松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦
永禄八年(1565年)11月18日、松永久秀が筒井氏の大和筒井城を攻略・・・追われた筒井順慶は布施城へ入りました。
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その出自や経歴は諸説あれど・・・
畿内で一大勢力を誇った三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として歴史上に登場する松永久秀(まつながひさひで)・・・
しかし、その三好家では、
永禄四年(1561年)に長慶の3番目の弟=一存(そごうかずまさ・かずなが)を失った(5月1日参照>>)のを皮切りに、
続く、永禄五年(1562年)には、長慶のすぐ下の弟=義賢(よしかた・実休)が(3月5日参照>>)、
その翌年=永禄六年(1563年)には長慶の息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を、
さらにその翌年=永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った)を長慶自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念からか?その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は廃人のようになってこの世を去ってしまう(5月9日参照>>)のです。
そんな不幸続きの三好家と反比例するように、家内で大きな力を持っていく久秀・・・なので、「これら一連の死に、久秀が関与している」との話もありますが、そこのところは、確固たる証拠も無いので何とも言えません。
とにもかくにも、ここで、当時の天下人とも言える位置にいた長慶と、それに続く弟や息子までも失った三好家では、長慶の甥=三好義継(よしつぐ)を当主に迎え、未だ若き主君を支える補佐役=三好三人衆の三好長逸(みよしながやす)・三好政康(まさやす)・石成友通(いわなりともみち)の3人を中心に盛りたてて行く事になりました。
もちろん、そこには、今は亡き長慶の信頼を一身に受け、京の都の政治のほとんどを任されていた久秀の姿も・・・
一方の筒井順慶(つついじゅんけい)は、大和(やまと=奈良県)の国衆として天文年間(1532年~54年)頃に全盛期を迎えた筒井順昭(じゅんしょう)の息子として
天文十八年(1549年)に生まれますが、その父がわずか2歳の時に病死・・・以来、越智(おち)氏や十市(とおち・とおいち)氏(9月21日=井戸城の戦い参照>>)などの国衆が割拠する中を、一族や宿老に守られながら領国経営をしていく事になりますが、そこに「待った!」をかけたのが、上記の松永久秀だったのです。
永禄二年(1559年)に大和への侵攻を開始した久秀は、奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、同年には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城する力ワザを見せつける一方で、手中に治めた地の寺社には献金もシッカリ納めて反発を防ぎ、筒井氏と同様の立場だった十市氏も味方につけ、順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を孤立させて行きました。
そんなこんなの永禄八年(1565年)5月、かの三好三人衆と久秀らが結託して決行したのが、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)の暗殺(5月19日参照>>)・・・そう、こうして「自分たちの思い通りになる将軍=阿波御所の足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立しよう」って事なのですが、
なんと!そんな将軍暗殺から、わずか半年ほどの同・永禄八年(1565年)11月18日、久秀が筒井城を攻撃をするのです。
と・・・まぁ、ここで「なんと!」とか「わずか半年ほどの…」という個人的な感想を入れたのにはワケがあります。
この時、久秀からの急襲を受けた順慶は、抵抗する間もなく筒井城を出て、筒井方の布施(ふせ)氏の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと慌ただしく落ちるのですが、その理由は「援軍が期待できなかったから…」
援軍が期待できない以上、ここは無理に抵抗してダメージを受けるより、アッサリと撤退して時期を待つ・・・という事なのですが、その当日に期待できなかった援軍というのが三好三人衆からの援軍だったのです。
そう、わずか半年前に、ともに将軍暗殺を決行したはずの三人衆と久秀は、早くも決裂し、三人衆は順慶と同盟を結んでいたんです。
(なので久秀は将軍暗殺を容認していない=三人衆に協力してない説もあります)
そんな三人衆が、この筒井城攻撃の2日前の11月16日、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を精鋭部隊を率いて攻撃・・・すでに、三人衆と順慶が同盟を結んだ事を知っていた久秀は、「未だ同盟者の足並みそろわぬ時に、電光石火で筒井城を攻めれば、飯盛山城に夢中の三人衆は援軍を送れない」と踏んで、筒井城を急襲したのでした。
かくして久秀の手に落ちた筒井城は、位置的には信貴山城の東で多聞城の南・・・ここを要所と考える久秀は、この城に大量の兵糧を搬入して備え、一方の順慶は、奪われた筒井城を奪回すべく度々のゲリラ戦に挑んでいます。(【大和高田城の戦い】参照>>)
ところが年が明けた永禄九年(1566年)、風向きが変わります。
この年の5月、久秀は紀伊(きい=和歌山県)・河内(かわち=大阪府東部・南部)の守護=畠山高政(はたけやまたかまさ)らとともに、例の三好家の後を継いだ義継のいる堺(さかい=大阪府堺市)を攻めるべく、本拠の多聞城を後にしました。
これをチャンスと見た順慶は、明らかに手薄となった筒井城を攻撃・・・周囲に築かれていた松永方の陣所を次々と撃ち破ります。
さらに幸いな事に、堺での戦いの形勢は松永不利で、これ以上戦っても、もはや無益な戦いである事を悟った久秀が、堺の茶人たちに間に入ってもらって和睦交渉を進めている様子・・・つまり、すぐに奈良には戻れない~
で、そんなこんなの6月8日、順慶は筒井城を奪回するのです。
以後、順慶+三好と久秀は、奈良周辺を舞台に戦いを繰り返す事になりますが(その中には大仏殿を焼いてしまう、あの東大寺の戦い(10月10日参照>>)もありますが…)、そんな中で、少々押され気味だった久秀が復活するのが、翌・永禄十一年(1568年)9月・・・
そうです・・・ご存じ織田信長(おだのぶなが)の登場です。
先の将軍暗殺事件で兄=義輝を暗殺された時、からくも興福寺から脱出して(7月28日参照>>)越前(えちぜん=福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとに身を寄せていた足利義昭(よしあき)が、自らを担いでくれる武将を探していた(10月4日参照>>)中で、名乗りを挙げた信長とともに、南近江(滋賀県南部)の名門=六角承禎(じょうてい=義賢)を破り(9月13日参照>>)、三好三人衆を蹴散らして(9月29日参照>>)、永禄十一年(1568年)9月に上洛を果たし、翌月、義昭が第15代室町幕府将軍に就任する(10月18日参照>>)という、あの一件です。
以前にも書きましたが、この時、信長が陣を置いた芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)には「信長傘下に入りたくてたまらない人」がワンサカ訪れ、「門前エ出仕ノ馬車市ヲナシ、耳目ヲ驚カス有様ナリ」(『足利季世記』)と描写されるほどに行列のできる陣所だったワケで・・・
で、そこにスス~~ッと入りこむのが久秀・・・この頃、順慶は未だ19か20の若者でしたが、久秀はもう60歳近いはずですから、大浪小波かき分け、酸いも甘いも味わったオッチャンは、いち早く流行に乗って信長のもとへ馳せ参じ、甥っ子を人質に差し出して臣従を誓い、信長から、「手柄次第切取ヘシ」のお墨付きと2万の援軍の約束を取り付けたのです。
その後も、なんとか信長に抵抗を続ける三人衆でしたが、それも風前の灯・・・と言うか、もはや信長に必死の三好三人衆は、順慶に援軍を出す余裕も無いわけで・・・
そんな風にあおられて、大和の国衆も、どんどん信長傘下を表明していき、順慶は孤立無援となってしまいます。
そんな順慶に引導を渡すべく久秀が攻撃を仕掛けたのは永禄十一年(1568年)10月6日・・・イザとなれば信長からの援軍も期待できる松永勢の士気は高く、鬨(とき)の声高く押し寄せて城下に放火し、ことごとく焼き払いました。
なんとか命がけの抵抗する順慶主従でしたが、次第に味方の数も減って行き、やむなく、攻撃開始から2日後の10月8日夕刻、順慶は城を落ち、福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して峠を越えて行ったのでした。
こうして、幾度にも及んだ筒井城攻防戦は終結しましたが、ご存じのように松永久秀VS筒井順慶の戦いが終わったわけではありません。
今後は、順慶も久秀も、そして三好三人衆も、信長VS石山本願寺という大きな波に呑まれつつ、それぞれの道を歩んで行く事になります。
久秀=【乱世の梟雄・久秀~運命の日爆死!】
順慶=【筒井順慶・36歳…無念の死】
三好三人衆=【信長VS三好の野田福島の戦い】
もご参照くださいm(_ _)m
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