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2017年1月 6日 (金)

真田信繁の討死~そして幸村伝説へ…


明けましておめでとうございます。🎍

新たな年に、新たな気持ちで、
本年も、どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m

と言いながら、新年一発目は真田信繁(のぶしげ=幸村)のお話・・・

思いっきりの『真田丸ロス』を引きずりながら・・・というワケでは無いですが、今年の大河ドラマが始まって、脳内が井伊直虎(いいなおとら)に切り替わる、その前に、以前から思っていた事を、チョコッと吐露させていただきたいと思います。

それは、昨年の大河の主役=真田信繁の最期について・・・

もう、タイトルにしちゃってますので、先に結論を言わせていただきますと、私、個人的には、この信繁の最期が「討死」であった事こそが、後に伝説のヒーローと化していく大きな要因だと思っております。(もちろん、それだけが要因ではありませんが…)

残念ながら、昨年の大河では、安居神社っぽい場所で、信繁が腹に刃を当て、佐助が介錯するべく刀を振り上げる場面からの、別シーン・・・となっていて、自刃したのやら?してないのやら?が曖昧で、おそらくは「その後は想像してみてね」てな事なのでしょうけど・・・

あ・・・くれぐれも誤解の無いように、またまた言わせていただいときますが、私は、ドラマはドラマなので創作は大いにあって良く、大河ドラマとて史実に忠実である必要は無いと思っております。

そもそも、その史実自体が、どこまで真実に近いのか?、誰も確認する事ができませんし、その史実という物も、あくまで「こうであろう」という「現段階での最も納得のできる仮説」でしか無いわけですから・・・

しかも、史実の通りだとテンションだだ下がりになるエピソードもあるので、そこは文字通り、ドラマではドラマチックに描いていただきたいです。

たとえば、今回の大河で、
「総大将の豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)の出馬をうながす命を帯びて、信繁の息子=真田大助(だいすけ=幸昌)が大坂城内へと向かうも結果的に秀頼とともに自刃する」という『大坂御陣覚書』等に残るエピソードがありましたが、一方では(信繁は息子を大坂城へ)人質として差し出したる」と、信繁が裏切らないように、大坂方が人質として取っていたとする文書も複数あります。

また、信繁が、道明寺・誉田の戦い(4月30日参照>>) での戦いぶりで、その器量の大きさを感じた伊達政宗(だてまさむね)に、娘の阿梅(おうめ)を託すシーンがありましたが、これも、実は、阿梅は逃げる途中で伊達家の片倉重長( しげなが=片倉景綱の息子)の家臣からの「乱取り(戦時における略奪)」に遭って連れ去られ、そこで下女として働いていたところ、後日、信繁の娘である事が発覚したので、重長の後妻となったという話が有力です。

だいたい、なんの盟約も無い中、戦場にて「その戦いぶりを見て信頼を置く」からの「(戦いのあった日の夜に)阿吽の呼吸でその敵の娘を預かるもしくは預ける」なんて事は、実際問題として、かなりハードル高いですから、おそらく史実は後者=「乱取り」であろうとの見方が強いんです。

いずれにしても、何が史実に近いのかはわかりかねるものの、やはりドラマでは、大助は父の命を受けて颯爽と大坂城へ戻っていて欲しいし、阿梅ちゃんはやさしい独眼竜が保護してくれた方が、見てる側はウレシイです。

なので、ドラマに対してどーのこーの言う気は毛頭ございませんが、今回の大河の場合・・・
ドラマの主人公の名を、有名な幸村ではなく、あえて「信繁」にした事や、逸話の端々に、新説やマニアックなシーンを織り込んだ事などで、「今回の大河は史実に近い」あるいは「これこそ史実だ」と思っていらっしゃる方も多いと聞きます。

そもそも、ドラマや小説などでは、秀逸な創作ほど「本当の事だ」と思ってしまう視聴者&読者が多く、いまや完全に小説のイメージがついてしまった坂本龍馬(さかもとりょうま)を見て、晩年の司馬遼太郎氏が「私は読者をミスリードしてしまったかも知れない」とポツリとつぶやかれた・・・なんて噂も耳にします。

この噂は、とある歴史系雑誌で読んだだけなので、どこまで正しい話かは不明ですが、もしも本当に司馬氏が、そのような事をおっしゃたのだとしたら、注意しなければならないのは読者の方ですよね?

司馬氏は、あえて本当の坂本龍馬本人が、その生涯で1度も使用しなかった「坂本竜馬」という表記(「龍馬」「良馬」「りょうま」の表記は使用してます)の人物を、自らが理想とする主人公として最高にカッコよく描いただけなのですから・・・

そういう意味でも、小説やドラマと歴史は分けて考えないといけないと思います。

てな事で、やっと本題に入りますが・・・(←今まで、本題ちゃうかったんかい!!(゚ロ゚屮)屮)

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信繁の最期の地とされる安居神社(大阪市天王寺区)…くわしい場所は本家HP「京阪奈ぶらり歴史散歩」上町台地で>>

今回の大河ドラマの中での信繁最期のシーン・・・確か、ドラマ内では、その場所は特定されていなかったように思いますが、上記の安居神社の写真と、ドラマの信繁最期のシーンを見比べていただければお解りの通り、セットの雰囲気はどっからどう見ても、完全に、この安居神社です。

もちろん、実際に、この安居神社は「信繁最期の地」と言われていますので、ドラマのスタッフさんも、その点を意識してセットを作られたのでしょうが、もし、本当に、ドラマ内の設定でも、ここが安居神社なのだとしたら、「安居神社で信繁が自害」という流れは、史実としては多分無いように思います(←個人の感想です…安居神社では無く別の場所なら、もう少し可能性高いかも)

信繁最期のシーンの可能性としては・・・
1、安居神社で討死
2、別の場所で自害
3、遠くに逃げた

この中の「1」については、先日の【日本史の新発見&発掘…2016年総まとめ】のページ>>にも書かせていただいた通り、2016年の10月に福井県立図書館にて、「自分が槍を交えて討ち取りました」と記した本人の手紙の写しが発見されて、以前からあった説を後押しする形となっていますが、
それが・・・
「戦いに疲れた信繁が安居神社で休憩していたとこに偶然通りがかった、松平忠直(まつだいらただなお=家康の孫で後の越前藩主)の家臣=西尾宗次(にしおむねつぐ=仁左衛門)によって討ち取られたという説。

上記の通り、討ち取ったご本人の手紙の写しが発見されたのは昨年ですが、「西尾が安居神社で討ち取った話」自体は、『大坂御陣覚書』『落穂集』、合戦報告として記録された『越前兵首取状』諸将の手紙など、他にも数多くの史料に登場・・・てか、信頼できる史料としては、ほぼほぼ、この「西尾が安居神社で討ち取った話」しか出て来ません(希少ながら討死した場所が生國魂神社近くとの史料あり)

なので、現在のところ、この「安居神社で討死説」が突出して有力なのですが・・・
なら、なぜ?「2」や「3」の説が出て来るのか?と言えば・・・実は、「誰も信繁の顔を知らなかった」=つまり、なかなか本人確認できなかった、プラス、討ち取った西尾という人が有名人じゃ無かったために、「ホンマかいな?」という雰囲気ムンムンだったのですよ。

なんせ『武邊咄聞書』には、
「西尾が、たまたま討ち取った武者を鼻にしよう(大きな合戦の場合、討ち取った武将の首を持ってるとかさばるので耳や鼻を落として討ち取った証拠として持ち帰る)としていたところ、近くを通りがかった真田信尹(のぶただ=信繁の叔父)が「それ、僕の甥っ子の信繁かも知れん…前歯2本抜けてるやろ?近くに兜は無かったか?」と聞くので、歯を確認し、そばにあった兜を見せたところ、「この兜!やっぱ信繁や!」となって、首ごと家康の所へ持って行ったとあります。

また『落穂集』では、
「絶対、まともに戦って無いて…仁左衛門ごときが討ち取れる相手やないやろ!
と言われ、

合戦の1週間後の5月15日付けの細川忠興(ほそかわただおき)の手紙では、信繁の戦いっぷりを「古今無之大手柄」と褒めちぎった後に、
「アイツ(西尾)、絶対、もう倒れて動けんようなってる所に近寄って首取ったに違いないわ!そんなん手柄として認めたらアカンで!」
と散々な言われよう・・・

さらに『真武内伝追加』には、
「西尾が首を差し出した時、周囲はもちろん、家康自身も信繁の顔を知らなかったため、それが信繁かどうか確認できず、例の真田信尹を呼んで来ますが、「いやぁ、僕、生きてる時の信繁しか知らんので、死んだ顔ではよーわかりませんわ」との言い訳に、家康は激おこだった\(*`∧´)/」
とか・・・

なので、安居神社で討たれたのは別人・・・もしくは(兜がホンモノとの事なので)影武者ではないか?

・・・となって、「2」と「3」の説も可能性はあるとなるわけですが・・・

とは言え、上記の通り、安居神社にて誰かが討ち取られた事は確かなようなので、もし、信繁が自害しているとすれば別の場所という事になるのですが、不肖私、「自刃かも」という説もあるとは聞いておりますが、その出典が何なのか?どの文献に記されているのか?を存じ上げませんので、その事について、今ここで言及する事は避けさせていただいときます。

・・・で、「3」は皆様ご存じの、鹿児島への逃亡説

これは、やはり『真武内伝追加』に、例の
♪花のようなる秀頼様を
 鬼のようなる真田がつれて
 退きものいたり加護
(かご・鹿児)島へ♪
の歌とともに、船に乗って逃げる様が記されています。

また『先公実録』にも、
「鹿児島の南の谷山村という所に秀頼公の子孫がいる」
てな事が書かれています(2007年5月8日の後半部分参照>>)

とは言え、やはり「2」と「3」は、あくまで噂の域を越えないわけで、かくいう私も「安居神社で討死説」だと思っているわけですが・・・

そうなると、ふと思うのは、大坂の陣における、いわゆる「七人衆」などと呼ばれる大坂方の有名武将の中で、慶長二十年(1615年)5月7日最終決戦=天王寺口・岡山口の戦い(2015年5月7日参照>>)で討死したのは、信繁だけだという事・・・上記の通り、歴史上は未だ謎がありますが、少なくとも、当時の徳川方の武将は討ち取ったと思っていたはずなので…

七人衆(-信繁で=残り6人)のうち
後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)木村重成(しげなり)は、それぞれ前日の、又兵衛は上記の道明寺誉田の戦いで、重成は若江の戦い(5月5日参照>>)で戦死しているので、この最終決戦の時にはいない・・・

で、残った4人のうち、毛利勝永(かつなが)は、その日、信繁と同じく家康本陣に突入しながらも、その後の撤退戦で殿(しんがり)を努めて大坂城へと戻り、秀頼や、その母=淀殿(よど=茶々)、主将格の大野治長(はるなが)ほか、城中の皆々とともに自刃(4月24日の後半部分参照>>)・・・

大坂城炎上のドサクサで城を脱出した長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は後に捕縛され処刑(5月15日参照>>)・・・

同じく、大坂城から秀頼の息子を連れて脱出した大野治長の弟=大野治房(はるふさ)途中で捕まって処刑(【秀頼の二人の息子】参照>>)・・・

唯一、死亡が確認されていない行方不明の明石全登(あかしたけのり・てるずみ=景盛)(2012年5月8日参照>>)・・・

もちろん、5月7日の最終決戦は多くの戦死者が出てますから、信繁以外にも、あの仙石秀久(せんごくひでひさ)(9月18日参照>>)の息子の仙石秀範(ひでのり)や、結城秀康(ゆうきひでやす)の元家臣=御宿政友(みしゅくまさとも=勘兵衛)などの有名どころも、この日の最終決戦で討死してますが、やはり、七人衆とはインパクトが違う?(←ファンの方スンマセンm(_ _)m個人の印象です)

先ほどの細川忠興の手紙なんかでも、「木村・後藤・薄田(隼人=道明寺で討死)・明石…いづれも比類無き働き」と褒めながらも、彼らとは別の場所に「真田左衛門佐、古今無大手柄」と例の一文を記していますし、信繁ageの代名詞とも言える「真田日本一の兵(つわもの)(6月11日参照>>)島津忠恒(後の家久)の手紙などに代表されるように・・・何となく別格の雰囲気を醸し出してる感ありますよね?

当然ですが、信繁には例の真田丸の攻防(12月4日参照>>)をはじめとする数々の比類なき武功があった事は確かで、私自身も、それらの功績を絶賛する者の一人ではありますが、やはり、彼ら徳川方の「古今無之大手柄」「真田日本一の兵」という、別格のような褒め言葉が、後世の私たちの「真田スゴイ!」の印象に拍車をかけているような気がするのです。

しかし、そんな徳川方の武将たちによる褒め言葉・・・
イケズな見方をさせていただくと・・・
そのウラには「そんな強いヤツに、俺らは勝った」=「討ち取った」という気持ちが見え隠れしているんじゃないか?と・・・

厳しいようですが、やはり生き馬の目を抜く戦国乱世・・・
あの誉めまくりには、「本拠に戻って自刃した」のと「逃亡後に捕縛されて処刑された」のとは違う、「戦場で討ち取られた」という最期があったからなのだと思います。

そして、諸将から称賛された信繁像が、年月が経つうち、戦場に散った潔さとともに、さらに美しくカッコ良く軍記物に描かれ、猛将=信繁は、英雄=幸村へと変化していき、そして、伝説となったと・・・

なので、私の個人的な思いではありますが・・・
やはり、信繁には、
「最後の最後まで生きる事を諦めない」
「槍の、刀の、最後の一振りまで戦う」
武将であってほしい
と・・・

そして、その討死の姿があったからこそ、日本一の兵=真田幸村なのだと思っているのです。

年始早々の長文、最後まで読んでくださってありがとうございましたm(_ _)m
 .

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コメント

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

小説やテレビドラマは、創作の部分があるので、史実と異なる事もあります。
楽しめればいいと思いました。
これが史実だと思い込んでしまうのは、良くないでしょう。「真田丸」は、合戦シーンが
少ないですね。

投稿: やぶひび | 2017年1月 6日 (金) 13時01分

茶々様
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

ドラマとしての歴史と本当の歴史は違いますね。今回の真田丸を史実ととらえているファンが多いとは。それにしても、司馬遼太郎氏のコメントは興味深いです。

投稿: いんちき | 2017年1月 6日 (金) 20時00分

いつも楽しく拝読させていただいております。今回の記事は、茶々さんの幸村への思い入れが大変伝わるものでした!
それ故に、「真田丸」での幸村の最期と、茶々さんの思い描く幸村像に乖離があって、「真田丸」が史実ではないと伝えたかったんだなあ、という感想を持ちました。

だからというわけではありませんが、引用させていただくと記事冒頭の、
『あ・・・くれぐれも誤解の無いように、またまた言わせていただいときますが、私は、ドラマはドラマなので創作は大いにあって良く、大河ドラマとて史実に忠実である必要は無いと思っております。』
という免罪符のような一文は、わざわざ掲げなくてもいいんじゃないかな~、と思ったしだいで。

とりとめない長文をコメントし、申し訳ありません。

投稿: 岩石城 | 2017年1月 6日 (金) 20時20分

茶々様、明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
昨年は一年間、大河ドラマ『真田丸』を楽しく見る事が出来てました。様々批評点はありますが、面白かったです。最終回は賛否両論のようでしたね。私も個人的には死闘の末討死、が幸村には似合うかなぁと思いましたが… 三谷さんは最後まで描きたくなかったのかも知れないですね。秀頼や信繁には生き延びて欲しいと願ったのかも。家康との一騎討ちは良かったと思ってます。
今年も茶々様のblogを楽しみにしています。色々勉強させてくださ~いm(_ _)m

投稿: つらまえ | 2017年1月 6日 (金) 20時54分

やぶひびさん、明けましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願いしますm(_ _)m

>「真田丸」は、合戦シーンが…

そうですね。
ここのところの大河では合戦シーンは少ないですね。
お金もかかるし、なんだかんだで殺人現場ですから、「見たくない」という人も多いのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2017年1月 7日 (土) 04時13分

いんちきさん、明けましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願いしますm(_ _)m

三谷氏が、マニアックな逸話をチョコチョコ入れはるので、創作の部分も、一般に知られていないマニアックな史実だと混同してしまうんでしょうね。

創作がウマイほど感違いしてしまう確率も高くなるので難しいですね。

投稿: 茶々 | 2017年1月 7日 (土) 04時19分

岩石城さん、明けましておめでとうございます。

>免罪符のような一文は…

いえ(*´v゚*)ゞ
「真田丸」自体は、私も楽しんでましたので、今回のページが「ドラマ批判」だと思われては悲しいな~と思って、念のために付け加えておきました。

今年も、よろしくお願いしますm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2017年1月 7日 (土) 04時23分

つらまえさん、明けましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願いしますm(_ _)m

>三谷さんは最後まで描きたくなかったのかも…

それはあるかも知れませんね~

もう、いっその事、
櫓の窓から燃える天守を見つめて、今にも自刃しそうな秀頼さんのお膝の前の床板をパッカ~ンと割って助けに出て来て、トンネル通って茶臼山まで行ってくれたら…
って、それはちと行き過ぎですが…

投稿: 茶々 | 2017年1月 7日 (土) 04時31分

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

「~ロス」。このフレーズは何を付けても使えますね。主にドラマ関係に多いです。
今年の「おんな城主」の演者での見どころは子役たち・子役出身俳優です。
しかし、「auの鬼ちゃん」こと菅田くんが、井伊の赤鬼の異名を取った井伊直政役になったと聞いた時、思わず笑いそうになりました。
auからは乙姫とリトル桃太郎も起用されました。しかもかぐや姫は次の朝ドラのヒロイン。
さて、織田信長役は誰に?

投稿: えびすこ | 2017年1月 7日 (土) 10時35分

えびすこさん、こんにちは~

私にとって菅田くんは、未だに仮面ライダーWですww

投稿: 茶々 | 2017年1月 7日 (土) 17時06分

明けましておめでとうございます
愛ですね
素晴らしい暴走です!
2016年はいつも更新を楽しみにしてました
2017年も期待してます
本年も宜しくお願いします

投稿: 桜文鳥 | 2017年1月 7日 (土) 22時42分

桜文鳥さん、明けましておめでとうございますm(_ _)m

ちょっと暴走気味に映りましたか?
身も心も大坂方ですので…(*´v゚*)ゞ

本年もよろしくお願いいたします。

投稿: 茶々 | 2017年1月 8日 (日) 02時58分

茶々さま、あけましておめでとうございます~

信繁の死は戦国武将の琴線に触れるものがあったのでしょうね。
あんな陪臣ふぜいに討たれるなんて信じられないって感情もあったのかも・・・

ところで、youtube見てましたら
茶臼山と岡山のラインの野戦築城が取り上げられてました。

歴史秘話ヒストリア 12月16日 161216 緊急報告 真田丸を掘る
https://youtu.be/2CJVufbIlkY?t=2110

真田丸でもチラッと信繁がこの計画を言ってましたが、明確には描写されてませんでしたよね。

これに乗って夏の陣の脚本書けば良かったのに~って思います。

これだと、緒戦で本多忠朝が討ち取られる状況が説明がつくし、信繁の家康本陣強襲が納得いきます。

野戦築城だと長篠の合戦に仕返しになって面白いのですが。

本当のところはどうだったのでしょうね~

投稿: しまだ | 2017年1月 8日 (日) 16時06分

しまださん、明けましておめでとうございますm(_ _)m

私の子供の頃は、文献やらメディアの影響からとかではなく、実際に、地元の伝承として、「秀頼さんは抜け穴を使って大坂城から逃げた」というのが伝わっていて、近所の子供たちで「真田の抜け穴」の探検したりしてましたが、

さすがに「築城」という話までは出ていないものの、茶臼山から勝山通りに沿っての線が、大坂の陣の時の防衛ラインだった話(近所のオッチャン曰く「あそこまで大坂城の堀(土塁の事かも?)があってん」という言い方ですが)はあったので、そこらへんの攻防戦を見てみたかったですね。

投稿: 茶々 | 2017年1月 9日 (月) 02時52分

信繁の死の真相も最終回前に新聞にも「討ち死」とされた文献があったとありましたね。感情的には嫌ですが、多勢に無勢、討ち取られないほうが不思議なのでしょう。
でも「真田丸」最終回としては佐助に介錯されてよかったと思いました。左手が動かなくなった姿で十分でした。
脚色を史実と思い込むことのないよう、日々勉強ですね。

投稿: やんたん | 2017年1月12日 (木) 14時27分

やんたんさん、こんばんは~

最期の描き方については…、
私の好みは、「風林火山」のサニ千葉さんなので、個人的には、あんな感じが良かったですが、もはや、見てる側の好みの問題からね。
あちらを立てればこちらが立たずで、作り手さんも大変だと思いますww

投稿: 茶々 | 2017年1月13日 (金) 03時56分

真田の里上田からこんばんは。4月に真田祭りがあり真田丸の草刈正雄さん方々が今年もきてくださりました。上田城跡公園は昨年1日60台以上の観光バスがありましたがさて今年はどうなりますか。真田丸の最後は私は信繁が亡くなったあとはお兄ちゃんが本田正信と別れたあとに『真田家のことは俺に任せろ父上とお前のことは俺が後世に伝える』と泣きたいのを我慢して一言いって終わってくれればもっと感動したと思います。その後に佐久間象山話を含む松代藩の話の字幕のナレーションがあればもっとみなさんにわかりやすかったのではと思いました。

投稿: げん | 2017年5月10日 (水) 23時56分

げんさん、こんにちは~

お祭りは盛り上がったみたいですね。
私も「大河:真田丸」の印象は、やっぱり草刈さんですね~
作者の三谷さんも、おそらく真幸を描きたかったんでしょうね。

>真田丸の最後は…

そうですね。
最後にお兄ちゃんが出てきたので、何かあるのかな?と思ったら、大した事もなく終わってしまいましたが、その期待持たせ感が「大河:真田丸」らしいっちゃぁらしい気もします。
他のドラマでは、お兄ちゃんにスポットが当たる事自体が少ないので、個人的には、お兄ちゃん大活躍なのは良かったと思っています。

投稿: 茶々 | 2017年5月11日 (木) 11時04分

余談ですが北条氏政役をやられた高嶋正伸さんは昨年小田原城主役にもかかわらず地元に呼ばれないと嘆いていましたが今年めでたくお祭りに呼ばれてましたね。子供さんも授かったらしくニュースになってて言ってみるもんだねと笑ってみてました。所で茶々さまのお仕事はなんですか?歴史評論家さんですか?私は時々しかこちらにのぞけてませんが凄い研究家さんに感じますが…

投稿: げん | 2017年5月16日 (火) 16時14分

げんさん、こんばんは~

高嶋正伸さん…怪演が光ってましたね~
お祭りが賑やかになって良かったです。

ちなみに、私は、ただの歴史好きです(*^-^)
あ…お寺巡り&城巡りも好きです。

投稿: 茶々 | 2017年5月16日 (火) 19時25分

ただ討死って聞くと散々偉そうな事言ったくせに負けるのかよこの雑魚がってイメージですが
足利義輝のような死に方だと討たれても武勇の美談になりますからね
でもやっぱりドラマとしては強い人は
雑兵のようなのには討ち取られないでほしいかな

投稿: | 2017年11月30日 (木) 23時34分

こんばんは~

ドラマの場合は華々しく散るのもカッコイイと思います(o^-^o)

投稿: 茶々 | 2017年12月 1日 (金) 00時59分

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