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2016年8月27日 (土)

松平広忠VS松平信孝~三木城攻防戦

 

天文十二年(1543年)8月27日、松平広忠が、叔父の松平信孝の三河三木城を攻めました。

・・・・・・・・・・・・・

Ieyasukeizu2 あの徳川家康(とくがわいえやす)は、その名に改名する以前は松平元康(まつだいらもとやす=初名は元信)と名乗っていた事でもご存じのように、もともとは松平という苗字・・・
(注:右→の略系図は、江戸時代になって世良田氏の系図と松平を繋げた物であって、あくまで徳川家の言い分とされます)

そもそもは、一代で三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たした松平清康(きよやす=家康の祖父)が、途中から、清和源氏の流れを汲む新田氏の一門である得川氏の庶流=世良田姓を名乗り出し、自身の通称を世良田次郎三郎とした事から、後の家康も徳川を名乗り、系図もこんな感じになったようです

で、上記の通り三河の諸城を攻め取って国衆を服属させ、一代で三河を掌握した清康でしたが、その三河は東に駿河遠江(するが&とおとうみ=静岡県)今川、西に尾張(おわり=愛知県西部)織田といった武将らが割拠する場所・・・

とは言え、三河をぶん取った清康は、さらに領地を広げるべく三河統一の勢いのまま尾張に攻め込み、天文四年(1535年)、織田方の守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻撃しますが、そのさ中に清康は家臣によって殺害されてしまったのです(12月5日参照>>)(森山または守山崩れ)

それは不仲だった叔父=松平信定(のぶさだ)策略とも、単に家臣のミスとも言われる一件ですが、とにもかくにも、未だ25歳の若さのイケイケ当主を失った松平家では、わずか10歳の後継ぎ息子=松平広忠(ひろただ=家康の父)が、信定に攻められた岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)命からがら領地を脱出し、さらに、駿河の今川氏輝(いまがわうじてる)の援助で入った牟呂城(むろじょう=愛知県西尾市室町)も攻められて、伊勢にて身を隠す・・・というほどの崩れっぷりで、しばらくの間、領国へと戻る事すらできませんでした。

やがて天文六年(1537年)に旧臣の大久保忠俊(おおくぼただとし)が、かの松平信定に占領されていた岡崎城を奪回した事、さらにその後、氏輝の後を継いだ今川義元(よしもと=氏輝の弟)(6月10日参照>>)の支援を受けて、何とか三河に戻る事ができた広忠は、ここからは、その義元を背景にして、幾度となく、尾張の織田信秀(おだのぶひで=信長の父)(3月3日参照>>)との抗争を繰り返す事になります。

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三州岡崎城図

この時の広忠逃走中の間、三河に侵入して来た織田軍を撃退したり、広忠の岡崎帰陣にも尽力したりして大活躍したのが、父・清康の弟=つまり広忠の叔父である松平信孝(のぶたか)でした。

そんないきさつから、広忠が岡崎に復帰して後は、信孝は、その後見人となって軍団の一翼を担うようになるのですが・・・

そうなると、しだいに力をつけて行く信孝・・・この頃、三木城(みつきじょう=岡崎市三ッ木町)を本拠としていた信孝は、天文十一年(1542年)に亡くなった弟=松平康孝(やすたか)の領地(本来、三木は康孝の領地だったとも)や、岩津松平家(いわつまつだいらけ)の領地(2代目当主とされる泰親が本拠とした岩津城(いわつじょう=岡崎市岩津町東山)周辺)を手に入れ、宗家の広忠に匹敵するほどの大勢力になっていたのです。

しかも、手に入れる=横領だったわけで・・・そうなると、当然、この一大勢力は、広忠たちにとって脅威となるわけで・・・

いつしか、家臣たちからも
「このままだと、清康の時の信定の二の舞になるのでは?」
との声が出始めた事で、広忠は決意をするのです。

そうとは知らぬ信孝・・・

一方、何食わぬ顔で、信孝に、今川義元への使者として駿河行きを命じた広忠は、そのまま岡崎への帰還を許可しなかったばかりか、所領没収の命を出し、天文十二年(1543年)8月27日(6月説あり)、信孝の三木城への攻撃を開始したのです。

不意の攻撃に耐えかねた信孝は、やむなく尾張へと逃走・・・そう、敵対する織田方に属する事になったのです。

しかも、その信秀から、岡崎城の備えの城として構築した山崎城(やまざきじょう=愛知県安城市山崎町)を任される・・・つまり、対・広忠戦の最前線へと送り込まれたわけで、結果、三河×尾張の緊張が一掃高まる事となってしまいました。

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岡崎城&三木城周辺の地図(背景地図は地理院>>からお借りしました)

その後の三河安祥城(愛知県安城市)を巡っての攻防戦でも第一線で活躍した信孝でしたが、天文十七年(1548年)に起こった第2次小豆坂の戦い(9月19日参照>>)の直後に、岡崎城を攻撃しようと出陣したところを広忠の配下の者に弓で射抜かれて討死したと言います。

しかし、そんな広忠も、その翌年の天文十八年(1549年)に家臣に殺害され(3月6日参照>>)、しかも、その広忠の後を継ぐべき息子は織田家の人質になってしまってる(8月2日参照>>)・・・という、もはや松平家は風前の灯状態になってしまうワケですが・・・

しかし、世の中、わからない物です。

その風前の灯の人質息子が、
絡みあう運命の糸
(11月6日参照>>)を自らほどいて
あの桶狭間(おけはざま)のドサクサで岡崎城へと帰還し(2008年5月19日参照>>)
やがて戦国乱世に終止符を打って
250年の平和をもたらす大将軍になっちゃう
んですからね~

皆様おわかりのように、この人質息子が徳川家康君でおます。
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2016年8月19日 (金)

関ヶ原へ~高須城&駒野城&津屋城の戦い

 

慶長五年(1600年)8月19日、まもなく関ヶ原・・・西上する東軍が南美濃の高須城&駒野城&津屋城を開城させました。

・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原の戦い・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用て家内分裂を図る徳川家康(とくがわいえやす)が、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発したスキに、留守となった伏見城石田三成(いしだみつなり)が攻撃(=西軍)(8月1日参照>>)・・・それを知った家康は、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明(=東軍)します。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)

その評定の席で、ノリノリで東軍参戦を表明した福島正則(ふくしままさのり)は、池田輝政(てるまさ)ともに先鋒を任され、一足先に西へと向かい、8月11日には、自らの居城である清州城(きよすじょう=愛知県清須市)へと入ると、そこを拠点として続々と東軍の諸将が集まる中、前日の10日に三成が着陣した大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)を睨みつつ、未だ西軍に属している近隣の諸城を攻略していくのです。

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 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

織田信長(おだのぶなが)の嫡孫=織田秀信(おだひでのぶ=清州会議(6月27日参照>>)で後継者となった三法師です)西軍についていた事から、この周辺の武将の多くが西軍についてしまっていたために、数少ない東軍として孤立していた今尾城(いまおじょう=岐阜県海津市平田町)市橋長勝(いちはしながかつ)松ノ木城(岐阜県海津市海津町)徳永寿昌(とくながながまさ)・・・

福島正則の命を受けた両者は、8月16日、西軍に属する周辺の諸城のうち、まずは丸毛兼利(まるもかねと)福束城(ふくつかじょう=岐阜県安八郡)を落としました。(8月16日参照>>)

次に狙うは高木盛兼(たかぎもりかね)高須城(たかすじょう=岐阜県海津市)・・・今尾城と高須城は揖斐川(いびがわ)を挟んで、わずか4kmの距離です。

寿昌は早速、高須城に使者を送り、開城降伏をうながします。

しかし、実は高須城周辺の駒野城(こまのじょう=岐阜県海津市)には高木帯刀(たてわき)、その向こうの津屋城(つやじょう=岐阜県海津市)には高木正家(まさいえ)・・・と、この両城は、盛兼と同族の武将が治める城だったので、盛兼は
「同族の浮き沈みにも関わる事…戦わずして開城する事は武人としできない」
と、無血開城を拒否します。

そこで両者相談のうえ、仮の戦=戦ったポーズだけのウソ合戦をチョコっとやってから開城しよう」というダンドリをつけます。

「ポーズだけの合戦って、そんなんアリ?」
と思いますが、実はコレ、室町時代の建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)の時に登場した『二条河原の落書』にも、「此頃都ニハヤル物」の一つとして挙げられている虚軍(そらいくさ)という武将ご用達の手段・・・

とは言え・・・
以前にも、薩摩(さつま=鹿児島県)島津義久(しまづよしひさ)(6月23日参照>>)日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義佑(いとうよしすけ)(8月5日参照>>)との間で迷走した大隅(鹿児島県東部と奄美群島の一部)肝付良兼(きもつきよしかね)ウソ合戦の話(12月21日参照>>)を書かせていただきましたが、この時のように、ウソ合戦がうまく機能しない場合もあるわけで・・・

今回の場合は東軍の裏切りでした。

慶長五年(1600年)8月19日、高須城の北東に着陣した東軍は、本来なら空砲を撃ち合って、その後開城する約束だったにも関わらず、おもいっきし実弾込めての総攻撃をかけて来たのです。

騙された事に気づいた盛兼は、怒り心頭で兵たちにゲキを飛ばして応戦するよう命じますが、「今回は大丈夫」と油断していた城兵がすぐに動けるわけはなく、またたく間に窮地に陥り、やむなく高須城を捨て、津屋城や駒野城をめざして逃走したのです。

こうして高須城を陥落させた東軍は、その勢いのまま揖斐川を渡って駒野城と津屋城へ・・・

早速、駒野城を包囲した東軍が投降を呼びかけます。

前もってウソ合戦のダンドリを聞かされていた駒野城は、すでに高須城から撤退して来る兵の受け入れ体制を整えてはいましたが、その準備は、あくまでダンドリ通りのウソ合戦用の受け入れ体制・・・

そう、予定通りの撤退が予想外の敗走になってしまったため、予想以上に押し寄せる敗走組で城内は大混乱・・・さらにそんな中で、同族の中でただ一人東軍に属している高木貞友 (さだとも).が帯刀への説得を開始した事もあって、駒野城は抗戦する事なく開城されました。

一方の津屋城・・・コチラも駒野城と同様に、高須城からの受け入れた体制を整えていましたが、いまさら「実はホンマモンやねん」と聞かされても、もはや軌道修正する事も不可能・・・

しかしながら、そんな大混乱な中でも何とか高須城敗走組を収容し、城を包囲している東軍めがけて応戦していましたが、そこへ駒野城を落として来た東軍の別働隊が民家に放火しながら攻撃に加わって来たため、まもなく城に火の手が上がり、あえなく撃沈・・・正家らは大垣城めざして逃走していきました。

こして、南美濃一帯は東軍が制圧・・・

この後、美濃における関ヶ原関連は。
8月22日の
【竹ヶ鼻城攻防戦】>>
【岐阜城の戦い】>>
へと続いていく事になります。
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2016年8月12日 (金)

織田信長VS越前一向一揆~越前平定

 

天正三年(1575年)8月12日、織田信長越前一向一揆討伐に向けて岐阜を出陣しました。

・・・・・・・・・

元亀元年(1570年)、4月の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)からの有名な姉川の戦い(6月28日参照>>)に始まる、織田信長(おだのぶなが)VS浅井・朝倉の戦い・・・3年の年月を経た天正元年(1573年)、小谷城北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月20日参照>>)信長はいよいよ越前を切り取りました。
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)
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越前一乗谷

この時の信長は、戦いの途中で朝倉に見切りをつけ、織田側に寝返った者の多くを配下として召し抱え、その奪い取った越前の地を治めさせるようにしました。

ところが、その旧朝倉家臣中で、旧朝倉家の本拠だった一乗谷城を与えられて越前守護代に任ぜられていた前波吉継改め桂田長俊(かつらだながとし)と、龍門寺城を与えられて府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)との間に内紛が勃発・・・

長繁が、地元の本願寺宗徒を扇動して一向一揆を起こさせ、自らも長俊の居る一乗谷へと挙兵し、またたく間に長俊に勝利・・・その勢いのまま一揆勢と長繁は、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃して、目付として赴任していた3人の奉行まで追放し、邪魔者を次々と倒して越前一国を、ほぼ掌握してしまったのです(1月20日参照>>)

ここでハタと我に返った長繁さん。。。
そうです、今の彼は信長の配下なわけで・・・慌てて信長に、お詫びの書状を書いて弟を人質に差し出し、越前守護の地位を認める朱印状を出してくれるように願い出るのですが、ご存じのように、その信長さんは、あの本願寺宗徒の教祖様=石山本願寺と長年に渡って抗戦中(8月2日参照>>)

例え信長が許したとしても(許さんとは思うが…ww)、一緒に戦った一向一揆勢が、越前を掌握した途端に信長の配下に戻る事を許すはずはなく、この一向一揆勢に加え、先の戦いで長繁にしてやられた旧朝倉の同僚や、長繁の統治に不満を持つ府中の町衆も加わった10万の軍勢に囲まれ、天正三年(1575年)2月18日、長繁は、奮戦空しく銃弾に倒れました。(くわしくは2月18日参照>>)

そう・・・こうして、この越前の地には奮起した一向一揆が残ったのです。

かくして、
この年の5月、武田勝頼(たけだかつより)を相手にした長篠の戦い(5月21日参照>>)を終えた信長は、天正三年(1575年)8月12日、自ら越前へと向けて出陣したのです。

14日に敦賀(つるが)へと入った信長は、武藤舜秀(むとうしゅんしゅう・きよひで)が守る敦賀城(福井県敦賀市)に陣を構えました。

一方の一向一揆勢は、虎杖城(板取城=いたどりじょう福井県南条郡)木目峠(きのめとうげ=敦賀市)今城(いまじょう・今庄=南越前町)などの諸城&砦に加え、能美川(日野川)新道川(帰川)の合流地点をせき止めた水壕を設けたり、さらに海岸には新城を構築したり、要所々々に鉄壁の守備を張り巡らせます。

やって来た決戦は3日後の8月15日・・・風雨厳しいこの日に、織田軍全軍が各方面から一斉に攻撃を開始します。

桂田長俊の息子や、かつて富田長繁の配下に属していた者たち(敵の敵は味方なり~)を先鋒として、柴田勝家(しばたかついえ)丹羽長秀(にわながひで)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀よし)明智光秀(あけちみつひで)などなど、織田家直属の武将が続き、織田信包(おだのぶかね=信長の弟)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)ら身内を含む約3万の軍勢が、大良越え(だいらごえ=南越前町)から進撃・・・

さらに海上からは、かつて若狭武田氏の配下にあった粟屋勝久(あわやかつひさ)熊谷直之(くまがいなおゆき=直澄)(7月16日参照>>)などが数百隻の軍船で攻め寄せて各所から上陸し、海岸沿いにある城や砦に火を放っていきます。

もちろん、一向一揆勢も籠るばかりではなく撃って出ますが、これを迎え撃った羽柴&明智勢がまたたく間に2~300の首を挙げてさらに押し進み、例の海岸の新城を焼き払いました。

しかも、その日の夜・・・三宅権丞(みやけごんのじょう)が籠る府中(越前市)竜門寺砦に忍び込んだ織田方の者が、砦を乗っ取って付近に火を放った事で、不意の焼き討ちに驚いた一揆勢は、各砦から退却を開始しますが、それを、またまた羽柴と明智が追い込む・・・

さらに8月18日には、柴田&丹羽隊らが鳥羽(とば=鯖江市)を攻略し、美濃(みの=岐阜県)方面からは金森長近(かなもりながちか)(8月20日参照>>)らなど、各所から一斉に攻撃を仕掛けた事で、越前国中の一揆勢は、たまらず、各山々へと逃げ込んで、どこへともなく散り散りに姿を消しました。

一般的に、第二次天正越前一向一揆と呼ばれるこの戦い・・・
23日には一乗谷、28日には豊原(とよはら=福井県坂井市)にと信長が本陣を進めていくと、堀江(あわら市)など、加賀地方の一揆勢や門徒衆は、もはや戦う事無く投降します。

こうして、10日余りのうちに加賀・越前を平定した信長は、9月2日、北庄(きたのしょう=福井市)へと出かけて図面を引き、ここに城を構築するように命じて、越前の内の8郡を柴田勝家に与えたのです。

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北ノ庄城址公園(福井県福井市)

そう、ここが・・・
結果的に、勝家にとっての最後の城(4月23日参照>>)=北ノ庄城となったわけです。

しかし、この後、翌天正四年(1576年)の5月3日に総本山=石山本願寺と信長との直接対決があったり(5月3日参照>>)、その5日後には、長年に渡って反目していた謙信が石山本願寺と和睦し、反信長を表明したり(5月18日参照>>)、その謙信が隣国の富山まで侵攻したり(3月17日参照>>)・・・てな事があって、越前一向一揆は再び蜂起するのですが、そのお話は5月24日【前田利家~最大の汚点?越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」】>>でどうぞ
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2016年8月 5日 (金)

関ヶ原直前~石田三成&真田昌幸&上杉景勝の連携

 

慶長五年(1600年)8月5日付けの書状で、石田三成が真田昌幸に、恩賞の確約と西軍有利の報告と上杉景勝への協力を要請しました。

・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原ですが・・・
そもそもは、豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、五大老筆頭の座を良い事に、秀吉の遺言に背く行為をしていた徳川家康(とくがわいえやす)に対して不満を持っていた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)・・・

一方の家康は、先の朝鮮出兵後のゴタゴタで決定的となった豊臣家臣団の亀(3月4日参照>>)をを利用して、豊臣家内の反家康派の一掃を画策します。

そんな中で、上洛要請に応じない会津(あいづ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に対して「豊臣への謀反の疑いあり」とした家康が、五大老筆頭として諸将に出兵を要請するとともに、自らも会津に向けて出陣しますが、その時に、留守となった伏見城を三成が攻撃・・・ここに、関ヶ原へ向けての合戦の火蓋が切られたわけです。
(さらに詳しい経緯は【関ヶ原の年表】で>>)

そんな中、その要請を受けて会津に向かう家康勢と合流するべく出陣した真田昌幸(さなだまさゆき)と息子の真田信幸(のぶゆき=後の信之・兄)真田幸村(ゆきむら=信繁・弟)父子のもとに、三成が反家康の挙兵した事を知らせるとともに、西軍へのお誘いの手紙が届くのです。

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犬伏にて真田父子が受け取ったとされる豊臣三奉行蓮署状(長野・真田宝物館蔵)

7月17日付けのこの書状は、4日後の7月21日に犬伏(いぬぶし=栃木県佐野市)にいた昌幸らのもとに届き、ここで父子話し合いのもと、父=昌幸と弟=幸村は西軍に、兄=信幸は東軍につくという決断をした真田父子は、有名な「犬伏の別れ」(7月21日参照>>)となるのですが・・・

以前のページにも書かせていただきましたが、一般的には、ここで父子の意見がの分かれ、刀を抜かんがばかりの激論になったとされますが、おそらく、それは今後の事を考えたポーズ・・・たぶん「例のどちらが勝ってもOK」の二股保険作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】参照>>) だと思われ、常日頃から、万が一の時は、娘を三成の義弟=宇多頼次(うだよりつぐ)に嫁がせている父=昌幸と、三成の盟友である大谷吉継(おおたによしつぐ)(7月14日参照>>)の娘を正室に迎えている弟=幸村は西軍につき、家康の重臣=本多忠勝(ほんだただかつ)の娘=小松姫(こまつひめ=稲姫)を正室に迎えている兄=信幸は東軍に・・・というダンドリが、すでに話し合われていたのでしょう。

てか、戦国の婚姻は、そのための婚姻でもあります。

で、この後、信幸はそのまま、会津征伐に向かっている家康と合流する事になるのですが、7月25日には、三成が伏見城を攻撃した事を知った家康が小山評定(おやまひょうじょう)に会津征伐中止の決意表明(2012年7月25日参照>>)してUターンを開始する一方で、領国へと戻る音にした昌幸らには小松姫による沼田への入城拒否(2009年7月25日参照>>)なんかもありながら、8月1日には西軍からの攻撃に耐えていた伏見城が陥落して城将の鳥居元忠(とりいもとただ)が自刃し(8月1日参照>>)・・・

と、めまぐるしく展開していきますが、この間の7月24日と7月27日の2度に渡って、家康は、兄=信幸に書状を送って、父弟と袂を分かってまで味方についてくれた事を大いに喜ぶとともに、「勝利したあかつきには父=昌幸の領地はソックリ君の物やからな」との確約をしています。

一方、伏見が落城した事で、一旦、佐和山城(さわやま じょう=滋賀県彦根市)(2月1日参照>>)へと帰還した三成は、8月9日には、3000ばかりの兵を率いて、美濃(岐阜県)垂井(たるい)に向かい、その翌日の10日には、関ヶ原の本営となる大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)に入ることになりますが・・・

この、一旦、佐和山に戻っていた8月5日の日付けで三成が書いた昌幸宛ての書状がコチラ↓です。

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石田三成書状(長野・真田宝物館蔵)

この手紙の後半部分には・・・
先の伏見城攻防戦の経緯をはじめ、細川幽斎(ほそかわゆうさい)田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)攻防戦(7月21日参照>>)や、その息子=忠興(ただおき)の大坂の屋敷が燃えて家臣が自刃した事(7月17日参照>>)など、合戦の近況を、いかにも西軍有利のように報告するとともに、「頑張ってくれはったら、いっぱい領地差し上げまっせ」の約束もしたためてあり、この書状を手にした昌幸は、大いに奮起したと言います。

とは言え、歴史好きとして注目すべきは、前半部分・・・

そこには、
上杉の関東出兵に関して、真田家からも(秀頼の名前をチラつかせて)念を押すように、例え困難な状況であったとしても、人を雇ったり、真田の手勢をつけるなどして必ず飛脚を派遣する事」

また、
「小諸(こもろ=長野県小諸市:書状では小室)・深瀬・川中島(かわなかじま=長野県長野市)・諏訪(すわ=長野県諏訪市)など信濃(しなの=長野県)地方への出兵を、早々に実施する事」
が、書かれています。

そう、昔から囁かれている(関ヶ原における)三成と上杉の密約説』ですね。

厳密には、「三成×上杉」というよりは、三成と、当時、上杉の執政だった直江兼続(なおえかねつぐ)との密約ですが・・・

三成と兼続は同い年で、ともに、低い身分の出身ながら、小さな事からコツコツとやって来て殿さまに気に入られて出世してきたという、良く似た人生を歩んできたせいか、上杉が上洛した際、知り合ってすぐに二人は意気投合し、その後もかなり仲が良かったらしい・・・

現に、今回も、そもそもは兼続が、家康に対し、強気の直江状(4月14日参照>>)を送った事がキッカケで「会津征伐」が開始され、家康が出陣じたそのスキに三成が伏見城を攻撃・・・その3日後の7月22日には、兼続が越後(えちご=新潟県)にて一揆を扇動しています(7月22日参照>>)

また、『続武者物語』には6月20日付けの兼続宛ての三成の書状に「調略の通りに事が運んでウレシイわ」と書いてあったと記されてたり、『上杉軍記』にも「兼続が三成に賛同して、景勝に挙兵するよう説得した」と書かれていたりします。

もちろん、今回の昌幸への書状も、その『三成×兼続、密約説』に一役買っているわけです。

なんせ、書状の通りだと、真田は、三成と上杉の連絡役であるとともに、信濃周辺を押さえる役割なのですから・・・

とは言え、やはり、この『密約説』は、あくまで「説」止まりであって決定打に欠けます

伏見城攻撃からの一揆扇動は見事なタイミングですが、残念ながら、このタイミングで事を起こした武将は、三成と上杉だけではありません。

家康が西へのUターンを決意した同日には、すでに伊達政宗(だてまさむね)が東軍として動き始め(2015年7月25日参照>>)ていますし、伏見落城2日後の8月3日には、前田利長(まえだとしなが)加賀大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)を攻略(8月3日参照>>)、8月16日には苗木城(なえぎじょう)(2014年8月16日参照>>)福束城(ふくつかじょう=岐阜県安八郡)(2015年8月16日参照>>)に・・・など、様々な武将がそれぞれ同時進行しています。

つまり、西につくか?東につくか?・・・まさに、全国の武将が東西に分かれる天下分け目の戦が一斉に動き出したのが、この時期です。

そんな中で、家康が西へとUターンした時に上杉が追撃しなかったところを見ると、やはり「三成との密約」と言えるほどの連携感は無いように見えます。

確かに、家康Uターン時には、兼続が追撃を猛プッシュしたものの、景勝がガンとして承知しなかったと言われていますが、結局は、この後の9月9日に兼続が東北を制覇すべく出陣する(9月9日参照>>)のも、それは、他の武将と同様の「このドサクサで一発かましたれ!」の合戦であって、「密約」とまではいかない感じに見受けられます。

と言っても、今回の書状が現存する事でも明らかなように、頻繁に連絡をとっていた事は確かですが・・・

ただ、それは家康側も同じ・・・というより、この頃の家康が江戸城に籠って、味方になってくれそうな武将に、せっせと手紙を書きまくっていた(8月11日参照>>)のは有名な話で、だからこそ、家康の西へのUターンをキッカケに、あっちでもこっちでも動き始めるのですから・・・

とは言え、今回、この三成の書状を受け取った昌幸は、信濃周辺を制圧すべく・・・というよりも、結局、この後は居城の上田城(うえだじょう=長野県上田市二の丸)に籠って、徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)の軍を迎え撃つ事になります(2009年9月7日参照>>)

ただし、これはこれで、おそらくは関ヶ原における東軍の本隊であったであろう秀忠軍=約3万8000の軍勢を翻弄して、8日間に渡る足止めを喰らわせ、結局は「本番の関ヶ原に間に合わない」という状況を作り出した(2011年9月7日参照>>)わけで、まさに、真田昌幸ここにあり!の見事な籠城戦でしたね。

まもなく、大河ドラマ『真田丸』は、このあたりの事が描かれるのでしょうが、おそらく、この第2次上田合戦が、ドラマ中盤戦の最大の山場になる事は間違いないでしょう・・・楽しみです(○゚ε゚○)
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