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2016年10月 2日 (日)

九州の関ヶ原~富来城が開城

 

慶長五年(1600年)10月2日、九州の関ヶ原と呼ばれる一連の合戦で富来城が開城しました。

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豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した豊臣家臣団の亀(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として主導権を握る徳川家康(とくがわいえやす)と、その主導権の握りっぷりに不満を抱いた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)の対立に端を発した天下分け目の関ヶ原の戦い・・・・

先日も書かせていただきましたが、この関ヶ原の戦いは慶長五年(1600年)9月15日の本チャンの関ヶ原だけでなく、その前後には様々な合戦があったわけですが、それは、このドサクサで領地を増やそうとしたり、失っていた旧領を回復しようと奔走した武将たちの戦いでもあったわけで・・・
(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)

その中での九州での諸将の動き・・

まず、行動を起こしたのは、西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)から声をかけられた大友義統(よしむね)でした。

この義統は、豊後(大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(そうりん・義鎮)の息子ですが、この頃は浪人の身・・・輝元を通じて、大坂城の豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)から勝利したあかつきには、豊後一国を回復する確約を取り付けての参戦でした。

手始めに、家康と行動を共にしている細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)をターゲットとする義統ですが、ここで九州における東軍として腰を上げたのが豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)にいた黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)でした。

9月9日に中津城を出陣した如水は、竹中重利(たけなかしげとし=竹中半兵衛の従兄弟)高田城(大分県豊後高田市)を開城させ、その足で、西軍に属する垣見一直(かきみかずなお・家純)富来城(とみくじょう=大分県国東市国東町)熊谷直盛(くまがいなおもり)安岐城(あきじょう=大分県国東市安岐町)を囲みます。

が、しかし、この同じ日に大友勢が杵築城への攻撃を開始(9月10日参照>>)・・・杵築城ピンチの知らせを聞いた如水は城の救援を優先し、富来城と安岐城にわずかな囲みの兵だけを残して、一路、杵築城へと向かい、9月13日、両者は石垣原でぶつかります。
関ヶ原で天下を狙う第三の男】参照>>
【豊後奪回を狙う男・大友義統石垣原】参照>>)

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 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この石垣原に勝利した如水は、すぐさま取って返して富来城&安岐城への攻撃を再開するのです。

この時、両城の城主は二人とも、関ヶ原現地の大垣城(岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)に詰めていて留守・・・

9月17日、まずは安岐城を包囲した如水は、留守を預かる城将=熊谷外記(げき=直盛の叔父)投降の呼び掛けをします。

実は、先日の最初の包囲の時の攻撃で、一旦は如水が勝利していたため、もはや安岐城が落ちるのも時間の問題となっていた状況でしたので、今回の再度の包囲で「城兵の罪を問わない」「自由に退去して良い」という条件出したところ、城内は一気に開城へと傾き、それを受けた外記も、すんなりと無血開城を承諾したのでした。

ただし、ここで「自由に退去して良い」とした城兵のほとんどは、そのまま如水の軍に加わり、東軍となって次の富来城へ・・・

上記の通り、この富来城も城主が留守だったため、城代の垣見利右衛門(りえもん)が、わずかな城兵だけで守っていましたが、この富来城は北と東が海に面し、南に流れる富来川が堀の役割を果たす天然の要害で、なかなかに攻めるに難しい城・・・

何度が総攻撃を仕掛ける如水ですが、一向に落ちる気配はなく、長いこう着状態が続きます。

そんな中、海から富来城へ近づこうとした1隻の船を、如水側が拿捕します。

そして、その船から1通の密書を発見するのです。

その手紙は、富来城城主の一直から、留守を預かる利右衛門に宛てた物・・・そこには、関ヶ原で西軍が敗れた事、そして、負けた以上、もはや東軍に抵抗するのは意味が無いという事とともに
「城兵をムダに死なせる事が無いように、上手くやってくれ」
との、一直の思いがしたためられていました。

如水からの使者のよって、この手紙を手にした利右衛門は、主君の思いを汲み、慶長五年(1600年)10月2日ようやく、富来城を開城したのでした。

安岐城と同様に、コチラの城兵も「自由に退去して良い」としたため、多くの兵が如水の軍勢に加わったと言います。

で、その如水は、この後も次々と城を攻略し、北九州を制覇する事になりますが、あまりの攻略ぶりに、如水は関ヶ原のドサクサで天下を狙っていたのでは?との憶測も流れるほどですが、そのお話は10月14日【小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】>>でどうぞo(_ _)o

また、九州の関ヶ原関連として
【関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃】>>
【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】>>
も参照いただければ幸いです。

ところで、今回、主君の思いを汲んで富来城を開城した利右衛門・・・実は、この手紙を、彼が受け取った時には、当の一直は、大垣城内でいち早く東軍に寝返った高橋元種(もとたね)によって殺害されてしまっていました(9月17日参照>>)

城兵の無駄死にを心配した主君が、その城兵の誰よりも先に亡くなっていた事実・・・戦国の世のならいとは言え、そこはかとない空しさを感じたのでしょうか?
その後の利右衛門は武士を捨て、農業に勤しみながら、主君の菩提を弔ったという事です。
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