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2016年9月27日 (火)

関ヶ原余波~細川忠興VS小野木重次の福知山城攻防戦

 

慶長五年(1600年)9月27日、関ヶ原での合戦に勝利した東軍の細川忠興が、西軍に属する小野木重次の籠る福知山城を攻撃しました。

・・・・・・・

ご存じの関ヶ原・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した豊臣家臣団の亀(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として主導権を握る徳川家康(とくがわいえやす)に不満を抱いた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)が、会津征伐(4月14日参照>>)と称して東北に向かった事で家康が留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を攻撃した(8月1日参照>>)事を皮切りに、東西に分かれて戦う事になった世紀の大合戦ですが、

これまでも度々登場していますように、慶長五年(1600年)9月15日の本チャンの関ヶ原だけでなく、その前後には様々な合戦があったわけで・・・
(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)

その中の一つが、7月21日~9月13日まで行われた田辺城攻防戦(7月21日参照>>)でした。

この田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)は、当時、丹後(たんご=京都府北部)の支配を任されていた細川忠興(ほそかわただおき)の城でしたが、その忠興は、家康が会津に挙兵した当初からベッタリと行動を共にしており、しかも、その奥さんである玉子(たまこ=ガラシャ)は、三成の要請である大坂城への入城を拒否して自害する(7月17日参照>>)という命がけの行動を示す東軍所属・・・

で、そこを攻撃したのが、西軍所属小野木重次(おのぎしげつぐ=重勝・公郷とも)を大将とした前田茂勝(まえだ しげかつ=前田玄以の三男)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)らの面々だったわけですが、その経緯は上記の【7月21日:田辺城攻防戦】のページ>>で見ていただくとして・・・

とにもかくにも、急きょ息子の留守を預かって田辺城に入った忠興の父=細川幽斎(ゆうさい・藤孝は、攻撃開始から2ヶ月近く持ちこたえた後、時の後陽成(ごようぜい)天皇や公家たちの関与にて、9月13日に開城する事になりますが・・・

そう、その2日後の関ヶ原本チャンが、わずか半日で東軍の大勝利(2008年9月15日参照>>)となってしまったわけで・・・

この状況に不満プンプンなのは、息子=忠興・・・あと2~3日、あと2~3日開城を遅らせておけば、関ヶ原での結果を知った西軍が勝手に兵を退いてくれて、田辺城は「勝った城」の名誉を受けるはずだったわけで・・・
「なんで、もうちょっと頑張ってくれへんかってん!あのクソオヤジ(*`∧´)」と・・・

なんせ、「開城=負け」なわけで、この時、同じく籠城して、関ヶ原当日の15日未明に開城した大津城(おおつじょう=滋賀県大津市)京極高次(きょうごくたかつく)(9月20日参照>>)なんかは、一旦は死を覚悟して高野山へと向かったくらいですから・・・

ただ、一方の父=幽斎も息子に言いたい事が・・・

それは、忠興が会津征伐に出陣した時、丹波(たんば=京都府中央部と兵庫県北東部)若狭(わかさ=福井県南部)を経由して近江(おうみ=滋賀県)へと出ようとしたところ、その先に、西軍として参戦した大谷吉継(おおたによしつぐ)が関所を設けている(7月14日参照>>)と聞き、その真偽を確かめないまま、大きく迂回し、伏見を経由して向かった事に
「お前はビビリか!」と・・・

とは言え、そこは父子・・・開城した事で、前田の居城である亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)にて謹慎状態にある父を取り戻すべく、忠興は家康から、亀山城以下、田辺城攻撃に参戦した西軍諸将の城攻めの許可を得て出発するのです。

こうして、亀山城を攻撃する気満々で向かった忠興でしたが、いざ、到着して幽斎の面会が叶うと、その幽斎から、
「前田家は、表面上は大坂方につくと見せかけておいて、実は、とっくの昔に内通してたんや」
と聞かされます。

しかも、茂勝は現地での和睦交渉にもかなり尽力してくれたらしく、幽斎自身が
「大変世話になった」
と言っている・・・そのうえ、茂勝は、
「その本心を証明するためにも、福知山城攻めの先鋒(せんぽう)を勤めたい!」
と、自ら志願・・・

という事で、忠興は亀山城への攻撃を中止して、すぐさま茂勝を先鋒に、小野木重次の福知山城を攻撃すべく、軍勢を丹波方面へと向けたのです。

途中、丹波山家(やまが=京都府福知山市&綾部市の一部)谷衛友(たにもりとも)丹波上林(かんばやし=同綾部市)藤掛永勝(ふじかけながかつ)丹波何鹿郡(いかるがぐん)内に所領を持つ川勝秀氏(かわかつひでうじ)丹波の三将が、国境にて忠興勢をを出迎え、福知山城攻めの軍に加わります。

実は、彼らも、かの田辺城攻撃に加わってはいたのですが、昔から幽斎と親しい関係にあった事から、積極的に攻撃には参加しておらず、戦うフリだけしていた事を、家政婦が…いや、幽斎の奥さんが見て記録していたらしく、その事を幽斎から聞いていた忠興は、すんなりと彼らを許したとの事・・・

一方、かの田辺城攻防戦を終えて福知山へと戻っていた小野木重次・・・近江長浜(ながはま=滋賀県長浜市)時代から苦楽をともにして来た3歳年上の三成に、親しみと恩義を感じていた彼は、降伏をヨシとせず、約500の城兵とともに籠城しての徹底抗戦を決意していました。

幾度となく行われた降伏勧告にも応じる気配が無かった事を受けて、福知山の城下町を見下ろす長田野(おさだの=福知山市長田野町)付近にて全軍の指揮を取る忠興は、、谷・藤掛・川勝を先陣に据えて、一気に城下へと押し寄せさせ、本隊と前田茂勝隊は山の手へと回らせて、こちらからも総攻撃を仕掛けます。

しかし、福知山城は三方を崖に囲まれた天然の要害であるうえに、城兵の奮戦ぶりもなかなかの物で容易に落とせそうになく、長期戦を決意する忠興でしたが、そんな時、「三成、捕縛」(9月21日参照>>)のニュースが飛び込んで来たため、忠興は一旦、由良川(ゆらがわ)を下って自らの田辺城に入った後、家康のいる大津城へと向かいました。

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由良川と福知山城…福知山城とその周辺の史跡については本家HP『明智光秀の足跡を訪ねて城下町・福知山を歩く』でどうぞ>>

大津で家康に謁見した後、挨拶もそこそこに、再び舞い戻った慶長五年(1600年)9月27日、再び、福知山城への攻撃を開始するのですが、なんと、この攻防戦、2ヶ月以上も続きます。

『田辺旧記』によれば・・・
この時、力攻めを望んでいなかった家康が、すぐに開城するなら処分は剃髪のみにして助命する」事を条件に開城させるようにと、山岡道阿弥(やまおかどうあみ=山岡景友)なる僧を使者として忠興のもとへ派遣して説得したところ、さすがに2ヶ月も続いた籠城戦にて、城内の兵糧も尽き、兵士も飢えに苦しむ状態となっていた事から、重次も降伏開城を決意して城を退去したとの事・・・

ところが、どうしても重次を許せない忠興は、見事な約束破りで、家臣に重次の後を追跡させて捕縛し、亀山城へと連れ戻しで、自らの目の前で切腹させたのだとか・・・

一方、『佐々木旧記』によれば・・・
2ヶ月間戦い抜いて、その間、敵を一兵たりとも寄せ付けなかった福知山城の城兵たちでしたが、さすがの長期戦に疲労困憊となっていたところを、細川方の数人の兵が闇にまぎれて城内へ忍び込み、内側から大手門を開けると同時に、一斉に兵がなだれ込んでいく中、天守閣にて、家老の寺田舎人なる人物が、
「我こそは小野木縫殿助(ぬいのすけ=重次の事)なり~!」
と名乗って、
「アホ!ボケ!カス!」
と、散々に細川家の悪口を言った後に壮絶な切腹を遂げて細川軍の注意を惹いている間に、重次が城を抜け出して、亀山城下の浄土寺(じょうどじ=寿仙院)に入って、自ら剃髪したものの、それだけで許さぬ忠興が、そこで切腹させた、と・・・

って、結局、どっちも切腹させるんか~い!( ̄○ ̄;)!
ウワサ通りコワイ忠興さん・・・

その後、重次の首は、京都の三条河原に晒されたのだとか・・・

関ヶ原に散った猛将=島左近(しまさこん=清興)(2009年9月15日参照>>)の娘とされる重次の奥さん=シメオン(洗礼名)は、夫の死を聞き、間もなく、その後を追ったと言います。

そして、ご存じのように、関ヶ原の余波は、もうしばらく続く事になります。
●【関ヶ原の戦いの年表】>>)
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2016年9月21日 (水)

筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い

 

永正元年(1504年)9月21日、井戸城を攻められた大和の筒井順賢らが、古市で古市澄胤父子と戦いました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じのように、大和(やまと=奈良県)の国は、戦国の終盤こそ、六角承禎(じょうてい・義賢)(9月12日参照>>)三好三人衆(9月28日参照>>)を蹴散らして上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)によって少し落ち着き(3月28日:【蘭奢待・削り取り事件】参照>>)、後に反旗をひるがえした松永久秀(まつながひさひで)(10月3日参照>>)が攻められた後に信長の傘下となった筒井順慶(つついじゅんけい)(4月22日参照>>)が治める事になって、やっとこさ平定された感が出て来ますが、それまでは、土地に根付いた地侍や国人・土豪(どごう)などが、時には入り乱れ、時は団結して・・・を繰り返していた場所でした。

そうなった原因の一つは、室町幕府政権下の三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)の一つで、この大和の守護だった畠山氏・・・この畠山氏が内部抗争の末に、あの応仁の乱畠山政長(東軍)VS畠山義就(よしなり・西軍)に分かれ、その大乱の口火を切る御霊合戦(1月17日参照>>)をおっぱじめた事で、畠山氏の配下として働いてした大和の国人衆らは、どちらにつくのか?でお互いをけん制し合う混乱状態となっていたわけです。

京都での戦いが地方へと伝わっていく中、やがて応仁の乱も、東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)と西軍大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(3月18日参照>>)両巨頭の死を以って終焉の色濃くなり、なんとなくの世代交代を迎える中での大和の国人の代表格は、畠山尚順(ひさのぶ・ ひさより=政長の息子)筒井順賢(つついじゅんけん)十市遠治(とおち・とおいちとおはる)、一方の畠山義豊(よしとよ=義就の息子)越智家栄(おちいえひで)古市澄胤(ふるいちちょういん)といった面々となってきました。

とは言え、やはり、ここに来ても、それぞれの派閥による小競り合いが続いていたのですが、そんな中で、大和から、そう遠く離れていない山城(やましろ=京都府南部)の地で起こった山城の国一揆(12月11日参照>>)を、明応二年(1493年)に鎮圧した事から、大和の約半分を支配するほどに大出世した澄胤は、華麗な古市城(ふるいちじょう=奈良市古市町)を築き、大和の国人衆の中でも一歩前へ出た雰囲気・・・(12月18日参照>>)

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奈良市古市町付近…古市城は現在の奈良市立東市小学校の位置にあったとか

そんな澄胤は、茶の湯村田珠光(むらたじゅこう=「わび茶」の創始者)に習い、謡曲尺八にも優れ、連歌もたしなみ、銘石(めいせき)の鑑定などもこなす文化人だったようで、古市城内には、茶室や見事な庭園などを設えて、度々茶会などを開いており、多くの文化人が集う古市城は、文化サロン的な要素を持った城だったとの事・・・

そんなこんなの永正元年(1504年)9月21日澄胤は、井戸氏の重要拠点である井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を攻めたのです。

この井戸氏は、後に、井戸茶碗(いどちゃわん=韓国李朝時代に作られた高麗茶碗)にその名を残す井戸覚弘(いどさとひろ)から、江戸時代を通じて旗本として生き残った事で、その家譜(かふ)では、藤原式家の流れを汲む藤原忠文(ふじわらのただぶみ)の末裔という事になってますが、どうやら実際には、もともとから大和に根づいていた土豪で、その時々に有力武将や有力国人を渡り歩きながら、しだいに力をつけて来ていた大和国人衆の一員であったようなのですが・・・

Idozyoufuruitizyou660 ★位置関係図→
(背景の地図は地理院地図>>からお借りしました)

そう・・・この頃の井戸氏は筒井氏の配下となっていて、まさに、この日は、筒井順賢の弟である筒井順興(じゅんこう)が、この井戸城に詰めていて、それを狙っての攻撃だったのです。
(ちなみに、この順興さんは筒井順慶のお祖父ちゃんです)

この日、平尾山と呼ばれる小さな山の頂上に築かれた井戸城を一気に攻め落とすべく押し寄せた古市の軍勢でしたが、必死に防ぐ筒井&井戸勢の守りは固く、なかなか落ちないばかりか、夕刻になって、逆に城から撃って出て来た筒井勢によって、古市勢は、あっけなく押し戻されてしまいます。

しかも、その勢いのまま押され続けた古市勢は、やがて一ヶ所が崩れ始めると、その乱れがどんどん広がり、結局、古市の兵たちは我先に敗走してしまうのですが、勢い止まらぬ筒井勢は、そのまま追尾し、澄胤が逃げ戻った古市城を攻め立てました。

しばらくの間、何とか抗戦を続けていた澄胤でしたが、その勢いに圧倒され、やむなく城を捨てて敗走・・・古市城は、筒井勢の手に落ちました。

さらに、勢い収まらぬ筒井勢は、古市の砦や統治する山村など、周辺を容赦なく焼き払ったと言います。

ちなみに、今回の戦いでは生き残った澄胤でしたが、この4年後の永正五年(1508年)に起こった河内高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)攻めに失敗して自害する事となります。

この次ぎに井戸城が戦場となるのは、永禄三年(1560年)7月の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)との戦いの時(7月24日参照>>)・・・

さらに信長の力によって、この地が穏やかになるのは、まだ先(11月18日【筒井城攻防戦】参照>>)・・・もうしばらくの間、奈良の乱世は続く事となります。
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2016年9月15日 (木)

厳島の前哨戦~毛利元就の折敷畑の戦い

 

天文二十三年(1554年)9月15日、厳島の戦いの前哨戦の一つである折敷畑の戦いで毛利元就が宮川房長を破りました。(6月5日とも)

・・・・・・・・・・・

周防(すおう=山口県)大内(おおうち)出雲(いずも=島根県)尼子(あまこ)という二大勢力が、中国地方の覇権を争ってしのぎを削っていた中、永正十四年(1517年)の有田城外の戦い(中井手の戦いとも)安芸(あき=広島県)守護武田氏を破って(10月22日参照>>)初陣を飾った毛利元就(もうりもとなり)も、未だ地方の一国人に過ぎず、大大名の庇護無くしては生き残って行けなかったわけですが、そんな中で元就は、それまでの尼子氏から離れ(1月13日参照>>)、天文十年(1541年)、大内氏の傘下となります。

Mourimotonari600 しかし天文二十年(1551年)、その大内氏内で、重臣の陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)が、大内氏当主の大内義隆(よしたか)を自刃に追い込んで、自らの思い通りになる大友義長(よしなが=義隆の甥・晴英)を当主に据えて事実上実権を握ってしまった(8月27日参照>>)事をキッカケに、当時は毛利と同じような立場にあった(5月27日参照>>)石見(いわみ・島根県)の国人領主・吉見正頼(よしみまさより)晴賢に反旗をひるがえしたのです。

そのために、正頼と晴賢の両者から援軍要請を受ける事になった元就は、両者の動向とタイミングを見計らいながら、天文二十三年(1554年)5月12日、正頼に付き、晴賢に敵対する事を表明するが早いか、わずか数日の間に銀山城(かなやまじょう=広島市安佐南区)草津城(くさつじょう=広島市西区)など、安芸南西部の諸城を陥落させて、さらに、厳島(いつくしま・宮島=広島県廿日市市も制圧したのです。

この一連の行動に晴賢は怒り心頭・・・なんせ、すでに正頼の反旗から約3年ほど経っていますから、この間、なんだかんだで自身の立位置をハッキリさせずにいたものの、「意思表明しない」=「敵方に回る事は無い」と、イイ感じで元就を信じていた晴賢でしたから・・・

しかし元就は、厳島を占領しただけでは飽き足らず、配下の水軍を駆使して周防へと侵入し、晴賢の居城である若山城(わかやまじょう=山口県周南市)の近くにまで姿を見せて、ヤル気満々っぷりを見せつけました。

「もはや一刻の猶予もならん!毛利やったる!」
と晴賢が決意をするナイスなタイミングで・・・

この間にも居城の津和野城(つわのじょう=島根県鹿足郡)を攻められ、籠城戦を継続中だった正頼が、ここに来て蓄えていた兵糧も尽きたために耐えきれず、息子を人質に差し出して晴賢に降伏して来たのです。

晴賢は、早々に和睦を成立させ・・・これで元就に集中できます。

早速、配下の宮川房長(ふさなが)約3000の兵をつけて安芸へと派遣・・・途中に加わった兵も入れて合計=約7000となった宮川勢は、天文二十三年(1554年)9月15日、元就が本陣を置いていた桜尾城(さくらおじょう=広島県廿日市市)を見下ろす位置にある折敷畑山(おしきばたやま=同廿日市市)に布陣したのです。

これを受けて、元就は、すかさず本陣にて軍議を開きます。

「籠城作戦」を主張する武将が多い中、元就は、即時開戦=撃って出る作戦を主張しました。

なんたって、相手は大内を牛耳っている晴賢・・・その大内氏は広域の領地を保有する大大名で、なんなら、今いる、この場所だって大内の勢力圏内なわけで、

ウダウダと籠城して戦っても、どんどん新手は繰り出されるでしょうし、そんなこんなやってるうちに、せっかく陥落させた諸城が、またもや大内の物になってしまうかも知れないわけで、ここは一つ、奇襲作戦で一気にカタをつけようと・・・

こうして毛利軍は一斉に出撃するわけですが、「さぁ!行こう」となったその時、厳島神社の神主=佐伯房顕(さえきふさあき)からの使者が到着し、
(神主が)陶との合戦は毛利が勝利するという霊夢を見ました!」との報告・・・

まぁ、これは、兵士の士気を高めるための、元就の作戦・・・あの桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市)の時の織田信長(おだのぶなが)もやってるので、戦国武将の常とう手段だったんでしょうね。

・・・で、先の軍議での作戦通り・・・
まずは、
小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)が水軍を率いて海岸沿いを行き、回り込んで上陸して西側から吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)は陸路で東側から折敷畑山に迫り、それぞれが側面から敵を突きます。

続く、宍戸隆家(ししどたかいえ=元就の娘婿)福原貞俊(ふくはらさだとし=毛利一族)らが、迂回して敵=宮川勢本陣の後へと回り、背後から攻撃を仕掛けた後、元就と嫡男の毛利隆元(たかもと)が率いる主力本隊が正面から攻撃を仕掛けるのです。

しかし、この主力本隊も、実は2手3手に分かれていて、一部の主力が本隊の先を行き、その時に悪口言いまくりの暴れまくりで敵兵の注意を惹き、それにつられて攻撃を仕掛けに出て来た敵兵を、左右に分かれた本隊が側面から攻撃するという、これでもか!の奇襲作戦を決行しました。

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折敷畑の戦い関係図…(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天文二十三年(1554年)9月15日正午頃、思惑通りの見事な奇襲で、四方から宮川の本陣に襲いかかった毛利軍の勢いに耐えきれず、大将の宮川房長は討死・・・結果、750余りの敵兵が討ち取られ、この戦いは、毛利の完全勝利となりました。

さぁ、陶晴賢の配下と直接対決した以上、もう、後へは退けません。

この後の元就は、まずは、居城の郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市)へと戻り、陶との小競り合いを続けつつも、周辺の諸将を寝返らせる調略を張り巡らしつつ(4月8日参照>>)、やがて、あの戦国三大奇襲の一つに数えられる厳島の戦いへと向かって行く事になります。

厳島の戦いのお話は(少々内容がかぶっている箇所もありますが)
10月1日【決戦!厳島の戦い】>>
10月3日【厳島の戦い~勇将・弘中隆兼】>>
10月5日【大寧寺&厳島…晴賢の思い】>>
で、どうぞm(_ _)m
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2016年9月 6日 (火)

まさに神回?大河ドラマ真田丸、第35回「犬伏」の感想

 

いやはや・・・

あくまで、個人的な感想ではありますが…
実は、先週までは「どーした?真田丸!」と心の底では思っていて、あまりよろしくない感想を書き連ねようかと思っていた不肖茶々でありますが、

どうしてどうして、今回の「犬伏の別れ」の描き方で、心の中が一気に挽回されました~まぁ、女心と秋の空と言いますから・・・ww

もちろん、これらの感想は、あくまで個人の好みによる物です。

そもそも、万民の好みに合うドラマなど作れるはずは無いわけで、誰かに好かれれば、誰かに好かれないというのが世の常でありまして、私が悶々とした一年を過ごした昨年の大河だって、予想の斜め上をいく展開で何度もコケそうになった姫たちの妄想だって、好きな人にとっては良きドラマであったわけで、その事自体をどーのこーの言うつもりは毛頭ございません。

なんせ、逆に、私が「良かった」と思っている「清盛」は一般的には酷評なわけですので、それこそ、「好み」は人それぞれ・・・いや、むしろ、そうだからこそ、社会が成り立っているわけで・・・てな事で、あくまで個人の趣味のブログで素人が放つ個人的な感想とご理解くださいませ・・・

・‥…━━━☆

で、なぜ、ここ最近まで「どーした?真田丸!」と思っていたのかと言いますと、やはり創作のチョイスですかね~

それこそ、ドラマは創作物なので、創作が入ってるのは大いに歓迎すべき所ですが、なんか、その「創作が肌に合っていなかった」感が拭えませんでした。

主役の特権として、大きな出来事に関与しまくりなのはドラマの常としても、ちょっと関与し過ぎの感じがあるのと、緩急つけるべく、ところどころに挿入されるお笑い部分の担当者が、ほぼほぼ女性だったという事・・・

厳しい戦国の世の中で緩急つけるためには、合戦や調略に関与しない女性をお笑い担当に・・・という事なのでしょうが、おかげで、出て来る女性出て来る女性が皆、バカップルの片割れのようになってしまっていて・・・

はじめは、そのKYぶりがカワユクもあった茶々(淀)殿も打掛をはおった途端に魅力薄となり、実際には秀吉の側でその領国経営を一手に引き受けて(特に留守の時は=9月6日参照>>いたであろうおね(寧々)様までもが現実を見据えない人となり、きりちゃんに至っては初回から邪魔ばかりするうっとぉしい女に描かれ、主人公の母のさんはただただ保身ばかりを気にし、奥さんのさんまでもが思いが通らないと「キーッ」と逆上する豹変キャラとは・・・何とも悲しいです。

また、一方で、創作の挿入に関しては、歴史好きだと言われる三谷氏であるからこその難しさもあったと思います。

例えば、大坂の陣以前の史料の少なさもあってか、真田信繁(のぶしげ=幸村)が秀吉の馬廻(うままわり)という設定は、ドラマとしては今回が初めて?(すべてのドラマを見てるわけでは無いのでアレですが…)ではないかと思うのですが、それは最近発見された史料で確認された新説による物。
(秀吉なら馬廻もかなりの数いたと思いますが、ドラマで信繁一人に見えたのは役者さんの出演料という大人の事情として理解しますww)

また、あの豊臣秀次(とよとみひでつぐ=三好秀次・羽柴秀次)自刃のくだりも、秀次自ら高野山へと行き、自ら死を選んだという、これまでのドラマとは違う、今話題の新説を採用し、

あの第1次上田合戦も、ドラマ定番の原っぱでの騎馬同志のぶつかり合い合戦では無い、往年の「風雲たけし城」を思わせるようなセットでの、熱湯掛けたり、石投げたり・・・と、たぶんコッチが史実に近いんじゃないか?と、歴史好きをも唸らせる仕上がりとなってました。

なので、そこにブチ込んだ、三成による家康暗殺未遂までもが、「本当の事」のように思えてしまうという現象に・・・

もちろん、私も、その時代に生きてたわけじゃないし、すべての史料を知ってるわけでは無いので「絶対に無かった」とは、言いきれませんが、少なくとも史料として残っている一般的な見方としては、「家康を暗殺しよう」と提案する島左近に対して、「今は、その時では無い」と冷静に判断する三成のイメージです。

だって、あの時点で先に手出しちゃダメでしょ?
おかげで、私としては、ドラマの中での三成の株が大暴落しちゃった感が否めませんでした。

なのに一方では、秀吉の晩年は・・・そこは、豊臣ファンとしては、これまでに無いしっかりした秀吉さんでいてほしかったですが、結局、ドラマの定番通りに、朝鮮出兵も無謀で無茶苦茶な出兵のように言われ、哀れで老いさらばえたように描かれてましたね(つд⊂)エーン
●私個人的なイメージ
 秀吉の晩年:【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】>>
 朝鮮出兵:【地球分割支配と秀吉の朝鮮出兵】>>

とは言え、それらこれらを覆して余りある見事な描き方だったのが、今回の『犬伏(いぬぶし)の別れ』・・・

ドラマの中には、父子3人で戦々恐々と作戦を練る中でケンカ別れをしたように描かれた場合もあるようですが、やはり、私としては、以前にも書かせていただいたように(7月21日参照>>)家と血筋の存続を1番に考えた「どっちか生き残り作戦」だと思っています。

これは、真田家だけではなく、けっこう多くの武将がやってます。

以前、前田利政(まえだとしまさ)さんのご命日のページで、前田家を例に出して【「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】>>を、お話させていただきましたが、真田家、前田家以外にも、ザッと見ただけで、毛利(もうり)(9月23日参照>>)九鬼(くき)(10月12日参照>>)蜂須賀(はちすか)(12月30日参照>>)生駒(いこま)小出(こいで)に・・・と、関ヶ原本戦以外の前後も含めて、ちゃんと調べたら、たぶん、もっといるでしょう。

それだけ勝敗の行方が見て取れなかった戦いであったのでしょうが、やはり、この「どっちか生き残り作戦」は、ドラマの中の戦国武将には戦場に花と散るカッコ良さを求めてしまう現代の私たちから見れば、「二股かけた」あるいは「保険をかけた」ように見えてしまい、なんとなく、せこくてコスイ手段に思えてしまう物で、これをカッコ良く描くのは、なかなかに難しい・・・

そこを、今回の「真田丸」は見事に、感動的かつカッコ良く描いてくれはりました。

お兄ちゃん=信幸(のぶゆき)の大泉さんの「絶対に守る」の見事なセリフに、父=昌幸(まさゆき)の草刈さんが「最善の策じゃ!」と賛同するくだりは、これまで、何かややこしい事がある度に、「ワカラン」と悩んだり、昨日言った事が今日変わっていたりという優柔不断な感じだった草刈昌幸さんの態度が、このシーンへのフリだったのか?と思わせるほどの、見事なまとめ方だったと思います。

なにやら、巷では、この第35回「犬伏」は「神回」と呼ばれているとか・・・私も、もうちょっとで「どーした?真田丸!」を書くところでしたが、1週間待って良かったです。

しかも、予告編を見たところでは、どうやら来週は、あの稲姫(小松姫)の名シーン(2009年7月25日参照>>)をやってくれはるようです。

その真田の嫁のページのコメント欄でもご指摘があったように、最近の研究では、その時の稲姫は大阪城に人質になっていたはずとも言われていますが、一方では、家康が勝手に、妻子が領地に戻る事を許可していたとの話もある・・・とは言え、やはり、ドラマではやって欲しい名シーン・・・

どうするのかな?と思っていたら、
なるほど・・・細川ガラシャ(玉)さんの死(7月17日参照>>)に危険を感じた稲姫が自ら大坂城を脱出したというテイで、お父ちゃんと弟のご帰還に間に合わせるわけですね~まさに、「そう来たか」という感じ・・・これなら、「大坂城にいたはず」からの「稲姫の雄姿」にも、一応の辻褄合ってますね。

これで、今までは、怒ってばかりの稲姫も、一気に好感度アップですな~

それを匂わせる今回は、やはり「神回」でしたね。

今後の流れとしては・・・
この稲姫の逸話と同じ日に、東では家康の小山評定(おやまひょうじょう)(2012年7月25日参照>>)伊達政宗(だてまさむね)白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)攻略(2015年7月25日参照>>)がありますが、その後は、いよいよ本チャンの関ヶ原に向けて・・・
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

一足早く、真田父子は、第2次上田合戦(9月7日参照>>)となりますね。

ドラマも一つの山場を迎えそうです。
楽しみですヽ(´▽`)/
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2016年9月 3日 (土)

信長と近江一向一揆~金ヶ森の戦い

 

元亀二年(1571年)9月3日、織田信長安土常楽寺に進み、六角氏の旧臣と川那辺秀政が指揮する一向一揆勢を撃破しました。

・・・・・・・・

琵琶湖の南東岸・・・現在の滋賀県守山市にある金森(かねがもり=金ヶ森)浄土真宗が伝わったのは13世紀頃と言われます。

その後、室町時代頃からは、当時、この金森を支配していた川那辺(かわなべ)が、浄土真宗ドップリになってくれた事で道場ができ、その道場を中心に寺町が形成されて行く中、本願寺第七世の存如(ぞんにょ)が住職を勤めるようになる永享八年(1436年)頃には、町の周囲を土居や壕で囲むという、まさに鉄壁の環濠集落(かんごうしゅうらく)となって発展していったのです。
(環濠集落については以前の【奈良県今井町】のページを参照>>

なんせ、この頃は、自分たちの事は自分たちで守らねばならない時代・・・お寺同志のモメ事で死者が出て、武装した幕府の兵士が出馬するなんて事もあった時代(6月24日参照>>)ですから、寺を中心として形成された町は、自らの手で守りを固めなければならなかったのです。

そんな中、本家本元の本願寺で事件が起こります。

寛正六年(1465年)、浄土真宗を一大勢力に押し上げて、後に「中興の祖」呼ばれる事になる第八世・蓮如(れんにょ=存如の息子)(3月25日参照>>)が、比叡山延暦寺からの弾圧を受けて、京都の大谷廟堂(おおたにびょうどう)を襲撃され、京都を追われたのです。

その時、蓮如が真っ先に頼ったのが、ここ金森でした。

なんせ、当時、この金森を支配していた川那辺矩厚(かわなべつねあつ)は蓮如の愛弟子ですから・・・

もちろん、延暦寺がそれを許すわけはなく、大谷退去から2ヶ月後には、延暦寺の僧兵が、ここ金森にまで攻めて来て、矩厚以下、結集した門徒たちと激しい戦闘を繰り広げました。

この比叡山による弾圧の事を「寛正の法難」と呼び、この時の金森での抗戦が日本初の一向一揆とも言われます。

そして、ご存じのように、この後、畿内を転々とした蓮如が、やがて北陸へと向かい、越前(福井県)吉崎に落ち着いてから、あの加賀一向一揆という一大勢力へとなって行くのですが・・・
【最初の加賀一向一揆~文明一揆】>>
【本願寺蓮如の吉崎退去と下間蓮崇】>>
【長享一揆~高尾城の戦い】>>

とは言え、結局は、一揆のあまりの激しさに耐えかねた蓮如は、吉崎を退去し、一旦、河内出口(でぐち=大阪府枚方市の光善寺)に居を構えた後、3年後の文明十年(1478年)には、壮大な伽藍の山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を完成させて、念願の京都へと戻り、その後、本願寺を五男の第九世・実如(じつにょ)に譲った明応五年(1496年)には、大坂石山(いしやま=大阪市中央区)に自らの隠居所として建てた石山御坊(後の石山本願寺)で余生を送りました。

そして、時には対立する武将と衝突しながら、時には援助してくれる武将と同盟を結びながら、どんどん大きくなっていく・・・やがて第1十世・証如(しょうにょ=実如の孫)の頃には、「戦って討死した者は極楽浄土に行ける!」というような考えのもと、「進めば極楽、退けば地獄」のスローガンを掲げて、さらに一揆勢力を拡大し、各地に巨大な信徒の都を造りあげて行きつつ本拠を石山に移し、いよいよ、時は教団最盛期の第十一世・顕如(けんにょ=証如の長男)の時代に・・・

そこに立ちはだかったのが、ご存じ織田信長(おだのぶなが)・・・

とは言っても、本願寺と信長の関係も、最初は、さほど悪い物ではありませんでした。

しかし、永禄十一年(1568年)9月、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を試みる(9月7日参照>>)信長は、その行く手を阻む六角承禎(じょうてい・義賢)観音寺城の戦い(9月12日参照>>)で蹴散らして、続く三好三人衆をもち果たし(9月29日参照>>)またたく間に畿内を制圧・・・

ちなみに、この時の信長は、同じく上洛の際の通り道に当たる北近江(きたおうみ=滋賀県北部)を支配している小谷城(おだにじょう=滋賀県東浅井郡湖北町)浅井長政(あざいながまさ)にも「通らしてネ」の挨拶に行っていて、コチラは領内通過をOKしています(妹=お市っちゃんの旦那やしね)(6月28日の前半部分参照>>)

こうして、制圧が完了すると、次は矢銭(やせん=軍資金)の徴収・・・これは、(新しくやって来た)統治者に対して「反抗する意思はありませんよ」って事を示す意味もあるわけですが、この時の顕如はあっさりと大金を支払っています。

とは言え、間もなく、ともに上洛した義昭と信長の関係がギクシャクし始める(1月23日参照>>)、義昭は、かつてお世話になった越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(よしかげ)(9月24日参照>>)をはじめとする各地の武将に打倒・信長を呼びかけはじめるのです。

と、「これはチャンス!」とばかりに、信長の上洛で追放されていた三好三人衆も動きはじめる・・・

そんなこんなの元亀元年(1570年)、信長は、顕如に対して、石山本願寺の明け渡しを要求して来ます。

そう、実は、この石山本願寺が建っていた場所は、大阪湾大和川淀川を臨む上町台地で、摂津(大阪府北部)播磨(兵庫県)河内(大阪府南部)と接している交通の要所・・・この先、畿内から西へと勢力を延ばしたい信長にとっては、この場所はベストポイントだったんです。

なんせ、そこは、後に、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大坂城を建てちゃう、その場所ですから・・・

とは言え、これには、さすがの顕如も、
「ハイ、そうですか」
と、おとなしく退去するはずもなく・・・いや、逆に、ここで全面対決を決意するのです。

各地の信徒に向かって「打倒!信長」の檄文を発して蜂起を呼び掛け、自ら甲冑を身につけて、すでに、この8月26日から始まっていた信長VS三好三人衆野田福島の戦い(8月26日参照>>)に参戦するのです(9月12日参照>>)

これが、約10年に渡る石山合戦と呼ばれる戦いの始まり・・・

もちろん、今回の金森をはじめとする近江の信徒たちも、この顕如の呼び掛けに応じ、かの、信長上洛の際に本拠を追われていた六角氏の残党と手を結んだ近江一向一揆として周辺の各地を暴れ回り、信長への抵抗を繰り広げていくのです。

一方の信長は、去る6月の姉川の戦い(6月28日参照>>)で深追いしなかった浅井&朝倉勢に宇佐山(うさやま=滋賀県大津市)を攻められて(9月20日参照>>)重臣の森可成(もりよしなり)を失いつつも、堅田の戦い真っ最中の12月、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が発せられて、一旦は和睦する事になります(11月26日参照>>)

しかし、開けて元亀二年(1571年)の2月、配下の秀吉の策略によって佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を奪取して丹羽長秀(にわながひで)に守らせた(2月24日参照>>)信長の行動を皮切りに、それを見過ごせない浅井長政が、5月6日に、秀吉の守る横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を攻めた事で、約半年の和睦期間は終了して戦闘再開・・・

信長自身は、5月12日、すでに蜂起していた長浜一向一揆(5月16日参照>>)に対抗して津島(つしま=愛知県津島市)まで出陣しつつも、その2ヶ月後の8月18日には、いよいよ北近江へと出馬するのです。

横山城を拠点に、8月26日には小谷山本山(やまもとやま=同東浅井郡~伊香郡付近)の中間あたりまで進出して余呉(よご=伊香郡余呉町)木之本(きのもと=伊香郡木之本町)付近に放火・・・そこから北側の浅井勢と南側の一揆勢とを分断します。

続く8月28日に佐和山城へと進んだ信長は、佐久間信盛(さくまのぶもり)中川重政(なかがわしげまさ)柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀らに志村(しむら)小川(おがわ)(ともに滋賀県東近江市)を攻めるよう命じ、そこに潜む六角の残党と近江一揆勢の討伐を決行します。

まずは志村城に四方から攻め寄せて乱入し、またたく間に600ほどの首級を挙げますが、その勢いに驚いた城主の志村資則(しむらすけのり)は、ほどなく降伏開城・・・すると、その様子を知った小川城の小川孫一郎人質を差し出して降伏し、まもなく勝敗は決しました。

この戦いを志村攻め、または垣見(かきみ)の戦いと言います。

こうして志村・小川の両城を追われた六角の残党と近江一揆勢は、次に金ヶ森城かねがもりじょう=滋賀県守山市)川那部秀政(かわなべひでまさ)を頼って、信長に対抗しようとします。

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近江周辺の城の位置関係図

かくして元亀二年(1571年)9月3日、安土常楽寺(じょうらくじ=近江八幡市安土町)に布陣した信長が、一揆勢が立て籠もる金ヶ森城を攻撃したのです。

実は1週間ほど前の8月25日の時点で、先駆けとして、すでに佐久間信盛が金ヶ森に攻撃を仕掛けていたのですが、今回は、信長の出陣を待って、中川・柴田・丹羽らの大軍とともに再度の攻撃でした。

軍勢は、城への攻撃を仕掛けるとともに、付近の田の稲穂をすべて刈り取り、鹿垣(ししがき)を構築して城の四方を囲み、外部へと通じる出入口を、ネズミ一匹逃さぬよう固めて、外部との接触を一切遮断しました。

この徹底した攻めに戦意を焼失した川那辺秀政は、まもなく、人質を差し出して降伏したのでした。

こうして琵琶湖南東を鎮圧した信長は、すぐさま大津へと向かい、この、わずか9日後に有名な比叡山焼き討ちを決行します。

なんちゅー忙しさやねん!信長はん┐( ̄ヘ ̄)┌

ところで、ここですんなりと降伏&開城した事で、信長からは許されて命助かった川那辺秀政さん・・・

ところが、本願寺からは許してもらえず・・・おそらくは、その責任からか?この3ヶ月後の12月、本願寺の命令によって自害させられてしまうのです(12月9日参照>>)

ある意味、
魔王信長よりペナルティ厳しい戦国本願寺ww・・・
そんな時代背景も踏まえて、この後の比叡山焼き討ちの一件を見てみると、また違った見方ができるかも知れません。

【信長の比叡山焼き討ち】>>
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】>>
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