関ヶ原余波~細川忠興VS小野木重次の福知山城攻防戦
慶長五年(1600年)9月27日、関ヶ原での合戦に勝利した東軍の細川忠興が、西軍に属する小野木重次の籠る福知山城を攻撃しました。
・・・・・・・
ご存じの関ヶ原・・・
豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した豊臣家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として主導権を握る徳川家康(とくがわいえやす)に不満を抱いた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)が、会津征伐(4月14日参照>>)と称して東北に向かった事で家康が留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を攻撃した(8月1日参照>>)事を皮切りに、東西に分かれて戦う事になった世紀の大合戦ですが、
これまでも度々登場していますように、慶長五年(1600年)9月15日の本チャンの関ヶ原だけでなく、その前後には様々な合戦があったわけで・・・
(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)
その中の一つが、7月21日~9月13日まで行われた田辺城攻防戦(7月21日参照>>)でした。
この田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)は、当時、丹後(たんご=京都府北部)の支配を任されていた細川忠興(ほそかわただおき)の城でしたが、その忠興は、家康が会津に挙兵した当初からベッタリと行動を共にしており、しかも、その奥さんである玉子(たまこ=ガラシャ)は、三成の要請である大坂城への入城を拒否して自害する(7月17日参照>>)という命がけの行動を示す東軍所属・・・
で、そこを攻撃したのが、西軍所属の小野木重次(おのぎしげつぐ=重勝・公郷とも)を大将とした前田茂勝(まえだ しげかつ=前田玄以の三男)、織田信包(おだのぶかね=信長の弟)らの面々だったわけですが、その経緯は上記の【7月21日:田辺城攻防戦】のページ>>で見ていただくとして・・・
とにもかくにも、急きょ息子の留守を預かって田辺城に入った忠興の父=細川幽斎(ゆうさい・藤孝)は、攻撃開始から2ヶ月近く持ちこたえた後、時の後陽成(ごようぜい)天皇や公家たちの関与にて、9月13日に開城する事になりますが・・・
そう、その2日後の関ヶ原本チャンが、わずか半日で東軍の大勝利(2008年9月15日参照>>)となってしまったわけで・・・
この状況に不満プンプンなのは、息子=忠興・・・あと2~3日、あと2~3日開城を遅らせておけば、関ヶ原での結果を知った西軍が勝手に兵を退いてくれて、田辺城は「勝った城」の名誉を受けるはずだったわけで・・・
「なんで、もうちょっと頑張ってくれへんかってん!あのクソオヤジ(*`∧´)」と・・・
なんせ、「開城=負け」なわけで、この時、同じく籠城して、関ヶ原当日の15日未明に開城した大津城(おおつじょう=滋賀県大津市)の京極高次(きょうごくたかつく)(9月20日参照>>)なんかは、一旦は死を覚悟して高野山へと向かったくらいですから・・・
ただ、一方の父=幽斎も息子に言いたい事が・・・
それは、忠興が会津征伐に出陣した時、丹波(たんば=京都府中央部と兵庫県北東部)路と若狭(わかさ=福井県南部)路を経由して近江(おうみ=滋賀県)へと出ようとしたところ、その先に、西軍として参戦した大谷吉継(おおたによしつぐ)が関所を設けている(7月14日参照>>)と聞き、その真偽を確かめないまま、大きく迂回し、伏見を経由して向かった事に
「お前はビビリか!」と・・・
とは言え、そこは父子・・・開城した事で、前田の居城である亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)にて謹慎状態にある父を取り戻すべく、忠興は家康から、亀山城以下、田辺城攻撃に参戦した西軍諸将の城攻めの許可を得て出発するのです。
こうして、亀山城を攻撃する気満々で向かった忠興でしたが、いざ、到着して幽斎の面会が叶うと、その幽斎から、
「前田家は、表面上は大坂方につくと見せかけておいて、実は、とっくの昔に内通してたんや」
と聞かされます。
しかも、茂勝は現地での和睦交渉にもかなり尽力してくれたらしく、幽斎自身が
「大変世話になった」
と言っている・・・そのうえ、茂勝は、
「その本心を証明するためにも、福知山城攻めの先鋒(せんぽう)を勤めたい!」
と、自ら志願・・・
という事で、忠興は亀山城への攻撃を中止して、すぐさま茂勝を先鋒に、小野木重次の福知山城を攻撃すべく、軍勢を丹波方面へと向けたのです。
途中、丹波山家(やまが=京都府福知山市&綾部市の一部)の谷衛友(たにもりとも)、丹波上林(かんばやし=同綾部市)の藤掛永勝(ふじかけながかつ)、丹波何鹿郡(いかるがぐん)内に所領を持つ川勝秀氏(かわかつひでうじ)ら丹波の三将が、国境にて忠興勢をを出迎え、福知山城攻めの軍に加わります。
実は、彼らも、かの田辺城攻撃に加わってはいたのですが、昔から幽斎と親しい関係にあった事から、積極的に攻撃には参加しておらず、戦うフリだけしていた事を、家政婦が…いや、幽斎の奥さんが見て記録していたらしく、その事を幽斎から聞いていた忠興は、すんなりと彼らを許したとの事・・・
一方、かの田辺城攻防戦を終えて福知山へと戻っていた小野木重次・・・近江長浜(ながはま=滋賀県長浜市)時代から苦楽をともにして来た3歳年上の三成に、親しみと恩義を感じていた彼は、降伏をヨシとせず、約500の城兵とともに籠城しての徹底抗戦を決意していました。
幾度となく行われた降伏勧告にも応じる気配が無かった事を受けて、福知山の城下町を見下ろす長田野(おさだの=福知山市長田野町)付近にて全軍の指揮を取る忠興は、、谷・藤掛・川勝を先陣に据えて、一気に城下へと押し寄せさせ、本隊と前田茂勝隊は山の手へと回らせて、こちらからも総攻撃を仕掛けます。
しかし、福知山城は三方を崖に囲まれた天然の要害であるうえに、城兵の奮戦ぶりもなかなかの物で容易に落とせそうになく、長期戦を決意する忠興でしたが、そんな時、「三成、捕縛」(9月21日参照>>)のニュースが飛び込んで来たため、忠興は一旦、由良川(ゆらがわ)を下って自らの田辺城に入った後、家康のいる大津城へと向かいました。
由良川と福知山城…福知山城とその周辺の史跡については本家HP『明智光秀の足跡を訪ねて城下町・福知山を歩く』でどうぞ>>
大津で家康に謁見した後、挨拶もそこそこに、再び舞い戻った慶長五年(1600年)9月27日、再び、福知山城への攻撃を開始するのですが、なんと、この攻防戦、2ヶ月以上も続きます。
『田辺旧記』によれば・・・
この時、力攻めを望んでいなかった家康が、「すぐに開城するなら処分は剃髪のみにして助命する」事を条件に開城させるようにと、山岡道阿弥(やまおかどうあみ=山岡景友)なる僧を使者として忠興のもとへ派遣して説得したところ、さすがに2ヶ月も続いた籠城戦にて、城内の兵糧も尽き、兵士も飢えに苦しむ状態となっていた事から、重次も降伏開城を決意して城を退去したとの事・・・
ところが、どうしても重次を許せない忠興は、見事な約束破りで、家臣に重次の後を追跡させて捕縛し、亀山城へと連れ戻しで、自らの目の前で切腹させたのだとか・・・
一方、『佐々木旧記』によれば・・・
2ヶ月間戦い抜いて、その間、敵を一兵たりとも寄せ付けなかった福知山城の城兵たちでしたが、さすがの長期戦に疲労困憊となっていたところを、細川方の数人の兵が闇にまぎれて城内へ忍び込み、内側から大手門を開けると同時に、一斉に兵がなだれ込んでいく中、天守閣にて、家老の寺田舎人なる人物が、
「我こそは小野木縫殿助(ぬいのすけ=重次の事)なり~!」
と名乗って、
「アホ!ボケ!カス!」
と、散々に細川家の悪口を言った後に壮絶な切腹を遂げて細川軍の注意を惹いている間に、重次が城を抜け出して、亀山城下の浄土寺(じょうどじ=寿仙院)に入って、自ら剃髪したものの、それだけで許さぬ忠興が、そこで切腹させた、と・・・
って、結局、どっちも切腹させるんか~い!( ̄○ ̄;)!
ウワサ通りコワイ忠興さん・・・
その後、重次の首は、京都の三条河原に晒されたのだとか・・・
関ヶ原に散った猛将=島左近(しまさこん=清興)(2009年9月15日参照>>)の娘とされる重次の奥さん=シメオン(洗礼名)は、夫の死を聞き、間もなく、その後を追ったと言います。
そして、ご存じのように、関ヶ原の余波は、もうしばらく続く事になります。
●【関ヶ原の戦いの年表】>>)
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