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2016年11月24日 (木)

キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防

 

永禄三年(1560年)11月24日、大和攻略を開始した松永久秀が沢城を落としました。

・・・・・・・・・・・

先日=11月18日の日付けでご紹介させていただいたに松永久秀(まつながひさひで)よる大和(やまと=奈良県)攻略戦です。

そのページに書かせていただいたように(11月18日参照>>)
三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)右筆(うひつ=秘書のような家臣)として頭角を現した松永久秀は、やがて三好家でも指折りの重臣となり、永禄二年(1559年)に大和への侵攻を開始して、奈良盆地に点在した諸城を攻略していくのですが・・・

その中の一つが、今回の大和(やまと=奈良県)宇陀(うだ)にあった沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)の攻略・・・

Dscn1146a600 ←かつて初瀬街道から伊勢本街道の要所として栄えた榛原宿の面影を残す旧旅籠=あぶらや(宇陀市榛原)

沢城は、現在の宇陀市街&近鉄榛原(はいばら)から南へ少しの伊那佐山(いなさやま)の支峰=天然の要害に囲まれた場所に築かれた山城で、興福寺(こうふくじ)荘園の現地での管理実務を任されていた「宇陀三将」の一人=(さわ)の城でした。

南北朝時代から戦国期にかけては、国境を接する伊勢(いせ=三重県)守護の北畠(きたばたけ)に属しながらも、一揆や紛争で近隣との抗争を重ねつつ、実力で荘園を支配する国人領主となり、この永禄の頃には沢房満(さわふさみつ:房満の没年が不明なので、もしかしたら源六郎かも?)が城主を勤めていたところに、上記の久秀の登場です。

永禄三年(1560年)11月24日、配下の摂津(せっつ=大阪府北部)を率いて大挙押し寄せた松永勢を目の当たりにして、不毛な戦いを避けたであろう房満は、久秀と話し合いの末、沢城を明け渡して、自身は伊賀へと退去したと言います。

こうして、久秀の手に渡った沢城に、新しい城主として配置されたのが、当時は、久秀の家臣だった高山友照(たかやまともてる)・・・そう、キリシタン大名として有名な高山右近重友(うこんしげとも)お父さんです。

なので、今回の沢城・・・実は、その高山右近がキリシタンになった=洗礼を受けた場所として、けっこう知られた城だったりします。

それは、友照が沢城主となって3年が過ぎた永禄六年(1563年)の事・・・

去る天文十八年(1549年)に、あのがフランシスコ・ザビエルが来日して布教活動を始めて(12月3日参照>>)以来、西は九州から徐々に東へと浸透しつつあったキリスト教は、永禄五年(1562年)には、宣教師が「堺でのクリスマスパーティは大盛況だったよ!」と本国への手紙で報告するくらいになっていたようで(12月24日参照>>)

すでに京都にも教会を開き、上り調子の一途をたどるキリスト教に対して、当然、おもしろくないのは、おそらく信者を持っていかれたであろう僧侶たち・・・

で、ここに来て、イエズス会の中心宣教師であったガスパル・ヴィレラが堺を訪問することを知った堺の僧たちは、同じく上り調子で熱心な仏教徒だった久秀に
「宣教師なんか追放したっておくなはれ!」
とばかりに働きかけたのです。

しかし、そこは後にあの織田信長(おだのぶなが)が憧れるほど(12月26日参照>>)センスの良さと先見性のある久秀・・・頭ごなしに反対するのではなく、ちゃんと取り調べをして、何か不審な点が無いかどうか?吟味してから結論を出す事に・・・

かくして、久秀の学問の師で明経博士(みょうぎょうはかせ=明経道という儒学の教授)であった清原枝賢(きよはらのえだかた・しげかた)という人物が、ヴィレラの代理として奈良にやって来た日本人イエズス会員=ロレンソ了斎(りょうさい)対決する事となります。

個人的には、「取り調べ」というよりは、後に信長の命で行われる『安土宗論(あづちしゅうろん)(5月27日参照>>)のような感じだったのかな?と想像してますが・・・

で、その時に、第三者的な冷静な立場で両者の宗論を見て、適格な審査ができるようにと同席をしたのが、久秀の腹心であった結城忠正(ゆうき ただまさ)と高山友照だったのです。

なんせ、儒学の教授VSキリスト教ドップリの日本人・・・おそらくは侃侃諤諤(かんかんがくがく)一触即発(いっしょくそくはつ)の雰囲気になるであろう事が予想されますから・・・現に「ヴィレラにもしもの事があってはいけない」からこそ、その代理のロレンソが現地入りしたわけですし・・・

ところがドッコイ、フタを開けてみたら、なんと、ロレンソ側の論破&論破の嵐!!・・・いや、実際には、何日にも渡って議論は行われているし、その場で入信したわけでは無いので、「論破」というよりは「徐々に感化されていった」という感じですかね?

そう、実は、このあと高山友照はもちろん、同席した結城忠正も・・・そして、清原枝賢までもがキリスト教に入信しちゃうんです。

清原枝賢なんか・・・後に、父の影響を受けた娘さん=いと(洗礼名=マリア)が、侍女として仕えていたあの細川ガラシャ(玉)洗礼を授けるという大役をこなす(7月17日参照>>)ほどのドップリぶりになってしまうんですから・・・

とにもかくにも、その宗論の日から、友照は何度もヴィレラに手紙を書き、再びロレンソに沢城に来てもらってキリスト教の講義を開いたりして、結果的に、友照以下、家族全員や主だった家臣たちもが、ロレンソから洗礼を受ける事になります。

もちろん、この時、11~12歳の少年だった息子の高山右近も・・・やがて永禄八年(1565年)頃には、城内に礼拝堂が建てられ、その頃の友照(洗礼名=ダリオ)は、朝夕礼拝にあけくれる日々を送っていたようです。

とは言え、当然ですが、沢城を追われた形の沢房満も、このままおとなしくしているはずはなく、沢城の奪回を目指して度々の合戦を仕掛けていたのですが・・・

そんな中、宣教師ルイス・フロイス『日本史』によると・・・

ある時、友照が毎日、朝夕に礼拝堂の窓辺に立つ習慣がある事を知った一人の農民が、伊賀に潜伏中の房満に言います。

「窓辺に立っているところを鉄砲で狙えば、1発でイケまっせ!」
と・・・

2~3000の兵を率いた房満が城の周辺に待機し、それとは別の先鋒=鉄砲隊が窓辺の友照を襲撃した後、その勢いのまま城門を開いた先鋒の誘導にて本隊が一気に城へと侵入・・・という計画を立てて実行に移そうとしますが、

実は、その農民君には、すでにキリスト教に入信していた友人がいて、その計画は沢城に筒抜け・・・間もなく、その農民は沢城に呼び出されて処刑されたのだとか・・・

しかし世は戦国、沢城の高山家も永遠ではなく・・・
やがて永禄十年(1567年)、それこそ先日書かせていただいた松永久秀VS筒井順慶(つついじゅんけい)筒井城攻防戦(再び11月18日参照>>)、ヤバイ感じになった久秀が、もはや沢城どころでは無い状態になっていたところをうまく突いて、房満が見事!沢城を奪回するのです。

そんなこんなの翌年=永禄十一年(1568年)、ご存じのように織田信長(おだのぶなが)足利義昭(よしあき=室町幕府15代将軍)(10月18日参照>>)を奉じて上洛して来ますが、この時に、松永久秀が信長傘下を表明した事で、友照は、室町幕府の幕臣=和田惟政(わだこれまさ)の配下に据えられて、信長が三好家から奪った芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)にはに入る事になります。

その後、その惟政が亡くなると、今度は荒木村重(あらきむらしげ)の下に付けられるものの、例の村重の謀反(12月16日参照>>)で、父=友照は村重に、息子=右近は信長に着いた事で、それ以降の高山家は右近にバトンタッチして、織田政権から豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代を生き抜いて行く(1月5日参照>>)事になります。

一方の沢房満は・・・
沢城奪回後も、やはり北畠に属しつつ東方への領地拡大を計っていたようですが、コチラにも信長さんの侵攻が・・・

永禄十二年(1569年)の大河内城(おおかわちじょう・三重県松坂市)での戦いにて北畠に勝利した信長は、和睦の条件として、自らの次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)を当主=北畠具教(きたばたけとものり)の養子として送り込んで、この名門家を継がせた後、天正四年(1576年)の三瀬の変によって北畠を滅亡に追い込んだのです(11月25日参照>>)

この時、房満の弟は信長に反発したものの、房満自身は参加しなかったため天正五年(1577年)に赦免され、その後は、北畠を継いだ信雄の配下となって織田に組み込まれて生き残りますが、この頃から、おそらくは房満の息子であろう沢源六郎(さわげんろくろう)が沢氏の中心人物となって行くので、コチラも父子バトンタッチして織田から秀吉の時代を生き抜いていったと思われます。

こうして、一連の流れを見てみると、もともとは奈良を巡って群雄割拠していた松永久秀も筒井順慶も、高山友照も沢房満も、紆余曲折&時間の前後はあるにせよ、結果的には、全員が信長の傘下となるわけで・・・

そのやり方のすべてに、賛同はできかねる力ワザではあるものの、「天下を取る」「乱世を終わらせる」という事は、こういう事なのかなぁ?~とつくづく・・・

とは言え、そんな信長さんも志半ばで本能寺に倒れ、乱世の終わりは、もう少し先ではありますが・・・
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2016年11月18日 (金)

松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦

 

永禄八年(1565年)11月18日、松永久秀が筒井氏の大和筒井城を攻略・・・追われた筒井順慶は布施城へ入りました。

・・・・・・・・

その出自や経歴は諸説あれど・・・
畿内で一大勢力を誇った三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として歴史上に登場する松永久秀(まつながひさひで)・・・

しかし、その三好家では、
永禄四年(1561年)に長慶の3番目の弟=一存(そごうかずまさ・かずなが)を失った(5月1日参照>>)のを皮切りに、
続く、永禄五年(1562年)には、長慶のすぐ下の弟=義賢(よしかた・実休(3月5日参照>>)
その翌年=永禄六年(1563年)には長慶の息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を、
さらにその翌年=永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入ったを長慶自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念からか?その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は廃人のようになってこの世を去ってしまう(5月9日参照>>)のです。

そんな不幸続きの三好家と反比例するように、家内で大きな力を持っていく久秀・・・なので、「これら一連の死に、久秀が関与している」との話もありますが、そこのところは、確固たる証拠も無いので何とも言えません。

とにもかくにも、ここで、当時の天下人とも言える位置にいた長慶と、それに続く弟や息子までも失った三好家では、長慶の甥=三好義継(よしつぐ)を当主に迎え、未だ若き主君を支える補佐役=三好三人衆三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)の3人を中心に盛りたてて行く事になりました。

もちろん、そこには、今は亡き長慶の信頼を一身に受け、京の都の政治のほとんどを任されていた久秀の姿も・・・

Tutuizyunkei600a 一方の筒井順慶(つついじゅんけい)は、大和(やまと=奈良県)の国衆として天文年間(1532年~54年)頃に全盛期を迎えた筒井順昭(じゅんしょう)の息子として
天文十八年(1549年)に生まれますが、その父がわずか2歳の時に病死・・・以来、越智(おち)十市(とおち・とおいち)(9月21日=井戸城の戦い参照>>)などの国衆が割拠する中を、一族や宿老に守られながら領国経営をしていく事になりますが、そこに「待った!」をかけたのが、上記の松永久秀だったのです。

永禄二年(1559年)に大和への侵攻を開始した久秀は、奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、同年には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城する力ワザを見せつける一方で、手中に治めた地の寺社には献金もシッカリ納めて反発を防ぎ、筒井氏と同様の立場だった十市氏も味方につけ、順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を孤立させて行きました。

そんなこんなの永禄八年(1565年)5月、かの三好三人衆と久秀らが結託して決行したのが、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)・・・そう、こうして「自分たちの思い通りになる将軍=阿波御所の足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立しよう」って事なのですが、

Matunagahisahide600a なんと!そんな将軍暗殺から、わずか半年ほどの同・永禄八年(1565年)11月18日久秀が筒井城を攻撃をするのです。

と・・・まぁ、ここで「なんと!」とか「わずか半年ほどの…」という個人的な感想を入れたのにはワケがあります。

この時、久秀からの急襲を受けた順慶は、抵抗する間もなく筒井城を出て、筒井方の布施(ふせ)の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと慌ただしく落ちるのですが、その理由は「援軍が期待できなかったから…」

援軍が期待できない以上、ここは無理に抵抗してダメージを受けるより、アッサリと撤退して時期を待つ・・・という事なのですが、その当日に期待できなかった援軍というのが三好三人衆からの援軍だったのです。

そう、わずか半年前に、ともに将軍暗殺を決行したはずの三人衆と久秀は、早くも決裂し、三人衆は順慶と同盟を結んでいたんです。
(なので久秀は将軍暗殺を容認していない=三人衆に協力してないもあります)

そんな三人衆が、この筒井城攻撃の2日前の11月16日、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)精鋭部隊を率いて攻撃・・・すでに、三人衆と順慶が同盟を結んだ事を知っていた久秀は、「未だ同盟者の足並みそろわぬ時に、電光石火で筒井城を攻めれば、飯盛山城に夢中の三人衆は援軍を送れない」と踏んで、筒井城を急襲したのでした。

かくして久秀の手に落ちた筒井城は、位置的には信貴山城の東で多聞城の南・・・ここを要所と考える久秀は、この城に大量の兵糧を搬入して備え、一方の順慶は、奪われた筒井城を奪回すべく度々のゲリラ戦に挑んでいます。(【大和高田城の戦い】参照>>)

ところが年が明けた永禄九年(1566年)、風向きが変わります。

この年の5月、久秀は紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部・南部)の守護=畠山高政(はたけやまたかまさ)らとともに、例の三好家の後を継いだ義継のいる(さかい=大阪府堺市)を攻めるべく、本拠の多聞城を後にしました。

これをチャンスと見た順慶は、明らかに手薄となった筒井城を攻撃・・・周囲に築かれていた松永方の陣所を次々と撃ち破ります。

さらに幸いな事に、堺での戦いの形勢は松永不利で、これ以上戦っても、もはや無益な戦いである事を悟った久秀が、堺の茶人たちに間に入ってもらって和睦交渉を進めている様子・・・つまり、すぐに奈良には戻れない~

で、そんなこんなの6月8日、順慶は筒井城を奪回するのです。

以後、順慶+三好と久秀は、奈良周辺を舞台に戦いを繰り返す事になりますが(その中には大仏殿を焼いてしまう、あの東大寺の戦い(10月10日参照>>)もありますが…)、そんな中で、少々押され気味だった久秀が復活するのが、翌・永禄十一年(1568年)9月・・・

そうです・・・ご存じ織田信長(おだのぶなが)の登場です。

先の将軍暗殺事件で兄=義輝を暗殺された時、からくも興福寺から脱出して(7月28日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとに身を寄せていた足利義昭(よしあき)が、自らを担いでくれる武将を探していた(10月4日参照>>)中で、名乗りを挙げた信長とともに、南近江(滋賀県南部)の名門=六角承禎(じょうてい=義賢)を破り(9月13日参照>>)三好三人衆を蹴散らして(9月29日参照>>)、永禄十一年(1568年)9月に上洛を果たし、翌月、義昭が第15代室町幕府将軍に就任する(10月18日参照>>)という、あの一件です。

以前にも書きましたが、この時、信長が陣を置いた芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)には「信長傘下に入りたくてたまらない人」がワンサカ訪れ、「門前エ出仕ノ馬車市ヲナシ、耳目ヲ驚カス有様ナリ」(『足利季世記』)と描写されるほどに行列のできる陣所だったワケで・・・

で、そこにスス~~ッと入りこむのが久秀・・・この頃、順慶は未だ19か20の若者でしたが、久秀はもう60歳近いはずですから、大浪小波かき分け、酸いも甘いも味わったオッチャンは、いち早く流行に乗って信長のもとへ馳せ参じ、甥っ子を人質に差し出して臣従を誓い、信長から、「手柄次第切取ヘシ」のお墨付きと2万の援軍の約束を取り付けたのです。

その後も、なんとか信長に抵抗を続ける三人衆でしたが、それも風前の灯・・・と言うか、もはや信長に必死の三好三人衆は、順慶に援軍を出す余裕も無いわけで・・・

そんな風にあおられて、大和の国衆も、どんどん信長傘下を表明していき、順慶は孤立無援となってしまいます。

そんな順慶に引導を渡すべく久秀が攻撃を仕掛けたのは永禄十一年(1568年)10月6日・・・イザとなれば信長からの援軍も期待できる松永勢の士気は高く、鬨(とき)の声高く押し寄せて城下に放火し、ことごとく焼き払いました。

なんとか命がけの抵抗する順慶主従でしたが、次第に味方の数も減って行き、やむなく、攻撃開始から2日後の10月8日夕刻、順慶は城を落ち福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して峠を越えて行ったのでした。

こうして、幾度にも及んだ筒井城攻防戦は終結しましたが、ご存じのように松永久秀VS筒井順慶の戦いが終わったわけではありません。

今後は、順慶も久秀も、そして三好三人衆も、信長VS石山本願寺という大きな波に呑まれつつ、それぞれの道を歩んで行く事になります。

久秀=【乱世の梟雄・久秀~運命の日爆死!】
順慶=【筒井順慶・36歳…無念の死】
三好三人衆=【信長VS三好の野田福島の戦い】
もご参照くださいm(_ _)m
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2016年11月12日 (土)

アンケート企画…グッ!と来る名言or金言は?in歴史関連

 

さて、久々にアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
あなたがグッ!と来る「一押しの名言or金言は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

ただ、ここは歴史・日本史ブログでございますので、あくまで歴史上の人物関連や古典文学からの出典などでの名言&金言でお願いしたいと思います。

06ilbc02100 とは言え、その数は限りなく多いですし、同じ人物が複数の名言を残している事もありますので、今回も、私個人の独断と好みで選択肢を選ばせていただいた事、お遊び感覚のアンケート投票である事をご理解下さいませ。

さぁ!是非とも、あなた自身が「コレはイイ!」とか「ためになる!」など、日頃から心に留めておきたい『言葉』清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 聖徳太子=『十七条憲法』の一説
    上和(かみやわら)ぎ、下睦(しもむつ)びて、
    事を論
    (あげつら)うに諧(かな)うときは、
    事理おのずから通ず

    上司と部下がお互いを思い合って腹割って話し合えば、きっと理解し合える!(参照ページ>>)
  2. 『平家物語』の冒頭
    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、
    沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす

    世の中、栄枯盛衰~過ぎた事をくよくよしなさんな!…(参照ページ>>)
  3. 『曽我物語』の一説
    水いたって清ければ底に魚すまず、
    人いたって賢なれば内に友なし

    「水清ければ魚住まず」人は完璧過ぎると孤独なのよん…(参照ページ>>)
  4. 吉田兼好=『徒然草』の一説
    何方(いずかた)をも捨てじと心に
    とり持ちては、一事も成るべからず

    何でもカンでもに手を出してたら全部中途半端で、結局は一つも完成せーへんねんで!(参照ページ>>)
  5. 親鸞…『御臨末雄書』より
    一人居て喜ばば二人と思うべし、
    二人居て喜ばば三人と思うべし

    あなたがうれしいと私もうれしい~ふたりなら喜びは二倍になるわよ!(参照ページ>>)
  6. 世阿弥=『花鏡』より
    初心、忘るべからず
    意味は言わずともお解りですね…(参照ページ>>)
  7. 『太平記』=第26巻の一場面
    鎧を不与(ふよ)は、上山命に代らんや。
    情は人の為ならずとは、
    加様
    (かよう)の事をぞ申(もうす)べき
    高師直(こうのもろなお)が自らの鎧を与えて情けをかけた上山という家臣が、合戦で彼の身代わりとなって討死した事から「情けは人の為ならず」とはこの事だ=その情けはいずれ自分に戻って来ると…(参照ページ>>)
  8. 朝倉宗滴=『朝倉宗滴話記』より
    功者の大将と申すは、
    一度大事の後に合ひたるを申すべく候

    優れた大将っちゅーのは、1回思いっきり失敗してから、もっかい這い上がった者を言う(参照ページ>>)
  9. 山中鹿之助の母=『常山紀談』より
    己につき従う人を捨て殺し候な
    「なんぼ落ち目になっても、今まで自分を慕ってくれた人を見捨てたらアカンよ」…『常山紀談』(参照ページ>>)の中で山中鹿之助(参照ページ>>)の母が息子に言う言葉
  10. 石田三成の軍旗
    『大一大吉大万』

    「one for all all for one=一人はみんなのために、みんなは一人のために頑張れば、みんなが幸せになれる」~名言というよりは、先日の「エンブレム選手権」でもご紹介した三成の軍旗に書かれた言葉ですが…(参照ページ>>)
  11. 宮本武蔵=『五輪書』より
    千里の道も、ひと足ずつはこぶなり
    千里の道も一歩から(参照ページ>>)
  12. 徳川家康=『東照公遺訓』より
    人の一生は、重き荷を負うて
    遠き道を行くが如し、
    急ぐべからず

    えぇ言葉やし、まぁ、本人が言うた事にしときましょ…(参照ページ>>)
  13. 黒田如水=『黒田如水教論』より
    神仏の罰より主君の罰を恐るべし
    主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし

    「神仏の罰より、上司の罰より、民衆の罰が1番怖いねんで~」と、今の政治家さんに言うてみたい…(参照ページ>>)
  14. 中江藤樹の言葉
    父母の恩徳は天よりも高く海よりも深し
    無償の愛ですね~…(参照ページ>>)
  15. 二宮尊徳(金次郎)=『二宮翁夜話』より
    大なる事を欲して小なる事を怠り、
    出来難き事を憂ひて出来易き事を勤めず

    大きい事ばっかりやろうと、足元の小さい事を疎かにして「できひん」「できひん」と嘆くより、まずは、目の前の小さい事から片付けてみようや!(参照ページ>>)
  16. 山本常朝=『葉隠』より
    不仕合わせのとき草臥(くたび)れる者は、
    (やく)に立たざるなり
    調子のええ時は大きい事言うておきながら、不調になったら塞ぎ込むようなヤツは役に立たんゾ!(参照ページ>>)
  17. 井原西鶴=『日本永代蔵』より
    生あれば食(じき)あり、世に住むからは
    何事も案じたるがそんなり

    「人間、生きてたら、どないかして食べていけるもんやよって、アレコレと悩んでばっかりいてたら、人生ツマランで」(参照ページ>>)
  18. 上杉鷹山
    成せば成る、成さねば成らぬ何事も、
    成らぬは人の成さぬなりけり

    似てる言いまわしをした人が複数人いるんですが、とりあえず1番有名なので…(参照ページ>>)
  19. 滝沢馬琴=『古夢南柯後記』より
    物はとかく時節をまたねば、
    願ふ事も成就でず
    短慮は功をなさず
    「物事は、その絶好のチャンスを待たんと…焦ったら叶う願い事も叶えへんで!」(参照ページ>>)
  20. 橘曙覧和歌
    花めきて しばし見ゆるも すゞなその
    田廬
    (たぶせのいほ)に 咲けばなりけり
    殿様から出仕を依頼された曙覧は「雑草は道端に咲いてるから良いんです」と…(参照ページ>>)
  21. 坂本龍馬和歌
    世の人は われになにとも ゆはばゆへ
    わがなすことは われのみぞしる

    カッコええなぁ~こんな歌残すから、何回もドラマの主役になれんねんな…(参照ページ>>)
  22. 平塚雷鳥=雑誌『青』より
    元始女性は実に太陽であった。
    そして「若いツバメ」も飛んで来る…(参照ページ>>)
  23. その他
    「やっぱ、この人のアレでしょう」っていう項目がありましたらお知らせください

沢山浮かびましたが、とりあえず、上記の23項目に絞ってみました。

・‥…━━━☆

勝手ながら、このアンケートは、11月26日締め切りとさせていただきました。

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラのページ>>でどうぞm(_ _)m
 

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2016年11月 4日 (金)

安宅水軍の衰退を招いた内紛~安宅一乱

 

享禄三年(1530年)11月4日、室町時代に一大勢力を誇った安宅水軍が衰退するキッカケとなった安宅一乱が勃発しました。

・・・・・・・・・

日置川(ひきがわ=和歌山県西牟婁郡付近)の河口近くの安宅荘を拠点とする安宅(あたぎ)は、清和源氏の流れを汲み鎌倉初期に活躍した小笠原長清(おがさわらながきよ)の末裔で、阿波(あわ=徳島県)から、この地に移り住んだと言います。

この家系伝承の真偽のほどは定かではありませんが、室町時代初め頃には海上交通に長けた一団として歴史上に登場し、近隣の周参見(すさみ)名跡を継いだり、近隣の国人領主らと姻戚関係を結んだりして徐々に力をつけて行く中、戦国乱世真っただ中に当主となった安宅実俊(あたぎさねとし)が、宗教的にも、そして熊野水軍という一大勢力にも強い威力を持つ那智山別当家(べっとう=熊野三山を統轄)実方院(じっぽういん)娘を正室に迎えた事で、この戦国時代の安宅家は、安宅本城(あたぎほんじょう=和歌山県西牟婁郡白浜町)を中心に、紀伊水道の制海権を握る一大水軍として隆盛を極めていたのです。

しかし・・・
そんなこんなの大永六年(1526年)、その実俊が病死した時、その後を継ぐべき息子=安宅安定(やすさだ)が未だ幼かった事から、実俊の弟である安宅定俊(さだとし)が、
「ほな、安定が15歳になったら当主の座を変換するんで、とりあえず、それまでは僕が家督を預かっときますわ~」
と、この先モメる臭いプンプンの展開に・・・

『安宅一乱記』によると・・・
(軍記物なのですべてを鵜呑みにはできませんが、なんだかんだで争乱については最もくわしいので、とりあえず『安宅一乱記』を参照させていただきます)

案の定・・・
安定が15歳になった享禄三年(1530年)正月、定俊の居城である八幡山城やわたやまじょう・はちまんやまじょう=同西牟婁郡白浜町)で行われた新年会に出席した安定づきの家老が、
「ぼちぼち変換してもろても…」
と、家督変換の話を持ち掛けたところ、激怒した定俊によって家老は殺害されてしまったのです。

この一報を安宅本城近くの下屋敷で聞いた安定たち・・・早速、大野五郎なる者を大将に、120ほどの兵を率いて八幡山城へと攻めかけますが、城中では500余りの城兵が応戦して強固な守りを見せたため、多勢に無勢で何ともならず、あえなく撤退となってしまいます。

ところが、逆に、このムードに勢いづいた八幡山城の城兵は、そのまま安定を討つ勢いで下屋敷へ押し寄せました。

またたく間に下屋敷は炎に包まれて焼け落ち、「あわや!」という場面に陥りましたが、安定とその母は、影武者が時間稼ぎをしている間に、なんとか周参見(すさみ=和歌山県すさみ町)方面へと落ちのびたのです。

その後は、小競り合いはあるものの定俊当主の態勢が揺るぐことなく続きますが、一方の安定母子も、母の実家である那智山実方院に身を隠しつつ、挽回の時を待っていました。

Ooatakebunecc  ←戦国水軍の大安宅船(肥前名護屋城図屏風・名護屋城博物館蔵)…ちにみに安宅船の安宅と安宅氏の安宅が関係があるか?無いか?は不明です。

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その年の11月・・・
安宅譜代の家臣に、那智山の衆徒、近隣の土豪(どごう=地侍)に加え、淡路島(あわじしま=兵庫県)や阿波からの援軍も得た安定は、水軍を要して海上から八幡城を包囲します。

対する定俊も、阿波からの援軍を日置浜(同西牟婁郡白浜町)に陣取らせ、もちろん八幡山城の城兵も含め、城の北方にあたる富田坂や、安宅本城の固めとして構築された勝山城(かつやまじょう=同西牟婁郡白浜町)、東南の周参見方面などの各砦に、それぞれ人員を配置します。

かくして享禄三年(1530年)11月4日早朝、各地で一斉に戦闘が開始されました。

まずは富田坂での戦闘を優勢に進めた安定勢は、周参見方面でも多数の定俊勢を討ち取り、日置浜でも押せ押せムード・・・形勢不利と見た定俊勢の兵は、まもなく逃走を開始し、皆一斉に、勝山城へと逃げ込みます。

が、ここは安定勢も深追いせず、勝山城よりも、本拠の八幡城を優先して包囲します。

そこで定俊側は、各地に展開していた兵を引き揚げて八幡山城の防衛に専念させて抵抗し、なかなかの堅固ぶりを発揮しますが、安定側が八幡山城の唯一の山続きである北方の鳶が森(とびがもり)に火を放ったところ、おりからの強風にあおられて、火はたちまち燃え広がり、逃げ場を失った定俊は、妻&次男を道連れに自刃・・・配下の多くが炎の中で討死し、この年の1月から始まった戦いは、この11月4日の一日限りの戦闘にて、安定の勝利として幕を閉じました。

とは言え、この後の八幡山城では怪異な事が相次いで起こり、その原因として、定俊の怨霊の噂がたったため、あらためて定俊を丁重に葬り、神社を造営して、毎年の命日には祭礼を行ったとの事・・・

いやいや、それは怨霊ではなく、定俊の息子の仕業かも・・・

そう、上記の通り、定俊とともに亡くなったのは妻と次男・・・この戦闘の時、勝山城にて一軍の将となっていた嫡男の安次丸は生き残っていました。

もちろん、勝ったとは言え、勝山城をそのままにしておけない安定は、早くも11月10日、勝山城を攻撃したのを皮切りに、12月にも、翌年の1月にも合戦が展開され、対する安次丸もなかなかの抵抗を見せ・・・と、両者はこの後、何度も戦いをくり返す事になります。

実はこれが命取り・・・
本日の戦いの様子でも書かせていただいたように、両者は、この戦闘において近隣の国人や土豪に援軍を要請しています。

そうです・・・なかなか決着がつかない、この両者の戦いは、やがて援軍同士がぶつかりあったりするようになり、いつしか、そんな彼らの勢いが、当の安宅氏をしのぐようになってしまうのです。

日高郡で勢力を持っていた玉置(たまき)新宮堀内(ほりうち)(4月29日参照>>)などなど・・・

先に書いた通り、『安宅一乱記』は軍記物なので脚色も多く、なかなかに信用できませんが、おそらく、この時期に安宅家内での大きな内紛があり、それによって安宅氏自身が衰退してしまった事は確か・・・

なんせ、この数十年後の信長&秀吉の時代に熊野水軍を掌握しているのは、今回の安宅一乱のドサクサで那智山実方院の城に攻め入った堀内氏虎(ほりうちうじとら)から家督を引き継いだ息子=堀内氏善(うじよし)なのですから・・・

こうして、身内のイザコザ=「安宅一乱(あたぎいちらん)から衰退の道をたどり始めた安宅氏は、その後、畿内を追われて淡路島に退いていたのを、あの三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男)養子に迎えて家名を存続させて盛り返し、さらにその冬康の息子の安宅信康(のぶやす)安宅水軍を率いて織田信長(おだのぶなが)VS石山本願寺+兵糧を運びこむ毛利水軍第一次木津川口の戦い(7月13日参照>>)に参戦したりしていますが、やはり、全盛期の安宅水軍の勢いを取り戻すまでには至らなかったように感じますね。

少し道を間違えば一気に衰退・・・戦国の世渡りは、実に難しいものです。
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