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2017年2月26日 (日)

将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い

 

天文二十年(1551年)2月26日、7日から始まっていた三好VS六角による志賀の戦いが、ほぼ終結しました。

・・・・・・・・・・・

戦国の幕を開けた男とも言われる室町幕府管領(かんれい)細川政元(まさもと)の死後、後継者の座を巡って3人の養子たちが争ったお話は、これまでも何度か書かせていただいておりますが、
【細川政元の暗殺】>>
【船岡山の戦い】>>
等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【箕浦合戦】>>

と、かの桂川原の戦いに敗れたために、大永七年(1527年)、近江(おうみ=滋賀県)へと退いたのが、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)と、彼を擁する細川高国(たかくに)

一方、戦いに勝利した事で、(さかい=大阪府堺市)に拠点を置く堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立したのが細川晴元(はるもと=澄元の息子)と、彼らとともに阿波(あわ=徳島県)からやって来た三好元長(みよしもとなが)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟ら。

そして、もともと高国と対立していた事によって晴元らに味方し、山崎城(やまざきじょう=天王山城・宝寺城とも)から京の都を支配する柳本賢治(やなぎもとかたはる)

こうして、滋賀の坂本、京都の山崎、大阪の堺、と、機内に3つの政権保持者が乱立するわけですが、もともと、それぞれが別々の思惑で動き、別々の利害関係を持っているわけで・・・

結局、享禄三年(1530年)に柳本賢治が暗殺され(6月29日参照>>)、それキッカケで京へと攻め上った細川高国が、翌享禄四年(1531年)に自害に追い込まれると、事実上の一人勝ちとなった晴元は、どうやら、一連の抗争が細川家当主&幕府管領というトップのイスに座りたかったためのものだったようで・・・堺公方の件をウヤムヤにして将軍=義晴と和睦してしまいます。

そして・・・その件で晴元と対立した三好元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げ、義維も阿波へと逃れました。(7月17日参照>>)

Miyosinagayosi500a そこに登場するのが、三好元長の息子で、後に「戦国初の天下人」と言われる事になる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と、その兄弟たちです。

とは言え、以前、その長慶さんのページ(5月9日参照>>)でもお話させていただいたように、父の元長が亡くなった時は、未だ長慶11歳の頃・・・しかも、上記の通り、この時、中央で政権を握っていたのは晴元なわけで、しばらくの間、長慶は大人しく晴元の配下につき、そこで腕を磨き、手柄をたてる事によって、むしろ細川晴元政権の中でも、1-2を争う重臣となっていくわけです。

そんな中、かの桂川原の戦い以来、晴元ベッタリの細川政長との仲が徐々にややこしくなっていく長慶・・・その原因としては、

以前は、父の元長が管理していた河内(かわち大阪府北部)の荘園を、その死後に政長が管理していたのですが、それを、「そろそろ俺らに反してぇな」と長慶が頼んでも、政長は知らん顔とか・・・とにかく、ことごとく長慶に敵対する政長の討伐を、長慶は何度も晴元に願い出ますが、許す気配が無いどころか、何かと晴元は政長に同調し味方ばかりするのです。

しかも、このようなタイミングで、亡き高国の後継者(養子)細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて、「打倒!晴元」掲げて挙兵・・・かくして長慶は、この氏綱と連携して、晴元政権からの離脱を決意するのです(9月14日参照>>)

これを幕府への謀反と判断する晴元・・・この両者の対立は、機内の諸将たちをも二分させ、「どちらにつくか?」のそれぞれの立場によって、様々な小競り合いを生んでいく事になるのですが、そのあたりも、いずれは、それぞれの日付にてくわしく書かせていただく事として・・・

そんなこんなの天文十八年(1549年)6月、両者が直接対決した江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶が見事勝利(6月24日参照>>)した事から、負けた晴元勢は、長慶の追撃を恐れて、将軍=義晴を伴って近江の坂本へと避難し、京都の行政は事実上長慶が牛耳る事となります。

ところが、その翌年の天文十九年(1550年)5月、将軍=義晴が、その避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任します。

当然のことながら、未だ15歳の若き将軍の夢は、今や長慶と氏綱の手にある京都を奪回する事・・・この将軍の夢にまず答えたのは、先の江口の戦いの時にも晴元&政長に加勢し、その後も晴元ベッタリな観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)六角定頼(ろっかくさだより)の息子=六角義賢(よしかた=承禎)でした。

新将軍誕生から、わずか2ヶ月後の7月、義賢は京都に向けて兵を出し、三好勢と東山方面で交戦・・・しかし、この時は勝敗が決しなかった事から、翌天文二十年(1551年)2月7日、今度は長慶自らが軍を率いて戦いの準備を整えると同時に、配下の松永長頼(まつながながより=内藤宗勝・松永久秀の弟)に、近江への侵攻を命じたのです。

これを受けた義賢・・・鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市鯰江町)鯰江貞景(なまずえさだかげ)鎌刃城 (かまはじょう=滋賀県米原市) 堀元積(ほりもとつむ)勢多城(せたじょう=滋賀県大津市・瀬田城)山岡景隆(やまおかかげたか)などの配下の諸将300余を以って迎え撃つ事になります。

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↑志賀の戦い位置関係図…画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
地理院地図>>をお借りしました)

こうして始まった三好VS六角の志賀の戦い・・・両者の激戦が、何日も繰り返されたため、2月20日には、将軍=義輝が高島郡の朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと避難する事態になりますが、天文二十年(1551年)2月26日六角勢に押し負けた松永勢が京都へと撤退を開始・・・追う六角勢

翌27日の朝には、追撃して来た六角勢が鹿ヶ谷(ししがだに=京都市左京区)あたりで追い付き、再び激しい戦闘となる中、松永勢の名のある武将が何名か命を落としたところで、六角勢は坂本へと引き返します

しかし、さらに翌2月28日には、京都に侵入して来た六角勢によって、東山一体が焼き払われますが、一方で、反六角氏を表明している北近江京極(きょうごく)(8月7日参照>>)浅井(あざい)によって、犬上郡多(たが)が放火されるなどの小競り合いも、三好軍と連携する形で勃発しています。

結果的に、今回の志賀の戦いについては、おおむね六角氏の勝利となりましたが、もちろん、両者の交戦が、これで終わるわけはなく、まもなく、京都の市街戦に突入する事になるのですが、そのお話は【白川口(北白川)の戦い】>>でどうぞ(ノ∀`)・゚・。
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2017年2月19日 (日)

源平・屋島の戦い~弓流し

 

文治元年(寿永四年・1185年)2月19日は、源平合戦の屈指の名場面=扇の的で有名な『屋島の戦い』のあった日です。

・・・・・・・・・・

ご存じ、平安末期の源平の戦い・・・

治承四年(1180年)、驕る平家に一矢を報うべく立ち上がった以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が散った(5月26日参照>>)後、その令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)(4月9日参照>>)を受け取った伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)や、北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らが相次いで挙兵する中、都を福原遷都(せんと)(11月16日参照>>)したり、南都(なんと=奈良)焼き討ち(12月28日参照>>)を決行したりと、未だ堅固であった平家一門でしたが、翌・養和元年(1181年)2月に、大黒柱であった平清盛(たいらのきよもり)熱病に侵されて死亡する(2月4日参照>>)と一気に陰りが見え始め、寿永二年(1183年)5月の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(5月11日参照>>)etcに勝利して勢いづいた木曽義仲が京へと迫った事から、平家一門は都を後にし西国へと逃れます(7月25日参照>>)

しかし、ここで、義仲と頼朝が源氏トップの座を争った事で(1月16日参照>>)、平家の相手は、そのトップ争奪戦に勝利(1月21日参照>>)した頼朝の弟=源義経(みなもとのよしつね=義朝の9男)に移行・・・寿永三年(1184年)2月には、鵯越(ひよどりごえ)の逆落し>>青葉の笛>>で有名な一の谷の戦い(2013年2月7日参照>>)に敗れ、さらに西へと移動する平家一門・・・

とまぁ、久々の源平合戦のお話なので、ここまでの経緯をサラッとおさらいしてみましたが、さらにくわしくは、【源平争乱の年表】>>で、個々にご覧いただくとして・・・

その一の谷から約1年・・・この間、四国の屋島(やしま=香川県高松市)に落ち着いた平家は、関門海峡の交通を抑えて瀬戸内海の制海権を握りつつ、播磨(はりま=兵庫県)安芸(あき=広島県)などで度々勃発した源氏との交戦では、水軍の機動力を生かした海からの攻撃で、海岸線に展開する源氏軍をかく乱し、むしろ押せ押せムード・・・

対抗策を練る頼朝は、先に平家の退路を断つべく、弟の源範頼(みなもとののりより=義朝の6男)を九州へ派遣しますが、思うような成果が挙げられないばかりか兵糧にも事欠き、やむなく頼朝は、一旦平家追討から離れて京の都で治安維持に当たっていた義経を、再び呼び戻して出陣させたのです。

文治元年(寿永四年・1185年)2月17日未明、荒れ狂う海の中、ムリクリで渡海した義経が(2月16日参照>>)、東岸の勝浦に上陸した後、屋島の対岸に当たる牟礼(むれ)高松の民家に火を放ちつつ屋島を目指した事を受けて、平家の指揮をとる平宗盛(清盛の三男)は、早速、安徳天皇の御座所を船に遷し、建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)二位の尼(清盛の奥さん=時子)をはじめ、宗盛親子自身も乗り込み、早々に漕ぎ出して沖に停泊・・・そこに到着する源氏軍との間で行われたのが、文治元年(寿永四年・1185年)2月19日屋島の戦い・・・

という事になるのですが、
この時の戦いで命を落とす事になる義経の側近=佐藤嗣信(さとうつぐのぶ)のお話については2008年2月19日のページ>>で、
戦い終わって日が暮れて行われた、有名な扇の的(まと)については2007年2月19日のページ>>で・・・

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源平合戦図屏風・屋島合戦(埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵)

そう、実は、この屋島の戦い・・・最初の戦いの後、夕暮れとなって扇の的なるイベントがあって終わるはずだったのが、上記のページで書いた通り、そのイベントに感動した平家のオッチャンまで射殺してしまった事から、再び戦闘が始まってしまうんです。

てな事で、今回は、その扇の的の続きとなるお話で、やはり有名な『弓流し』のお話を『平家物語』に沿ってご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

源氏の代表として出て来た那須与一(なすのよいち=宗高)が、見事1溌で扇を射止めた事を受けて、その光景のすばらしさに感動した50歳くらいの平家の者が、そのそばで踊り出したのを見て、義経は「アレも射よ」と命令・・・

義経の命により、男も射られると、源氏側からはどよめきの声が挙がったものの、平家側はシ~ンと静まり返ります。

一瞬の静寂の後、
「何するんじゃ!ボケ!」
とばかりに、楯を持って一人、弓を持って一人、長刀(なぎなた)を持って一人・・・と3人の平家の武士が船を下りて海岸に向かって駆け出し
「オラ!かかって来いや!」
と、陸にいる源氏の兵を招きます。

「クソッ!誰か、乗馬のうまいヤツ、アイツら蹴散らして来いや!」
と義経が言うと、美尾屋十郎(みおのやじゅうろう)らが数騎連れだって突撃を開始します。

しかし、そこに向けて平家側が次々と矢を射かけたので、馬が屏風を倒すように崩れていったため、十郎ら乗り手は、すかさず馬から下りて太刀を構えますが、平家の武士もすかさず大太刀にて襲いかかりました。

この平家の大太刀に対して、自らの小太刀では対抗できないと考えた十郎が、屈み伏せながら逃げようとするところを、この平家の武士は追いかけますが、彼は、長刀で襲うのではなく、素手で十郎の甲(かぶと)(しころ=首を保護するために甲の後ろ側に垂れている部分)を掴もうとします。

掴まれまいと逃げる十郎・・・追う平家の武将・・・

3度掴みかけて失敗するも、4度目に見事、ムンズと掴んで、そのまま引っ張る・・・すると、しばらくの停止の後、なんと、甲の錣部分が引きちぎれ、十郎は、そのまま、そばにいた馬の影に隠れて息をひそめます。

すると、その平家の武将は、それ以上深追いはせず、片手で長刀を杖のように立て、片手で引きちぎった錣を天高くかざしながら
「近頃は音にも聞きつらん!今は目にも見たまえ!
我こそは、都の童
(わらべ)も悪の七兵衛と呼ぶ、上総(かずさ)の景清よ!」
と名乗りを挙げたのです。

そう、この時、先頭を切って源氏軍に挑んだこの武士が、平家の生き残りとして、この後、37回もの頼朝暗殺計画を決行する平景清(たいらのかげきよ=藤原景清)(3月7日参照>>)なのです。

この堂々たる名乗りに士気挙がる平家・・・
「悪七兵衛を討たせるな!行け~~!」
とばかりに、200名余りが一気に海岸に向かって突撃し、陸地の源氏軍に迫り、
「オラオラ!来いや!」
と招きます。

「ちょ、待てよ!ヤバイやん」
とばかりに義経が、すかさず80騎ほどの馬で以って態勢を整えると、もともと船から下りて海岸へ向かって突撃している形の平家は馬ではなく生身の人間・・・このままぶつかっても、はじきとばされるだけですから、仕方なく、平家の兵士たちはそそくさと船へ戻るのですが、そこを好機と見た源氏の兵士たちは、馬のお腹が浸かるほどの沖まで入り込んで、敵の船べり間近まで攻め入ります。

と、この勢いのまま、義経自身も、あまりに平家の船に近づいてしまったため、平家の船から差し出された熊手で、甲を2度3度ドツかれ、それを太刀で以って払いのけているうちに、いつの間にか、かけていた弓を海へ落としてしまいます。

慌ててうつ伏せになって、持っていた鞭(むち)で引き寄せて取ろうとしますが、かき寄せてもかき寄せても弓は遠くに行くばかり・・・

「そんなん、捨てときなはれ!」
と周りの兵が言うのも聞かず、必死のパッチで弓をたぐり寄せる義経・・・

やっとの事で、弓をとらえて、ホッと一息・・・ニッコリ笑う義経に
「何をしてはりますねん。
なんぼ高い弓やとしても、命より大切っちゅー事はおまへんやろ。
無茶しなはんなや」

と、怪訝な様子の兵士に対して、義経は、
「いやいや…確かに弓が惜しいだけやったら、そう思うやろけど、ちゃうねん。
この弓が、為朝
(ためとも=【源為朝・琉球王伝説】参照>>のオッチャンのんみたいな大きくてかっこええ弓やったら、わざと落としてでも敵に見せつけたるんやけど、コレ、ちょっと貧弱やんか~
せやから、これ見て『これが源氏の大将の九郎義経の弓やてwww』ってバカにされんのちゃうかと思て、命に代えても敵に渡すか!って思て取り返してん」

と・・・

これを聞いて、人々は納得・・・
さすが大将!カッコイイ~o(*^▽^*)o
となったのだとか・・・(コレ、かっこええんかな?←個人の感想です)

そうこうしているうちの日もドップリ暮れ、源氏軍は牟礼と高松の間にある野山で陣を取り、兵を休息させます。

なんせ、あの嵐の中を船出してから、ほぼ休憩無しの進軍で、もはやヘトヘト・・・皆、泥のように眠りました。

ただ、義経と伊勢義盛(いせのよしもり)だけは、
「もしかして敵の襲撃があるかも…」
と警戒して、眠らずに見張りを続けていました。

一方の平家は海に船を停泊させての休息・・・

そんな中、勇将で知られる平教経(のりつね=清盛の甥)が500騎を率いて夜討ちをかけるべく準備をしていたものの、味方同士で先陣を争ってる間に絶好の機会を逃してしまい、そのまま夜が明けてしまいました。

疲れ果てていた源氏を襲うチャンスを逃してしまった平家は、2日後の21日、屋島を奪還すべく志度寺(しどじ=香川県さぬき市)に籠りますが、義経の追撃に逢ったばかりか、田口教能(たぐちののりよし)河野道信(こうのみちのぶ)らが源氏に加わった事で、結局、屋島奪還を諦め、さらに西へと向かい、やがては壇ノ浦へ・・・という事になるのです。

壇ノ浦の戦いについては・・・
【潮の流れと戦況の流れ】>>
【壇ノ浦・先帝の身投げ】>>
【平家の勇将・平教経の最期】>>
【安徳天皇・生存説】>>
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2017年2月13日 (月)

畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い

 

大永七年(1527年)2月13日、丹波の柳本賢治らが三好勝長らと連合し、桂川原で細川高国を破る桂川原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

応仁の乱(5月20日参照>>)の東軍の大将として有名な細川勝元(ほそかわかつもと)の息子=細川政元(まさもと)は、室町幕府管領(かんれい)という立場にありながら、現将軍を廃して自らの思い通りになる将軍を擁立するという「明応の政変」なるクーデター(4月22日参照>>)をやってのけ、戦国の幕を開けた男とも称されますが、実子がいなかった事から、その死後に、3人の養子の間で後継者争いが勃発します(6月20日参照>>)

関白九条政基(まさもと)の子供=細川澄之(すみゆき)
阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の細川高国(たかくに)

まずは永正八年(1511年)、タッグを組んだ澄元&高国に澄之が追い落とされます(8月1日参照>>)が、その後、周防(すおう=山口県)の戦国大名=大内義興(よしおき)を味方につけた高国が、澄元に味方する三好之長(みよしゆきなが)を追い落とし(5月5日参照>>)阿波へ逃れた澄元は病死・・・勝利した高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立したのです。

こうして末永く続くかに見えた高国政権でしたが、そのわずか5年後、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちしてしまった事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野元清(はたのもときよ=稙通)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)反旗をひるがえしたのです。

これが大永六年(1526年)10月の神尾山城の戦い(10月23日参照>>)・・・

この時、八上城と神尾山城にて籠城する両者を一気に潰そうと考えて、配下の者総動員で兵を挙げた高国でしたが、波多野&柳本の激しい抵抗に逢い、手痛い敗北を喰らってしまいます。

これを見逃さなかったのが・・・いや、むしろ反旗をひるがえした彼らと連絡をとってチャンスをうかがっていたのが、阿波に追われて病死した澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、ともに機会を待っていた之長の息子=三好元長(みよし もとなが=長慶の父)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らでした。

神尾山城の戦いに敗れ、京都へ逃げ帰った高国勢を追うがの如く、京都方面へとやって来た波多野&柳本勢は、明けて大永七年(1527年)2月11日、京都山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に着陣して、ここで、阿波から到着した晴元勢と合流・・・

その間に、高国傘下の薬師寺国長(やくしじくになが=九郎左衛門尉)らが守る山崎城(やまざきじょう=天王山城・宝寺城とも)を落として占領し、ここを最前線として、高国配下の
芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)
太田城(おおだじょう=大阪府茨木市)
茨木城(いばらきじょう=同茨木市)
安威城(あいじょう=同茨木市)
福井城(ふくいじょう=同茨木市)
三宅城(みやけじょう・みあけじょう=同茨木市)諸城を攻略して行きました。

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山崎城(天王山城)本丸跡付近

一方の高国は、室町幕府の縁をフル活用して、
若狭(わかさ=福井県南部)の守護=武田元光(たけだもとみつ)
をはじめ、
近江(おうみ=滋賀県)守護の六角定頼(ろっかくさだより)
播磨(はりま=兵庫県南西部)備前(びぜん=岡山県東南部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護=赤松晴政(あかまつはるまさ)
尾張(おわり=愛知県西部)の守護=斯波義統(しばよしむね)
など、幕府の有力者に援軍を要請しますが、すぐに行動を起こしてくれたのは若狭の武田くらいだったとか・・・

やがて、2月12日には、阿波から(さかい=大阪府堺市)に上陸した三好勢も晴元&波多野&柳本勢に合流して、桂川の西岸に到着・・・同日、一方の高国勢も桂川に布陣し、その夜には、川を挟んで対峙した両者が矢を射かけ合って、互いをけん制しました。

かくして大永七年(1527年)2月13日戦国序盤の天下分け目・・・世に桂川原(かつらかわら)の戦いと称される大合戦が開始されたのです。

Katuragawaranotatakai この時、桂川の東岸の鳥羽(とば=京都市南区)から鷺の森辺付近まで不気味なほど一直線に主力部隊を布陣させた高国は、本陣となる将軍=義晴の陣を後方の六条に置き、その手前に高国自身の本陣を、武田の軍勢を西七条へと布陣させ、桂川の西岸からやって来る波多野&柳本勢を迎え撃つ作戦でした。

ところが、イザ!開戦となって川を渡って来た波多野&柳本勢は、主力部隊との交戦もそこそこに、一翼を率いる三好勢が、いきなり後詰めの武田勢へと攻めかかったのです。

不意をつかれて乱れる大軍・・・もちろん、集中砲火となっている武田勢はまたたく間に敗戦となり、いきなり80余名が戦死します。

武田の窮地を聞いた高国は、自ら兵を率いて救援に向かいますが、もはや敵方の勢いは止まらず・・・防戦一方の中、精鋭部隊を10余名失ったあげく、雑兵も2~300人が討ち取られてしまったため、やむなく兵を退きあげました。

こうして、波多野&柳本勢側にも多くの戦死者を出す激戦となった桂川原の戦いでしたが、結果は波多野&柳本勢の勝利・・・

大敗した高国は2月14日、将軍=義晴を奉じて、北白川(きたしらかわ=京都市東山区)から間道を抜けて近江は坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと逃れて行ったのです。

その後の京都は、柳本賢治が山崎城にて支配する事となりますが、一方では晴元&三好一派が、義晴の弟=足利義維(よしつな)を擁して堺に居を構え、堺公方(さかいくぼう)として政権を樹立します。

この時の高国の都落ちには、配下の武将はもちろん、上記の通り、現将軍=義晴が同行したほか、一部の公家も下った事から、なんだかんだで政権は握ったままの格好・・・

一方、実質的に京の都を掌握しているのは山崎城の柳本賢治・・・

そして堺に堺公方・・・

と、畿内に三勢力がひしめき合うオカシナ雰囲気に・・・当然の事ながら、もともと一枚岩ではない彼らは、この後、周辺の諸将を巻き込みつつ(まずは、3年後に起こる【箕浦合戦】参照>>)様々な紆余曲折を迎える事になりますが、そのお話は、また、それぞれの出来事の日付けでお話させていただく事にしたいと思います。
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2017年2月 5日 (日)

若き徳川家康の初陣~三河寺部城の戦い

 

永禄元年(1558年)2月5日、松平元康=後の徳川家康が、今川義元の命を受けて、三河寺部城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

ご存じ徳川家康(とくがわいえやす)・・・
(ややこしいので、この文中ではずっと家康の名で呼ばせていただきます)

Tokugawaieyasu600 この家康が生まれた頃は、父=松平広忠(まつだいらひろただ)=率いる松平家も、敵対する尾張(愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)駿河(静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)の間で、未だ今川の援護なくしては生き残れないような状態でした(くわしくは3月6日参照>>)

そのため、広忠の嫡男として生まれた家康(幼名は竹千代)は、その同盟の証として、天文十六年(1547年)にわずか6歳で今川への人質として差し出される事になるのですが、なんと、その途中で織田方に奪われ、その身はしばらく織田の人質として暮らす事に・・・(8月2日参照>>)

もちろん、これは息子の命を餌に広忠にコチラ側について貰おうという織田信秀の作戦なわけですが、それでも心揺るがぬ広忠は、ガンとして今川傘下を離れることは無かった・・・

しかし、そんな広忠が、そのわずか2年後に家臣の裏切りによって殺害されてしまった事から、松平家内は揺れます。

なんせ、その後継ぎが織田に人質になってる状況で当主を失ったわけですから・・・その時、松平一族の中には、すでに織田傘下となっている者もチラホラ・・・
「そんなら、このまま俺らも織田に…」
との空気が流れる
中、それをヨシとしなかったのが今川義元のブレーン=今川家軍師の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)でした。

「今後、今川家が領地拡大を計るおり、松平のい存在は重要」
と考えた雪斎は自ら兵を率いて信秀の息子・織田信広が守る安祥城へと攻め込むみ(11月6日参照>>)信広を生け捕りにして、家康との人質交換を交渉・・・天文十八年(1549年)11月、見事、人質交換が成立し、8歳になっていた家康は駿府(すんぷ=静岡市葵区)へと移ったのでした。

そう、松平家の本拠地である岡崎(愛知県岡崎市)ではなく、今川家の本拠地である駿府・・・まぁ、織田から今川に移っただけで、人質生活は変わらないので・・・

とは言え、ここでちょっと付け加えておきたいのは、この人質の意味について・・・

現代の私たちが思い描く人質という言葉のイメージは、いわゆる誘拐事件や監禁事件なんかの人質を想像し、ついつい、その置かれた状況は、自由を奪われ、常に命の危険に晒されている感じを思い浮かべてしまいますね。

実際、今年の大河ドラマ=「おんな城主 直虎」の中でも、主人公の子役ちゃんが、今川の人質になるのをかなり嫌がってました。
(本来は、もし人質を差し出すと決まったあの状況では、子供が嫌がろうが何をしようが、その約束は揺らぐ事はほぼほぼ無いですが、ドラマはエンタメなので…)

しかし、戦国時代の、いわゆる同盟や、その傘下に入るための証として送られる人質は、そんなに過酷な生活を強いられるわけではありません

もちろん、例外もあるしケースバイケースで決められない面もありますが、そもそもは、上記の通り同盟の証ですから、どちらかが裏切らない限りは、ある程度良い待遇で扱ってさしあげるのが武士としての心得だし、裏切ってもいないのに相手側で邪険な扱いされてたら、お互いの信頼関係も成り立たないでしょうしね。

北風と太陽の童話じゃないですが、逆に、その人質くんに超一流の師匠を提供して、キッチリ育てて差し上げたなら、そこに恩も感じるだろうし、ともに生活するうちに情も湧いて来るでしょうし、そうなると成長したあかつきには、心底今川家に尽くす武将となるかも知れないわけですから・・・実際、今川時代の家康の教育係は雪斎自身だったという説も存在します。

現に、同盟の証=人質のような意味で政略結婚しながらも、最期には、夫や嫁ぎ先の家に殉じる戦国の姫もいたわけですし(もちろん、家康のお母さんのように、同盟崩れたら離縁なんて例もありますが…)、昨年の大河の主役=真田幸村(さなだゆきむら=信繁)だって豊臣秀吉(とよとみひでよし)の馬廻りとして、ちゃんと扱われてしましたしね。

ただ、領主たるもの常に独立は夢見るでしょうし、あくまで自分の領地で生活してるわけでは無いので行動も制限させるでしょうから、どんだけ待遇が良かったとしても、結局は肩身が狭い=精神的苦痛があるかも知れませんし、それこそ当事者同士の様々がケースが存在する事でしょうが・・・

ともあれ、そんなこんなで多感な少年時代を今川家で過ごした家康・・・

天文二十四年(1555年)、駿府にて、義元自らが烏帽子親(えぼしおや=元服の際の親代わりで本当の親子に近い関係)となって元服した家康は、義元の一字を賜って松平元信(もとのぶ=後に元康と改名)と名乗ります。

それと同時に、、今川家の重臣=関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広)の娘で、今川義元の姪にあたる瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶る事になるのですが・・・

今年の大河ドラマでも、そして先日このブログ(1月12日参照>>)でもお話したように、この瀬名姫のお母さんが、大河の主人公である井伊直虎(いいなおとら)大叔母(祖父の妹)にあたる女性で、もともと、今川家と井伊家の同盟の証として駿府に送られ、いち時は義元の側室だったのを後に重臣の関口親永が正室として迎えて、生まれたのが瀬名姫だとされます。

で、関口の正室として迎えるにあたって、名目上、義元の妹(義妹)という事にしての輿入れであるので、瀬名姫は義元の姪って事になるわけですが・・・

この流れが、
現代の私たち
(視聴者)には理解しがたい?
あるいは、
物語の流れ上、今川家を悪にしておかないといけない?
などなどがあってなのか?

先日の大河ドラマでは、10歳前後の姫に向かって、世話係の侍女が
佐名さま(瀬名姫の母の名)ボロ雑巾のように捨てられたのでございます」
的な暴言をのたまう展開wwになったのでしょうが、

上記の人質のところでもお話しましたように、同盟の証として送られて来た姫を、そんな扱いしたらお互いの同盟関係が破たんしてしまいます。

もちろん、後の家康さんのように、気に入った女性を連れて来て側室にする武将は、当時もいたと思いますが、同じ側室でも、好きで側に置いている女性と、同盟の証として送られて来た女性を、いっしょくたにしてはいけません。
:ドラマは「今川憎し」で話が進んで行きますので、創作物語としてはアリですが…)

そもそも、以前書かせていただいたように、恋愛結婚は身分の低い者がする「はしたない行為」とされていたこの時代・・・まして武家のお姫様なら、格上の家との交渉相手として自らが向かうなら本望でしょう(4月22日参照>>)

また、現代人には理解しがたいですが、「貴人の側にいた女性を配下の臣に譲る」というのは昔からある事で、これは殿様が家臣を信頼している証であり、家臣にとっては、むしろ名誉な事(【平清盛の御落胤説】参照>>)・・・まして、義理の妹という名目なのですから、関口親永は義元の義弟とになるわけで、さらに親密度は増すわけで・・・

なんせ、同じ戦国には、自ら、家臣の押しかけ女房となって龍造寺家を守った慶誾尼(けいぎんに)さん(3月1日参照>>)なるツワモノもいるわけで、それが、血で血を洗う戦国の世に「自らの血脈で家を守る」という姫たちの誇り高き使命でもあるのです。

で、そんな関口親永の娘である瀬名姫を家康が・・・て事は、家康も義元と姻戚関係になるわけですし、もちろん、義父の関口家とも、果ては井伊家ともつながるわけで・・・これ、今川家にとってはかなりの大盤振る舞いだと思います。

今川義元が、いかに松平家を&家康を大事に思っていたか!・・・まぁ、もちろん、これも、家康は心の中で、「大きなお世話」「こんなんしていらん」と思っていたかも知れませんけど、本来は、未だ弱小の松平家にとっては、このうえなき喜ばしい事だと思います(大河ドラマではたぶん、今川家の横暴みたいに描かれるんでしょうけどww)

と、まぁ、今川家の下ではありますが、こうして、元服もした、妻も娶った・・・となると、武士として迎えるのは初陣(ういじん)です。

もともと、三河の領地を巡って松平との交戦を続けていたものの、この頃は、その三河に進出してきていた今川の傘下となっていた寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の城主=鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ=重辰)が、ここに来て織田へと通じたため、義元が家康に、この寺部城を命じたのが、この戦いの発端とされます。

この時、一旦、岡崎城へと戻った家康は、そこで合戦の準備を整え、自らの岡崎衆を率いて出陣・・・これまで、当主の家康がいないまま、今川軍の先鋒として、数々の合戦に駆り出されていた岡崎衆の皆々は、
「ようやく殿のもとで働ける!」
と、大いに喜んだといいます。

しかも、家康は
「寺部を落とした後に、周辺の諸城から後詰めを喰らえば、コチラのピンチとなる事は明白・・・まずは周辺を落としてしまおう」
と、家臣の進言も聞かずに、鈴木に同調する周辺の広瀬城(ひろせじょう)拳母城(こもろじょう=七州城)梅坪城(うめうぼじょう)伊保城(いぼじょう)など(いずれも愛知県豊田市周辺)への攻撃を早々に開始し、その後に寺部城へと向かいますが、これがなかなかの猛将ぶりだったようで、初めて主君の雄姿を見た松平家の老臣たちは皆、
清康(家康の祖父)の再来だ~~」
とばかりに、涙また涙の状態だったのだとか・・・

かくして永禄元年(1558年)2月5日、寺部城を囲んだ家康軍は、寺部城の外曲輪を押し破った後、本来の目的である寺部城を見事に落とし、17歳の若き主君=家康の初陣を飾ったのでした。

この大活躍を大いに喜んだ義元は、自身の太刀を家康に与えたほか、旧領のうち300貫文の地を返還したのです。

「痛みに耐えて、よく頑張った!感動した!」

この後、家康が事実上独立する事になる、あの桶狭間の戦い(5月12日参照>>)まで、わずか2年・・・

この先の歴史を知っている者の個人的な思いではありますが・・・
大喜びでの大盤振る舞いっぷりの義元さんが、人がイイと言うか・・・少々お気の毒な気が・・・
これでも、今年の大河ドラマでは悪く描かれるのかなぁ~(ρ_;)ちょっとウルウル・・・
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