将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い
天文二十年(1551年)2月26日、7日から始まっていた三好VS六角による志賀の戦いが、ほぼ終結しました。
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戦国の幕を開けた男とも言われる室町幕府管領(かんれい)=細川政元(まさもと)の死後、後継者の座を巡って3人の養子たちが争ったお話は、これまでも何度か書かせていただいておりますが、
●【細川政元の暗殺】>>
●【船岡山の戦い】>>
●【等持院表の戦い】>>
●【神尾山城の戦い】>>
●【桂川原の戦い】>>
●【箕浦合戦】>>
と、かの桂川原の戦いに敗れたために、大永七年(1527年)、近江(おうみ=滋賀県)へと退いたのが、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)と、彼を擁する細川高国(たかくに)。
一方、戦いに勝利した事で、堺(さかい=大阪府堺市)に拠点を置く堺公方(さかいくぼう)=足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立したのが細川晴元(はるもと=澄元の息子)と、彼らとともに阿波(あわ=徳島県)からやって来た三好元長(みよしもとなが)+三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟ら。
そして、もともと高国と対立していた事によって晴元らに味方し、山崎城(やまざきじょう=天王山城・宝寺城とも)から京の都を支配する柳本賢治(やなぎもとかたはる)。
こうして、滋賀の坂本、京都の山崎、大阪の堺、と、機内に3つの政権保持者が乱立するわけですが、もともと、それぞれが別々の思惑で動き、別々の利害関係を持っているわけで・・・
結局、享禄三年(1530年)に柳本賢治が暗殺され(6月29日参照>>)、それキッカケで京へと攻め上った細川高国が、翌享禄四年(1531年)に自害に追い込まれると、事実上の一人勝ちとなった晴元は、どうやら、一連の抗争が細川家当主&幕府管領というトップのイスに座りたかったためのものだったようで・・・堺公方の件をウヤムヤにして将軍=義晴と和睦してしまいます。
そして・・・その件で晴元と対立した三好元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げ、義維も阿波へと逃れました。(7月17日参照>>)
そこに登場するのが、三好元長の息子で、後に「戦国初の天下人」と言われる事になる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と、その兄弟たちです。
とは言え、以前、その長慶さんのページ(5月9日参照>>)でもお話させていただいたように、父の元長が亡くなった時は、未だ長慶11歳の頃・・・しかも、上記の通り、この時、中央で政権を握っていたのは晴元なわけで、しばらくの間、長慶は大人しく晴元の配下につき、そこで腕を磨き、手柄をたてる事によって、むしろ細川晴元政権の中でも、1-2を争う重臣となっていくわけです。
そんな中、かの桂川原の戦い以来、晴元ベッタリの細川政長との仲が徐々にややこしくなっていく長慶・・・その原因としては、
以前は、父の元長が管理していた河内(かわち大阪府北部)の荘園を、その死後に政長が管理していたのですが、それを、「そろそろ俺らに反してぇな」と長慶が頼んでも、政長は知らん顔とか・・・とにかく、ことごとく長慶に敵対する政長の討伐を、長慶は何度も晴元に願い出ますが、許す気配が無いどころか、何かと晴元は政長に同調し味方ばかりするのです。
しかも、このようなタイミングで、亡き高国の後継者(養子)の細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて、「打倒!晴元」掲げて挙兵・・・かくして長慶は、この氏綱と連携して、晴元政権からの離脱を決意するのです(9月14日参照>>)。
これを幕府への謀反と判断する晴元・・・この両者の対立は、機内の諸将たちをも二分させ、「どちらにつくか?」のそれぞれの立場によって、様々な小競り合いを生んでいく事になるのですが、そのあたりも、いずれは、それぞれの日付にてくわしく書かせていただく事として・・・
そんなこんなの天文十八年(1549年)6月、両者が直接対決した江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶が見事勝利(6月24日参照>>)した事から、負けた晴元勢は、長慶の追撃を恐れて、将軍=義晴を伴って近江の坂本へと避難し、京都の行政は事実上長慶が牛耳る事となります。
ところが、その翌年の天文十九年(1550年)5月、将軍=義晴が、その避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)=足利義輝(よしてる)が第13代室町幕府将軍に就任します。
当然のことながら、未だ15歳の若き将軍の夢は、今や長慶と氏綱の手にある京都を奪回する事・・・この将軍の夢にまず答えたのは、先の江口の戦いの時にも晴元&政長に加勢し、その後も晴元ベッタリな観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)の六角定頼(ろっかくさだより)の息子=六角義賢(よしかた=承禎)でした。
新将軍誕生から、わずか2ヶ月後の7月、義賢は京都に向けて兵を出し、三好勢と東山方面で交戦・・・しかし、この時は勝敗が決しなかった事から、翌天文二十年(1551年)2月7日、今度は長慶自らが軍を率いて戦いの準備を整えると同時に、配下の松永長頼(まつながながより=内藤宗勝・松永久秀の弟)に、近江への侵攻を命じたのです。
これを受けた義賢・・・鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市鯰江町)の鯰江貞景(なまずえさだかげ)、鎌刃城 (かまはじょう=滋賀県米原市) の堀元積(ほりもとつむ)、勢多城(せたじょう=滋賀県大津市・瀬田城)の山岡景隆(やまおかかげたか)などの配下の諸将300余を以って迎え撃つ事になります。
↑志賀の戦い位置関係図…画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は地理院地図>>をお借りしました)
こうして始まった三好VS六角の志賀の戦い・・・両者の激戦が、何日も繰り返されたため、2月20日には、将軍=義輝が高島郡の朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと避難する事態になりますが、天文二十年(1551年)2月26日、六角勢に押し負けた松永勢が京都へと撤退を開始・・・追う六角勢
翌27日の朝には、追撃して来た六角勢が鹿ヶ谷(ししがだに=京都市左京区)あたりで追い付き、再び激しい戦闘となる中、松永勢の名のある武将が何名か命を落としたところで、六角勢は坂本へと引き返します。
しかし、さらに翌2月28日には、京都に侵入して来た六角勢によって、東山一体が焼き払われますが、一方で、反六角氏を表明している北近江の京極(きょうごく)氏(8月7日参照>>)や浅井(あざい)氏によって、犬上郡多賀(たが)が放火されるなどの小競り合いも、三好軍と連携する形で勃発しています。
結果的に、今回の志賀の戦いについては、おおむね六角氏の勝利となりましたが、もちろん、両者の交戦が、これで終わるわけはなく、まもなく、京都の市街戦に突入する事になるのですが、そのお話は【白川口(北白川)の戦い】>>でどうぞ(ノ∀`)・゚・。
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