関ヶ原余波~西軍・田丸直昌の岩村城が開城
慶長五年(1600年)10月10日、関ヶ原の戦いで、西軍に属していた田丸直昌が城主を勤める岩村城を、東軍が接収しました。
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またまたの関ヶ原で恐縮ですが・・・
(合戦への経緯は【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)
伊勢(いせ=三重県)の名門=北畠氏の一族で、もともとは田丸城(たまるじょう・三重県度会郡玉城町)の城主だった田丸直昌(たまる なおまさ)でしたが、かの織田信長(おだのぶなが)の伊勢侵攻(11月25日参照>>)にて信長傘下となった後、蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)の娘と結婚した縁から、豊臣秀吉(とよとみひでよし)政権下では氏郷の与力として活躍し、慶長五年(1600年)の関ヶ原勃発当時は岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)の城主でありました。
この時、直昌は、会津征伐(4月14日参照>>)として東北に向かった徳川家康(とくがわいえやす)軍に従軍していましたが、例の石田三成(いしだみつなり)らの伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃(8月1日参照>>)を知った家康が、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にてUターンする決意を表明した事を受けて、直昌は西軍に属すべく、心を同じくした苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)城主の河尻秀長(かわじりひでなが)とともに、すぐさま家康軍と決別して領国へと戻り、家老の田丸主水(もんど)に留守を頼んで、自らは大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)へと向かったのでした。
とは言え、留守を預かる主水も、ただただ城を守っているわけではなく、当然、このスキに、敵対する近隣の諸城の攻撃に向かいます。
岩村城攻防における関連諸城の位置関係図(背景地図は地理院>>からお借りしました)
まず向かったのが妻木頼忠(つまきよりただ)の妻木城(つまきじょう=岐阜県土岐市)・・・主水からの攻撃を受けた頼忠は、逆に撃って出て、田丸領に放火したり、直昌の支城である明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)や小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)を攻略しようと試みます。
その事を知った家康は、ともに豊臣政権下でのゴタゴタで、自らの城を失っていた、かつての両城主である明知城の遠山利景(とおやまとしかげ)と、小里城の小里光明(おりみつあき)を呼び寄せ、頼忠への支援をしつつ、両城の奪回を命じたのでした。(9月1日「土岐高山の戦い」も参照>>)
明知城の利景、小里城の光明、さらに、ここに、去る8月16日に上記の河尻秀長の苗木城を落とした(8月16日参照>>)遠山友政(ともまさ)も加わった三将は、8月末頃から両城への攻撃を開始し、9月2日に明知城、翌3日に小里城の奪回に成功しています。
そんな中、9月15日の関ヶ原本戦の結果報告が、この岩村城にも届きます。
言うまでもなく、東軍の大勝利!(2008年9月15日参照>>)・・・が、しかし、留守を預かる主水は
「例え西軍が敗退したとしても、主君の指示があるまでは、この城を死守する!」
と、東軍に城を開け渡す事をヨシとせず、徹底抗戦の構えを見せます。
この状況に、家康はあらためて、かの三将に岩村城の攻撃を命令・・・10月9日、約500の兵を率いる友政は、岩村城の北にあたる阿木(あぎ)・飯羽間(いいばま)方面に、約300を率いる利景&光明は城の南側にそれぞれ布陣し、守る主水は300余騎の手勢とともに死を覚悟しての籠城に入ります。
ただ、この岩村城は、なかなかに険しい山間部に築かれており、大軍の移動がかなり難しく、猛攻撃しようにも思うようにはいかず・・・
結局は、包囲して監視しつつ、この先の作戦を練る状況になってしまうのですが、ちょうどその時、関ヶ原での結果を受けて、すでに東軍に降伏していた主君=直昌の
「今や東軍に抵抗して自滅している場合では無いで!犠牲を最小限に抑えて開城して、君らも生き延びるように…」
との命令が、岩村城へと届けられました。
そこで主水は、大将の友政に使いを出し、
「開城して退去する決意を固めました。
その後は剃髪して高野山に入るつもりですが、いかんせん長期の籠城で貯えも底を尽いてしもて、旅費がおませんので、ちょっとだけ融通してもらえませんやろか?
それと、さすがに白昼堂々と城を出るのはカッコ悪いんで、夜に退出しよかと思てますねんけど、国境までの警備もよろしくお願いします」
と・・・
友政もこの申し出を快諾・・・まずは、女子供の80余人ばかりを城から退出させた後、夕方からは下級の者たち全員を立ち退かせ、夜になってから、主水主従をはじめとする主だった者たちが退去・・・
こうして慶長五年(1600年)10月10日、主水らが夜陰にまぎれて西美濃方面へと落ちて行き、岩村城が東軍に明け渡されたのでした。
その後の岩村城は、しばらくの間は友政が預かった後、翌慶長六年(1601年)正月に松平家乗(まつだいらいえのり)が2万石で入りました。
一方、前城主の直昌は、関ヶ原では大坂城の守備についていただけで、現地には行っていなかったおかげでか、命は助かったものの、お家はお取り潰しで本人も流罪・・・越後(えちご=新潟県)の堀秀治(ほりひではる=堀秀政の息子)に預けられて、その越後で余生を過ごし、関ヶ原から9年後の慶長十四年(1609年)、76歳の生涯を閉じたという事です。
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コメント
今回のお話は
ほんのり切なくて熱いですね
岩村といえば
桜の名所ですが
こんな歴史が有ったとは
このブログ時々ヒステリアで
とても読みごたえが在り感動します
これからも楽しみにしてます
投稿: 桜文鳥 | 2016年10月12日 (水) 23時23分
桜文鳥さん、ありがとうございます。
ドラマ等では、ほとんど現地の関ヶ原しか描かれませんが、こうして見ると、一つ一つの戦場で、様々なドラマがあった事を痛感させられますね。
投稿: 茶々 | 2016年10月13日 (木) 01時42分
(◎´∀`)ノ関ケ原の大合戦には、参加した将兵ひとりひとりはもとより雑兵それぞれのドラマがあったと思います。小説が成り立つ空間と時間でしたね。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年10月14日 (金) 23時54分
根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~
関ヶ原に限らず、合戦それぞれにそれぞれのドラマがあったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年10月15日 (土) 04時06分
茶々さま、こんばんは
可憐な花びらがそっと散るような
お話しですね。私も感動しました。
投稿: まつこ | 2016年10月21日 (金) 01時22分
まつこさん、ありがとうございます。
>可憐な花びらがそっと散るような…
戦国の世のならい…とは言え、せつないですね。
投稿: 茶々 | 2016年10月21日 (金) 03時00分