松平広忠VS松平信孝~三木城攻防戦
天文十二年(1543年)8月27日、松平広忠が、叔父の松平信孝の三河三木城を攻めました。
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あの徳川家康(とくがわいえやす)は、その名に改名する以前は松平元康(まつだいらもとやす=初名は元信)と名乗っていた事でもご存じのように、もともとは松平という苗字・・・
(注:右→の略系図は、江戸時代になって世良田氏の系図と松平を繋げた物であって、あくまで徳川家の言い分とされます)
そもそもは、一代で三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たした松平清康(きよやす=家康の祖父)が、途中から、清和源氏の流れを汲む新田氏の一門である得川氏の庶流=世良田姓を名乗り出し、自身の通称を世良田次郎三郎とした事から、後の家康も徳川を名乗り、系図もこんな感じになったようです
で、上記の通り三河の諸城を攻め取って国衆を服属させ、一代で三河を掌握した清康でしたが、その三河は東に駿河&遠江(するが&とおとうみ=静岡県)の今川、西に尾張(おわり=愛知県西部)の織田といった武将らが割拠する場所・・・
とは言え、三河をぶん取った清康は、さらに領地を広げるべく三河統一の勢いのまま尾張に攻め込み、天文四年(1535年)、織田方の守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻撃しますが、そのさ中に清康は家臣によって殺害されてしまったのです(12月5日参照>>)(森山または守山崩れ)。
それは不仲だった叔父=松平信定(のぶさだ)の策略とも、単に家臣のミスとも言われる一件ですが、とにもかくにも、未だ25歳の若さのイケイケ当主を失った松平家では、わずか10歳の後継ぎ息子=松平広忠(ひろただ=家康の父)が、信定に攻められた岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)を命からがら領地を脱出し、さらに、駿河の今川氏輝(いまがわうじてる)の援助で入った牟呂城(むろじょう=愛知県西尾市室町)も攻められて、伊勢にて身を隠す・・・というほどの崩れっぷりで、しばらくの間、領国へと戻る事すらできませんでした。
やがて天文六年(1537年)に旧臣の大久保忠俊(おおくぼただとし)が、かの松平信定に占領されていた岡崎城を奪回した事、さらにその後、氏輝の後を継いだ今川義元(よしもと=氏輝の弟)(6月10日参照>>)の支援を受けて、何とか三河に戻る事ができた広忠は、ここからは、その義元を背景にして、幾度となく、尾張の織田信秀(おだのぶひで=信長の父)(3月3日参照>>)との抗争を繰り返す事になります。
この時の広忠逃走中の間、三河に侵入して来た織田軍を撃退したり、広忠の岡崎帰陣にも尽力したりして大活躍したのが、父・清康の弟=つまり広忠の叔父である松平信孝(のぶたか)でした。
そんないきさつから、広忠が岡崎に復帰して後は、信孝は、その後見人となって軍団の一翼を担うようになるのですが・・・
そうなると、しだいに力をつけて行く信孝・・・この頃、三木城(みつきじょう=岡崎市三ッ木町)を本拠としていた信孝は、天文十一年(1542年)に亡くなった弟=松平康孝(やすたか)の領地(本来、三木は康孝の領地だったとも)や、岩津松平家(いわつまつだいらけ)の領地(2代目当主とされる泰親が本拠とした岩津城(いわつじょう=岡崎市岩津町東山)周辺)を手に入れ、宗家の広忠に匹敵するほどの大勢力になっていたのです。
しかも、手に入れる=横領だったわけで・・・そうなると、当然、この一大勢力は、広忠たちにとって脅威となるわけで・・・
いつしか、家臣たちからも
「このままだと、清康の時の信定の二の舞になるのでは?」
との声が出始めた事で、広忠は決意をするのです。
そうとは知らぬ信孝・・・
一方、何食わぬ顔で、信孝に、今川義元への使者として駿河行きを命じた広忠は、そのまま岡崎への帰還を許可しなかったばかりか、所領没収の命を出し、天文十二年(1543年)8月27日(6月説あり)、信孝の三木城への攻撃を開始したのです。
不意の攻撃に耐えかねた信孝は、やむなく尾張へと逃走・・・そう、敵対する織田方に属する事になったのです。
しかも、その信秀から、岡崎城の備えの城として構築した山崎城(やまざきじょう=愛知県安城市山崎町)を任される・・・つまり、対・広忠戦の最前線へと送り込まれたわけで、結果、三河×尾張の緊張が一掃高まる事となってしまいました。
岡崎城&三木城周辺の地図(背景地図は地理院>>からお借りしました)
その後の三河安祥城(愛知県安城市)を巡っての攻防戦でも第一線で活躍した信孝でしたが、天文十七年(1548年)に起こった第2次小豆坂の戦い(9月19日参照>>)の直後に、岡崎城を攻撃しようと出陣したところを広忠の配下の者に弓で射抜かれて討死したと言います。
しかし、そんな広忠も、その翌年の天文十八年(1549年)に家臣に殺害され(3月6日参照>>)、しかも、その広忠の後を継ぐべき息子は織田家の人質になってしまってる(8月2日参照>>)・・・という、もはや松平家は風前の灯状態になってしまうワケですが・・・
しかし、世の中、わからない物です。
その風前の灯の人質息子が、
絡みあう運命の糸(11月6日参照>>)を自らほどいて
あの桶狭間(おけはざま)のドサクサで岡崎城へと帰還し(2008年5月19日参照>>)、
やがて戦国乱世に終止符を打って
250年の平和をもたらす大将軍になっちゃうんですからね~
皆様おわかりのように、この人質息子が徳川家康君でおます。
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コメント
茶々様、こんばんは。いつも楽しく拝見しております。
こうして見ますと、家康もどうなってたか判らないんですね~。運も実力のうちですね。しかし家康や信長は、親や祖父の代である程度の地盤があった訳ですが、秀吉にはそれすら無かったんですよね…本当にイチから己一人で登り詰めた秀吉は改めて凄いと思いました。「真田丸」ではその地盤の弱さのせいか、内部から崩壊して行く様を描いていますね。いよいよ家康が本性表してきて面白いです。
投稿: つらまえ | 2016年9月 1日 (木) 21時00分
つらまえさん、こんばんは~
そうですね。
家康には、こんな事になってもまだ、ついて来てくれる家臣がいたのですから、秀吉よりは、うんと地番が固かったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年9月 2日 (金) 02時28分
三河三木城の戦いで一番よくわからないのが
そもそも、何故伊勢でまったりしていた松平広忠が帰還したのか、ですよね
大久保忠俊らが助力したと言いますが、この騒動で勝ち組になった織田信秀も(本願寺の末寺、寺内町、奥三河衆や西郷・吉良・戸田家などの存在がごちゃごちゃしていたから?)結局三河支配に苦労して益少なく労多しという印象です。
この戦いに際する信秀と北条氏康とのやり取りの書状が多数現存していますが、(かいつまんで)氏康は松平広忠も織田信秀もどちらもやってることがKYだと言っているあたり、どちらにせよ周囲の地元領主の支持を得られるような経緯の争いではなかったような印象があります。
投稿: ほよよんほよよん | 2016年9月 3日 (土) 12時56分
ほよよんほよよんさん、こんにちは~
なんか、今川の関与が、ややこしくしているような気もしますね。
この時代の松平は、今川のバックアップ無しでは生き残れなかったでしょうし…
投稿: 茶々 | 2016年9月 3日 (土) 17時40分
茶々さま、こんばんは。
清康も広忠も20代半ばで身内や家臣に討ち取られてしまったとは、何ともせつなく理解不能な戦国時代ですね。
今川を頼っていたお陰で、家康が成人できたのかもと想像すると、清康にも広忠にもあっぱれと思います。
投稿: まつこ | 2016年9月 5日 (月) 01時40分
まつこさん、こんばんは~
どこかに頼らねばならない弱小大名は、同族争いなどが絶えなかったのでしょうね。
家康の場合は「よくぞ生き残った」という感じですね。
投稿: 茶々 | 2016年9月 5日 (月) 02時27分
「家康さんちは、戦国には珍しく身内同士の揉め事がない(信康事件位)」というイメージですが、実情は
「清康お爺ちゃん、広忠パパの代に揉めすぎたせい+今川家に弱体化させられたせいで、家康さんの代には、彼を悩ませる同格の競争相手が居なくなっていた。」といった方が正しいんですね。
信長や信玄や義元を引き合いに出すと、凄い豪運だということがさらによく解ります。
投稿: ヤマアラシ | 2016年10月 9日 (日) 23時53分
ヤマアラシさん、こんばんは~
「運も実力のうち」と言いますが、家康さんには幸運の神がついているのか?と思うほど、自らの力ではどうにもならない事が、良い方向に転がる部分もありますよね。
まぁ、毛kk徳は、そのチャンスをうまく掴み取る能力にも長けていたのでしょうけど…
投稿: 茶々 | 2016年10月10日 (月) 03時19分