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2016年10月29日 (土)

明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い

 

天正五年(1577年)10月29日、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波の諸城を攻め、籾井教業の籾井城を攻略しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、織田信長(おだのぶなが)による丹波攻略戦です。

室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)との不仲(2月20日参照>>)により、俗に言う「信長包囲網」を敷かれて、周りが敵ばかりになった信長さんですが、元亀四年(天正元年=1573年)の7月には、その義昭を追放(7月18日参照>>)、続く8月には越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)(8月20日参照>>)北近江(おうみ=滋賀県)浅井(あさい・あざい)(8月28日参照>>)を倒し・・・そして、各地に起こった一向一揆も徐々に制圧していった天正三年(1575年)、いよいよ信長は丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)平定に乗り出し、配下の明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに、その任務を命じます。

Aketimituhide600 一説には、当初、信長に好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)が、信長に追われた義昭が毛利氏を頼る事を知って毛利派へと転じ、この天正三年(1575年)の10月に但馬竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市和田山町)を攻撃して占領・・・このままでは自らの但馬(たじま=兵庫県北部)を守りきれないと判断した守護山名祐豊(やまなすけとよ=宗全から5代目)が信長を頼った事で、信長が光秀らの派遣を決意したとも・・・(10月23日参照>>)

とにもかくにも、こうして信長の命を受けて出陣した光秀でしたが、初戦で奪った亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)も、そのすぐ後の黒井城の攻略に手間取ってる間に奪い返されたうえ、明けた天正四年(1576年)の正月には、やはり、最初は信長に好意的だった八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野秀治(はたのひではる)も毛利に転じたため、やむなく黒井城の包囲を解いて、一旦、光秀は近江坂本城(さかもとじょう=滋賀県大津市下阪本)へと戻ります。

この波多野の裏切りに関しては『籾井家日記』には「赤井との密約による物」との記述がありますが、この『籾井家日記』は江戸時代になってから旧臣の子孫が記した「殿さま賛美」の傾向のある史料なので、そのままを信じるわけには行かず、一般的には「原因は不明」とされているようです。

実は、この頃の丹波周辺の状況についての記録には、このような伝説的な物が多く、史料と史料を照らし合わせると辻褄が合わなくなったりする事もあるので、今回は、様々見つつ、諸説あるうちのそれぞれの落とし所を考えつつ、お話を進めて参りますので、その点をご理解いただければ幸いです。

・・・とまぁ、おそらくは将軍=義昭が毛利を頼った事の影響?もあって、赤井や波多野らの抵抗に遭い、上記の通り、第1次の丹波攻略は不発に終わった光秀でしたが、ご存じのように、この間にも、石山本願寺との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)謀反(10月3日参照>>)やらに出馬していて、光秀はホント忙しい・・・

忙し過ぎて、天正五年(1577年=前年の説もあり)の6月(もしくは8月)には体調を崩して倒れ、病床にて曲直瀬道三(まなせどうさん)(1月4日参照>>)の治療を受けて何とか快復したのだとか・・・『兼見卿記』『御湯殿上の日記』など)

そんなこんなの天正五年(1577年)10月、いよいよ信長は、赤井や波多野、果ては松永久秀の謀反にも、そしてかの石山本願寺にも影響を与えたかも知れない将軍=義昭囲い込みのおおもとである西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)との決戦を決意して、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)播磨(はりま=兵庫県南西部)への派遣を決定し、光秀には、その側面や背面を援助すべく、再び、丹波攻略を命じたのです。

10月初め、坂本を進発した光秀は、途中の老ノ坂で細川藤孝父子と合流し、一路、亀山城を目指します。

上記の通り、一旦奪ったものの、再び奪い返されていた亀山城ですが、ちょうど、この10月初め、波多野秀治らが、敵対する赤松氏との戦闘のために本領を留守にしており、守りが手薄になっているところを、5000を超える兵で以って三日三晩攻め続け、この亀山城を10月16日に落城させました

そして、この城を前線基地として、丹波の諸城を狙います。

まずは、溝尾茂朝(みぞおしげとも=光秀の家臣)細川忠興(ほそかわただおき=藤孝の息子)らを派遣して、波々伯部員次(ははかべ・ほうかべ・ほほかべかずつぐ)が守る篠山城(兵庫県篠山市)を包囲して攻撃を開始しますが、まもなく、近隣の援軍が駆け付けて、包囲している溝尾&細川勢を背後から襲撃したため、城は容易に落ちませんでした。

さらに、その援軍に、かねてより連絡を取り合っていた玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)久下(くげ)も加勢して来たため溝尾&忠興勢は窮地に・・・やむなく、光秀自らが残りの全軍を率いて参戦した事により、なんとか落城させる事に成功したのです。

かくして天正五年(1577年)10月29日、光秀らは、次なる標的籾井教業(もみいのりなり)籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)に攻めかかります。

籾井教業は、「丹波の赤鬼」と呼ばれた黒井城の赤井直正に対して「青鬼」と呼ばれた剛の者だったようですが、この時は、光秀らの猛攻撃にやむなく城を捨てて逃亡・・・こうして、織田軍が籾井城を奪取したのです。

とは言え、実は生没年が不明な籾井教業さん・・・一説には、この明智勢との抗戦の時には、すでに亡くなっていたという話もあり、そこのところは、新たな史料の発見に期待したいところです。

てな事で、本日は籾井城の落城の日という事で、明智光秀の丹波攻略の前半戦部分をご紹介させていただきましたが、ご存じの通り、光秀の丹波攻略が完了して信長さんが大喜びするのは天正七年(1579年)の10月(10月24日参照>>)・・・

まだまだ、あと2年も戦いは続きますし、まだまだブログに書いてない=書き足りない部分はあるのですが、そのあたりの事は、
【八上城攻防戦】>>
【黒井城の戦い】>>
でご覧いただければ幸いです。
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2016年10月23日 (日)

細川高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い

 

大永六年(1526年)10月23日、細川高国が反旗を翻した波多野稙通・柳本賢治討伐のため、細川尹賢を大将として軍勢を丹波へ向かわせました。

・・・・・・・・・・

細川高国(ほそかわたかくに)は、細川一門である備中(びっちゅう=岡山県)細川家の細川政春(まさはる)の息子で、応仁の乱(5月20日参照>>)の東軍の大将として有名な細川勝元(かつもと)の息子の細川政元(まさもと)の養子となっていました。

義父である政元という人は、将軍を補佐する管領(かんれい)であるにも関わらず、先の将軍を排して自らの思いのままになる将軍を擁立するという「明応の政変」(4月22日参照>>)・・・言うなれば、戦国の幕を開けるクーデターをやってのけた人であり、室町幕府管領として一時代を築いた人でありますが、

実子がいなかった事から、3人の男子を養子にする事に・・・

Hosokawasumimoto400a 予想通り、ともに養子であった関白九条政基(まさもと)の子供=澄之(すみゆき)と、阿波(あわ=徳島県)細川家の義春の子供=澄元(すみもと)との間で後継者争いが勃発!!(8月24日【船岡山の戦い】参照>>)

てか、そもそも義父・政元の死そのものが、彼らの後継者争い絡みによる暗殺なのです(6月20日参照>>)

Hosokawatakakuni600a

とは言え、高国は、当初は澄元に味方して、ともに澄之を倒しているんですが(8月1日参照>>)、案の定というか、やっぱりというか・・・結局は、澄元とも対立(1月10日参照>>)、高国は、周防(すおう=山口県)の戦国大名・大内義興(よしおき)を味方につけて、澄元&彼に味方する三好之長(みよしゆきなが)を追い落とした(5月5日参照>>)、その澄元が阿波で病死した事で、事実上の一人勝ちとなった永正十八年(1521年)、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して、自らの政権を確立したのです。

大永四年(1524年)には、息子の稙国(たねくに)に管領職を譲り、自らは剃髪(ていはつ)して、隠居という立場から実権を握り我が世の春・・・と言いたいところですが、残念ながら、その息子が間もなく病死してしまい、あわただしく管領に復帰しています。

そんなこんなの大永六年(1526年)7月事件は起こります。

高国の従兄弟にあたる細川尹賢ほそかわ ただかた)が、高国の重臣である香西元盛(こうざいもともり)について、ある事無い事(実際には無い事&無い事=まるっと嘘だったようですが)吹き込んだところ、それを信じた高国が「元盛が敵対勢力=澄元らに内通している」と思いこみ、充分な取り調べもせぬまま、彼を上意討ちにしてしまったのです。

これに怒ったのが、元盛の兄弟=波多野元清(はたのもときよ=稙通)柳本賢治(やなぎもとかたはる)でした。

事件が起こった時、たまたま京都にいた波多野と柳本・・・高国への挙兵を決意した二人は、「嵯峨(さが)にて夜川狩りをする」と称し、夜の闇に紛れて宿所を脱出し、密かに、領国である丹波(たんば=兵庫県)へと戻り、それぞれの居城、波多野は八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)、柳本は神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)に入って籠城の構えを見せたのです。

その後、黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井五郎(あかいごろう=時家?)を味方につけた波多野と柳本は、事件から3ヶ月後の10月、いよいよ挙兵します

驚いた高国は、大永六年(1526年)10月23日、かの細川尹賢を大将に、池田弾正(いけだだんじょう)瓦林修理亮(かわらばやししゅりのすけ=河原林修理進?)内藤国貞(ないとうくにさだ)薬師寺九郎左衛門(やくしじくろうざえもん=国長)らといった面々、合計80余組からなる軍勢を丹波へと派遣したのです。

すでに1部の先発隊は10月18日から神尾山城への攻撃を開始するも、20日には城から撃って出た柳本の兵が、高国方の一部の陣所を攻撃して20ほどの首を挙げるなど、一進一退の攻防戦が続きますが、そんなさ中の10月30日、黒井城の赤井が3000の兵を率いて登場し、神尾山城を包囲する高国勢に背後から襲いかかりました。

自身が波多野の八上城へと向かっていた途中に、この情報を聞いた尹賢は、早速、軍のうちの13組を、赤井への対策に当たらせましたが、赤井の兵を200余り討ったものの、自らの兵も300以上失う激戦となり、神尾山城への包囲も破られてしまいます。

そこに神尾山城の城兵が反撃を加え、形勢不利となった高国軍は崩れるように敗退し、兵の多くが京都方面へと我先に逃走し始めました。

その後、「神尾山城攻め失敗」の一報を聞いた尹賢は、八上城へ向かっていた足を止めてUターン・・・自らも京都方面へと戻るのでした。

一方、未だ激戦続く神尾山城周辺では、戦況を見た池田弾正が柳本側へと寝返り、敗走する高国軍に矢を射かけます。

実は、この池田弾正・・・阿波にいた、亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、すでに通じていたのです。

そうとは知らず、いきなりの奇襲を受けた形になった高国軍は、ますます崩れてしまい、もはや軍の形を成さない状態で京都へ逃げ帰るという、まさに惨敗の中の惨敗となってしまいました。

とは言え、池田弾正が、ここで敗走する兵を深追いする事はありませんでした。

そうです。
波多野と柳本が主君の高国から離反したのは弟の一件が主たる要因かも知れませんが、池田弾正の離反は晴元との内通・・・この後に、高国VS晴元の「因縁の直接対決が展開するのを待っていた?」という事なるのでしょう。

そして、管領職の後継者として雌雄を決すべく、その晴元とともに阿波からやって来るのが、これまた、今は亡き三好之長の孫(もしくは息子)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)、同じく之長の甥っ子である三好勝長&政長(かつなが&まさなが)兄弟たち・・・

そんな両者がぶつかるのが「桂川原の戦い(かつらかわらのたたかい)・・・という事になるのですが、そのお話は、戦いのあった2月13日【畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い】のページでどうぞ>>
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2016年10月16日 (日)

畠山義就×政長の応仁の乱前哨戦~高田城の戦い

 

文正元年(1466年)10月16日、翌年の応仁の乱の口火を切る事になる畠山義就の大和から河内への侵攻での高田城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

今回の主役=畠山義就(はたけやまよしひろ・よしなり)畠山氏は、室町幕府政権下において河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)山城(やましろ=京都府南部)越中(えっちゅう=富山県)大和(やまと=奈良県)の一部などなどの広範囲の守護職を任され、細川(ほそかわ)斯波(しば)とともに、管領職を順番に務める三管領家(さんかんれいけ)の一つとされた名門です。

Hatakeyamayosinari400 ただ・・・実は義就の母親という人がかなり身分が低かった(遊女だったとも)ために、本当に自分の子供かどうか確信が無かった父の畠山持国(もちくに)は、義就がただ一人の実子(かも)であったにも関わらず、はじめ、義就を嫡子と認定せず、社僧として石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)に出す事とし、自らの弟である畠山持富(もちとみ)養子に迎えて後継ぎとしていました。

ところが、その後、12歳になった義就と初めて面会した持国は、やっぱ息子がカワイイ~~」とばかりに(きっと似てたんやな?ww)、文安五年(1448年)、突然、持富を後継者から外して義就を迎え入れ、後を継がせたのです。

「それはモメる要素投入以外の何物でもないやろ!」
とのツッコミ満載な中、予想通り一部の家臣が反発・・・家臣団が義就派VS持富派に分かれるのですが、当の持富が宝徳四年(1452年)に死去したため、嫡子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久・義富)持富派の後継者となり、対立はどんどん激化・・・

さらに、そこに、当時の実力者である細川勝元(ほそかわかつもと)やら山名宗全(やまなそうぜん=持豊)やら、大和の国人の筒井(つつい)までが関与して来て、よりややこしくなって来ます。

両者がシーソーゲームを繰り返す中、享徳四年(1455年)に父=持国が死去した事から、第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の許可を得て正式に畠山の家督を継ぐ事になった義就は、筒井氏に対抗する大和の国人=越智家栄(おちいえひで)らの支援を受けた事で勢いを増し、弥三郎一派の追い落としに成功します。

しかし、そのわずか2年後の康正三年(1457年)に起こった大和国内でのゴタゴタに、将軍=義政の許可を得ないまま軍勢を派遣してしまった事が義政の逆鱗に触れ、義就は所領没収となってしまいました。

その一方で、長禄三年(1459年)に弥三郎が亡くなった事を受けて、その弟の畠山政長(まさなが=つまり義就の従兄弟)持富派の代表として争いを引き継いで交戦状態を続ける事になるのですが、その翌年の長禄4年(1460年)、大和竜田(たつた)での義就VS政長が直接対決した戦いで、政長が見事勝利(10月10日参照>>)・・・大敗を喫してしまった義就の立場はますます危うくなり、将軍=義政は義就を敵視し、政長に家督を譲るよう命じます。

追われる立場となった義就は、やむなく居城の若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を捨てて、岳山城(たけやまじょう=大阪府富田林市)から誉田(こんだ)道明寺(どうみょうじ=大阪府藤井寺市)などを転戦するも、徐々に押され、高野山から、最終的に吉野(よしの)へと逃げ込み、しばらくの間引き籠り状態に・・・

その間に、政長は、幕府から畠山の家督を相続する事を許さればかりか、彼を支持し続けてくれていた細川勝元から管領職まで譲られる事になりますが、一方の義就も、ただ吉野へ引き籠っているわけではありませんでした。

義就を支援し続けてくれていた越智家栄のもと、中央政府を窺いつつ、挽回のチャンスを狙っていたのです。

そんなこんなの文正元年(1466年)、前年の恩赦(おんしゃ=刑罰を軽減させる制度)によって、義政から罪を許された義就は、細川勝元に匹敵する大物=山名宗全からの支持を得る事に成功し、上洛を果たすべく吉野を発つのです。

しかし、そこに立ちはだかるのが、筒井順永(つついじゅんえい)をはじめとする政長を支持する大和の国人たち・・・

もちろん、義就の味方は越智家栄ら、こちらも大和の国人たち・・・

両者譲らず、大和国高田(たかだ=大和高田市)の里を東西に横切る横大路(初瀬街道)を挟んで、北に政長方、南に義就方が対峙する中、9月25日、まずは越智勢が高田へと攻め入って集落に火を放ち、戦いの火蓋が切られましたが、大和平野にて実質的な合戦が展開されたのは、文正元年(1466年)10月16日の事でした。

『大乗院寺社雑事記』によると・・・
この日、善戦したのは義就方・・・まずは大和高田城を攻め落とした義就軍が、味方の越智勢の活躍により勝利し、負けた筒井勢を中心とする政長方は、高田城の北に位置する箸尾城(はしおじょう=奈良県北葛城郡広陵町)へと、我先に雪崩をうって逃げ込み、これを追う越智勢が、城を取り囲みつつ、周辺への放火を決行したと言います。

両軍ともに、一軍の将と呼ばれる武将を複数失う大きな戦いであったようですが、その後は籠城戦となり、こう着状態となった11月、大和十市城(とおいちじょう=奈良県橿原市十市町)の城主である十市遠清(とおち・とおいちとおきよ)の仲介により、越智氏&筒井氏が和睦を結び、大和での戦いは一応の落着となりました。

この『大乗院寺社雑事記』はお寺の記録なので、その中で
「これで大和も平和になった~ヽ(´▽`)/」
寺社が大いに喜んだ様子を記していますが・・・

が、しかし、お察しの通り、これは越智&筒井=大和の国人同志の和睦・・・義就と政長の抗争は、まだまだ続き、結局は、彼ら大和の国人も、またまた巻き込まれて行く事になるのですが・・・

しかも、この後、12月に上洛を果たした義就が、翌・応仁元年(1467年)正月に、将軍=義政に謁見するのですが、その時、義就は実力者=山名宗全を伴って義政の前に現れ、その場で宗全が猛プッシュした事から、義政は、義就の畠山氏の相続を認め、逆に政長に屋敷の開け渡しと管領職の辞職を命じたのです。

この先の事を知ってる私たちから見れば
「もう~、またまた争いの種をまくんかい!」
と義政の優柔不断ぶりに激おこプンプン丸ですが・・・

こうして、立場が不利になった政長が、挽回すべく挙兵したのが応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)・・・

これが、全国の武将を東西に分けて10年以上に渡って繰り広げられる大イクサ応仁の乱の始まりとなるのです。
【応仁の乱・勃発!】参照>>
応仁の乱~初戦は激しい五月合戦】参照>>
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2016年10月10日 (月)

関ヶ原余波~西軍・田丸直昌の岩村城が開城

 

慶長五年(1600年)10月10日、関ヶ原の戦いで、西軍に属していた田丸直昌が城主を勤める岩村城を、東軍が接収しました。

・・・・・・・・・

またまたの関ヶ原で恐縮ですが・・・
(合戦への経緯は【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)

伊勢(いせ=三重県)の名門=北畠氏の一族で、もともとは田丸城(たまるじょう・三重県度会郡玉城町)の城主だった田丸直昌(たまる なおまさ)でしたが、かの織田信長(おだのぶなが)伊勢侵攻(11月25日参照>>)にて信長傘下となった後、蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)の娘と結婚した縁から、豊臣秀吉(とよとみひでよし)政権下では氏郷の与力として活躍し、慶長五年(1600年)の関ヶ原勃発当時は岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)の城主でありました。

この時、直昌は、会津征伐(4月14日参照>>)として東北に向かった徳川家康(とくがわいえやす)軍に従軍していましたが、例の石田三成(いしだみつなり)らの伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃(8月1日参照>>)を知った家康が、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にてUターンする決意を表明した事を受けて、直昌は西軍に属すべく、心を同じくした苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)城主の河尻秀長(かわじりひでなが)とともに、すぐさま家康軍と決別して領国へと戻り、家老の田丸主水(もんど)に留守を頼んで、自らは大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)へと向かったのでした。

とは言え、留守を預かる主水も、ただただ城を守っているわけではなく、当然、このスキに、敵対する近隣の諸城の攻撃に向かいます。

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岩村城攻防における関連諸城の位置関係図(背景地図は地理院>>からお借りしました)

まず向かったのが妻木頼忠(つまきよりただ)妻木城(つまきじょう=岐阜県土岐市)・・・主水からの攻撃を受けた頼忠は、逆に撃って出て、田丸領に放火したり、直昌の支城である明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)を攻略しようと試みます。

その事を知った家康は、ともに豊臣政権下でのゴタゴタで、自らの城を失っていた、かつての両城主である明知城の遠山利景(とおやまとしかげ)と、小里城の小里光明(おりみつあき)を呼び寄せ、頼忠への支援をしつつ、両城の奪回を命じたのでした。(9月1日「土岐高山の戦い」も参照>>)

明知城の利景、小里城の光明、さらに、ここに、去る8月16日に上記の河尻秀長の苗木城を落とした(8月16日参照>>)遠山友政(ともまさ)も加わった三将は、8月末頃から両城への攻撃を開始し、9月2日に明知城、翌3日に小里城の奪回に成功しています。

そんな中、9月15日の関ヶ原本戦の結果報告が、この岩村城にも届きます。

言うまでもなく、東軍の大勝利!(2008年9月15日参照>>)・・・が、しかし、留守を預かる主水は
「例え西軍が敗退したとしても、主君の指示があるまでは、この城を死守する!」
と、東軍に城を開け渡す事をヨシとせず、徹底抗戦の構えを見せます。

この状況に、家康はあらためて、かの三将に岩村城の攻撃を命令・・・10月9日、約500の兵を率いる友政は、岩村城の北にあたる阿木(あぎ)飯羽間(いいばま)方面に、約300を率いる利景&光明は城の南側にそれぞれ布陣し、守る主水は300余騎の手勢とともに死を覚悟しての籠城に入ります。

ただ、この岩村城は、なかなかに険しい山間部に築かれており、大軍の移動がかなり難しく、猛攻撃しようにも思うようにはいかず・・・

結局は、包囲して監視しつつ、この先の作戦を練る状況になってしまうのですが、ちょうどその時、関ヶ原での結果を受けて、すでに東軍に降伏していた主君=直昌の
「今や東軍に抵抗して自滅している場合では無いで!犠牲を最小限に抑えて開城して、君らも生き延びるように…」
との命令が、岩村城へと届けられました。

そこで主水は、大将の友政に使いを出し、
「開城して退去する決意を固めました。
その後は剃髪して高野山に入るつもりですが、いかんせん長期の籠城で貯えも底を尽いてしもて、旅費がおませんので、ちょっとだけ融通してもらえませんやろか?
それと、さすがに白昼堂々と城を出るのはカッコ悪いんで、夜に退出しよかと思てますねんけど、国境までの警備もよろしくお願いします」

と・・・

友政もこの申し出を快諾・・・まずは、女子供の80余人ばかりを城から退出させた後、夕方からは下級の者たち全員を立ち退かせ、夜になってから、主水主従をはじめとする主だった者たちが退去・・・

こうして慶長五年(1600年)10月10日、主水らが夜陰にまぎれて西美濃方面へと落ちて行き、岩村城が東軍に明け渡されたのでした。

その後の岩村城は、しばらくの間は友政が預かった後、翌慶長六年(1601年)正月に松平家乗(まつだいらいえのり)が2万石で入りました。

一方、前城主の直昌は、関ヶ原では大坂城の守備についていただけで、現地には行っていなかったおかげでか、命は助かったものの、お家はお取り潰しで本人も流罪・・・越後(えちご=新潟県)堀秀治(ほりひではる=堀秀政の息子)に預けられて、その越後で余生を過ごし、関ヶ原から9年後の慶長十四年(1609年)、76歳の生涯を閉じたという事です。
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2016年10月 2日 (日)

九州の関ヶ原~富来城が開城

 

慶長五年(1600年)10月2日、九州の関ヶ原と呼ばれる一連の合戦で富来城が開城しました。

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豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した豊臣家臣団の亀(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として主導権を握る徳川家康(とくがわいえやす)と、その主導権の握りっぷりに不満を抱いた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)の対立に端を発した天下分け目の関ヶ原の戦い・・・・

先日も書かせていただきましたが、この関ヶ原の戦いは慶長五年(1600年)9月15日の本チャンの関ヶ原だけでなく、その前後には様々な合戦があったわけですが、それは、このドサクサで領地を増やそうとしたり、失っていた旧領を回復しようと奔走した武将たちの戦いでもあったわけで・・・
(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)

その中での九州での諸将の動き・・

まず、行動を起こしたのは、西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)から声をかけられた大友義統(よしむね)でした。

この義統は、豊後(大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(そうりん・義鎮)の息子ですが、この頃は浪人の身・・・輝元を通じて、大坂城の豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)から勝利したあかつきには、豊後一国を回復する確約を取り付けての参戦でした。

手始めに、家康と行動を共にしている細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)をターゲットとする義統ですが、ここで九州における東軍として腰を上げたのが豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)にいた黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)でした。

9月9日に中津城を出陣した如水は、竹中重利(たけなかしげとし=竹中半兵衛の従兄弟)高田城(大分県豊後高田市)を開城させ、その足で、西軍に属する垣見一直(かきみかずなお・家純)富来城(とみくじょう=大分県国東市国東町)熊谷直盛(くまがいなおもり)安岐城(あきじょう=大分県国東市安岐町)を囲みます。

が、しかし、この同じ日に大友勢が杵築城への攻撃を開始(9月10日参照>>)・・・杵築城ピンチの知らせを聞いた如水は城の救援を優先し、富来城と安岐城にわずかな囲みの兵だけを残して、一路、杵築城へと向かい、9月13日、両者は石垣原でぶつかります。
関ヶ原で天下を狙う第三の男】参照>>
【豊後奪回を狙う男・大友義統石垣原】参照>>)

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この石垣原に勝利した如水は、すぐさま取って返して富来城&安岐城への攻撃を再開するのです。

この時、両城の城主は二人とも、関ヶ原現地の大垣城(岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)に詰めていて留守・・・

9月17日、まずは安岐城を包囲した如水は、留守を預かる城将=熊谷外記(げき=直盛の叔父)投降の呼び掛けをします。

実は、先日の最初の包囲の時の攻撃で、一旦は如水が勝利していたため、もはや安岐城が落ちるのも時間の問題となっていた状況でしたので、今回の再度の包囲で「城兵の罪を問わない」「自由に退去して良い」という条件出したところ、城内は一気に開城へと傾き、それを受けた外記も、すんなりと無血開城を承諾したのでした。

ただし、ここで「自由に退去して良い」とした城兵のほとんどは、そのまま如水の軍に加わり、東軍となって次の富来城へ・・・

上記の通り、この富来城も城主が留守だったため、城代の垣見利右衛門(りえもん)が、わずかな城兵だけで守っていましたが、この富来城は北と東が海に面し、南に流れる富来川が堀の役割を果たす天然の要害で、なかなかに攻めるに難しい城・・・

何度が総攻撃を仕掛ける如水ですが、一向に落ちる気配はなく、長いこう着状態が続きます。

そんな中、海から富来城へ近づこうとした1隻の船を、如水側が拿捕します。

そして、その船から1通の密書を発見するのです。

その手紙は、富来城城主の一直から、留守を預かる利右衛門に宛てた物・・・そこには、関ヶ原で西軍が敗れた事、そして、負けた以上、もはや東軍に抵抗するのは意味が無いという事とともに
「城兵をムダに死なせる事が無いように、上手くやってくれ」
との、一直の思いがしたためられていました。

如水からの使者のよって、この手紙を手にした利右衛門は、主君の思いを汲み、慶長五年(1600年)10月2日ようやく、富来城を開城したのでした。

安岐城と同様に、コチラの城兵も「自由に退去して良い」としたため、多くの兵が如水の軍勢に加わったと言います。

で、その如水は、この後も次々と城を攻略し、北九州を制覇する事になりますが、あまりの攻略ぶりに、如水は関ヶ原のドサクサで天下を狙っていたのでは?との憶測も流れるほどですが、そのお話は10月14日【小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】>>でどうぞo(_ _)o

また、九州の関ヶ原関連として
【関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃】>>
【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】>>
も参照いただければ幸いです。

ところで、今回、主君の思いを汲んで富来城を開城した利右衛門・・・実は、この手紙を、彼が受け取った時には、当の一直は、大垣城内でいち早く東軍に寝返った高橋元種(もとたね)によって殺害されてしまっていました(9月17日参照>>)

城兵の無駄死にを心配した主君が、その城兵の誰よりも先に亡くなっていた事実・・・戦国の世のならいとは言え、そこはかとない空しさを感じたのでしょうか?
その後の利右衛門は武士を捨て、農業に勤しみながら、主君の菩提を弔ったという事です。
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