安宅水軍の衰退を招いた内紛~安宅一乱
享禄三年(1530年)11月4日、室町時代に一大勢力を誇った安宅水軍が衰退するキッカケとなった安宅一乱が勃発しました。
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日置川(ひきがわ=和歌山県西牟婁郡付近)の河口近くの安宅荘を拠点とする安宅(あたぎ)氏は、清和源氏の流れを汲み鎌倉初期に活躍した小笠原長清(おがさわらながきよ)の末裔で、阿波(あわ=徳島県)から、この地に移り住んだと言います。
この家系伝承の真偽のほどは定かではありませんが、室町時代初め頃には海上交通に長けた一団として歴史上に登場し、近隣の周参見(すさみ)氏の名跡を継いだり、近隣の国人領主らと姻戚関係を結んだりして徐々に力をつけて行く中、戦国乱世真っただ中に当主となった安宅実俊(あたぎさねとし)が、宗教的にも、そして熊野水軍という一大勢力にも強い威力を持つ那智山別当家(べっとう=熊野三山を統轄)の実方院(じっぽういん)の娘を正室に迎えた事で、この戦国時代の安宅家は、安宅本城(あたぎほんじょう=和歌山県西牟婁郡白浜町)を中心に、紀伊水道の制海権を握る一大水軍として隆盛を極めていたのです。
しかし・・・
そんなこんなの大永六年(1526年)、その実俊が病死した時、その後を継ぐべき息子=安宅安定(やすさだ)が未だ幼かった事から、実俊の弟である安宅定俊(さだとし)が、
「ほな、安定が15歳になったら当主の座を変換するんで、とりあえず、それまでは僕が家督を預かっときますわ~」
と、この先モメる臭いプンプンの展開に・・・
『安宅一乱記』によると・・・
(軍記物なのですべてを鵜呑みにはできませんが、なんだかんだで争乱については最もくわしいので、とりあえず『安宅一乱記』を参照させていただきます)
案の定・・・
安定が15歳になった享禄三年(1530年)正月、定俊の居城である八幡山城(やわたやまじょう・はちまんやまじょう=同西牟婁郡白浜町)で行われた新年会に出席した安定づきの家老が、
「ぼちぼち変換してもろても…」
と、家督変換の話を持ち掛けたところ、激怒した定俊によって家老は殺害されてしまったのです。
この一報を安宅本城近くの下屋敷で聞いた安定たち・・・早速、大野五郎なる者を大将に、120ほどの兵を率いて八幡山城へと攻めかけますが、城中では500余りの城兵が応戦して強固な守りを見せたため、多勢に無勢で何ともならず、あえなく撤退となってしまいます。
ところが、逆に、このムードに勢いづいた八幡山城の城兵は、そのまま安定を討つ勢いで下屋敷へ押し寄せました。
またたく間に下屋敷は炎に包まれて焼け落ち、「あわや!」という場面に陥りましたが、安定とその母は、影武者が時間稼ぎをしている間に、なんとか周参見(すさみ=和歌山県すさみ町)方面へと落ちのびたのです。
その後は、小競り合いはあるものの定俊当主の態勢が揺るぐことなく続きますが、一方の安定母子も、母の実家である那智山実方院に身を隠しつつ、挽回の時を待っていました。
←戦国水軍の大安宅船(肥前名護屋城図屏風・名護屋城博物館蔵)…ちにみに安宅船の安宅と安宅氏の安宅が関係があるか?無いか?は不明です。
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その年の11月・・・
安宅譜代の家臣に、那智山の衆徒、近隣の土豪(どごう=地侍)に加え、淡路島(あわじしま=兵庫県)や阿波からの援軍も得た安定は、水軍を要して海上から八幡城を包囲します。
対する定俊も、阿波からの援軍を日置浜(同西牟婁郡白浜町)に陣取らせ、もちろん八幡山城の城兵も含め、城の北方にあたる富田坂や、安宅本城の固めとして構築された勝山城(かつやまじょう=同西牟婁郡白浜町)、東南の周参見方面などの各砦に、それぞれ人員を配置します。
かくして享禄三年(1530年)11月4日早朝、各地で一斉に戦闘が開始されました。
まずは富田坂での戦闘を優勢に進めた安定勢は、周参見方面でも多数の定俊勢を討ち取り、日置浜でも押せ押せムード・・・形勢不利と見た定俊勢の兵は、まもなく逃走を開始し、皆一斉に、勝山城へと逃げ込みます。
が、ここは安定勢も深追いせず、勝山城よりも、本拠の八幡城を優先して包囲します。
そこで定俊側は、各地に展開していた兵を引き揚げて八幡山城の防衛に専念させて抵抗し、なかなかの堅固ぶりを発揮しますが、安定側が八幡山城の唯一の山続きである北方の鳶が森(とびがもり)に火を放ったところ、おりからの強風にあおられて、火はたちまち燃え広がり、逃げ場を失った定俊は、妻&次男を道連れに自刃・・・配下の多くが炎の中で討死し、この年の1月から始まった戦いは、この11月4日の一日限りの戦闘にて、安定の勝利として幕を閉じました。
とは言え、この後の八幡山城では怪異な事が相次いで起こり、その原因として、定俊の怨霊の噂がたったため、あらためて定俊を丁重に葬り、神社を造営して、毎年の命日には祭礼を行ったとの事・・・
いやいや、それは怨霊ではなく、定俊の息子の仕業かも・・・
そう、上記の通り、定俊とともに亡くなったのは妻と次男・・・この戦闘の時、勝山城にて一軍の将となっていた嫡男の安次丸は生き残っていました。
もちろん、勝ったとは言え、勝山城をそのままにしておけない安定は、早くも11月10日、勝山城を攻撃したのを皮切りに、12月にも、翌年の1月にも合戦が展開され、対する安次丸もなかなかの抵抗を見せ・・・と、両者はこの後、何度も戦いをくり返す事になります。
実はこれが命取り・・・
本日の戦いの様子でも書かせていただいたように、両者は、この戦闘において近隣の国人や土豪に援軍を要請しています。
そうです・・・なかなか決着がつかない、この両者の戦いは、やがて援軍同士がぶつかりあったりするようになり、いつしか、そんな彼らの勢いが、当の安宅氏をしのぐようになってしまうのです。
日高郡で勢力を持っていた玉置(たまき)、新宮の堀内(ほりうち)(4月29日参照>>)などなど・・・
先に書いた通り、『安宅一乱記』は軍記物なので脚色も多く、なかなかに信用できませんが、おそらく、この時期に安宅家内での大きな内紛があり、それによって安宅氏自身が衰退してしまった事は確か・・・
なんせ、この数十年後の信長&秀吉の時代に熊野水軍を掌握しているのは、今回の安宅一乱のドサクサで那智山実方院の城に攻め入った堀内氏虎(ほりうちうじとら)から家督を引き継いだ息子=堀内氏善(うじよし)なのですから・・・
こうして、身内のイザコザ=「安宅一乱(あたぎいちらん)」から衰退の道をたどり始めた安宅氏は、その後、畿内を追われて淡路島に退いていたのを、あの三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男)を養子に迎えて家名を存続させて盛り返し、さらにその冬康の息子の安宅信康(のぶやす)が安宅水軍を率いて、織田信長(おだのぶなが)VS石山本願寺+兵糧を運びこむ毛利水軍の第一次木津川口の戦い(7月13日参照>>)に参戦したりしていますが、やはり、全盛期の安宅水軍の勢いを取り戻すまでには至らなかったように感じますね。
少し道を間違えば一気に衰退・・・戦国の世渡りは、実に難しいものです。
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コメント
安宅一乱記???面白いですね。安宅水軍ですか・・これは小説になりますね。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年11月 6日 (日) 05時59分
根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~
『安宅一乱記』は軍記物=当時の歴史小説みたいな物ですから、安定を正義、定俊を悪としてドラマチックなストーリー展開になってますが、おそらく、史実は、そんなに解りやすい物では無かったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年11月 7日 (月) 03時27分