信長VS越前一向一揆~富田長繁の桂田長俊攻め
天正二年(1574年)1月20日、織田信長から越前守護代を命じられていた桂田長俊が、一向一揆と結んだ富田長繁に一乗谷を攻められて討死しました。(『朝倉始末記』より)
・・・・・・・・・・・・・
*桂田長俊の死亡は、『信長公記』では「19日に自害」となっていますが、本日は『朝倉始末記』に沿ってお話させていただきます。
元亀元年(1570年)、4月の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)からの有名な姉川の戦い(6月28日参照>>)に始まる、織田信長(おだのぶなが)VS浅井・朝倉の戦い・・・3年の年月を経た天正元年(1573年)、小谷城に北近江(おうみ=滋賀県)の浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷に越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月20日参照>>)、信長はいよいよ越前を手に入れたわけですが・・・
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)
この時、最初の金ヶ崎から平定まで、3~4年の月日がある事から、その間に朝倉を見限って織田方に寝返った元朝倉家臣も多くいました。
ご存じのように、刃向かう者には徹底抗戦の信長さんですが、降伏して来たり、寝返って来たり、従順な態度をとる者には意外にやさしい・・・今回の対朝倉においても、織田の傘下となった元朝倉家臣に対して、旧領を安堵してそれぞれの役に任命し、彼ら自身によって、越前の各地を治めるよう指示していたのです。
そんな中の一人が、この織田傘下への転向を機会に、その名を前波吉継(まえばよしつぐ)から改名した桂田長俊(かつらだながとし)でした。
信長は、浅井の本拠だった小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)に直臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀)を置いて近江から北部に睨みを効かせ、朝倉の本拠だった一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)に、桂田長俊を越前の守護代として置いたのです。
実は、今回の信長の越前攻めの時、いち早く寝返って、道案内までかって出たのが桂田長俊・・・おかげで、越前の守護代という破格の待遇を得たわけですが、上記の通り、この時、朝倉から織田へ寝返ったのは、彼だけでは無かったわけで、当然、同時期に少しだけ遅れて寝返った元朝倉の家臣たちからは
「ちょっと早いだけで、アイツが守護代かい!\(*`∧´)/」
てな不満も湧いて来るわけで・・・
そんな中、当の桂田は、信長さんのご機嫌を取るべく、贈物三昧を決行・・・城下の職人たちからは、あれやこれやの名品を取りたてるわ、農民たちには増税を強いるわで、ほどなく領民たちの不満も頂点に達し、地元の本願寺に訴えます。
もとより、この越前の地は、朝倉とも上杉とも交戦(8月6日参照>>)を続けた一向一揆の盛んな地・・・この状況に本願寺門徒が黙っているはずはありません。
そこに目をつけたのが、元朝倉家臣で、かの寝返り組の一人=府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)でした。
彼は、早速、加賀一向一揆で一翼の大将を担う杉浦玄任(すぎうらげんにん=げんとう・壱岐)と連絡を取り、援軍を要請します。
『朝倉始末記』によれば・・・
天正二年(1574年)1月19日、一揆勢を加えて3万3千余りに膨れ上がった富田長繁の軍は、あちこちで騒動を起こしながら一乗谷に攻め寄せたのです。
(『朝倉始末記』では総勢10万以上となっていますが、一般的には上記の3万3千とされます)
上城戸と下城戸の2手に分かれて一乗谷に押し寄せる一揆軍・・・
上城戸には富田長繁自らが大将となって突っ込み、下城戸には、杉浦玄任の配下である大野衆(福井県大野市の本願寺門徒)らがけたたましく攻め寄せ、両方の木戸はアッと言う間に破られて、一揆勢が一気に城内へと乱入しました。
さすがに、これだけの大軍に攻め込まれるとは思ってもいなかった一乗谷城の城兵は、一揆勢に押しまくられるばかりで逃げ場を失い、多くの者が討死したと言います。
そして、一揆勢は、いよいよ、城主の桂田長俊のもとへ迫ります。
なかなかの剛の者であったとも言われる桂田長俊さんですが、実は、この頃には失明していたらしく・・・
それでも、桂田長俊は馬に乗って出陣し、馬上から果敢に敵兵に立ち向かいますが、残念ながら彼の刀先は空を切るばかり・・・戦場の真っただ中では、音を頼りにする事もできずに敵を見失い、最後の最後には呆然と立ち尽くしているところを敵兵に囲まれ、馬から引きずり降ろされて首を切られたのです。
開戦の翌日=天正二年(1574年)1月20日・朝・・・桂田長俊は戦場の露と消えました。
勢い止まらぬ一揆勢は、そのまま、桂田長俊の一族郎党を皆殺しにし、逃げる途中だった息子や母も追いつめて殺害したとの事・・・
♪上モナク 昇リ昇リテ 半天ノ
ミツレバカクル 月ノ桂田
桂田ノ 實(実)リモアヘヌ 領地マデ
稲妻ノ間ニ 穂頸(くび)切ラル ♪
「昇りに昇った半天の月も満ちれば欠ける
桂田は、未だ成果もあげないうちに、
またたく間に殺られてしまった」
これは、「桂田長俊が亡くなった翌日に、何者かが在所に残した落書だ」と『朝倉始末記』は言ってますが、おそらくは、始末記を書いている作者の思いを詠んだ物でしょう。
『信長公記』では、守護代となった桂田長俊が、我が世の春を謳歌し、勝手気ままに振る舞ってエラそうにして反感をかったために自害に追い込まれた(『信長公記』での死亡日は19日)のだと淡々と書いてあり、実際には、そんな感じなのでしょうけど、
なんか、『朝倉始末記』の方は「盛者必衰のコトワリをあらわす」みたいで、泣けて来ますね~やっぱ、『朝倉始末記』は軍記物ですから、描き方がドラマチックです。
ところで、まだまだ勢い止まらぬ一揆勢・・・扇動する富田長繁は、同月21日には、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃して、目付として赴任していた3人の奉行まで追放し、その3日後の24日には、やはり自分と同時期に織田方へ寝返った元朝倉家臣で、現在は鳥羽野城(とばのじょう=福井県鯖江市)の城主となっているの魚住景固 (うおずみかげかた) を、
しかも、コッチは宴会に誘って父子ともども殺害しちゃうという騙し討ちというセコイ手まで使って、越前一国を、ほぼ手中に収めますが・・・
おいおいおい・・・そうです、富田長繁は織田傘下のはずだったのに、何やってんの?
かの『信長公記』も書いてますが、「これで越前は一向一揆の持つ国」になってしまったわけで・・・勢いのまま突き進んではみたものの、果たして、富田長繁は、信長を相手に戦う覚悟はあったんでしょうか?
一方、信長さんは、当然の如く激おこプンプン丸・・・羽柴秀吉や丹羽長秀(にわながひで)といった面々を敦賀(つるが)に派遣する事になるのですが、この続きのお話は、
長繁最期の日となる2月18日のページ>>で・・・
更なる展開の
越前平定は8月12日のページ>>でどうぞm(_ _)m
(続きのお話なのでおおまかな経緯の部分は内容がかぶっていますが、お許しを)
.
「 戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事
- 浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い(2024.09.04)
- 白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政(2024.08.28)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
コメント
2月18日の前の部分は
長俊→×
長繁→○
ですかね?
投稿: 桜文鳥 | 2017年1月23日 (月) 22時49分
桜文鳥さん、こんばんは~
あっ!ホントですね。
訂正しときます(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2017年1月24日 (火) 02時32分
狂犬の富田といい、こいつを滅ぼした生臭坊主七里頼周といい北陸朝倉まわりはろくでもないやつの多いこと。というか朝倉家の武将ってろくな末路をたどってないような気がする。同盟国だった浅井家の武将は豊臣政権で活躍したの多いのに。これもアホの義景の呪いなのだろうか。
投稿: | 2017年1月24日 (火) 17時46分
ところで今年の大河ドラマでの信長役は誰になるんでしょう?
候補として私は5人リストアップしています。
>?さん
確かに朝倉家の家臣だった人で豊臣・徳川政権下で大名になった人は聞きませんね。
武田家臣の末裔の中には桃山時代に大名になった真田氏、武田氏滅亡直後に井伊氏の家臣になった人もいます。つまり大坂の陣はある意味同志合戦。旗本から譜代大名になった柳沢氏がいます。
投稿: えびすこ | 2017年1月27日 (金) 10時36分
>朝倉家の武将ってろくな末路をたどってないような気がする。同盟国だった浅井家の武将は豊臣政権で活躍したの多いのに…
う~~ん( ̄◆ ̄;)
そうですか?
「気がする」だけだと思いますよ。
私は、戦国時代だけでも、多くを知らない武将は、まだまだたくさんいますし、たぶん、一生かかっても、すべての武将の生きざまを知る事は不可能なんじゃないか?と感じています。
でも、「自分が知らない」からと言って、「その武将が活躍して無い」とは言い切れないのが歴史のオモシロさ…
そして、それを日々知って行くのが楽しいし、生涯にわたる学習だと思っています。
個人的には、朝倉義景の内政手腕は、なかなかにレベルが高いと思っていますが…
投稿: 茶々 | 2017年1月28日 (土) 03時28分
えびすこさん、こんばんは~
「風林火山」の時は「影」だけでしたね。
逆に「真田丸」の時には吉田鋼太郎さんのムダ使い…
信長役は難しいです。
投稿: 茶々 | 2017年1月28日 (土) 03時35分
>朝倉家の武将ってろくな末路をたどってないような気がする。同盟国だった浅井家の武将は豊臣政権で活躍したの多いのに…
織豊政権で近江人が重用された背景には北陸-近江-京という交通の要衝にあって高い物流スキルを有していたからに他なりません。それ故浅井に限らず六角、京極の遺臣が各大名家に取り込まれる事となった訳です。もちろんそのルート上にある越前衆も例外ではありません。
一例として越後村上周防守家を見るとしましょう。元近江高島領主で徹頭徹尾織田に抗い続けた筆頭家老の吉武壱岐守一万五千石http://www.city.takashima.lg.jp/www/contents/1354081884056/files/32.pdfは別格として…ここには朝倉氏の武将だった魚住、冨田の子孫と目される魚住覚兵衛、冨田庄兵衛も家老に名を連ねていたりします。
他にも著名な朝倉遺臣として上杉、蒲生に使えた岡左内https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%AE%9A%E4%BF%8A、加賀前田家の山崎長徳https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%95%B7%E5%BE%B3がおります。そしてその両者の血を引く末裔に岡茂雄https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E8%8C%82%E9%9B%84がいます。
投稿: ヤマイヌ | 2017年2月17日 (金) 03時05分
ヤマイヌさん、おはようございます。
おっしゃる通り、活躍した方はたくさんおられます。
投稿: 茶々 | 2017年2月17日 (金) 06時17分
茶々さんこんにちは。
前田家では他に青木吉則(近世加賀藩と富山藩についてhttp://kinseikagatoyama.seesaa.net/article/364358356.htmlの 二、特筆すべき家臣履歴 参照)なども朝倉家々臣の子孫とあります。
-訂正-
誤:蒲生に使えた → 正:蒲生に仕えた
投稿: ヤマイヌ | 2017年2月17日 (金) 12時28分
ヤマイヌさん、こんにちは~
色々と情報ありがとうございます。
仕事の関係で、北陸には10年住んだ事があるので、とても興味深いです。
投稿: 茶々 | 2017年2月18日 (土) 09時04分
茶々さんこんにちは
>色々と情報ありがとうございます。
どう致しまして。こちらこそ毎回繰り広げられる興味深いお話を楽しませていただいております。
さて、前述の
近世加賀藩と富山藩についてhttp://kinseikagatoyama.seesaa.net/article/364358356.htmlの 二、特筆すべき家臣履歴
をスクロールすると結構な数朝倉系の武士を見つけられるのでお試しあれ。
では。
投稿: ヤマイヌ | 2017年2月18日 (土) 17時50分
ヤマイヌさん、こんばんは~
こちらこそ、
ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2017年2月18日 (土) 18時26分