信長と近江一向一揆~金ヶ森の戦い
元亀二年(1571年)9月3日、織田信長が安土常楽寺に進み、六角氏の旧臣と川那辺秀政が指揮する一向一揆勢を撃破しました。
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琵琶湖の南東岸・・・現在の滋賀県守山市にある金森(かねがもり=金ヶ森)に浄土真宗が伝わったのは13世紀頃と言われます。
その後、室町時代頃からは、当時、この金森を支配していた川那辺(かわなべ)氏が、浄土真宗ドップリになってくれた事で道場ができ、その道場を中心に寺町が形成されて行く中、本願寺第七世の存如(ぞんにょ)が住職を勤めるようになる永享八年(1436年)頃には、町の周囲を土居や壕で囲むという、まさに鉄壁の環濠集落(かんごうしゅうらく)となって発展していったのです。
(環濠集落については以前の【奈良県今井町】のページを参照>>)
なんせ、この頃は、自分たちの事は自分たちで守らねばならない時代・・・お寺同志のモメ事で死者が出て、武装した幕府の兵士が出馬するなんて事もあった時代(6月24日参照>>)ですから、寺を中心として形成された町は、自らの手で守りを固めなければならなかったのです。
そんな中、本家本元の本願寺で事件が起こります。
寛正六年(1465年)、浄土真宗を一大勢力に押し上げて、後に「中興の祖」呼ばれる事になる第八世・蓮如(れんにょ=存如の息子)(3月25日参照>>)が、比叡山延暦寺からの弾圧を受けて、京都の大谷廟堂(おおたにびょうどう)を襲撃され、京都を追われたのです。
その時、蓮如が真っ先に頼ったのが、ここ金森でした。
なんせ、当時、この金森を支配していた川那辺矩厚(かわなべつねあつ)は蓮如の愛弟子ですから・・・
もちろん、延暦寺がそれを許すわけはなく、大谷退去から2ヶ月後には、延暦寺の僧兵が、ここ金森にまで攻めて来て、矩厚以下、結集した門徒たちと激しい戦闘を繰り広げました。
この比叡山による弾圧の事を「寛正の法難」と呼び、この時の金森での抗戦が日本初の一向一揆とも言われます。
そして、ご存じのように、この後、畿内を転々とした蓮如が、やがて北陸へと向かい、越前(福井県)の吉崎に落ち着いてから、あの加賀一向一揆という一大勢力へとなって行くのですが・・・
●【最初の加賀一向一揆~文明一揆】>>
●【本願寺蓮如の吉崎退去と下間蓮崇】>>
●【長享一揆~高尾城の戦い】>>
とは言え、結局は、一揆のあまりの激しさに耐えかねた蓮如は、吉崎を退去し、一旦、河内出口(でぐち=大阪府枚方市の光善寺)に居を構えた後、3年後の文明十年(1478年)には、壮大な伽藍の山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を完成させて、念願の京都へと戻り、その後、本願寺を五男の第九世・実如(じつにょ)に譲った明応五年(1496年)には、大坂石山(いしやま=大阪市中央区)に自らの隠居所として建てた石山御坊(後の石山本願寺)で余生を送りました。
そして、時には対立する武将と衝突しながら、時には援助してくれる武将と同盟を結びながら、どんどん大きくなっていく・・・やがて第1十世・証如(しょうにょ=実如の孫)の頃には、「戦って討死した者は極楽浄土に行ける!」というような考えのもと、「進めば極楽、退けば地獄」のスローガンを掲げて、さらに一揆勢力を拡大し、各地に巨大な信徒の都を造りあげて行きつつ本拠を石山に移し、いよいよ、時は教団最盛期の第十一世・顕如(けんにょ=証如の長男)の時代に・・・
そこに立ちはだかったのが、ご存じ織田信長(おだのぶなが)・・・
とは言っても、本願寺と信長の関係も、最初は、さほど悪い物ではありませんでした。
しかし、永禄十一年(1568年)9月、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を試みる(9月7日参照>>)信長は、その行く手を阻む六角承禎(じょうてい・義賢)を観音寺城の戦い(9月12日参照>>)で蹴散らして、続く三好三人衆をもち果たし(9月29日参照>>)、またたく間に畿内を制圧・・・
ちなみに、この時の信長は、同じく上洛の際の通り道に当たる北近江(きたおうみ=滋賀県北部)を支配している小谷城(おだにじょう=滋賀県東浅井郡湖北町)の浅井長政(あざいながまさ)にも「通らしてネ」の挨拶に行っていて、コチラは領内通過をOKしています(妹=お市っちゃんの旦那やしね)(6月28日の前半部分参照>>)
こうして、制圧が完了すると、次は矢銭(やせん=軍資金)の徴収・・・これは、(新しくやって来た)統治者に対して「反抗する意思はありませんよ」って事を示す意味もあるわけですが、この時の顕如はあっさりと大金を支払っています。
とは言え、間もなく、ともに上洛した義昭と信長の関係がギクシャクし始めると(1月23日参照>>)、義昭は、かつてお世話になった越前(えちぜん=福井県)の朝倉義景(よしかげ)(9月24日参照>>)をはじめとする各地の武将に打倒・信長を呼びかけはじめるのです。
と、「これはチャンス!」とばかりに、信長の上洛で追放されていた三好三人衆も動きはじめる・・・
そんなこんなの元亀元年(1570年)、信長は、顕如に対して、石山本願寺の明け渡しを要求して来ます。
そう、実は、この石山本願寺が建っていた場所は、大阪湾と大和川と淀川を臨む上町台地で、摂津(大阪府北部)・播磨(兵庫県)・河内(大阪府南部)と接している交通の要所・・・この先、畿内から西へと勢力を延ばしたい信長にとっては、この場所はベストポイントだったんです。
なんせ、そこは、後に、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大坂城を建てちゃう、その場所ですから・・・
とは言え、これには、さすがの顕如も、
「ハイ、そうですか」
と、おとなしく退去するはずもなく・・・いや、逆に、ここで全面対決を決意するのです。
各地の信徒に向かって「打倒!信長」の檄文を発して蜂起を呼び掛け、自ら甲冑を身につけて、すでに、この8月26日から始まっていた信長VS三好三人衆の野田福島の戦い(8月26日参照>>)に参戦するのです(9月12日参照>>)。
これが、約10年に渡る石山合戦と呼ばれる戦いの始まり・・・
もちろん、今回の金森をはじめとする近江の信徒たちも、この顕如の呼び掛けに応じ、かの、信長上洛の際に本拠を追われていた六角氏の残党と手を結んだ近江一向一揆として周辺の各地を暴れ回り、信長への抵抗を繰り広げていくのです。
一方の信長は、去る6月の姉川の戦い(6月28日参照>>)で深追いしなかった浅井&朝倉勢に宇佐山(うさやま=滋賀県大津市)を攻められて(9月20日参照>>)重臣の森可成(もりよしなり)を失いつつも、堅田の戦い真っ最中の12月、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が発せられて、一旦は和睦する事になります(11月26日参照>>)。
しかし、開けて元亀二年(1571年)の2月、配下の秀吉の策略によって佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を奪取して丹羽長秀(にわながひで)に守らせた(2月24日参照>>)信長の行動を皮切りに、それを見過ごせない浅井長政が、5月6日に、秀吉の守る横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を攻めた事で、約半年の和睦期間は終了して戦闘再開・・・
信長自身は、5月12日、すでに蜂起していた長浜一向一揆(5月16日参照>>)に対抗して津島(つしま=愛知県津島市)まで出陣しつつも、その2ヶ月後の8月18日には、いよいよ北近江へと出馬するのです。
横山城を拠点に、8月26日には小谷と山本山(やまもとやま=同東浅井郡~伊香郡付近)の中間あたりまで進出して余呉(よご=伊香郡余呉町)や木之本(きのもと=伊香郡木之本町)付近に放火・・・そこから北側の浅井勢と南側の一揆勢とを分断します。
続く8月28日に佐和山城へと進んだ信長は、佐久間信盛(さくまのぶもり)、中川重政(なかがわしげまさ)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀らに志村(しむら)と小川(おがわ)の城(ともに滋賀県東近江市)を攻めるよう命じ、そこに潜む六角の残党と近江一揆勢の討伐を決行します。
まずは志村城に四方から攻め寄せて乱入し、またたく間に600ほどの首級を挙げますが、その勢いに驚いた城主の志村資則(しむらすけのり)は、ほどなく降伏開城・・・すると、その様子を知った小川城の小川孫一郎も人質を差し出して降伏し、まもなく勝敗は決しました。
この戦いを志村攻め、または垣見(かきみ)の戦いと言います。
こうして志村・小川の両城を追われた六角の残党と近江一揆勢は、次に金ヶ森城(かねがもりじょう=滋賀県守山市)の川那部秀政(かわなべひでまさ)を頼って、信長に対抗しようとします。
かくして元亀二年(1571年)9月3日、安土常楽寺(じょうらくじ=近江八幡市安土町)に布陣した信長が、一揆勢が立て籠もる金ヶ森城を攻撃したのです。
実は1週間ほど前の8月25日の時点で、先駆けとして、すでに佐久間信盛が金ヶ森に攻撃を仕掛けていたのですが、今回は、信長の出陣を待って、中川・柴田・丹羽らの大軍とともに再度の攻撃でした。
軍勢は、城への攻撃を仕掛けるとともに、付近の田の稲穂をすべて刈り取り、鹿垣(ししがき)を構築して城の四方を囲み、外部へと通じる出入口を、ネズミ一匹逃さぬよう固めて、外部との接触を一切遮断しました。
この徹底した攻めに戦意を焼失した川那辺秀政は、まもなく、人質を差し出して降伏したのでした。
こうして琵琶湖南東を鎮圧した信長は、すぐさま大津へと向かい、この、わずか9日後に有名な比叡山焼き討ちを決行します。
なんちゅー忙しさやねん!信長はん┐( ̄ヘ ̄)┌
ところで、ここですんなりと降伏&開城した事で、信長からは許されて命助かった川那辺秀政さん・・・
ところが、本願寺からは許してもらえず・・・おそらくは、その責任からか?この3ヶ月後の12月、本願寺の命令によって自害させられてしまうのです(12月9日参照>>)。
ある意味、
魔王信長よりペナルティ厳しい戦国本願寺ww・・・
そんな時代背景も踏まえて、この後の比叡山焼き討ちの一件を見てみると、また違った見方ができるかも知れません。
【信長の比叡山焼き討ち】>>
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】>>
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コメント
高校時代、金森を毎日抜けて通学していました。その道が志那街道とよばれていたのを知る
金森が寺内町とは知らず、クラブの帰りに川那辺酒店で夏も冬もアイスクリームを食べていた!
今、改めて、実家に帰ればじっくりと訪ねてみます!
灯台下暗し(^^)
投稿: ひろし | 2016年9月18日 (日) 22時47分
ひろしさん、こんばんは~
>灯台下暗し(^^)
ホントそうですね。
私も、大人になってから、「そんな歴史があったんだ!」って気づく事山の如しです。
知ってから、その場所へ行くと、心地よい風が吹いてきます(゚▽゚*)
投稿: 茶々 | 2016年9月19日 (月) 02時36分