キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防
永禄三年(1560年)11月24日、大和攻略を開始した松永久秀が沢城を落としました。
・・・・・・・・・・・
先日=11月18日の日付けでご紹介させていただいたに松永久秀(まつながひさひで)よる大和(やまと=奈良県)攻略戦です。
そのページに書かせていただいたように(11月18日参照>>)、
三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の右筆(うひつ=秘書のような家臣)として頭角を現した松永久秀は、やがて三好家でも指折りの重臣となり、永禄二年(1559年)に大和への侵攻を開始して、奈良盆地に点在した諸城を攻略していくのですが・・・
その中の一つが、今回の大和(やまと=奈良県)宇陀(うだ)にあった沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)の攻略・・・
←かつて初瀬街道から伊勢本街道の要所として栄えた榛原宿の面影を残す旧旅籠=あぶらや(宇陀市榛原)
沢城は、現在の宇陀市街&近鉄:榛原(はいばら)駅から南へ少しの伊那佐山(いなさやま)の支峰=天然の要害に囲まれた場所に築かれた山城で、興福寺(こうふくじ)の荘園の現地での管理実務を任されていた「宇陀三将」の一人=沢(さわ)氏の城でした。
南北朝時代から戦国期にかけては、国境を接する伊勢(いせ=三重県)守護の北畠(きたばたけ)氏に属しながらも、一揆や紛争で近隣との抗争を重ねつつ、実力で荘園を支配する国人領主となり、この永禄の頃には沢房満(さわふさみつ:房満の没年が不明なので、もしかしたら源六郎かも?)が城主を勤めていたところに、上記の久秀の登場です。
永禄三年(1560年)11月24日、配下の摂津(せっつ=大阪府北部)衆を率いて大挙押し寄せた松永勢を目の当たりにして、不毛な戦いを避けたであろう房満は、久秀と話し合いの末、沢城を明け渡して、自身は伊賀へと退去したと言います。
こうして、久秀の手に渡った沢城に、新しい城主として配置されたのが、当時は、久秀の家臣だった高山友照(たかやまともてる)・・・そう、キリシタン大名として有名な高山右近重友(うこんしげとも)のお父さんです。
なので、今回の沢城・・・実は、その高山右近がキリシタンになった=洗礼を受けた場所として、けっこう知られた城だったりします。
それは、友照が沢城主となって3年が過ぎた永禄六年(1563年)の事・・・
去る天文十八年(1549年)に、あのがフランシスコ・ザビエルが来日して布教活動を始めて(12月3日参照>>)以来、西は九州から徐々に東へと浸透しつつあったキリスト教は、永禄五年(1562年)には、宣教師が「堺でのクリスマスパーティは大盛況だったよ!」と本国への手紙で報告するくらいになっていたようで(12月24日参照>>)
すでに京都にも教会を開き、上り調子の一途をたどるキリスト教に対して、当然、おもしろくないのは、おそらく信者を持っていかれたであろう僧侶たち・・・
で、ここに来て、イエズス会の中心宣教師であったガスパル・ヴィレラが堺を訪問することを知った堺の僧たちは、同じく上り調子で熱心な仏教徒だった久秀に
「宣教師なんか追放したっておくなはれ!」
とばかりに働きかけたのです。
しかし、そこは後にあの織田信長(おだのぶなが)が憧れるほど(12月26日参照>>)のセンスの良さと先見性のある久秀・・・頭ごなしに反対するのではなく、ちゃんと取り調べをして、何か不審な点が無いかどうか?吟味してから結論を出す事に・・・
かくして、久秀の学問の師で明経博士(みょうぎょうはかせ=明経道という儒学の教授)であった清原枝賢(きよはらのえだかた・しげかた)という人物が、ヴィレラの代理として奈良にやって来た日本人イエズス会員=ロレンソ了斎(りょうさい)と対決する事となります。
個人的には、「取り調べ」というよりは、後に信長の命で行われる『安土宗論(あづちしゅうろん)』(5月27日参照>>)のような感じだったのかな?と想像してますが・・・
で、その時に、第三者的な冷静な立場で両者の宗論を見て、適格な審査ができるようにと同席をしたのが、久秀の腹心であった結城忠正(ゆうき ただまさ)と高山友照だったのです。
なんせ、儒学の教授VSキリスト教ドップリの日本人・・・おそらくは侃侃諤諤(かんかんがくがく)で一触即発(いっしょくそくはつ)の雰囲気になるであろう事が予想されますから・・・現に「ヴィレラにもしもの事があってはいけない」からこそ、その代理のロレンソが現地入りしたわけですし・・・
ところがドッコイ、フタを開けてみたら、なんと、ロレンソ側の論破&論破の嵐!!・・・いや、実際には、何日にも渡って議論は行われているし、その場で入信したわけでは無いので、「論破」というよりは「徐々に感化されていった」という感じですかね?
そう、実は、このあと高山友照はもちろん、同席した結城忠正も・・・そして、清原枝賢までもがキリスト教に入信しちゃうんです。
清原枝賢なんか・・・後に、父の影響を受けた娘さん=いと(洗礼名=マリア)が、侍女として仕えていたあの細川ガラシャ(玉)に洗礼を授けるという大役をこなす(7月17日参照>>)ほどのドップリぶりになってしまうんですから・・・
とにもかくにも、その宗論の日から、友照は何度もヴィレラに手紙を書き、再びロレンソに沢城に来てもらってキリスト教の講義を開いたりして、結果的に、友照以下、家族全員や主だった家臣たちもが、ロレンソから洗礼を受ける事になります。
もちろん、この時、11~12歳の少年だった息子の高山右近も・・・やがて永禄八年(1565年)頃には、城内に礼拝堂が建てられ、その頃の友照(洗礼名=ダリオ)は、朝夕礼拝にあけくれる日々を送っていたようです。
とは言え、当然ですが、沢城を追われた形の沢房満も、このままおとなしくしているはずはなく、沢城の奪回を目指して度々の合戦を仕掛けていたのですが・・・
そんな中、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によると・・・
ある時、友照が毎日、朝夕に礼拝堂の窓辺に立つ習慣がある事を知った一人の農民が、伊賀に潜伏中の房満に言います。
「窓辺に立っているところを鉄砲で狙えば、1発でイケまっせ!」
と・・・
2~3000の兵を率いた房満が城の周辺に待機し、それとは別の先鋒=鉄砲隊が窓辺の友照を襲撃した後、その勢いのまま城門を開いた先鋒の誘導にて本隊が一気に城へと侵入・・・という計画を立てて実行に移そうとしますが、
実は、その農民君には、すでにキリスト教に入信していた友人がいて、その計画は沢城に筒抜け・・・間もなく、その農民は沢城に呼び出されて処刑されたのだとか・・・
しかし世は戦国、沢城の高山家も永遠ではなく・・・
やがて永禄十年(1567年)、それこそ先日書かせていただいた松永久秀VS筒井順慶(つついじゅんけい)の筒井城攻防戦で(再び11月18日参照>>)、ヤバイ感じになった久秀が、もはや沢城どころでは無い状態になっていたところをうまく突いて、房満が見事!沢城を奪回するのです。
そんなこんなの翌年=永禄十一年(1568年)、ご存じのように織田信長(おだのぶなが)が足利義昭(よしあき=室町幕府15代将軍)(10月18日参照>>)を奉じて上洛して来ますが、この時に、松永久秀が信長傘下を表明した事で、友照は、室町幕府の幕臣=和田惟政(わだこれまさ)の配下に据えられて、信長が三好家から奪った芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)にはに入る事になります。
その後、その惟政が亡くなると、今度は荒木村重(あらきむらしげ)の下に付けられるものの、例の村重の謀反(12月16日参照>>)で、父=友照は村重に、息子=右近は信長に着いた事で、それ以降の高山家は右近にバトンタッチして、織田政権から豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代を生き抜いて行く(1月5日参照>>)事になります。
一方の沢房満は・・・
沢城奪回後も、やはり北畠に属しつつ東方への領地拡大を計っていたようですが、コチラにも信長さんの侵攻が・・・
永禄十二年(1569年)の大河内城(おおかわちじょう・三重県松坂市)での戦いにて北畠に勝利した信長は、和睦の条件として、自らの次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)を当主=北畠具教(きたばたけとものり)の養子として送り込んで、この名門家を継がせた後、天正四年(1576年)の三瀬の変によって北畠を滅亡に追い込んだのです(11月25日参照>>)。
この時、房満の弟は信長に反発したものの、房満自身は参加しなかったため天正五年(1577年)に赦免され、その後は、北畠を継いだ信雄の配下となって織田に組み込まれて生き残りますが、この頃から、おそらくは房満の息子であろう沢源六郎(さわげんろくろう)が沢氏の中心人物となって行くので、コチラも父子バトンタッチして織田から秀吉の時代を生き抜いていったと思われます。
こうして、一連の流れを見てみると、もともとは奈良を巡って群雄割拠していた松永久秀も筒井順慶も、高山友照も沢房満も、紆余曲折&時間の前後はあるにせよ、結果的には、全員が信長の傘下となるわけで・・・
そのやり方のすべてに、賛同はできかねる力ワザではあるものの、「天下を取る」「乱世を終わらせる」という事は、こういう事なのかなぁ?~とつくづく・・・
とは言え、そんな信長さんも志半ばで本能寺に倒れ、乱世の終わりは、もう少し先ではありますが・・・
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 武田信玄の伊那侵攻~高遠頼継との宮川の戦い(2024.09.25)
- 宇都宮尚綱VS那須高資~喜連川五月女坂の戦い(2024.09.17)
- 朝倉宗滴、最後の戦い~加賀一向一揆・大聖寺城の戦い(2024.07.23)
- 織田信長と清須の変~織田信友の下剋上(2024.07.12)
- 斎藤妙純VS石丸利光の船田合戦~正法寺の戦い(2024.06.19)
コメント
神話を歴史に含めるのをやめましょう
投稿: | 2016年12月 1日 (木) 03時03分
できますれば、関連のあるページにコメントしていただきたいのですが…
神話関連のページはご覧になっていないようですが、どのページをご覧になってそのように思われましたか?
ご覧になったページが解らないので一般的な回答をさせていただきますが…
恥ずかしながら、私には未だに、記紀の記述の中で、どこまでが神話で、どこからが歴史なのかの明確な線引きができかねているのです。
現在、手元にある歴史教科書の『古墳時代の信仰』の項の『出雲大社』の部分には、
「大国主命が天照大神への国譲りの条件に、神の国にあるような宮殿を要求してつくられたと伝えられる」という説明文とともに、近年発掘された柱から推測される高層の本殿の模型写真が掲載されていますが、これは神話ですか?歴史に含めますか?
ご教示いただければ幸いです。
また、信仰的な事も含め、伝説や伝承というのは、古代のみにならず、いつの時代にもある物で、
確かに、その伝承がどこまで真実に近いのかという事も重要なれど、
一方では、それがどのように生まれたのか?
その後、いかにして何百年にも渡って伝承されたのか?
なぜに現代まで脈々と受け継がれて来たのか?
などの理由や経緯や伝わる土壌にも意味があり、そこに時代や歴史という物が関係していると個人的には考えておるのですが、その点は、どのようにお考えになられますでしょうか?
おっしゃるように、切り離して考えられる物なのでしょうか?
最後に、このブログは表題の通り「管理人=茶々の徒然なる日記」でありますので、あくまで私個人的好みによって話やテーマを決めさせていただいております事。
また、年表やカテゴリは、あくまで、2500以上あるページの中から見たい記事を探す際に便利なように区分けした物であって、正式なジャンル分けとは必ずしも同じであるとは限らない事。
などなどの点をご理解いただきつつ、
某公共放送の「歴史秘話ヒ○トリア」にも神話の回はある事ですし…そんなバラエティ的な雰囲気で気軽に見ていただければありがたいと思います。
投稿: 茶々 | 2016年12月 1日 (木) 05時37分