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2016年12月29日 (木)

日本史の新発見&発掘…2016年総まとめ

 

いよいよ、2016年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 江戸時代中期に京都で活動した画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の花鳥画で、長く所在不明だった「孔雀鳳凰(くじゃくほうおう)図」が、岡田美術館(神奈川県箱根町)によって発見されました…83年ぶりの発見で今後の研究に影響を与えそうだとか。
大阪府堺市ニサンザイ古墳の発掘調査で古墳時代最大規模となる木橋が架けられていた事が判明…幅約12m、長さ45m以上に及ぶこの橋の用途については「埋葬者を運んだ」「豪族たちが葬列を成した場所」「重い資材を運ぶため」など様々な意見が噴出しています。
  豊臣秀吉(とよとみひでよし)が重臣の脇坂安治(わきさかやすはる)宛てた書状が新たに見つかる…脇坂ゆかりの兵庫県たつの市龍野神社で発見された33通の秀吉の書状には、細かな指示や仕事への叱責などが記され、当時の生々しい様子がうかがえるとの事。
5月 京都国立博物館(京都市東山区)所蔵の坂本龍馬(さかもとりょうま)(11月15日参照>>)の遺品と伝わる刀が実物と判明…1931年に龍馬の子孫から博物館に寄贈されたものの、刀身の反りが小さく、作風も異なることなどから真偽のほどが微妙とされていましたが、今回新たに寄贈時に書かれた書類が発見され、京都・近江屋で龍馬が暗殺された際に携えていた愛刀「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」の実物だと判明しました。
6月 福岡県春日市須玖(すぐ)岡本遺跡で、墓穴の大きさが国内最大級となる甕棺(かめかん)が見つかりました…この遺跡は魏志倭人伝に出てくる「奴国」の中心地の王や王族の集団墓地で、今回の甕棺墓は弥生中期前半=紀元前約150年頃の物とみられ、奴国のナンバー2か3クラスの有力者の墓の可能があるとの事。
7月 Saitouhazime600a 幕末に新撰組の幹部として活動した斎藤一(さいとうはじめ=藤田五郎)(9月28日参照>>)鮮明な写真が発見されました…これまで、次男の結婚式に出た時の不鮮明な写真しか無かったために、別人の写真が「斉藤一の写真」としてネットに出回っていた事を受けて、2015年秋に親族の蔵から出てきた2枚の写真を、その次男の子孫の方が公開に踏み切ったとの事~なるほど、出回ってる写真より男前ですな(*^-^)
沖縄県石垣島白保竿根田原洞窟遺跡にて旧石器人の全身骨格発見…ほぼ全身の状態がわかる約2万年前の人骨は、その時代の琉球列島に人が住んでいた事を裏付ける貴重な発見となりそう。
9月 奈良県橿原市藤原宮跡(12月6日参照>>)にて最古の「朝賀」の遺構発見続日本紀によれば大宝元年(701年)に国の内外に律令国家の完成を宣言した「元旦朝賀(がんたんちょうが)の儀式」が行われていますが、今回の遺構は、その際に「幢幡(どうばん)」と呼ばれる旗を立てた遺構との事で画期的な発見とされます。
10月 大坂冬の陣の和睦成立を報告する片桐且元(かたぎりかつもと)(8月20日参照>>)書状を発見東京都内古書店で6月に見つかっていた書状が、慶長十九年(1614年)12月18日に片桐且元が西本願寺の宗主に宛てて「和睦が進んでいる」事や「視察に訪れた徳川秀忠の機嫌が良かった」事などを報告している手紙であると確認されました。
京都市右京区高山寺に伝わる国宝の絵巻「鳥獣人物戯画」について、絵の順番が入れ違っていた事が判明…もともと絵に連続性の無い部分があった事から「順番が違っているのでは?」と指摘されていましたが、今回、透過光調査の結果、甲巻の23枚目と11枚目のハケの跡等が一致した事から判明しました。
  奈良市平城宮跡(2月15日参照>>)からペルシャ人の名前が書かれた木簡が出土奈良文化財研究所が赤外線を使って調べたところ「破斯清道」なる名前(破斯=ペルシャを意味する中国語)を発見。ペルシャ人の名前の入った木簡が確認されたのは日本初で平城京が国際都市だった事をうかがわせます。
*平城京に住んだインド僧=菩提僊那>>のお話も参照いただければウレシイです(゚ー゚)
  福井県立図書館にて大坂夏の陣に徳川方として参戦した越前松平家の家臣の手紙の写しを発見…そこには、その家臣が「自分がやりを交え、真田信繁(さなだのぶしげ=幸村)を討ち捕らえた事」が記されており、写しとは言え、討ち取った本人の証言という点で評価でき、信繁が戦いながら死んでいったとする説を補強する物との見方がされています。
11月 京都市伏見区伏見城跡(3月7日参照>>)から石垣の一部が14.5mに渡り出土…昨年発見され、豊臣秀吉が築いた「幻の伏見城」とされる指月城の存在を証明した遺構から西へ約200mの地点で発見された城の中堀と思われる石垣は、自然石をそのまま使用しつつも、表面を加工するなど、工法の新旧入れ換わり時期の様相が見られ、それが整然と出土した事が評価されます。
  福岡県筑紫野市の丘陵上で、長さ500mに及ぶ大規模な7世紀の土塁を発見…丘陵上での土塁の確認は初めてで、古代九州を統括し国家外交の最前線だった大宰府を守る防塁とみられ、ここに広大な防衛ライン(8月27日参照>>)が引かれていた可能性大。
12月 京都市下京区本願寺史料研究所にて忠臣蔵に関する記録発見史料は、「忠臣蔵」で知られる「赤穂事件」(12月14日参照>>)について、西本願寺が事件後の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の容体を「お痛みが軽く」などと把握し、直接、事情聴取を行っていた事を示す記録など6点。吉良家と西本願寺との関係の重要度がうかがえます。
  大阪市天王寺区餌差町「真田丸」の痕跡(真田丸はどこにあった?参照>>)を求めて発掘調査をしていた民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」人工的に土を盛った層を確認しました…NHK大河ドラマのタイトルにもなった真田丸は大坂冬の陣にて真田信繁が構築した出城(真田丸の攻防>>)で、これまであやふやだった位置を推定するとともに、土塁の一部を発見した物です。

こうして見てみると、この1年、様々な発見があった事がわかりますが、個人的には、やはりNHK大河ドラマのおかげで、大坂の陣関連の発見が相次いだ事ですね。

上記でもリンクしたページ=「真田丸はどこにあった?」>>)に書かせていただいております通り、私個人も、以前から、「真田丸の場所は明星高校のグランドあたりでは?」と推測していたわけですが、やはり、それを確定するためには、それなりの調査が必要・・・

そう言った場合、その年の大河ドラマ等で話題になり、注目を浴びる事によって一気に進展する場合も多々ありで、ファンとしてはワクワクしきりですo(*^▽^*)o

一方、今年は、4月に発生した熊本地震にて、熊本城阿蘇神社をはじめとする多くの文化財が被害を受けた事で、文化財を守り&保存して行く事の重要性をあらためて痛感させられた年でもありました。

一歴史好きとしても、被災地の1日も早い復興を願うばかりです。

・‥…━━━☆

とまぁ、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2016年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして2017年も、よろしくお願いします
 .

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2016年12月20日 (火)

大河ドラマ「真田丸」~最終回の感想

終わりましたね~

大河ドラマ「真田丸」・・・

なかなかに良かったです・・・関ヶ原あたりまでは・・・(^-^;

もちろん、最近あったいくつかのトンデモ大河よりは相当良いとは思いますが、関ヶ原が終わって、父=昌幸さんが亡くなってからは、正直、
「アレ?どーしちゃったの?」
て感じの雰囲気のまま進み、最終回には
「ホント!どーしちゃったの?」
って感じで、そのまま終わっちゃいました(。>0<。)

もちろん、これはあくまで個人の好みの問題です。

巷には
「感動した」
「涙が止まらなかった」
「最高に良かった」
の声も多く、ドラマを見て良い感想を抱いた方々のお気持ちに対して、どーのこーの言う気は毛頭ございません。

そもそもテレビ番組という物は、それを見た人すべてが「オモシロイ」と思う事なんてありえ無いわけですから・・・

なので、このページでは、あくまで私個人が、見てどう思ったかという事を吐露させていただきたいと思いますので、反対のご意見も多々ありましょうが、そこのところをご理解いただければありがたいです。

そんな中で、私は、以前から申しております通り、
大河とは言えドラマなのですから創作はあって当然ですし、セリフに関しても、もし本当にその時代らしくしゃべってしまうと、予備知識無し&字幕スーパー無しではおそらく聞き取れないので軽い口調のセリフ回しもOKですし、三谷作品も好きです。

なのに抱く、この違和感は・・・
勝手な想像ではありますが、おそらく三谷氏は真田信繁(幸村)よりも、父の昌幸の方がお好きだったのか?
あるいは、歴史好き故にノリノリで脚本を書いているうちに時間配分がオカシナ事になり、気が付いたら、あと何回かで最終回に持ち込まないといけなくなっていたか?

結果として、なんだか今年の大河は、まるで草刈昌幸さんが主役だったみたい・・・もしNHK様の公式サイトの記述通り、この「真田丸」というドラマが、信繁が主役であったのなら、もう少し大坂の陣に時間が欲しかったですね。

急ぐあまり、いろんな物をはしょり過ぎながらも、最終的に豊臣の負け=大坂城の炎上&落城に持っていかねばならなかったためなのか?

結果、ドラマの中では、元・信長のシェフ=現・台所のジイチャンの個人的な恨みを、最終回まで見抜けなかった事が大坂方最大の敗因という驚くような展開に・・・

しかも、あの柔和な小日向さん(秀吉)をレイプ犯に仕立ててまで・・・小日向秀吉さんって、そんなキャラでしたっけ?

もし、仮に、小日向秀吉さんが、自分を嫌っている女性にムリヤリ迫ってコトに及んだとしても、その彼女の心が、なんとか癒えるよう思いっきりやさしく、家族含めて厚遇して「結果的に幸せだワ」と思えるようにしてやろうとする・・・そんなキャラじゃなかったでしたっけ?
(確かに、男に対しては容赦無かったですが…ww)

少なくとも、竹内茶々さんの気を惹こうとしてた時は、そのようなキャラに見えましたが、何とも不思議です。

不思議と言えば、最終回における主役の言動にも不思議な部分が・・・

そもそもが市街戦だった大坂の陣ですが、そこは城下町のセット作成の金額の高さを考慮して、安定の野っ原での合戦シーンとなったとしても、
本来は、湿地帯に囲まれた台地(上町台地)で、遠くに生駒金剛や北摂の山々が霞む大阪平野で展開された戦いなのですから、せめて、河原のような場所が良かったと思うのですが、ドラマでは、なんだか間近に小山が迫るその麓にて戦うという・・・

また、本来なら真田隊の他にも、毛利隊渡辺隊が、ほぼ同時に家康本陣を襲ったはずですが、
ドラマのように、大将の信繁が孤軍奮闘的な戦い方で先頭に立ち、まるで、コートの中で集まるバレーボールチームのように、そこだけ固まった10人くらいの家康主従に向かって銃を構える中、家康は家康で「撃て」とばかりにピタリと動かず睨み合うという・・・

これらの描写も、最終回を盛り上げるための演出&予算の都合だという事でヨシとしましょう。

しかし、その最終回における主役の不思議な言動は、納得するには厳しいかと・・・

信繁がおかみ様に
「望みを捨てぬ者にこそ道は開ける」
と言ったワリには、さっさと自害。

それを丸パクリのおかみ様が秀頼に
「望みを捨てぬ者にこそ道は開ける」
「策がある」

と言ったワリには、とっとと自害。

おそらくは、その「策がある」の「策」だと思われる千姫に
「大坂城のすべてがあなたにかかっている」
と言って送り届けたワリには、何の交渉もせず、ただの爺さん&父さん&娘さんの和やかな再会シーン。

おかみ様&信繁の
「策がある」
というセリフの「策」って何?

何もしないなら、なぜ「策」って言ったの?
望み捨てぬのに、なぜ自害するの?

この不思議な中途半端感は、何か見逃してるのか?
と、VTRを戻して2~3回見ましたが、残念ながら、私には、これらの流れが理解できませんでした。

これなら、歴史通りに、
最後の最後まで戦うも信繁が討死した後に、
「真田殿お討死」の一報を受けてからの
千姫から爺ちゃん&父への「秀頼様の命乞い」が一蹴されたとの返事を聞いてからの
秀頼主従の自害

の方が、よっぽど辻褄が合ってるように思うのですが、あえて変えた意図はどこにあったのでしょうか?

この不思議な中途半端感のおかげで、なんだか大坂城内にいた人が全員アホに見えて来て仕方が無い・・・
もし、この通りなら、とてもじゃないが日本一の兵(ツワモノ)なんて伝説にはならなかった事でしょう。

あの上田合戦での城攻め>>
あの犬伏の別れの神回>>
での素晴らしさは、いったいどこに~(;ω;)

最初が良かっただけに、関ヶ原以降の残念さが浮き彫りになってしまった感が否めません・・・惜しいです。

以上、最終回の感想・・・ですが、
ちょっと毒吐きました~(*_ _)人ゴメンナサイ

造り手の方々が一所懸命やっておられるのに、素直に「良かった」という感想を書けずに、ホント申し訳ないです。

★追記:
私が、「信繁の最期は自刃ではなく、討死にでいてほしかった」と思う理由はコチラ↓で書いておりますので、よろしければ…2017年1月 6日【真田信繁の討死~そして幸村伝説へ…】>>

ブログ内の主要な関連ページ
関ヶ原から大坂の陣の徳川と豊臣の関係>>
平野焼き討ち~「みしかよの物かたり」>>
真田丸の攻防>>
大坂冬の陣に連動した北山一揆>>
大坂夏の陣に連動した紀州一揆>>
家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係>>
大蔵卿局について>>
道明寺誉田の戦い>>
毛利勝永の天王寺口の戦い>>
渡辺糺と母・正栄尼の最期>>
大坂城脱出~お菊物語>>
秀頼の子供たちについて>>
大野治胤の最期>>
千姫のその後>>
上記以外にも、大坂の陣に関しては80以上のページを書いていますので、
【大坂の陣の年表】>>
 から興味のある記事へどうぞm(_ _)m

ほとんど史料が残っていない来年の大河は、
果たして吉と出るか?
凶とでるか?
楽しみにしております。
 .

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2016年12月12日 (月)

ドラマでは描かれない豊臣方~熊野・北山一揆in大坂の陣

 

慶長十九年(1614年)12月12日、大坂冬の陣に連動した紀州での大規模一揆=熊野・北山一揆での戦闘がありました。

・・・・・・・・・・

大河ドラマ「真田丸」残すところ最終回のみ・・・まさに1番の盛り上がりを見せていますね。

何年か前の「姫たちの妄想」「愛の兜の人」よりは、なかなかに見応えのある今年の「真田丸」ではありますが、個人的にちと残念なのは、大詰めを迎えた大坂の陣での場面のほとんどが大坂城内や浪人衆ばかりで語られていて、一般市民がほぼほぼ登場しない事・・・
(大坂の陣全体のアレコレについては「大坂の陣の年表」>>で、それぞれご覧あれ)

皆様もご存じの通り、本来の大坂の陣は、戦国屈指の市街戦で、多くの一般市民が関与もし、犠牲にもなった合戦・・・

確かに、にぎやかだった範囲は、現在の大阪ほど広くは無かったでしょうし、都だった京都よりは人も少なかったかも知れませんが、合戦の舞台となるのは、当時は首都にも匹敵する政治の中心だった大坂城なわけで、すぐそばに武家屋敷や一般の家屋が建っていたし、城の近くには、賑やかな市も立っていたわけですから、当然、一般市民も否応なく巻き込まれていく・・・いや、巻き込まれざるを得ない状況だったと想像しています。

Ca3e0035a800 新鴫野橋から見た大阪城天守閣

まぁ、そこのところは、
街中だと、合戦シーンが原っぱというワケに行かずセットを作らねばならない=予算の都合もあり、出演される俳優さんやエキストラさんの都合もあり、放送の時間の都合なんかもあって、どうしてもドラマで描かれる範囲は限られてしまうわけで・・・一般市民なんざ描きだしたらキリが無いですからね。

ただ、そのために、大坂城が孤立無援で、集まった浪人たちが「死に場所を探してる」的な描き方や、「負け戦に挑み鮮やかに散る事を望む」みたいな雰囲気ばかりがドラマの中で強調されるとしたら、私的にはちょっと・・・(;ω;)
まぁ、それも、
ドラマとしてはそっちの方が、文字通りドラマチックなので仕方ないですかねぇ~(*^-^)

とりあえずは物語として面白く、その世界の中で辻褄が合っていればドラマとしてはOKだと思いますが、やはり実際には、戦国武将という人たちは最後の最後まで「勝つ方法」を模索して戦いに挑んでいたんじゃないかな?と思ってます。(←あくまで個人の印象です)

そして、その、わずかながらの勝算の影には、歴史には記録されない&数も把握できない一般庶民という強い味方がいたわけで・・・

もちろん、そんな数を把握できない味方は城下に住む一般市民だけでなく・・・そう、この時、紀州(きしゅう=和歌山県)吉野(よしの=奈良県南部)で、豊臣方の強い味方となったのが、今回の熊野・北山一揆(くまの・きたやまいっき=紀州一揆とも)です。
(浅野家側の記録では、この後の夏の陣と同時発生の一揆と合わせて紀伊国一揆と呼ばれます)

以前、この後の大坂夏の陣での樫井(かしい=泉佐野市)の戦いのページ(4月29日参照>>)でも書かせていただきました通り、もし大坂城から出馬する武将たちが、この樫井で勝利し、紀州の一揆勢が北へ北へと進む事ができていたなら、ひょっとして大坂方の勝利になっていたかも・・・

ブログで、何度か書かせていただいております通り、身も心も大坂方な私=羽柴茶々としましては、この大坂の陣の直前でも、豊臣家が一大名に成り下がっていたとは思いたくないのですが(5月10日参照>>)、文献として残っている事は事実ですので、仮に200年後の徳川幕府がおっしゃる通り、この時の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)さんの領地が、摂津(せっつ=大阪府北部)河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府西南部)の三ヵ国だけであったとしても、なんだかんだで紀州はその隣国となるわけですから、

いざ合戦となれば、大坂城のたった一つの弱点である南側(12月4日参照>>)から攻撃を仕掛けたい徳川家康(とくがわいえやす)にとっては、さらに南の紀州から北上する彼らは、もしかして挟み討ち?となるわけで、これはかなりの脅威・・・とは言え、世の中、そうそう予定通りにいかないので、ご存じの結果なわけですが(*´v゚*)ゞ

とにもかくにも、
おそらくドラマでは、描かれないであろう熊野・北山一揆・・・

熊野(くまの)というのは、ご存じ、世界遺産の「熊野古道」「熊野三山(くまのさんざん=熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)で有名な、現在の和歌山県の東西牟婁郡(むろぐん)新宮市(しんぐうし)田辺市(たなべし)など、他にも三重県の一部を含む、あの広範囲の地域の事。

北山(きたやま)は、現在の和歌山県と奈良県の県境にある奈良県吉野郡上北山村下北山村の北山で、当時も熊野は紀州に属し、北山は吉野に属していたわけですが、両者は、大台ケ原を源流とする北山川が途中で熊野川と合流し、紀伊半島南端の熊野灘(くまのなだ)に注ぐという関係から、かなり古くから良質な木材の生産&運搬という交易ルートが構築されており、ともに強い絆で結ばれた地域だったのです。

しかも、この一帯は、先日の「安宅一乱(あたぎいちらん)のページ(11月4日参照>>)に書かせていただいたように、長きに渡って地元の豪族や国人領主が群雄割拠していた場所で、豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)を終えた後も、太閤検地(たいこうけんち)(7月8日参照>>)などに反発して度々一揆を起こしていた反骨精神バリバリで、なかなかの武装集団だったのです。
(ちなみに、豊臣政権下の天正十四年年(1586年)8月にも大きな一揆が勃発しており、コチラも「北山一揆」という名称なのでご注意を…)

んん?って事は・・・
彼らは、自分たちが直で治めていた場所を、天下統一の名のもとに、秀吉に力づくで、その特権を奪われた形になっているわけなので、本来なら豊臣=大坂方の敵なのでは?

と思ってしまいますが、そこはそう・・・
彼らとて、もはや戦国の世も終焉に向かいつつあるのは重々承知で、今さら以前の群雄割拠の時代には戻れない事もお察し・・・

と、なると、自分たちが直で統治する事は無理でも、現段階で望める最も良い形で、何とか少しでも待遇が良くならないものか?と考えるのが人の常・・・

で、当時、紀州の統治を任されていたのは・・・
先の安宅一乱のドサクサで那智を掌握し、安土桃山=織豊時代に熊野水軍を率いた堀内氏堀内氏善(うじよし)(4月29日参照>>)が、あの関ヶ原で西軍についてしまったために没落・・・逆にその関ヶ原で東軍についたおかげで、戦後に紀伊国和歌山37万6千石を与えられたのが浅野幸長(あさのよしなが)で、この大坂の陣当時は幸長の死亡を受けて、その弟の浅野長晟(ながあきら)が治めていたのです。

つまり東軍=徳川方の武将が紀州を治めていた・・・

なので、現状を打開したい彼らにとっては、今を変えてくれそうな方に味方したいし、敵の敵は味方だしで、豊臣に気持ちが傾くわけで・・・まぁ、彼ら熊野&北山の国人たちの心の内は記録には残っていませんから、あくまで推測ですが・・・

そんな中、豊臣VS徳川の不穏な空気が出始めたタイミングで、先の関ヶ原での敗戦を受けて浅野家の配下に組み込まれていた、かの堀内氏善の息子たち=堀内氏弘(うじひろ=新宮行朝=兄・叔父の説あり)氏久(うじひさ=弟)兄弟が、浅野家を出奔(しゅっぽん)して大坂城へと入るのです。

ほどなく、大坂方の主将格である大野治長(おおのはるなが)(12月16日参照>>)が、ここ熊野&北山に援軍要請の使者を送るって来るのです。

浅野家の史料『浅野考譜』には、この時、大坂城内からの命を受けて、熊野&北山の村々の触れ状を回した者は堀内大学という者だった事が記録されていますが、状況を見る限り、この人物は上記の堀内兄弟の縁者でしょう。

もともとは新宮を本拠した国人出身である堀内の縁者が、おそらく、彼ら=紀州の国人たちが魅かれるような好条件をチラつかせて彼らを誘ったわけで・・・

かくして慶長十九年(1614年)12月、豊臣方となった熊野&北山の国人&土豪(どごう=半士半農の地侍)たちは進軍を開始するのです。

もちろん、対する浅野家も、この状況を、ただ見ているわけではありません。

浅野家としては居城である和歌山城(わかやまじょう=和歌山県和歌山市)を本城に、田辺城(たなべじょう=和歌山県田辺市)新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)を支城として、それぞれに一族の者を配置して守りを固めますが、実はこの時、当主の浅野長晟も、そして新宮城を任されてる浅野忠吉(あさのただよし)も、すでに先月の11月から勃発している大坂冬の陣に出陣中・・・

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

ちなみに、この頃の大坂冬の陣とは・・・
11月16日:【博労淵・野田・福島の戦い】>>
11月26日:【鴫野・今福の戦い】>>
12月4日:【真田丸の攻防】>>
などがありますが・・・もちろん、熊野・北山一揆の彼らからすれば、その手薄な所を狙ったわけです。

そんな中、まもなく一揆軍が迫って来る事を知った新宮城の留守を預かる城代の戸田勝直(とだかつまさ)は、とりあえず様子見ぃで、鉄砲隊の4~50名を最先端へ派遣しますが、彼らは、
「ムリっす!ムリっす!(´Д`;≡;´Д`)」
と、とても少人数で防御しきれないと、交戦せずに戻って来てしまいます。

この時、一揆軍を率いていたのは・・・
と、実は一揆という性質上、はっきりしたリーダーは不明なのですが、記録では、「大昔に役行者(えんのぎょうじゃ=役小角)(5月24日参照>>)の配下となった鬼の子孫」と称する五鬼前鬼鬼五郎鬼助などと呼ばれていた複数(もしくは一人)の山伏だったとされています。

彼らが仲間の山伏に声をかけると同時に、関ヶ原で敗れて浪人となっていた者も加わって、周辺の村々に
「勝利のあかつきには山林や田畑を分配するゾ!」
と宣伝して回り、また、村の中に一人でも参加しない者がいると
「こんな雰囲気の中で、お前らだけ参加せーへんって、アリや思てんの?」
と、ちょっと脅しをかけたりしたおかげで、おそらくは、かなりの人数が集まっていたのでしょう。

「これは…ゲロヤバやん!!!(゚ロ゚屮)屮」
と思った勝直は、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ=新宮)社人を味方に引き入れたり、周辺住民から人質をとってその家族らを徴兵したり、新宮城下町の要所に柵を設けて防戦を張り、熊野川につないであった舟という舟をすべて城下に引き入れて・・・と、もはや、なりふりかまわず打つ手はすべて打って準備を整えました。

その間に一揆軍は、大里村(三重県南牟婁郡)に集結し、一路、熊野川を挟んでの新宮の対岸となる鮒田村(同じく南牟婁郡)に到着しますが、川を渡ろうにも舟が一隻もありません。

上記の「熊野川につないであった舟という舟をすべて城下に引き入れて・・・」という勝直の作戦が功を奏したわけですが、もちろん、一揆側もこの事は予想しており、仲間に、あらかじめ舟の手配をするよう命じていたのですが、その仲間が裏切って、舟の手配もせず、川に1隻も舟が無い事も伝えず、すでに逃げてしまっていたのです。

やむなく、対岸の浅野の守備兵に対して、川越しに鉄砲を撃つと同時に自力で筏(いかだ)など組みはじめる一揆軍・・・

そんなこんなの慶長十九年(1614年)12月12日、一揆軍が渡河の準備をしている間に、新たな援軍を得た浅野勢は、正面の対岸&海側&山側の三ヶ所から、一気に襲いかかり、完成寸前だった筏を壊して若干名を討ち取り、一揆勢を蹴散らしたのです。

多くの土豪や国人が一揆に賛同したのと同時に、現政権である浅野家の味方になった者も少なからずいたのですね。

もちろん、
「これで終わるか!」
と態勢を立て直す一揆軍でしたが、ご存じの通り、12月19日には大坂にて和睦が成立(12月19日参照>>)・・・大坂冬の陣が終結となってしまいます。

陣中にて熊野・北山一揆の一報を聞いていた浅野長晟は、この和睦が成立したと同時に、家康の許可を得て帰国・・・12月24日もしくは25日に、本隊を率いて本拠の和歌山城に到着し、休む間もなく、一揆の討伐に出陣します。

大きな戦闘があったのは12月27日、大沼村(東牟婁郡北山村)付近とされています。

山育ちの一揆軍の者たちは鉄砲のウデも確かな物ではありましたが、全神経を集中して追う浅野勢は、何たってプロの武装集団・・・しかも、その人数もハンパなく多く、結局のところ、一揆勢は散り々々になって山中へと逃げるのが精いっぱいでした。

その日、捕縛された者は360余名にのぼり、翌年の1月には全員が処刑されたのだとか・・・

こうして、大坂冬の陣に連動した熊野・北山一揆は、勃発から約1ヶ月ほどで終了してしまうものの、彼らは、翌年の大坂夏の陣に連動して、またまた一揆を繰り広げる事になるのですが、この時は、有田や日高をはじめとする和歌山城に近い民衆を中心に・・・となるのですが、そのお話は、4月28日【大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆】のページ>>でご覧いただくとして・・・

最後に、今回の一揆の先導者とも言える堀内兄弟についてチョコッと・・・

この大坂の陣では、残党狩りが非常に厳しく、討死を免れるも捕縛された大坂方の武将はことごとく処刑されていたので、本来なら、処罰を受けるはずの彼らですが、実は、秀頼の正室である千姫(せんひめ=家康の孫・秀忠の娘)を連れて、燃える大坂城を脱出(大野治長の命であったとされる)したのが、この堀内兄弟の弟=氏久だった(2月6日参照>>)とされているのです。

そのおかげで、彼は大坂方だったにも関わらず、戦後に下総国内に500石を与えられ、おそらく、その弟の功績により、兄の氏弘も、一旦は捕縛されるものの、後に罪を許されて、藤堂高虎(とうどうたかとら)の家臣となって生きのびたという事です。
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2016年12月 7日 (水)

南北朝~新将軍京落での佐々木道誉の風流と楠木正儀

 

正平十六年・康安元年(1361年)12月7日、挽回を計る南朝軍が足利将軍のいる京都に進撃を開始しました。

・・・・・・・・・・

日本に二つの朝廷があった南北朝時代・・・ここまでの経緯のくわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただきたいのですが、とりあえず、かいつまんでお話させていただくと・・・

元弘三年(1333年)に鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)を行った後醍醐(ごだいご)天皇に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏)が、京都へと攻め上り(6月30日参照>>)光明(こうみょう)天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いた室町幕府・・・こちらが北朝

この尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉野(奈良)に入って開いたのが南朝(12月22日参照>>)です。

その後、延元三年(歴応元年・1338年)に尊氏が征夷大将軍(8月11日参照>>)となって、続く延元四年・暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が崩御される(8月16日参照>>)中で、たび重なる合戦で南朝の中心である
北畠顕家(きたばたけあきいえ)(5月22日参照>>)
新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)
楠木正行(くすのきまさつら=正成の長男)(1月5日参照>>)などが次々と討死した事で、おおむね北朝が有利に駒を進めるも、

北朝は北朝で、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)と呼ばれる内紛に関連して、尊氏の弟=足利直義(ただよし)(10月25日参照>>)や、執事の高師直(こうのもろなお)などを失った(2月26日参照>>)うえ、そのドサクサで、後醍醐天皇の後を継いで第97代天皇となっていた後村上(ごむらかみ)天皇(後醍醐天皇の皇子)が京都を制圧したり(3月24日参照>>)、尊氏の次男=足利直冬(あしかがただふゆ)が抵抗(6月9日参照>>)したり・・・

しかし、その尊氏も正平十三年・延文三年(1358年)に亡くなり(4月30日参照>>)、時代は、その後を継いで第2代室町幕府将軍となった三男の義詮(よしあきら)へと移っていきます。

そんな中で、問題は、父の尊氏時代からの重臣たちの間での勢力争いが、ここに来て目立って来た事・・・将軍を主人と仰ぎながらも、その主人に対抗できるほどの力を持ちつつ、一方で政権の主導権を握る事に躍起になる彼らに対し、29歳の2代目は彼らとどう向き合い、将軍としてどのように自身の地位を確保していくのか・・・目を光らせる事になります。

そんなこんなの正平十五年・延文五年(1360年)、足利政権下で執事の座についていた仁木頼章(にっきよりあきら)追い落とされて没落しますが、その翌年には、その仁木追い落とし作戦の一翼を担っていたであろう管領(かんれい)細川清氏(ほそかわきようじ)謀反の疑いを掛けられて失脚(くわしい経緯は9月23日参照>>)・・・弁明叶わず若狭(わかさ=福井県)へと逃れた清氏は、そのまま南朝へと身を転じたのです。

それから、わずか3ヶ月・・・吉野を訪れた清氏は、
「南朝軍の諸将の協力あれば、1日で都を落として、これまでの苦難を晴らしてみせます!」と宣言したのです。

これを聞いた後村上天皇が、忠臣の誉れ高き楠木正成(くすのきまさしげ)の三男=楠木正儀(まさのり)に、清氏の言葉の実現性を尋ねてみると、
「京都から朝敵(ちょうてき=国家の敵…この場合は北朝の事)を追い出すなんて事は、清氏さんの力借りんでも、僕だけで充分できる簡単な事ですわ…問題は、一旦制圧した京都を、どう維持していくか?ですが、今のこの時点では、維持し続けるのは難しいと思います」
と正儀は答えます。

しかし、「一刻も早く都に帰りたい」と思っていた中で、北朝でもトップクラスの重臣=清氏がコチラに降った事に勢いづく南朝は、軍議の結果、清氏の策を採用する事となり、南朝方の錚々たる面々をズラリ揃えて出陣し、住吉天王寺(すみよし・てんのうじ=大阪府大阪市)に陣所を設けつつ北上し、正平十六年・康安元年(1361年)12月7日都の間近まで進撃しました。

迎え撃つ義詮は、一旦東寺(とうじ=京都市)に進んで陣を置きますが、南朝軍が間近に迫ると、迎撃する事なく、アッサリと陣をたたんで後光厳(ごこうごん)天皇(北朝4代=光明天皇の甥)とともに近江(おうみ=滋賀県)へと逃れます。

こうして、翌12月8日の夕方・・・南朝軍は都へと入り、将軍の御所を焼き払ったのです。

『太平記』によれば・・・
この時、都に入った楠木正儀は、すでにもぬけの殻となった北朝方のとある屋敷に侵入します。

もちろん、上記の将軍御所と同様に、敵方の屋敷として焼き払うべく訪れたわけですが、その屋敷の邸内は、まるで高貴な客人を迎えるが如く、客間や書院には高価な品々が並べられ、書斎には貴重な書物、寝所にはお客様用の緞子(どんす)の夜具が敷かれ、警備員の詰所にはおいしそうな酒の肴とともに、竹筒いっぱに満たされたお酒が・・・

Sasakidouyo600a 実は、このお屋敷は、あのバサラ(婆娑=派手で奇抜な恰好をして傍若無人に振舞う)の中のバサラ大名佐々木道誉(ささきどうよ)(10月12日参照>>)の屋敷だったのです。

戦う事無く都を落ちる事になった道誉は、
「我が屋敷には、この屋敷にふさわしい名将が入るに違いない」
と考え、邸内すべてを見事に美しく飾り付けた後、ここに留まる二人の僧に、
「この屋敷の来客は、どんな者であっても、丁寧にもてなしたってくれよ」
と言い残して去っていたのです。

先の失脚事件の際、おそらくは自らをハメて蹴落としたであろう道誉に怒り心頭の清氏は、
「アホか!敵の屋敷は全部焼いてまえ!」
と息巻きますが、当の正儀は、
「兄さん、メッチャ風流な事しはるやん!かっこえぇ」
と感動しきり・・・

結局、正儀は、清氏の言葉は聞かず、庭の木1本、畳1枚、傷つける事無かったばかりか、逆に、詰所の肴を、より豪華にし、寝所の枕もとには秘蔵の甲冑と太刀を飾った後、再び都を去ったのです。

まもなく、正儀と入れ換わるように都に戻った道誉・・・多くの屋敷が焼かれた中で、自宅が無傷だった道誉は
「ウマイ事やりやがった…ホンマ、ずる賢いやっちゃで」
と囁かれる一方で、結果的に甲冑と太刀を、道誉に譲ってしまった形になった正儀の事を、
「古ダヌキに手玉に取られよったで」
とバカにする者もいたのだとか・・・

いやいや、正儀さんは、ちょっと純粋なだけです~

・・・て、何?
「まもなく、正儀と入れ換わるように都に戻った道誉…」って

そうなんです。
上記の通り、12月8日に京都に入った南朝軍でしたが、わずか半月後の12月26日、やっぱり一戦も交えぬまま京都を退去し、その3日後に再び義詮が将軍として戻って来て、すべてが元通り・・・チャンチャンっとなるのです。

なんじゃそら!

って、思いますが、実は、京都って、攻めるにたやすく、守るに難しい場所なんです。

そう、最初に清氏がやって来て
「1日で落とせます!」
と言った時に、正儀が
「維持し続けるのは難しい」
と言いましたが、正儀さんのおっしゃる通りなんです。
(さすが!正成はんの息子ヽ(´▽`)/)

ご存じのように、京都は山に囲まれた盆地で、都の中心部には高い山が無く、比較的高い山はその外側にあります。

なので、外側を囲まれると非常に弱い・・・先の仁木の没落も清氏の失脚も、都内にいる彼らが、周囲からの攻撃に屈して退散したような物で、ここは一旦、都を放棄してから態勢を立て直し、改めて周囲を囲んで攻撃を仕掛ける方が得策なのです。

もう少し後の時代に登場する剣豪将軍=足利義輝(よしてる)も、何度か都を明け渡しては奪回する日々を送っています(11月27日参照>>)

・・・で、その事を重々承知の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、都全体をお土居で囲って、その守りの弱さを払しょくするわけですが、それは、もう200年ほど後のお話・・・
6月25日【秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床】>>
12月3日【北野天満宮「御土居=もみじ苑の公開」】>>

今回は、その守り難さを知っていたからこそ、義詮は、一旦アッサリと近江へ退去した後、すぐに軍勢を整えて、再び周囲を囲む・・・という策を取り、

一方の南朝も、1度目は清氏の案を採用しながらも、さすがに、このまま維持できない事に気づいて、次は、アッサリと明け渡したというワケです。

この後、細川氏の地元である阿波(あわ=徳島県)に戻って再起を計ろうとする清氏と、今回の一件の縁からか?道誉を通じて北朝に南北朝合一を働きかける正儀の姿がありますが、そのお話は、また別の機会にご紹介させていただきたいと思います。
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2016年12月 2日 (金)

アンケート企画「グッ!と来る名言or金言は?」の結果発表

 

お待たせしました!

06ilbc02100 本日は、最新アンケート=あなたがグッ!と来る「一押しの名言or金言は?」結果報告で~す

投票にご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

今回は84名の皆さまのご回答&コメントをいただきましてウレシイ限りであります!

アンケートの作成時には、「名言やなぁ」と思う物が沢山あり、かなり悩みました~いや、難しい・・・今思えば「アッチの方が良かったかな?」なんて思いも・・・\(_"_ ) 反省

とにもかくにも、とりあえず結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
20票
平家物語
失礼ながら、個人的には、コレが1位になるとは意外でした~しかもダントツの1位!バブルもはじけた平成の時代は、盛者必衰のコトハリが身にしみるという事ですね…
2位
8票
石田三成
関ヶ原には負けたけど、ここでは堂々の2位!現代にも通じる名言ですね。
3位
7票
徳川家康
名言が多い方なので、ちょっと分散してしまった感ありますね~それでも3位はお見事です!
4位
5票
上杉鷹山
やはり、この名言は不滅ですね~また、口だけではない!言葉に伴うご本人の行動もすばらしい!
5位
4票
橘曙覧
気づいておられる方もありましょうが、実は私も個人的に好きなんです。。。良い位置キープです。
6位
3票
聖徳太子
親鸞
世阿弥
太平記
黒田如水
二宮尊徳

残念ながら、野球で言えばBクラスでしたね~(;ω;)
12位
2票
山中鹿介の母
坂本龍馬
平塚雷鳥

個人的には「龍馬さんがこの位置なの?」と意外でした。
15位
1票
朝倉宗滴
宮本武蔵
中江藤樹

残念ながら1票~武蔵は知名度ありそうですが…いや、だからこそ千里の道も一歩ずつって事ですね。
18位
0票
曽我物語
吉田兼好
山本常朝
井原西鶴
滝沢馬琴

(つд⊂)エーン…0票でした~ま、私の名言のチョイスも悪かったのかも知れません。。。反省
その他 13票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

;;;:+*+:;;;:+*+:;;

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

坂本龍馬 マイペースでかっこいい。(40歳代/男性/千葉)
「豪快な感じが出てて良いデス(o^-^o)
その他 鳩山由紀夫さん 日本列島は日本ジンだけのものじゃない
「う~ん??名言というより迷言ですね~」
その他 敵は本能寺にあり!by明智光秀(40歳代/男性/千葉)
「う~ん??これも微妙な気が…でも、ファンの方ならグッと来るのかも知れませんね」
上杉鷹山 愛あるアイロニストに敬服してます(50歳代/女性/神奈川)
「この言葉は有名ですものね
平塚雷鳥 女は太陽で宇宙だ?(40歳代/女性/兵庫)
「女ゴコロは奥が深いです
黒田如水 前半の言葉だけでもリアリストここに在り、という感じですが、後半で一ひねり。それでいて真理を突いている。如水は時々こういったダークなトンチをかましますよね。(30歳代/男性/東京)
「ポックリとゾウリも…如水らしい感じがしますね
朝倉宗滴 地域の人ではないのですが、ぐっと来たので投票します。いつもブログは意見しております。これからも頑張ってくださいませ。失礼いたします。(30歳代/男性/愛媛)
「ありがとうございますm(_ _)m宗滴さんは生涯現役で合戦に出た武将ですから…
黒田如水 ほんっとすばらしすぎるぅぅぅ(10歳代/女性/愛知)
「これから家を背負って立つ息子へのはなむけですね」
親鸞 身にしみて、身にしみて…(40歳代/男性/静岡)
「身に染みますね~♪一人じゃないって~ステキな事ね~♪by天地真理←古っ!」
平家物語 いつも楽しく読まさせて頂いてます。これからも頑張ってください!微力ながら応援させて頂きます。(40歳代/男性/大分)
「ありがとうございますm(_ _)m…平家物語の冒頭部分はホント良いですね」
その他 作者不詳(幸若舞「敦盛」)「思へばこの世は常の住み家にあらず〜」(100以上/男性)
「熊谷直実が出家するシーンですね~やはり世は無常…ですね
その他 山本五十六「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」新潟県民としてはやっぱりこれですかね。(新潟)
「あ、それ!ありましたね~私も好きな言葉です
二宮尊徳 受験生の子供に贈りたいです。「小テストもおろそかにしてはなりませぬ。」…ちょっと違うか(笑)(女性/愛知)
「いえいえ、おっしゃる通りだと思いますよ!小さな事からコツコツと…です」
石田三成 選択肢が名言ばかりなので迷いましたが...石田三成様のお言葉で。(50歳代/男性/宮城)
「皆で幸せになりた~いです!」
その他 徳川家康の「真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず(自分だけが知っていればそれで十分なことが有る)」に一票です
「神君家康公は名言が多いですからね~」
親鸞 聖人がお釈迦様の仏語を解釈されており、「一言一句加減すべからず」を守って、「一人居て喜ばは」とお読み下さい。(60歳代/女性/千葉)
「なるほど…確かに、もとの意味は“喜びは二人で倍に”ではなく、嬉しい時も悲しい時も“親鸞さんがともに居る”という意味の“二人と思うべし”なので、「一人居て喜ばは」なのでしょうねo(_ _)o」
平塚雷鳥 今も昔も女性は実に太陽です。(50歳代/男性/埼玉)
「いつまでも輝いていられるのは男性のおかげ…という事にしときましょう
その他 ならぬ事はならぬものです。(40歳代/男性/兵庫)
「大河ドラマ“八重の桜”でもキーワードになってましたね」
太平記 やはりこれですね
「悪役のイメージ強い高師直さんですが、意外に情深い人だったのかも…ですね」
平家物語 祇園精舎の鐘も沙羅双樹の花もどんなモノかよく知らないけど、何となく当時の平安京の情景を想像してしまいます。
「流れるような言いまわしがグッときますね
その他 徳川家康の「天下は天下之人の天下にして、我一人の天下とは思ふべからず。国も又、一国之人の国にして、一人の国にはあらず。」
「やはり、神君家康公は名言が多いです
その他 木村昌福=帰ろう。帰ればまた来れるからな。先を見据え、退く時は退く。急がば回れですね。(20歳代/男性)
「キスカ撤退作戦ですね…あれは英断でした」
世阿弥 世阿弥さんから出たコトバとは知りませんでしたが、誰もが一度は、胸に刻んだコトバだと思います。(40歳代/男性/兵庫)
「そうですね…超有名な金言です」
その他 ゆく河の流れは絶えずして、またもとの水にあらず。
「鴨長明の方丈記ですね…以前、醍醐にある庵の跡を見て来ましたが、けっこう歩きました(*^-^)」
その他 人間五十年 。。夢まぼろしの如くなり茶々様、「ぐっと来る辞世 イチ押しランキング」お願い致します。過去にされてたらごめんなさい。(50歳代/女性/奈良)
「辞世も良いですね~今回のグ“ッと来るシリーズ()”でいくつか考えたんですが辞世は思いつきませんでした。いつかやってみたいと思います
坂本龍馬 飲み友達だったら絶対楽しいだろうなと思います。どんな嫌なことがあっても「それっぱあのこと、なんちゃあないわや!」と笑ってくれそうです(^.^)(40歳代/女性/高知)
「やはり高知では…お酒派飲めない私ですが龍馬さんといると楽しそうです(*^-^)」
平家物語 10代の頃に座右の銘にしていた『成せば成る…』や『初心忘るべからず』にも心動きましたが、年齢を重ねるとやはり『祇園精舎の鐘の声…』が心に染み入ります(^_^;)(40歳代/女性/兵庫)
「確かに…染みますね~」
その他 武田信玄。人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり 人材を尊重する名言は数あれど特に代表的なもので。(20歳代/男性/大阪)
「あぁ…それもありました!信玄さんも名言多いです~なんで選択肢に入れなかったんやろ(;д;)反省デス」
その他 「戦いは5分の勝ちをもって上となし、7部を中とし10を下とす。」・・・武田信玄 私はこれで仕事をしてきました。(60歳代/男性/石川)
「あぁ…やっぱり(p_q*)これも聞いた事ありました~名言ですね」
山中鹿之助母 う~ん難しい聞いたこと無いのも在るしどれも重いこれは選んではいけない設問の気がします(40歳代/男性/東京)
「もちろん、どれもこれも名言で金言なんですが、甲乙つけるというよりはそれぞれの好み=まさにご自身がグッ来るのは?という事で考えさせていただきました。人それぞれの歩んできた道、経験した事によって、その思いも様々かと…
また、今回のアンケートによって初めて知った名言が、今の自分にピタリとハマッて勇気づけられる方もおられるかもという期待も込めて…」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧くださいm(_ _)m)
その他 「秘すれば花」
(やぶひびさん)
橘曙覧 (つらまえさん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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