一揆勢は、虎杖城(板取城=いたどりじょう福井県南条郡)や木目峠(きのめとうげ=敦賀市)や今城(いまじょう・今庄=南越前町)などの諸城&砦に加え、能美川(日野川)と新道川(帰川)の合流地点をせき止めた水壕を設けたり、さらに海岸には新城を構築したり、要所々々に鉄壁の守備を張り巡らせます。
やって来た決戦は3日後の8月15日・・・風雨厳しいこの日に、織田軍全軍が各方面から一斉に攻撃を開始します。
桂田長俊の息子や、かつて富田長繁の配下に属していた者たち(敵の敵は味方なり~)を先鋒として、柴田勝家(しばたかついえ)や丹羽長秀(にわながひで)や羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀よし)に明智光秀(あけちみつひで)などなど、織田家直属の武将が続き、織田信包(おだのぶかね=信長の弟)や織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)ら身内を含む約3万の軍勢が、大良越え(だいらごえ=南越前町)から進撃・・・
さらに海上からは、かつて若狭武田氏の配下にあった粟屋勝久(あわやかつひさ)や熊谷直之(くまがいなおゆき=直澄)(7月16日参照>>)などが数百隻の軍船で攻め寄せて各所から上陸し、海岸沿いにある城や砦に火を放っていきます。
もちろん、一向一揆勢も籠るばかりではなく撃って出ますが、これを迎え撃った羽柴&明智勢がまたたく間に2~300の首を挙げてさらに押し進み、例の海岸の新城を焼き払いました。
しかも、その日の夜・・・三宅権丞(みやけごんのじょう)が籠る府中(越前市)の竜門寺砦に忍び込んだ織田方の者が、砦を乗っ取って付近に火を放った事で、不意の焼き討ちに驚いた一揆勢は、各砦から退却を開始しますが、それを、またまた羽柴と明智が追い込む・・・
さらに8月18日には、柴田&丹羽隊らが鳥羽(とば=鯖江市)を攻略し、美濃(みの=岐阜県)方面からは金森長近(かなもりながちか)(8月20日参照>>)らなど、各所から一斉に攻撃を仕掛けた事で、越前国中の一揆勢は、たまらず、各山々へと逃げ込んで、どこへともなく散り散りに姿を消しました。
一般的に、第二次天正越前一向一揆と呼ばれるこの戦い・・・
23日には一乗谷、28日には豊原(とよはら=福井県坂井市)にと信長が本陣を進めていくと、堀江(あわら市)など、加賀地方の一揆勢や門徒衆は、もはや戦う事無く投降します。
こうして、10日余りのうちに加賀・越前を平定した信長は、9月2日、北庄(きたのしょう=福井市)へと出かけて図面を引き、ここに城を構築するように命じて、越前の内の8郡を柴田勝家に与えたのです。
そう、ここが・・・
結果的に、勝家にとっての最後の城(4月23日参照>>)=北ノ庄城となったわけです。
しかし、この後、翌天正四年(1576年)の5月3日に総本山=石山本願寺と信長との直接対決があったり(5月3日参照>>)、その5日後には、長年に渡って反目していた謙信が石山本願寺と和睦し、反信長を表明したり(5月18日参照>>)、その謙信が隣国の富山まで侵攻したり(3月17日参照>>)・・・てな事があって、越前一向一揆は再び蜂起するのですが、そのお話は5月24日の【前田利家~最大の汚点?越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」】>>でどうぞ
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コメント
この合戦に限らないですが、戦国時代の軍役の事情からか、5万を超える兵力で余り戦果が挙がっていないものが多いですよね
上杉謙信の小田原包囲といい、秀吉の小牧長久手といい、徳川方の兵数がブラフだったとする近年の説?を採用するなら、石田三成の関ヶ原といい…
これが10万を超えるとまた安定してくるようですが。
凄く月並みな感想ですが、朝倉・本願寺連合軍の動員力が急に増えすぎた事が主な敗因ではないかと思います。とはいえ、寺内町に篭城し秀吉の軍勢は跳ね返したようですが、柴田勝家配下の佐久間盛政が小兵力で暴れ周り、それが勝敗を決定付けたようです。
合戦の規模から言うと、長篠の戦いよりこちらの方が天下の趨勢を決定付けたといえるかもしれません
投稿: ほよよんほよよん | 2016年8月12日 (金) 15時31分
ほよよんほよよんさん、こんにちは~
加賀藩史料の『越前誌』では、信長軍は数十万となっていますが、さすがにそれは無いにしても、なかなかに重要な合戦だったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年8月12日 (金) 15時50分
茶々さん、
この時代を見ますと欧州のドイツの混乱を思い出します。平定したと思ったらまた横取りされたりと長い混乱が続いていましたが、越前についても同じことが言えそうですね。
ドイツの皇帝は一応ローマ帝国の後継者なのに誰からもいう事を聞かれなくて、内紛を続き、イタリア遠征で借金だらけみたいでしたが、信長はそういう問題はなかったのかなと思いました。
それはそうと大河ドラマを見ていて思うのはその借金を申し込むシーンが一休さんよりも描いていないのと対価のシーンがないのです。信長は楽市楽座をしたり、堺を配下に置いていますが、本願寺、伊賀などに問題が多く、本当に楽に戦ができたと思えないのです。ただ言えることはゲームオブスローンズみたいな世界でなく比較的ましなのがよくわかりました。
それはそうと最近視力が悪化したのと洋書の歴史書と違い日本の歴史書は読みにくいので困ります。茶々さんはどういう読み方をされているのですか。洋書の歴史書は解説文があるので分かりやすいのですが・・・
投稿: non | 2016年8月13日 (土) 05時14分
nonさん、こんにちは~
外国の事はわかりかねますが、本願寺や伊賀などの問題は信長に限った事ではありませんし、戦国の戦い全般においても「楽な戦い」など無いように思います。
>茶々さんはどういう読み方をされているのですか
まずは右手で本をとり、左手に持ち替えて右手でページをめくり…って冗談です(*´v゚*)ゞ
私は、外国語は中国語しかやってないので洋書は読みません。
最近は大学の図書館や国会図書館など、貴重な史料をネット上で公開して下さるようになってウレシイです。
投稿: 茶々 | 2016年8月13日 (土) 12時18分
話の本質とは関係ないかもしれませんが、兵数的には織田方が長篠の戦いで-500としてそのまま移動してきておよそ37500
本願寺・朝倉連合軍は江北まで勢力を伸ばしてきていたようなので、正確な数字が分かりかねますが、太閤検地で越前加賀が85万石、江北は秀吉の長浜城まで敵が迫っていたようなので水平面積分割すると約45%の35万石(端数四捨五入)、ただ戦国期の石高は目安-2割程度とされていますので、動員力的には96万石≒正規領民兵26500+門徒衆・浪人等が同数程度ではなかったかと思われます
状況だけならどっちが有利とも付かない感じですし、そもそも敵の多い織田方は篭城されると基本不利のはずなのですが・・果敢に本願寺側が野戦にうって出たのが裏目ですよね。
個人的には何となくこの辺りのやり取りを見ていると、義昭の今堅田、槇島、若江の戦いとか、長篠の戦いもそうですが、信玄の三方原での大勝が織田方を過小評価させて、後の反織田勢力の誤断を数多く招いているようで罪深く感じます
投稿: ほよよんほよよん | 2016年8月14日 (日) 14時01分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
武将VS武将ではないぶん、よけいに難しいですね。
「戦いのプロ集団」と「プロじゃないけど信仰に命がけ」とは、なかなか比較し難いです。
投稿: 茶々 | 2016年8月15日 (月) 01時59分
一向一揆の平定・・・北陸は城持ち大名がいない地方で、宗門が合意の上で地域を治めていたとか・・白戸三平の忍者漫画にこの地方の実情が詳しく取り上げられてましたね。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年8月18日 (木) 23時45分
根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~
う~~ん、どうなんでしょうね~
富山には神保、能登には一色&長、加賀には富樫、本文にある通り福井には朝倉など、いましたが…
ただ、足利政権での守護が、管領家の畠山やら斯波やらなので、一向一揆が力をつけて来た時代には、実質的には守護代や国人任せになっていた部分もあったのでしょうかねぇ?
投稿: 茶々 | 2016年8月19日 (金) 01時18分